《 前回記事からのつづき 》
前回記事のためあれこれ読んでいて知ったんですが、あの信じられないような規則ができたきっかけは、今から45年前の
1978年9月19日に起きた、カール・ブリッジウォーターくん(当時13歳、1965-1978)の殺害事件だったそうです。
新聞少年だったカールくんは、現場となったユー・ツリー農場に新聞を配達した際、たまたま空巣に入っていた犯人に、
至近距離から頭部をショットガンで撃たれ、殺害されてしまいました。
(ちなみに農場名にある yew は『イチイ』、つまりユー・ツリー農場は『イチイの木農場』ということになります。
イチイには『死』のイメージがあり、そのせいか、イチイはよく墓地に植えられています。)
農場に住む高齢の従兄妹の二人は、その日一日外出していて、カールくんの遺体は、事件後一時間以内に、
たまたま農場を訪れた友人によって発見されました。
犯人として逮捕されたのは、のちにブリッジウォーター・フォーと呼ばれることになる4人の男たち。
パトリック・モロイ、ジェイムズ・ロビンソン、従兄弟同士のヴィンセント・ヒッキーと、マイケル・ヒッキーでした。
彼等は複数の武装強盗事件を起こしており、最初に捕まったモロイが、
「空巣に入ったユー・ツリー農場の2階にいたら、階下で銃声がした」 と告白したことで、
残る3人も逮捕されました。
1979年11月に、モロイを除く3人は謀殺罪、モロイは故殺罪で、有罪宣告を受けます。
ロビンソン(当時45歳)とヴィンセント・ヒッキー(当時25歳)は『最低禁固期間25年の終身刑』、
マイケル・ヒッキー(当時18歳)は無期懲役、
故殺で有罪となったモロイ(当時51歳)は12年の刑期を科されました。
モロイは、その2年後の1981年に、獄中で病死しています。
残る3人は1989年に控訴したものの、棄却されました。しかし1997年7月、
「警察がモロイの自白を促す目的で証拠を捏造したため、裁判は公平ではなかった」
として原判決は覆され、1981年に獄中死していたモロイを除く3人は、無罪放免に。
その結果、18年間獄中にいた3人は、補償金を受け取ることになります。
が、ここで、マイケル・ヒッキーとヴィンセント・ヒッキーに関しては、その全額支給に
「待った」 がかかったのでした。
《 ウィキペディア ブリッジウォーター・フォー より抜粋 》
控訴院は、マイケル・ヒッキーとヴィンセント・ヒッキーについて逸失所得補償額の4分の1を収容中に得た食住の費用として
相殺すべきである、とした内務省任命の査定者の主張に合意した判断を下し、獄中の収容者のために活動している人々から
「病的 (sick)」と非難された。これが前例となり、内務省は現在もこの原則に従っている。2007年には、獄中死したパトリック・モロイを
除いたブリッジウォーター・スリー (Bridgewater Three) の3人によって、この通称「ベッド・アンド・ブレックファスト代」の
不当を訴える裁判が起こされたが、当時の貴族院の常任上訴貴族(法官貴族)はこの原則を支持する判断を下した。
ここで疑問が。
なぜ、従兄弟同士のマイケルとヴィンセント・ヒッキーだけが、補償額減額の対象だったんでしょうね?
同様に服役したのに、ロビンソンはなぜ減額の対象にはならなかったのでしょうね?
なのに後のほうで、「ブリッジウォーター・スリーの3人によって衣食住費用の相殺を不当とする裁判が起こされた」と
あります。ロビンソンは減額を要求されなかったけれど、二人に歩調を揃える意味で、連名にしたのでしょうか?
さて肝心の額ですが、こちらの記事によると、18年の禁固に対する補償として
ヴィンセントとマイケル・ヒッキーが受け取ることになった金額は、以下の通りです。
(現在のレート、1ポンド=180円で換算しています)
ここでも、額の違いに疑問を持ちますが、その理由は見つけられませんでした、スミマセン。
ヴィンセント・ヒッキー: 506,220ポンド (9100万円)
マイケル・ヒッキー: 990,000ポンド (1億7800万円)
ただしその記事によると、この金額は、住居費食費が減額される前のもののようで、後日、内務省査定官のブレナン卿が、
「ヴィンセントとマイケル・ヒッキーの二人は、収監中は生活費を遣う必要がなかったのだから、その分は補償金から差し引かれるべき」
との線引きをしました。その決定は一度は覆されたものの、再度肯定されました。
二人は欧州人権法廷にも訴えましたが、訴えは棄却されたとのことです。
というわけで、非常識で馬鹿馬鹿しい規則の言い出しっぺは、ブレナン卿なるお方と判明。
このときの規則(?)がつい先日まで『生きて』いたため、マルキンソンさんも住居費食費を差し引かれるのでは?
と懸念されたのでしょう。こんな非常識な馬鹿げた規則が破棄されて、本当に良かったです。
そう、良かったことは確かなのですが、ここでちょっと、モヤモヤが残りました。
マルキンソンさんは完全に冤罪だったことがわかっていますから、補償金減額はけしからん!と納得できますが、
ブリッジウォーター・フォースリーの場合は・・・?
彼等は他にも武装強盗事件を起こしていました。
もし彼らが無罪放免になった理由が、警察の不手際のみにあって、
直接証拠はないものの、彼らが犯人だった可能性は濃厚なのだったとしたら・・・?
みすみす彼らを放免しなければならない悔しさから、せめて生活費だけでも減額してやろう!と
考えたのかもしれず、その場合はブレナン卿の気持ちが理解できます。
でも直接証拠がないのなら、やはり彼等は無罪と見なさなければならないわけで。
その場合は冤罪の犠牲者として扱い、公平性を保つためにも、補償金の減額などというセコいことは
してはならないと、私は思います。彼らが本当に犯人だったとしたら、とてつもなく悔しいですけれど。
ヴィンセントとマイケル・ヒッキー。
もしこの二人が本当に犯人だったのなら、・・・地獄に堕ちろ!
4人が無罪となったため、カールくんの殺害事件は、今も未解決のままです。
息子を突然失ったご両親の悲嘆は、想像もつきません。
1965年1月2日生まれだったカールくんは、生きていれば、現在58歳になっていました。
ウィキペディアの、
農場に住んでいた老夫婦(*)は、そのとき不在だった。少年は新聞配達を始めて2ヶ月しかたっていなかったが、この家の住人の
老夫婦とは親しく、障害のある住人のために、裏口から家に入って新聞を室内まで運び入れるようにしていた。その日も少年は、
いつものように家の中へ入った。少年は犯人によって居間に連れ込まれ、至近距離から頭部を撃たれた。
(*BBCニュース記事によると、二人は夫婦ではなく従兄妹だったそうです。)
このような記述からも、優しい少年だったことがうかがい知れます。
空巣の犯行中に目撃されたからといって、何も、殺さなくても・・・!
* * *
事件から30年経った2008年9月付の、カールくんのご両親のインタビュー記事を見つけました。
以下は拙訳です、誤りがあったらスミマセン。(文中は敬称略。)
カールは、釣りが大好きでボーイスカウト活動を楽しむ、元気で活発な、ごく普通の良い子だった。
親切で、靴をきれいにするのが苦手なスカウト仲間のことを、いつも手伝っていた。
あの日カールは、母親のジャネットに連れられて、兄妹と共に歯医者に行った。
でも新聞配達があったカールは、一人で先に歯医者を出た。
カールが夕食の時間になっても戻らなかったため、父親のブライアンは、カールを探しに出た。
ユー・ツリー農場は警官でごった返していたが、ブライアンには、愛する息子がほんの2時間ほど前に
そこで射殺されていたことなど、知る由もなかった。やがて両親の元を、警官が訪れた。
「警官は、カールが自転車から落ちたといったような、軽い事故に遭ったと言いに来たのだと思いました。
まさかあれほどに、想像すらつかないような、恐ろしいことだったとは・・・。」
カールの死に打ちのめされた家族は、メディアの執拗な取材攻勢にも耐えなければならなかった。
「テレビカメラが常に家に向けられ、レポーターが何人も、家の外でキャンプをして張っていました。
玄関にやってくる人々を追い払うため警官がガードしてくれ、家の中での会話も録音される可能性があったため、
カーテンを引いてテレビのボリュームを上げておくよう忠告されました。」
カールの両親は、ユー・ツリー農場の前を通りかかることが、今でもよくある。
事件後農場は打ち棄てられていたが、4年前に開発業者に買い上げられ、瀟洒なアパートに生まれ変わった。
「取り壊して撤去された方が良かったと思います。あんなに恐ろしいことが起きた場所に住もうという人がいるなんて、
理解できません。あの場所を通りかかるたび、カールに起きたこととその後のことが、怒涛のように甦ります。
詳細をすべて覚えているし、決して忘れることはないでしょう。」
事件は未解決のままだが、母親のジャネットは言う。
「捜査の再開は望みませんね。トラウマが酷すぎるだろうから、それに耐える自信がないのです。」 ・・・・・
* * *
カールくんのご両親は、2008年9月の時点で、ブライアンさんが67歳、ジャネットさんが66歳とのことでした。
とするとお二人は、そのさらに15年後の今、82歳と81歳になっておられることになります。
お二人が、たくさんのお孫さんや曾孫さんに恵まれて、穏やかで喜びに満ちた余生を送っておられますように。
カール・ブリッジウォーターくんのご冥福をお祈りします。 ・・・