ず~っと前にテレビで放映されたとき、たぶん録画して後から見た、この映画。
邦題は『乙女の祈り』というんですね。
映画の内容からして、個人的にはこの邦題、何だかなぁ~と思います。
原題の HEAVENLY CREATURES も同様ですけどね。
( heavenly : 天の、天空の、天国の(ような)、こうごうしい、天来の、絶妙な、すばらしい、すてきな
creature(s) : 生き物、(特に)動物、牛馬、家畜、人、やつ、女、子、支配されるもの、隷属者 - weblio英和辞典)
1994年に製作されたこの映画には、『タイタニック』で一躍有名になる前のケイト・ウィンスレットが出演しています。
(ケイト・ウィンスレットが演じたのはジュリエット・ヒュームでした。)
あらまぁこの映画の監督は、『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソンだったんですね。
映画が1954年(昭和29年!)6月にニュージーランドで実際に起きた事件を基にしていると知ったときは驚きました。
決して豊かではない、労働者階級の両親の元に生まれたポーリーン・パーカー(事件当時16歳)。
ロンドンの恵まれた家庭に生まれ、父親の仕事の関係でニュージーランドに移り住んだジュリエット・ヒューム(事件当時15歳)。
ジュリエットは肺結核を患っていたため、家族から離れて温暖なカリブ海地域や南アフリカで成長せざるを得ない期間もあったそうです。
すでにニュージーランドで暮らしていた家族に合流できたのは、10歳のときでした。
友情を育むようになったポーリーンとジュリエットですが、二人の友情は度を超えて親密となり、「同性愛に発展した」と
親たちは恐慌をきたします。当時は同性愛は精神疾患と見なされていたため、何としてでも二人を引き離すことを画策。
ちょうどその頃ジュリエットの父親が失職したため、一家はイギリスに戻ることになりました。
また母親の浮気が原因で両親は離婚することになりますが、肺結核もちだったジュリエットだけは、
南アフリカの親類の元に送られることになりました。
離れ離れになることを怖れたジュリエットとポーリーンは、ポーリーンも一緒に南アフリカに行くべきと考えます。
ジュリエットの両親はその案に賛成してくれると期待し、ポーリーンの母親オノラ・パーカーに許可を求めますが、
オノラは拒絶しました。こうなったら、ポーリーンも南アフリカに行くためには、障害物=オノラを取り除くしかない。
そう思いつめた二人は、三人で公園に散歩に行ったとき、ひと気のない小道でレンガを使ってオノラをめった打ちにし、
殺害してしまいます。
二人はパニック状態を装って公園内のカフェに走り、オノラは転倒で事故死したと主張しましたが、
嘘はあっけなく看破され、有罪判決を受けました。
女王陛下のお許しがあるまでの無期懲役が科されましたが、『二度とお互いと会わない』ことを条件に
5年後に釈放されたそうです。
注: ポーリーンの姓ですが、父親ハーバート・リーパーと母親オノラ・パーカーは内縁関係にあり実際には結婚して
いなかったため、ポーリーン・パーカーに加えてポーリーン・リーパーと称されることもあるそうです。
Parker-Hulme murder case - Wikipedia
* * *
で、ずっと前に見たものの忘れかけていた映画について今さら書くことにした理由ですが。
ラジオを聞きながら仕事(在宅イラストレーター)をしているオットーが、先日、教えてくれたんです。
「今月10日にアン・ペリーという女性小説家が亡くなったが、彼女はニュージーランドでかなり前に起きた
殺人事件の犯人だったのだそうだ」 と。
そこまで聞いたとき、私の頭に閃いたのが、映画 Heavenly Creatures でした。
そして実際、ニュージーランドでかなり前に起きた殺人事件とは、オノラ・パーカー殺害事件のことでした。
アン・ペリーはなんと、ジュリエット・ヒュームだったのです。
ジュリエットとポーリーン、そして事件についての本も出ていたんですね。
左がジュリエット、右がポーリーン。
アン・ペリーはこちらです。面影・・・あるある!
以下はネット(主にウィキペディア)から拾った情報です。
二人の裁判は、「レズビアンの可能性のある二人の少女による残忍な殺人事件」ということで、センセーションを巻き起こしました。
殺人事件があったのが1954年6月22日、有罪判決を受けたのが同年8月28日。
死刑判決を科すには若すぎたため女王陛下のお許しがあるまでの無期懲役となり、二人は別々の施設に収容されました。
ジュリエットの釈放は無条件だったので、5年後に釈放されると彼女は、すぐにイタリアにいた父親に合流。
しかしながらポーリーンには6ヶ月間の仮釈放がついたため、しばらくはニュージーランドに留まらなければなりませんでした。
(これは二人の出身国の違いのためでしょうか?)
ジュリエット・ヒュームはその後イングランドと米国で暮らし、スコットランドに母親とともに落ち着き、アン・ペリーの名のもと
小説家として成功します。当初はアン・ペリーがジュリエット・ヒュームだったと知る人はいませんでしたが、Heaveny Creatures が
製作公開された1994年にマスコミによって嗅ぎつけられ、公表されました。私は知りませんでしたが。
そのときアン・ペリーはこう語ったそうです。
(ウィキからのポンコツ意訳ですのでご了承ください。)
とても不公平に感じます。社会の真っ当な一員となるために重ねてきた努力が、すべて脅かされました。
私の人生はまたもや別人によって解釈されています。法廷で未成年者だった私は発言を許されず、
嘘が並べ立てられるのを聞くことしかできませんでした。こうして映画まで製作されたため、
私に話しかける人はもういません。映画については私は、公開の前日まで何も知らされていませんでした。
今私が考えられるのは、私の人生が崩れ落ちること、そしてそれは私の母を殺すだろうということです。
実際には彼女は友人たちを無くすことはなく、友人たちは彼女をサポートしてくれ、彼女の母親も死ぬことはありませんでした。
著作活動を続けた彼女は、その後も数々の栄誉や賞を受賞。
自作品の映画化を促進するため、2017年にスコットランドを離れてロサンゼルスに移住。
2022年12月に心臓発作を起こし、2023年4月10日にロサンゼルスの病院で死亡しました。
享年84歳でした。
* * *
一方のポーリーンは、仮釈放されてヒラリー・ネイサンという新しい名前を与えられ、監視のもとしばらくはニュージーランドに
留まらなければなりませんでした。ニュージーランドでは大学で学び、図書館員として働きました。1965年頃イングランドに移住し、
1992年頃からはケント州の小さな村に住んで子供向けの乗馬学校を運営したそうです。1996年には姉を通じて、自らの母親を
殺してしまったことへの強い悔恨の念を発表。姉はさらに、こう述べました。「最悪の罪を犯したポーリーンは、人々を避けてひっそりと
暮らすことで、40年もかけて罪をつぐなってきました。事件のあととても後悔し、自分がしたことを認識するまで約5年かかりました」。
(ポーリーンは現在はスコットランドのどこかで余生を送っていると読んだ気がしますが、記述を見つけることはできませんでした、
すみません。ポーリーンまでスコットランドに居を定めたというのは興味深いですが、別にジュリエット=アン・ペリーを追いかけて
移り住んだわけではないようです。)
ポーリーンの両親は結婚していませんでしたが、じつは父親にはもともと妻子があり、その妻子を捨ててオノラと
家庭を築いたものの離婚が成立していなかったため、オノラとは結婚できなかったのだそうです。
アン・ペリーは2006年に、ポーリーンとの同性愛関係をきっぱりと否定しています。またポーリーンの姉も、
「二人の間に同性愛はなかった信じる」と断言しています。
* * *
情報を探していて、アン・ペリーのインタビュー記事を見つけました。2003年11月12日付です。
(「私は罪を犯し、服役した」: アン・ペリー、過去に追いつかれた小説家 - ガーディアン紙)
また例によってポンコツ意訳ですが、こんなことが書いてあると思われます。
1954年、ジュリエットは追いつめられたように感じていた。オノラ殺害の3日前に、ジュリエットの両親は離婚することを明かしていた。
離婚の原因となった母親ヒルダの浮気――下宿人の男とベッドを共にしているヒルダ――を発見したのは、ジュリエットだった。
ちょうどその頃父親は仕事を失い、ジュリエットは南アフリカに送られて伯母と暮らすことになった。
私はポーリーンに借りがあると感じていました。病弱だった私が入院中、手紙をくれたのはポーリーンだけだったのです。
私が彼女を助けないのなら、彼女は自殺すると私に言いました。彼女は食事のあと毎回吐き戻し、体重もどんどん減っていました。
過食症になっていたのだと思います。彼女は本当に自殺する気だと信じ、それは私には耐え難いことでした。
服役中のジュリエットは、刑務所内で唯一の子供だった。3ヶ月間、小さな独房に閉じ込められた。
寒くて、ドブネズミがいました。生理用タオルは手洗いせねばなりませんでした。
失神するまで肉体労働をさせられました。
それでも服役中の5年間は、自分にとって最良のことだったとペリー(=ジュリエット)は言う。
膝まづいて己の罪を悔いたのはそこででした。だから私は生き延びることができたのです。
私は罪を犯した、だから今の私は、自分がいるべき場所にいる――そう口にするのは、
私だけのようでした。
釈放されてから30年以上、スコットランドで静かに暮らしていたペリー。
1994年にエージェントから、一本の電話が入った。
それは彼女たちの事件が映画化され公開されることになったこと、またニュージーランドのジャーナリストが彼女の正体を
突き止め公表したことを、伝えるものだった。
(そのときの彼女の感想が、繰り返しになりますが、ウィキに記述されている以下のものだったんですね。)
とても不公平に感じます。社会の真っ当な一員となるよう重ねてきた努力が、すべて脅かされました。
私の人生はまたもや別人によって解釈されています。法廷で未成年者だった私は発言を許されず、
嘘が並べ立てられるのを聞くことしかできませんでした。こうして映画まで製作されたため、
私に話しかける人はもういません。映画については私は、公開の前日まで何も知らされていませんでした。
今私が考えられるのは、私の人生が崩れ落ちること、そしてそれは私の母を殺すだろうということです。
(このインタビュー記事の時点――2003年11月12日――では、驚いたことにペリーの母親はまだ存命で、
92歳だったそうです。ちなみにペリーはそのとき65歳でした。)
* * *
推理小説好きの私ですが、アン・ペリーの名はまったく知りませんでした。
で、彼女について考えると・・・ 何だかなぁ、と思います。
だってこの人、服役中は罪を悔いたとは言っているものの、釈放後は一切、悔恨の言葉を口にしていないようなので・・・
少なくとも私は、ネットで彼女のそのような発言を見つけることはできませんでした。
たった5年の服役で、罪は十分つぐなったと思っているのでしょうか?
被害者の年齢に自分が達したとき、ひどい事をしてしまった、まだまだあったはずの被害者の残りの人生を、
親友と自分が奪ってしまったのだと、ひどい後悔に苛まれることはなかったのでしょうか?
被害者は事件当時45歳だったそうです。
ペリーの享年は84歳だから、被害者より40年近く長生きしたことになり、
・・・ほんと、何だかなぁ~・・・!
アン・ペリー作品はとても面白いのかもしれませんが、
私は今後一生、読む気になれないと思います。