ど~も! アウシュヴィッツ・オタクのハナママゴンです。 ・・・ってもう、自認するっきゃないですよね?
ここのところ、アウシュヴィッツ関連で書きたいことがどんどん出てくるんです。
ひとつ書くと、その記事のために調べていて発見したことがまた書きたくなって。 芋づる式に、興味が尽きません。
なので、まだしばらく続きそうです、アウシュヴィッツ関連の記事。
申し訳ありませんが、ご興味ない方はスルーしてくださいね。
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アウシュヴィッツの所長を最長期間務めた ルドルフ(・フランツ・フェルディナント)・ヘス。
1929年8月17日にヘートヴィヒ・ヘンゼルと結婚した彼は、1930年から1943年にかけて5人の子供をもうけました。
息子二人(クラウスとハンス‐ルドルフ)と娘三人(ハイデトラウト、インゲ‐ブリギット “ブリギッテ”、アンネグレット)です。
(おことわり: 今日の記事の原文中では次男の名は Hans Jürgen となっていますが、
ドイツ語版ウィキでは Hans-Rudolf なので私はそちらを採用しています。)
後列左から: ハイデトラウトとブリギッテ、 前列左から: ハンス‐ルドルフとクラウス
ヘスは逃亡したものの逮捕され、裁判で有罪となり、アウシュヴィッツⅠのクレマトリウムの隣で絞首刑に処されましたが、
残された家族はその後どうなったのだろう・・・?
と思っていたらとても参考になる記事を見つけたので、今日はそれを紹介します。
ヘスの第3子で次女のブリギッテへのインタビュー記事です。
今回の記事はジャーナリストで作家のトマス・ハーディング氏による2013年9月7日付の 『ワシントン・ポスト紙』 の記事の、
ワタクシによる 『シロウトだも~ん誤りがあっても責任は一切負いかねます意訳』 であることをご了承くださいませ。
(実際の記事はこちらです。)
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退職したブリギッテ・ヘス(1933-)は、北ヴァージニアの緑の多い通りで静かに暮らしている。
彼女はワシントンのファッション・サロンで30年以上働いた。
最近癌と診断された彼女は、医療上の必要措置に多くの時間を費やしている。
ブリギッテは、孫たちすら知らない秘密をもっている。 彼女の父親は、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスだった。
ポーランドにある旧兵舎を使ってアウシュヴィッツという、一時間に2千人を殺害できる殺人機械を設計し建造したのは彼だった。
戦争が終わるまでに、110万人のユダヤ人、2万人のジプシー、何万人ものポーランド人とロシア人の政治犯が殺された。
つまりブリギッテの父親は、歴史に残る大量殺人の実行犯のうちのひとりだったのである。
過去40年以上にわたり、彼女は自分の過去を振り返らず、近親と分かち合うこともせず、世間からは隠してきた。
私は 『ハンスとルドルフ』 執筆のためのリサーチをしていたとき、3年かかって彼女の住居を探し出した。
彼女の結婚後の名や身元を暴露しない限りという条件つきで、彼女はインタビューに応じてくれた。
生まれて間もないアンネグレットを囲んだ一家、左から:
ブリギッテ、クラウス、アンネグレット、ヘートヴィヒ、ヘス、ハンス‐ルドルフ、ハイデトラウト
「おかしな人がたくさんいますからね。 彼等は私の家を焼き払ったり、誰かを撃ったりするかもしれないわ。」
強いドイツ語訛りで彼女は言った。
彼女は、ホロコーストが話題になると話題を変えるという。 「誰かが私の父のことを訊いたら、『父は戦死した』 と言うことにしているの。」
しかし80歳になった彼女は、孫たちに話すべきか悩み始めた。
彼女は、自分ではほとんど理解できない、ましてや責任など毛頭持てない、大きな歴史のうねりに呑み込まれた幼い少女だった。
そろそろ家族の歴史を消化すべきときではないか?
しかしそれは彼女がずっと秘めて生きてきた、発見することの怖れを孫たちに受け継がせてしまうだろうか?
過去は自分が、墓まで持っていくべきだろうか?
ナチス親衛隊の職員記録によると、インゲブリット・ヘスは1933年8月18日に、バルト海近くの農場で5人兄弟の3番目として生まれた。
父ルドルフと母ヘートヴィヒは、この農場で出会った。
ここは人種の純度保存と田舎の理想郷の考えに取りつかれたドイツ人の若者の安息所だった。
幼いブリギッテは父親の転勤にともない、1歳から5歳まではダッハウで、5歳から7歳まではザクセンハウゼンで、
7歳から11歳までは最も悪名高いアウシュヴィッツで暮らした。
1940年から1944年まで、ヘス一家はアウシュヴィッツ強制収容所の端に位置する2階建ての灰色の漆喰塗りの邸宅に住んだ。
収容所のすぐ隣にあるこの家の2階の窓からは、囚人の収容棟や古いクレマトリウムが見えた。
母親ヘートヴィヒは、この家を “パラダイス” と呼んだ。
一家にはコック、乳母、庭師、運転手、針子、理髪師、掃除人らが仕えたが、うち何人かはアウシュヴィッツの囚人だった。
一家は家を、ガス室に送られる囚人から盗んだ家具や芸術品で飾った。
この贅沢な生活は、恐怖と苦難に満ちた場所からほんの数歩のところにあった。
日曜日には所長は、馬を見に子供たちを車で厩へ連れて行った。 子供たちは犬舎でドイツ・シェパードを撫でるのも大好きだった。
囚人たちはヘスの息子たちのために大きな飛行機を作り、息子たちはその中に座って庭をまわって遊んだ。
娘たちは収容所の入口を警備するハンサムな兵士たちとじゃれ合った。
飛行機で遊ぶハンス‐ルドルフ ハンス‐ルドルフ、アンネグレット、ブリギッテ
子供たちは、父親が収容所を管理していることを知っていた。 黒と白の制服を着た男たちが、庭で作業をした。
ある日子供たちは囚人に扮し、黒の三角形と黄色の星をシャツに縫いつけ、庭で追いかけっこをした。
帰宅したヘスはそれを見ると、すぐさまやめさせた。
1945年4月、戦争の終わりが見えてくると、ルドルフ・へスと家族は北へ逃げ、そして別れた。
彼の妻は子供たちを連れて海岸近くの村ザンクト・ミヒャエリスドン(St.Michaelisdonn)にある古い砂糖工場の2階に落ち着いた。
ヘスはある労働者になりすまし、デンマークとの国境から4マイルしか離れていない農場に隠れた。
ヘス一家は、適切な時が来たら南米に逃げる計画だった。
アウシュヴィッツのすぐ隣で暮らしていた頃のことを訊こうとしたが、ブリギッテはこう言った。 「覚えていない方がいいことよ。」
彼女はそれよりも、父親が英国兵に捕えられたときのことを話したいようだった。
1946年3月の寒い晩、ドイツ生まれのユダヤ人で当時は英軍指揮官になっていたハンス・アレクサンダー――私の大叔父――が、
ヘス一家が住む家の扉を叩いた。
「彼等が質問しに家に来たときのことを覚えているわ。」 固い声で、彼女は言った。
「私は妹と一緒にテーブルに座っていたの。 13歳くらいになっていたと思うわ。 英軍兵士たちは叫んでいました。
『父親はどこだ? 父親はどこだ?』 何度も何度も、繰り返して。 私はひどい頭痛がしたため、外に出て木の下で泣いたの。
それから気持ちを鎮めて泣くのをやめると、頭痛は治まったわ。 それ以来ずっと、偏頭痛に悩まされました。
ようやく数年前に治ったのに、あなたの手紙を受け取ってから、また始まりましたよ。
母親と一緒に連れて行かれた兄のクラウスは、英軍兵士にひどく殴られました。
隣室からの兄の苦痛に満ちた叫び声を聞いた母は、母親なら誰もがそうするように、
息子を守るため父の居場所を教えたのです。」
アレクサンダーはチームを編成すると、夜のうちにヘスが隠れ住む農場の納屋へと向かった。
起こされたヘスは、元アウシュヴィッツ所長であることを否定した。
相手がヘスだと確信していたアレクサンダーは、結婚指輪を見せろと要求した。
ヘスは 「指輪は抜けなくなってしまっている」 と言って抵抗したが、「指を切り落とすぞ」 と脅されると、観念して指輪を渡した。
内側には “ルドルフ” と “ヘートヴィヒ” と刻まれていた。
ヘスは、アウシュヴィッツでの大量虐殺の規模を認めた最初のナチス上級幹部だった。
米軍に引き渡された彼は、ニュルンベルク裁判で証言した。
その後ポーランドに引き渡され、起訴され有罪を宣告され、
1947年4月16日、アウシュヴィッツⅠのクレマトリウムの隣で絞首刑に処された。
ヘートヴィヒと子供たちの生活は困窮し、家を暖めるため列車から石炭を盗んだ。 履く靴もなく、ぼろを足に結んだ。
ナチスに深く関与していた彼等を、人々は避けた。
クラウスがシュトゥットガルトに仕事を見つけてはじめて、一家の暮らしは改善された。
ブリギッテは1950年代にドイツを離れ、スペインで新生活を始めた。
彼女は長いブロンドの髪とすらりとした肢体を持つ、美しい若い女性に成長していた。
バレンシアガのモデルとして3年働いたあと、ワシントンに本社を持つ電信会社の技師として
マドリッドで働いていたアイルランド系アメリカ人と出会った彼女は、1961年に彼と結婚した。
彼の仕事のため、二人はリベリア、ギリシャ、イラン、そしてベトナムへと移り住んだ。
《 後編につづく 》
数日前に映画『縞模様のパジャマの少年』という映画を見て、収容所所長の家族は当時どんな暮らしをしていたのか気になり調べてみたらここへ来ました。
映画に描かれていた事と似ている点がいくつかあり驚いてます。とても参考になりました。
(ホロコースト・オタクのくせして何を今さら・・・ですが。)
励みになるコメントをありがとうございました。