ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

2017年6月のロンドン橋テロ事件

2018-09-23 23:23:27 | 事件

先月ムスメと歩いたロンドン橋とバラ・マーケット。そのことについて書くまで、去年あそこがテロ事件の舞台だったとは知りませんでした。近年は悪いニュースばかりなのでニュースから遠ざかっていたとはいえ、これはちょっと情けない・・・ なので今回は、去年のテロ事件について調べて知ったことを書きます。

イギリスでは去年、3月22日にウエストミンスター・テロ事件(犯人を除く死者5名)、5月22日にマンチェスター・アリーナ爆発物事件(同・死者22名)が起きており、このふたつの事件については私も知っていました。ロンドン橋(とバラ・マーケット)でのテロ事件はマンチェスターのテロ事件からわずか12日後に起きたため、マンチェスターの事件の陰に隠れてしまって認知度が低かったのかもしれません。(ちなみに一昨日一緒にランチした友人も、ロンドン橋の事件は知りませんでした。)

 

*       *       *       *       *

 

2017年6月3日(土)。犯人3人組はロンドン北郊で7.5トントラックのレンタルを試みたが、支払いの詳細を提示できなかったため代わりに白いルノーのヴァンを借り出し、ロンドン中心地へと向かった。3人はそれぞれがキッチン・ナイフ(全長30cm)を皮のストラップで手首に巻きつけ、腰には偽の爆発物(飲料水のボトルにグレーのテープを巻きつけたもの)をつけたベルトを装着していた。

 

 

21時58分、彼らのヴァンはロンドン橋を北から南へと渡った。6分後に戻ってきたヴァンはふたたびロンドン橋を、今度は南から北へと渡ると、北端でUターンして高速で橋を南下しながら歩道に乗り上げて次々と通行人を撥ねた。これにより3名が死亡。最初の非常通報は22時07分になされた。

 

  

バラ・ハイ・ストリートで鉄柵にヴァンを衝突させた犯人たちはヴァンから飛び出し、まず隣接するボロ・ビストロ・パブで4人をナイフで襲った。居合わせた一般市民は、瓶や椅子を投げて必死に抵抗。目撃者によると、犯人たちは "This is for Allah" と叫んでいた。続けてバラ・マーケット奥へと駆け込んだ犯人たちはストーニー・ストリート沿いのレストランやバーでも人々を襲った。ルーマニア人パン屋は犯人のうち一人の頭部をクレートで打ちつけ、マーケット内の自分の店に20人をかくまった。ナイフで主に頭部を何度も刺されたイギリス鉄道警察官は、一時的に右目の視力を失った。

 

 

最初の非常通報から8分後の22時15分、犯人たちは3人とも、ロンドン市警察ロンドン警視庁の武装警官によって射殺された。バラ・マーケットの防犯カメラ映像には、武装警官に向かって突進していく犯人たちの姿が捉えられていたが、犯人たちはその20秒後に射殺されたという。

(下はおそらく、襲撃犯1?)

 

犯人たちが乗り捨てたヴァンからは、可燃性液体とぼろが詰まったワインボトル13本とブロートーチ(blowtorch)が見つかった。

 

 

(以上、主に 2017 London Bridge attack -Wikipedia より。)

 

(事件の経過を簡潔にたどる画像がいくつか見つかったのですが、どれも捨て難いので全部載せておきます。)

 

 

 

A: 午後10時08分、3人のテロリストがレンタルしたヴァンを使って、被害を最大級にするためS字状に運転しながらロンドン橋で約20人の通行人を撥ねる。

B: バロウボーイ&バンカー・パブの外の鉄柵に衝突したヴァンから、全長30cmのナイフで武装した3人のテロリストが飛び出す。

C: ブラック&ブルー・レストランで複数の人々が刺され、客たちはキッチンへと逃れる。

D: サザーク・タヴァーンで男性が3度刺されるも、別の勇敢な男性がビールジョッキや椅子を投げつけて抵抗。

E: 午後10時16分、武装警察が犯人を3人とも射殺する。うち1人を捉えた画像では、犯人は偽の自爆ベストとアーセナルのシャツを身に着けている。

F: カッツェンジャマーズ・レストランで恐怖におののく客たちに床に座るよう命じる、駆けつけた警察官。

G: 襲撃が始まって数分後、警察犬とともに出動した武装警察が地下鉄のモニュメント駅とバンク駅を閉鎖。

H: 翌6月4日(日)、ロンドン東部バーキングで重装備の武装警察がアパートを急襲し数人を逮捕。

 

3人の犯人たち。クーラム・シャザード・バット(?Khuram Shazad Butt)はパキスタン生まれ・英国育ちの27歳で、妻と二人の子供があった。ラシード・レドゥーン(?Rachid Redouane)はモロッコかリビアからの30歳の難民希望者。難民申請は2009年に却下されたがアイルランドで2012年にアイルランド人女性と結婚、DV夫となった。二人はダブリン、モロッコと英国に居住し、2015年に娘が誕生。幸い妻は2016年に別居に、そののち離婚に成功した。ヨーセフ・ザグーバ(?Youssef Zaghba)は1995年生まれだから21歳か22歳。父親はムスリムのモロッコ人、母親はカソリック・クリスチャンのイタリア人。母親は結婚前にムスリムに改宗した。両親が離婚すると、ザグーバは母親とともにイタリアに渡った。2016年、イスタンブールに行こうとしていた彼は、携帯電話にISIS関連のデータを保持していたため空港でイタリア警察によって渡航を禁じられたという。


事件の余波で、しばらく閉鎖を余儀なくされたバラ・マーケットは、事件から11日後の6月14日に再オープンした。

 

 

 


このテロの犠牲となって命を奪われたのは、フランス人3名・オーストラリア人2名・カナダ人/スペイン人/英国人各1名の計8名。うち3名が暴走するヴァン、5名がナイフによる襲撃で、殺害された。

 

ロンドンで土曜の夜を楽しんでいたであろう被害者の皆さん・・・心からご冥福をお祈りします・・・・・。

 

*       *       *       *       *

 

先月30日にムスメと訪れたとき、ほぼ同じ場所の写真を撮ったので事件直後の画像と並べてみます。

 

 

事件後ロンドン橋には、暴走車によるテロの再発を防ぐため車道と歩道の間にバリアが設置されたそうで、私の写真にも写っていました。

 

21歳か22歳・27歳・30歳と、揃って若かった犯人たち。いつどこで過激思想に染まったのか知らないが、罪もない一般市民を殺して何が達成できると思ったのだろう。おそらくは死を覚悟していたはずで、その勇気は認めるが、なんという命の無駄。あなた達の母親は、こんな風に死なせるためにあなた達を産んだんじゃない。(中には「聖戦戦士としてよくやった、誇りに思う」なんていう呆れた母親もいるかもしれないけれど。)残念ながら、テロは今後も続くだろう。でもテロが怖いからといって、家に閉じこもってはいられない。テロを警戒しつつも普通の生活を続けるのが一番だし、一般市民にはそれしかできないのだから。

この事件が起きた去年6月、ムスメはまだレスター大学の学生でレスターにいました。でも一年後の今年6月は、大学に在籍中ながらもロンドン橋から200mと離れていないビルで働いていたし、今も続けて同じビルで働いています。この事件が今年6月に起こっていたら、ムスメの無事を確認するまで、私も気が気でなかったことでしょう。(って、先月ムスメにロンドンに同行してもらうまで、ムスメの職場がどこにあるのかすら知らなかったんですけどね。『ロンドンの、たぶん中心部のどこか』としか。

ムスメは現在ロンドン市内で賃借する部屋を探しているので、私もネットで探して良さそうなのを見つけるとムスメにリンクをメールしています。通勤に便利そうな地下鉄駅のひとつにレイトンストーンというのがありますが、この駅って約3年前に刺傷事件(2015 Leytonstone tube station attack)が起きて私も記事(#YouAintNoMuslimBruv)にしていた駅でした。(なるほど、あの事件の29歳の犯人は、動機がテロというよりは精神疾患だったとみなされて警備が厳重なブロードムア精神病院に収容されたのね。)

 

事故も事件も、いつどこで誰を襲うかわかりません。

だからこそ一日一日を、いつ突然終わりが来ても悔いのないように、大切にしなきゃ!ですね。

 

 

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クリスマス菓子がお目見え!

2018-09-19 22:26:07 | たべもの・のみもの

期せずしてまた食べものの話になりますが。

今日スーパー・セインズビュリーズに行ったら、早くもクリスマスのお菓子が並んでいてビックリ! 

えっと今日は・・・ 9月19日か。年々少しずつ早くなるようだけど、これはワタシ的には新記録更新じゃないかと思います。

 

何を隠そう、私はクリスマス・プディングが大好物。イギリスに来た当初は(重いうえに甘すぎて、さすがの私にもムリ~)と好きになれなかったのにねぇ。人間、けっこう順応力があるものです。あるいは単に私がごく甘党なだけ。

 

クリスマスが終わると次のクリスマスまで一年ありますよね。その間に無性にクリスマス・プディングが食べたくて我慢できなくなった場合に備えて、私はいつも小さいのを2個、取っておくんです。でも今年のクリスマス・プディングが店頭に並んだからもう大丈夫。さっそく今日の夕飯の一部として、一個いただきました。

 

クリスマス・プディングにはホイップしただけのクリームを添えるのが、オットー家族の習慣です。私もそれが一番好きなので、生クリームを買ってきて、レンジでチンしたクリスマス・プディングにた~っぷり載せて、おいしくいただきました。

 ダイエットの敵クリスマス・プディング・・・・・ なのになぜ、こんなに美味しいの・・・・・

 

こんな不健康を堂々とできるのも、今週私はシングルだからです。

先週の土曜日から今週の土曜日まで、オットーは独身の義弟②と、恒例のオトコのホリデーに行ったので!

オトコのホリデー / オトコのホリデー その② / “オトコのホリデー”に便乗♪ / セント・デイヴィッズだより ①

おかげで今週は、好きなときに好きなものを食べられて・・・ あ~極楽極楽

 

でもちょっとした不都合もありました。オットーのホリデー初日、私は遅番で午後10時頃帰宅したんですが、バスルームに入ったら、浴槽にここ数年見た中で一番デカいクモを発見!

ビビりつつも何とか捕まえて、窓の外に放してやりました。私が、クモはわりと大丈夫な人でよかった。

 

 

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魅惑のリンドール

2018-09-17 22:17:30 | たべもの・のみもの

ちょっと忙しくしていて、シーラ宅から帰宅して以来ブログを更新せぬまま2週間も経っちゃいました。

ムスメがシーラ宅に居候を始めて、早いもので明日で満3週間になります。

大学の学士課程は終わったものの、ムスメは先延ばしにしていた今月末が締切りの最後のプロジェクト(9000語以上のエッセイ)が残っていたため、それを終えるまでは部屋探しになかなか時間が割けないでいました。でもようやく今日になって、「終わったぁ~」という喜びのメールが到着。よかったね ちなみに卒業式は来年の1月だそうです。私の人生でおそらく最後になる、アカデミックな場に混じる機会だもの。絶対行くぞぉ!

 シーラもスティーヴも相変わらず居候費を受け取ってくれないそうなので、オットーと相談して、ムスメがロンドンに移ったら居候させていただいた期間に応じてお礼をすることにしました。でもそれまで何もしないというのも気が引けるので、チョコレートが大好物のシーラに、私の好物のリンドールを送ることに。おいしいですよね~、リンドール  私がよく見かけるのは『ミルク』と『アソート』ですが、時折『期間限定』なんてのも出たりします。そこで(リント社〔←日本ではなぜかリンツですが〕のサイトで注文すれば、普段見かけないフレーバーのも買えるのでは!?)と思いついたんです。

 

 

ウェブサイトを訪ねてみたら、13種類出てきました。これはウレシイ でもですよ!日本のサイトには定番が22種類、そのうえハロウィーンだのクリスマスだのといった季節限定のフレーバーまであるんですね。いいなぁ、羨ましい・・・  (抹茶はぜひ、死ぬまでに一度は食べてみたいものだわぁ・・・

 

 

1.5kgの“ピック&ミックス” を贈ることにし、珍しいフレーバーを多めに、自分の好みで選ばせていただきました。

 

 

注文から2日後には届いたようで、スティーヴから画像つきメッセージが届きました。スティーヴが載せたのか、シーラの頭の上にはリントのリボンが。  (さすがに1.5kgは食べ応えがありそうだわ、よかった。  ・・・ ランチじゃないし!

     

 

 このところ忙しかった理由については、また今度。・・・

 

 

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おしかけ居候

2018-09-04 22:02:35 | 娘のこと

旧友からの助け舟のおかげで、ひとまず旧友の母君シーラの家に居候できることになったムスメですが。

シーラ宅から最寄駅までは、歩いて10分ほどかかります。ほぼ一本道ですが、道路の片側にしか歩道がなく、しかも歩道の脇はずっと鬱蒼とした林。明るいうちはいいけれど、暗くなってからはかなり物騒ぽくで・・・ シーラも言ってました。「娘(スティーヴのお姉さん)がまだ家に住んでいた頃は、夜暗くなってから駅に着いた娘を車で迎えに行ったものよ。帰り道は人気がなくて心配だったから。」

 

バラ・マーケットとザ・モニュメントに行った日、ムスメは遅番だったので終業は午後11時でした。その時間帯になると列車の本数も限られてきて、最寄駅に帰着したのは真夜中過ぎ!   車で迎えに行ってみましたが、さすがにロンドン郊外のことはありました。そんな深夜にもかかわらず、駅の外にはタクシーが10台くらい客待ちしていたし、ムスメと同じ列車からも15人くらいが降車したのでひと安心。グロスター駅の夜9時10時頃よりも人が多いわぁ!

 

それでもやはり深夜のひとり歩きはさせられませんから。私がシーラ宅をお暇してからは、「深夜に帰着したときは必ずタクシーを使うよう」ムスメにきつく言い渡しました。タクシーなら2~3分の距離だもの、多少の出費は身の安全には代えられません。

私の帰宅前日だった9月1日(土)は、シーラとスティーヴへのお礼に夕食を外ですることにしました。スティーヴが選んでくれたのは、テムズ川沿いのパブ。日没前ののどかな眺めに癒されました。

 

相変わらずセルフィーが下手くそな私・・・   フィッシュ&チップスはおいしかったです

 

シーラとスティーヴと記念撮影後、ぐーたらムスメをお願いして翌9月2日(日)帰宅。車の走行距離は、全部で413km(258マイル)でした。所要時間は、往きが2時間50分、帰りは2時間20分。ロンドンを囲む環状高速道路M25で往路復路ともに少し渋滞したけど、それ以外は問題なかったです。

シーラのお宅を倉庫に使うわけにはいかないので、ムスメが当座は必要ないものは積んで帰ってきたのですが、それでもこの(下右画像)量!

 

それにムスメのみならず私まで、結局5泊もさせていただいてしまって・・・ 本当に本当にありがとう!

ムスメは以前シーラたちに会ったことをすっかり忘れていたようなので、帰宅してからアルバムを開き、(スキャナーが故障中なので)昔の写真を写真に撮ってムスメに送りました。

 

そうそう、スティーヴが訪ねてきてくれたとき、アウルペン・マナーにも一緒に行ったっけ。

 

コーンウォールのティンタージェルでスティーヴのお姉さんが旦那さんとカフェを営んでいたときは、家族旅行のついでに寄ったんですよね(下左)。そうしたらシーラとゴードンもちょうど泊まりがけで訪問していて、思わぬ再会ができました。ゴードンは2006年に亡くなり、私もお葬式に参列しました。(下右、全員が冬支度なのにスティーヴだけTシャツなのが笑える。) (オットーの影が薄いですが、それはカメラマンだったからです。オットーもちゃんとその場にいましたよ。

 

シーラもスティーヴも(ムスメの居候は)「通勤に列車運賃がかかるんだから無料でいいよ!」と言ってくれたけど、人間は存在するだけでお金がかかります。電気、水、暖房、それに「勝手に何でも食べてね」と言ってくださるキッチンの食料品などなど。なのでムスメには「必ず居候費用を受け取っていただくように」言ってきました。どうしても受け取ってくれなかったら、私が小切手を書いて郵送しちゃおうっと。

ドイツ熱にうかされていた33年前、ミュンヘンに8週間だけ私費遊学した私。スティーヴはその語学学校のクラスメートでした。あのときミュンヘンに行っていなかったら、こうして33年後にムスメのピンチを助けてもらうこともなかったんだなぁ・・・ 縁て不思議。

シーラは「話相手ができて嬉しいから、(ムスメはシーラのお宅に)いたいだけいてくれていいのよ」と言ってくださるけど、そうそう甘えるわけにはいきません。

ムスメに手頃な部屋が、早く見つかりますように・・・・・!

 


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ロンドンのバラ・マーケットとザ・モニュメント

2018-09-02 21:40:16 | イギリスのあれこれ

8月30日(木)はムスメは午後4時から11時の勤務だったので、バラ・マーケット(Borough Market)に興味シンシンだった私はムスメにくっついてロンドンに"上京"。私はロンドンは9年ぶりでした。日本から甥っ子が夏休みを利用して1週間だけ遊びに来たときに家族揃って日帰りでおつきあい観光に訪れて以来でしたから。

地下鉄のホーム端に、以前は見た覚えのなかった防護壁?ができていました。地下鉄が到着して乗客が乗り降りするときだけ、防護壁のドアも開閉します。あと地下鉄の車内。ワタシ的にロンドン地下鉄の名物だと思っていた"吊り玉"がすっかりなくなっていてビックリ。

 

以前はあったんです、吊り革ならぬ"吊り玉"が。いつからなくなっちゃったんだろう!?天井近くの水平の手すりは、151cmの私にはきつすぎる・・・ 混んだ車内で垂直の手すりには届かない位置に立っていたら、私のようなチビはどこにつかまれというの~!? ・・・ロンドンに住んでなくてよかった。

 

バラ・マーケット(Borough Market)は、ロンドン・ブリッジ駅を出て道路を渡ってすぐの所にありました。高架下でごちゃごちゃした感じから、アメ横を思い出しました。

 

昼食どきは混雑するそうなので、朝食ぬきで出かけてマーケットで早目のランチをすることにしたのです。

 

新鮮なタコも売っていました。生のタコを見たのは、イギリスに来て以来初めて!

 

 「私はマック&チーズのプルド・ポーク添えにする」とムスメ。マックって何?まさかマクドナルドじゃないよね??と思ってムスメに訊いたら、イギリスの家庭料理のひとつ"マカロニ・チーズ"(ゆでたマカロニをホワイトソースであえて上におろしたチーズをのせてオーブンで焼いたみたいな料理)の略だそう。ムスメのはそれにプルド・ポーク(Pulled pork)という柔らかく料理された豚肉が加えられていて、野菜皆無でとても不健康だけれども、味見させてもらったらとても美味しかったです。

 

巨大な浅鍋で煮込まれていた美味しそうな牛肉に魅せられた私は、それに野菜ものをふたつつけて£5というセットにしました。底には薄く白いごはんも入っていて、これもとても美味しかったです。座って食べられるスペースもあるものの、ランチどきは混雑してとても座れないそうなので、早ランチにして正解でした。

 

本当はムスメの案内で“ウォーキー・トーキー”ビル最上階にあるスカイ・ガーデンに行きたかったのだけど。無料入園は8日前くらいからしかオンライン予約できなくて、8月25日(土)に予約しようとしたら、予約可能なたしか9月2日(日)まですでに予約一杯で、できなかったのです。仕方なくスカイ・ガーデン訪問は将来に持ち越すことに。

代わりにウォーキー・トーキー・ビルの近くにあるロンドン大火記念塔(内部を上って眺望デッキからロンドンを眺望できる)に行くことにし、♪ロンドン橋落ちた~♪ の歌でおなじみのロンドン・ブリッジを南から北へと渡りました。

テムズ川を渡るとき、遠くにタワー・ブリッジが見えました。(ちなみにムスメの職場を擁するビルは、下の画像に入っています。)

ウォーキー・トーキー・ビル訪問をあきらめたあと最初に候補に上ったのは、以前は眺望レストランが営業していたBTタワー(BT Tower)。ところがこちらも、調べてみたら現在はパブリック・アクセスはなしとのこと。残念~。(てか、パブリック・アクセスは1981年で終わっていたみたい。いつの時代の情報だ、私の頭にあったのは!?

 

 ウォーキー・トーキー・ビルの近くまで行きながら、目指したのは、近くにある・・・

 

 ・・・これです。ザ・モニュメントと呼ばれるロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)。

 

 1666年9月2日(今日!)に発生し、死者こそ数名しか出さなかったもののロンドン中心部に甚大な被害を出した大火事(Great Fire of London)を記念する塔で、1677年に完成。塔は火元となったパン屋があった地点から61mに位置し、高さはそれにちなんで61mあるそうです。311段ある石の螺旋階段をえっちらおっちら上り切ると、地上48.7mの眺望デッキに出られます。

 

 階段は狭いので、譲り合って上り下りするよう。一度に塔内に入れる人数も限られているので、私たちも待つようでした。ほんの数分でしたが。入場料は大人5ポンド、学生(8月末までだったからギリギリ!)のムスメは3.3ポンドでした。自殺防止のため、展望デッキは金網で覆われています。(ウェブサイトはコチラ。サイトでは入場料は大人1名4.5ポンドとなっているけど、絶対5ポンドでした。レシートだってあります。値上げされたばかりとか?)

 

 眺望観光を終えて下りてきたら、『ザ・モニュメントの311段の階段を上りました証明書』をもらいました。

裏側は昔の同塔。

 1750年と現在の周囲の景観の、何たる違い!この頃なら塔からの眺望は最高だっただろうな~。

 

ちなみにムスメが前に送ってきたスカイ・ガーデンからの眺望画像の右下隅に、金ぴかの先端をいただいたザ・モニュメントがしっかり写りこんでいました。う~ん、やっぱり一度は行ってみたいぞ、スカイ・ガーデン

カフェで時間をつぶして小腹が空くのを待ち、バラ・マーケットにデザート・ハンティングに戻りました。けど「やっぱりまだお腹空かない」と、ムスメはドリンクのみ。私はムスメおススメの小ぶりのアイスクリームを食べてみました。美味しかったけど、あんな少量で£3とはねぇ・・・ さすがロンドン価格!?

  

 

 バラ・マーケットもロンドン・ブリッジも、去年6月3日夜に起きたテロ事件(2017 London Bridge Attack)の舞台になってしまった場所です。無差別に8人を殺害したイスラム過激派の犯人3人組は、3人とも武装警察によって射殺されました。

 犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、こうしてマーケットを訪れることができる悦びを噛みしめました。

 

 マーケットの商店や屋台が全店開くのは水曜日から土曜日までらしいので、注意が必要ですね。(詳細はこちら。) 名残り惜しいけどマーケットを離れ、仕事に行くムスメと別れ、ザ・シャードを横目に帰途につきました。

  

 平日の午後4時のウォータールー駅。ラッシュアワー前なのか、空いててよかった。

 

 シーラとスティーヴとムスメと私用に、マーケットで大きなチョコレート・ブラウニーを4つ買って帰宅。「美味しい」と喜んでもらえました!

 

 

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旧友からの助け舟

2018-08-29 22:54:17 | 娘のこと

時の経つのは早いもの。

ロンドン郊外の大学寮に移るムスメの引越しを手伝ったと思ったら、早くも一年が過ぎ、今度はそこから引き揚げるお手伝い!

再度見ても、やはり狭い部屋でした。一番安い=一番狭いだけのことはあるわぁ・・・ 

ベッドの下、奥の壁際に何か落ちていたけど、ペッドの周囲にはまったく隙間がないのでムスメが床に這いつくばって引張り出すしかありませんでした。

 

こぉんな狭い部屋なのに、信じられない量の私物があって! 荷造りと車への積み込みに、3時間15分かかったのですよ。  そりゃ共用のキッチンにも、食器や鍋とフライパンや食品の残りとかありましたけど、それでも(どこにこんなに蓄えられていたんだ!?)と思うような量があとからあとから魔法のように出てきました。

最後にざっと掃除をして、狭い部屋ともお別れ。「狭い」を連呼したけれど、お部屋さん、ムスメを一年間守ってくれてありがとうね

 

車はムスメの荷物でぎゅうぎゅう詰めに。あまりにも後方が見えにくくて危険なので、このあと荷物を積みなおしてちょっと平らにしました。

 

ムスメは高校時代の女友達と、来月からフラットをシェアする予定でした。薬学部学生の友達は、学費を貯めるため一年間休学して地元に戻って働いていたのです。ところが彼女、復学するのにパスしなければならない試験の日、パニック発作に襲われて試験が受けられなくなってしまって・・・

どういう事情かわからないけど再試験は早くても1月にしか受けられないそうで、フラットのシェアがおじゃんになったムスメは引越し先を失い、パニックして私に電話してきたんです。もちろん賃貸部屋はロンドンには豊富にありますが、急いては事をし損じる。慌てて探してハズレの部屋を掴んでもはじまらない・・・

そこで思い出したのが、ロンドン郊外に住む旧友スティーヴ(『旧友とランチ』『旧友からのおみやげ』)のお母君シーラ(89歳)。スティーヴのご両親宅には、私も独身時代に何度か泊めていただいたことがありました。未亡人となった彼女は今は一人暮らしですが、近居のスティーヴがしょっちゅう訪ねてはあれこれとサポートしているのです。スティーヴたち4人兄弟がまだ幼かった53年(!)前に一家で引越してきたという家は、6人家族の住まいだっただけあって4寝室もあり、スティーブに電話したらすぐに話を進めてくれ、ムスメは一時的にシーラの家に住まわせていただけることになりました。

そういうわけで、大学寮を出発した私たちは、20分ほどでシーラ宅に到着。シーラとスティーヴ、ロースト・ポークを夕食に用意してくれていました。なんて、なぁんて親切な・・・

 

社交下手でひとり上手で友達も極端に少ないのに、なぜか要所に限って親切で世話好きな友達がいる私は、本当に本当に恵まれていると改めて思った次第です。

今日はシーラが住む町をムスメに案内しがてら、よさげなカフェでランチ。

ムスメはツナマヨのジャケット(=ベイクト)・ポテト、私はパニーニのトーストを注文しました。注文した品を待つ間も、ムスメ、スマホで部屋探し。

 

ムスメは正式雇用ではないものの一応仕事にはありつけているので、努力して正社員採用されるよう祈っています。

頑張れ、ムスメ! 

 

 

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“ベイブ” の生みの親

2018-08-25 13:38:10 | イギリスのあれこれ

《 8月25日: 加筆しました、とうとう完成!  》

 私が大好きな映画のひとつ 『ベイブ』。1995年制作ということは、ムスメが生まれた年だから、・・・23年前!

 

『ベイブ』の下敷きになったお話は、英国で1983年に発表された “The Sheep-Pig”。米国では “Babe, the Gallant Pig” の題名で1985年に発刊されたそうです。子供向けのお話を映像化した映画だとは知っていたけれど、最近あるニュースがきっかけで原作とその作者について調べたので、今回はその結果知ったことを記事にしようと思います。

 

 

作者のディック・キング=スミス(1922-2011)は1922年3月27日、グロスターシャー州南部の小さな町ビットン(Bitton)で誕生しました。本名はロナルド・ゴードン・キング=スミス。ディックという愛称は、幼かった彼が乳母と散歩中に転んでしまったものの泣き顔を見られたくなかったので 「ほら、あそこの小鳥をみて!(Look at the little dicky-birds!)」 と言ったことに由来するそうです。

  

ディックの家は製紙業を営み、彼は弟をはじめとする遊び仲間に恵まれた満ち足りた幸せな子供時代を過ごしました。動物好きだった彼は、多くのペットを飼ってその世話をしながら成長しました。18歳になった彼は、ケンブリッジ進学よりも農業を学ぶことを選び、ウィルトシャー州のティザリントン農場で見習いとして働き始めます。きつい労働にもかかわらず、家畜を愛するディックは農業のとりこになりました。

  

  未来の妻となるミール・イングランドに初めて会ったのは、1936年のクリスマス。ディックの両親が毎年クリスマス・デーの午前中に催すドリンク・パーティーにミールの両親も招かれたのがきっかけでした。ディックと同様ミールも、セキセイインコを飼い繁殖させていました。色を保護するためインコを色分けして飼っていると聞いたディックは、その賢明なアイディアに感心します。しかし1年かそこら後、ミールと家族はイングランド中部に引越していきました。

  

1940年の夏、ミールがディックをティザリントン農場に訪ねたことから二人の交流が再開し、まもなくディックは母親に、将来結婚する女性は彼女だと告げます。戦争が始まると、ディックはグレナディアガーズの新兵としてウィンザー城に配属されました。ウィンザーのテムズ河畔のパブに一緒にいたある日、ディックはミールに、「結婚するというのはいいアイディアだと思うが、どうだろう?」 と婉曲なプロポーズ。ミールは 「イエス」 と応え、そうして二人は1943年2月6日、ビットンの聖メアリー教会で結婚式を挙げました。

 

 1944年7月12日、ディックはイタリア戦線で手榴弾により重傷を負います。炸裂した金属片が全身に飛び込み、肺に穴を開けました。辛くも命が助かったのは、木の陰に避難していたからでした。ディックが治療のため英国に送還されると、ミールはリバプールの軍事病院までディックに会いに行きます。50kgそこそこまで体重が落ちていた彼を見つけられたのは、彼女に気づいたディックが、横たわったベッドから動かせる方の片手を使って弱々しく手を振ったからでした。「当然のことながら彼女との再会が一番の特効薬となり、私は回復を始めたのです。」 ある程度健康が回復した彼は故郷近くの保養所に転院され、やがては自宅での静養を許可されて、子供時代を過ごした家で両親・ミールとともに2年間暮らします。1945年10月、長女のジュリエットが誕生。

  

農業に戻りたくてうずうずしていたディックは、健康を回復するとディザリントン農場に戻り、ふたたび新婚時代を過ごしたコテージで暮らし始めます。最初のダックスフントのアナを飼い始めたのはこの頃です。しかし身体が以前のレベルまで回復していなかったディックには農場の仕事はきつすぎたため、代わりに元兵士を対象にした農業課程で学びます。1947年に家業であるゴールデン・ヴァリー製紙業は、耕作地つきの小さな農場――コールピット・ヒース(Coalpit Heath)のウッドランズ農場(Woodlands Farm)――を購入。ディックはその経営を任され、製紙工場の社員食堂に卵と牛乳を供給します。1948年2月、次女のリズ(エリザベス)が誕生。1953年8月に長男ジャイルズが誕生し、ディックは5人家族の長となります。

 

  ディックは午前5時45分から搾乳を始める熱心な働き者の農夫でした。ウッドランズ農場では犬猫はもちろん、それに加えて乳牛、豚、山羊、鶏、アヒル、ガチョウ、キジ、セキセイインコ、カメ、ネズミ、ウサギ、モルモットを飼い育てました。それぞれが名前をつけられ家畜というよりはペットのように世話されました。「私たちは家畜を増やすのが大好きでした。子牛や子豚を市場に、あるいは鶏やアヒルやウサギを冷凍工場に送ったりしなくて済めば理想的だったのですが・・・」

  

ディックのお気に入りだったのは常に豚で、豚には知性と人間性がたっぷり備わっていると彼は信じていました。「機会があったら、豚の目を間近で見つめてみてごらんなさい。犬の目は忠誠を、猫の目は生意気を、牛の目は黙想を、羊の目は空虚を宿していますが、豚の目には理解があるのです。他の動物が『この人間は自分を見ている』と考えるとき、豚は『自分はこの人間を見ている』と考えます。これはとてつもない相違です。」

 

農場生活を愛したディックでしたが、文字には強くとも数字にはからきし弱かったため、ウッドランズ農場が利益を計上することはなく、製紙業が1961年に廃業すると農場も売却されました。友人の世話でシストン(Siston)にあるオーバースコート農場の経営を始めたディックでしたが、やはり利益を出すことはできず、6年後に農業をあきらめることを決意します。しかし農業生活は大変なことばかりではなく、ディックとミールは定期的に映画や観劇に出かけ、友人を食事に招き、外食に出、年一回のダンス・パーティーも正装して楽しみました。子供の頃から書くことが好きだったディックは、農業のかたわら折にふれて詩や散文を書き、詩節が活字になったことも何度かありました。1950年代と60年代には、レックス・フェーバーというペンネームで書いた詩が、全国紙や雑誌に採用され掲載されました。

 

オーバースコート農場の経営に失敗したディックとミールは、仕事と家を同時に失いました。良き友人が無償で貸してくれた家に住み、生計を立てるためパブの雇われ経営まで考慮しました。友人の紹介でセールスマンをしたり靴工場で働いたりして数年が経ったとき、長女のジュリエットから「教師の資格を取るためのコースを始めるところ」だと聞いたディックは、自分も小学校教師になることを決心し、晴れて1975年にブリストル大学で教員資格を獲得します。気前のよい友人が貸してくれたお金でクィーン・チャールトン(Queen Charlton)――ブリストルバースの間に位置する村――のダイアモンド・コテージを購入したのは1968年のことでした。ディックとミールが結婚後に初めて買ったこの家に、二人は終生住むことになります。ディックによると、競売で買ったこの家は「私の生家から直線距離にして5kmと離れていない小さな村にある、とても古くて小さな家」でした。

 

教員資格を取ったディックは、幸い家から8kmの距離にあるファームボロ小学校(Farmborough Primary School)に勤めることができ、そこで53歳から60歳になるまでの7年間教えました。最初の4年間は8歳児を受け持ちましたが、算数があまりにも苦手だったため、残りの3年間は低年齢クラスに変えられました。子供好きのディックは、自意識皆無で好奇心旺盛な子供たちとの交流を、心から楽しみました。

晴れて小学校教師になったディックは、1976年の夏休み中に子供向けの話を書き始め、3週間で『フォックス・バスターズ(The Fox Busters)』の草稿を完成します。これは農夫をしていた20年前に、ウッドランズ農場の雄鶏が何度もキツネに襲われた経験にヒントを得た作品でした。原稿は2社から送り返されてきましたが、3度目の正直で3社目の編集者の目に留まり、彼女の叱咤激励のおかげで1978年――ディックが56歳のとき――に処女作として出版に漕ぎつけました。それ以降は順調そのもので、作品のアイディアは止まることなくひらめき、ディックは書くことを、そして子供たちは彼の作品を読むことを、大いに楽しみました。60歳の誕生日を迎えた1982年に、ディックは教職を引退して作家活動に専念するようになります。翌1983年、(映画“ベイブ”の基となる)“The Sheep-Pig”を発表。この話のアイディアは、村のお祭りで『この豚の体重を当てよう』ブースを見たときに思いつきました。The Sheep-Pig は1984年のガーディアン賞を受賞し、のちに映画化され1995年に“ベイブ”として公開され、世界中で大成功を収めました。自分の数多くの作品の中でもディックが一番誇りに思っているのはこの作品だそうです。

 

 ディックはすべての作品を、1982年に増築した小さな書斎で生み出しました。その書斎は本当に小さく、机に座った彼は両腕をまっすぐ伸ばさずとも両脇の壁に触れるほどでした。一日一章を目標に、朝書斎に入って下書きを始めます。紙は粗末なものでいいのです。時には使用済みの封筒すら使われました。ミールと一緒の昼食を済ませると、午後は午前中に書いたものを古いタイプライターで指一本のみを使ってタイプします。夜は飲物を片手にその日書いたものをミールに読んで聞かせ、彼女の反応からその良し悪しを判断します。「彼女が『とてもいいと思うわ』とか『素晴らしいわ』と言えば最高です。気のない表情で『ええと・・・そろそろ芽キャベツを火にかけなきゃ』と言ったら、真剣に書き直しを考えねばなりません。」

 

教師の経験があり児童文学作家でもあるディックは、1980年代には3つの子供向けTV番組(Rub-a-Dub-Tub:1983、Pob's Programme:1985-87、Tumbledown Farm:1988-89)にも部分的にレギュラー出演。愛犬のドゥードゥーやポピーや弟トニーから借りた黒ラブのハッティーを相棒に、動物やその特質についてわかりやすく楽しい解説をしたり、本を朗読したり、宝探しをしたり、農場を訪ねて家畜と触れ合ったりして視聴者を楽しませました。ディックはカメラの前でも自然体で、親しみやすさとユーモアにあふれていました。個性的なドゥードゥーが愛嬌をふりまいて人気者になり、やがて自分を差し置いて世間に認識されるようになったことを、ディックは面白がったそうです。

  

 

作家として成功したおかげで経済的な心配から解放され安堵したことは事実ですが、ディックが一番喜んだのは、彼の作品を読んだ子供たちから送られてきた何千もの手紙でした。とりわけ彼は、自分の作品が貧しい子供に読書の習慣をつける手伝いをしたと感じたとき、心から嬉しく思ったそうです。

「キング=スミスさんへ。ロアルド・ダールにてがみをおくるつもりでしたが、しんでしまったのでかわりにあなたにかきます」

「ディック・キング=スミスさん、まだしんでないですか?」

「あなたのおはなしがだいすきです。しぬまえにあといくつかかいてくださいね」

「しんあいなるディック・キング=スミスさんへ――わたしのおきにいりのさっかはジャクリーン・ウィルソンです」

「キング=スミスさん、しんだらロアルド・ダールにわたしからの『ハイ』をつたえてください」

(・ ・ ・  ・ ・ ・)

 The Sheep-Pig が映画化され『ベイブ』のタイトルで1995年に公開されると、ディックの知名度は飛躍的に高まりました。公開に先駆け、試写に招かれてロンドンまで出かけたディックとミール。記者や批評家に混じって小さなスクリーンで視聴するものとばかり思っていたら、実際は多くの子供たちと一緒にフル・スクリーンで映画を楽しむことができました。映画の制作にはディックは関わりませんでしたが、二人は心の底から映画を楽しみ、心の底からその出来に満足しました。

  

ディックは「自分がずっと思い描いていた人物像そのものだ」と、ジェームズ・クロムウェルが農夫ホゲットを演じたことを特別に喜びました。

 

「私が一番感銘を受けたのは、映画の96%が訓練された動物の実写であって、アニマトロニクスは4%に過ぎないことです。多くの人がその反対だと信じていますが。本当にたくさんの賢い動物が、あの映画に出演したのです。ベイブは生後6週間ほどでなければならないのに子豚はすぐに大きくなってしまうため、撮影には合計48頭の子豚が使われました。『子豚たちはすべて食べられてはならない、ベーコンにされてはならない』という父の主張で、彼らはすべてペットとして、あるいは保護センターへと、引き取られていきました。」 ――ディックの次女リジー・ローズ(ザ・ガーディアン


「私は『たのしい川べ』もビアトリクス・ポター作品も大好きですが、私のお話に出てくる動物たちは服を着ません。彼らは動物らしく振舞います。クィーンズ・イングリッシュをしゃべることを除けばね。」

 ディックは引退するまでの20余年の間に、100を超える作品を発表。そのほとんどが動物を題材にした子供向けのフィクションで、うちいくつかは、テレビや映画で映像化されました。彼の作品は英国だけで500万部、全世界では1500万部を売り上げ、21言語に翻訳されました。彼は数々の賞に加えて、2010年には児童文学への功績により大英帝国勲章を受勲しました。

 

 

ディックは孫や曾孫が増えることを大いに喜び、彼らを慈しみました。彼の年代の男性には珍しく堂々と、しかも自然に、赤ちゃんや幼児や子供に愛情たっぷりに接しました。

 

  良き伴侶だったミールに2000年に先立たれたディックは、翌年昔からの友人だったゾーナ・べディングと再婚。2011年1月4日、自宅のダイアモンド・コテージで睡眠中に亡くなりました。享年88歳。3人の子供・14人の孫・4人の曾孫・1人の玄孫を残しての往生でした。

 

 

*       *       *       *       *

 

“ベイブ”の原作者について書き終えたので、ここでようやく、キング=スミス氏について調べるきっかけを作ったニュースについて書くことにします。それは先月12日付の “Fight to save author Dick King-Smith's Coalpit Heath farm(ディック・キング=スミスのコールピット・ヒースの農場を救う戦い)” というものでした。このニュース、ネットのローカル・ニュース・サイトで見たので、その農場ってもしかしてこの近く?と思い調べてみたら、我が町ダーズリーから南南西の方向に、直線距離にして20kmほどしか離れていませんでした。そうなんだ、“ベイブ”の作者ってこの地域の人だったんだぁ・・・と思ったら急に親近感が沸いたので、さらにあれこれ調べた次第です。

 

 グーグル・ストリート・ヴューで見るとウッドランズ農場への入口には鉄製の立派な門があって、そこから農家まで100余mの車道が延びているようです。

 

 農家には複数の車が駐まっていますから、今も誰かが住んでいるようです。下右画像の背景に見える大きな町は、南西方向に10kmほどしか離れていないブリストルかと。

 

 ニュースによると、そんなウッドランズ農場に属していた農地が“ブラックベリー・パーク”と名づけられ、宅地開発会社バラット・ホームズ(Barratt Homes)の開発の標的にされているのだそうです。バラット・ホームズはまず2013年に、330軒の住宅の建築許可を州議会に申請しましたが、同年7月に却下されました。そこでバラット、住宅軒数を2/3ほどまで減らして2017年1月に再度、215軒の建築許可を申請しました。が、これも2017年8月に却下されます。しかしバラット・ホームズはあきらめず、今年6月に、公聴会による審議を要請する訴えを起こしたそうです。

 

 もしこの宅地化が許可されたら、縮小されたウッドランズ農場の背景はこんな  感じになるんだろうな・・・

キング=スミス氏がウッドランズ農場の経営を任されていたのは1947年から1961年まで。つまり同農場は、もう57年も前に彼とは縁が切れたことになります。農家そのものは取り壊されて宅地にされることはないようだからひと安心だけど、キング=スミス氏が青年~壮年期(25歳~39歳)の情熱を注ぎ込んだ農場に属していた農地の大部分が宅地となってしまうのは、ちょっと残念な気がします。(失敗に終わった農場だからとキング=スミス氏自身はそれほど気にしないかもしれませんが。)同じ思い、また(これ以上緑地を失いたくない)という危機感や「開発業者による計画性を欠いた任意の開発は、地域社会にとって不適切で益をもたらさないどころか害になる」という信念から、宅地化に断固反対する地域住民が宅地化阻止のため2013年時も今回もキャンペーン活動を展開しています。キング=スミス氏の長女のジュリエットさん(現在72歳)は、2歳から16歳までという子供時代の大部分を同農場で暮らしました。彼女も『ウッドランズ農場の開発に反対する地域住民の会』のメンバーで、公聴会でも意見を述べる予定だそうです。(残念ながら、その公聴会の予定日は記事に載っていませんでした。)

私も、できればこの特別な歴史を持つ農場の農地が、宅地化されず保存されることを望みます。「そんなセンチメンタルな理由で!?じゃあこの先いつまで残しておけばいいのさっ?!」と問われれば応えに詰まりますが。

 

 ところで彼の終の棲家となったクィーン・チャールトンにあるダイアモンド・コテージは今どうなっているのでしょうね?彼の作品のすべてがこのコテージで誕生したわけだから、ダイアモンド・コテージがキング=スミス博物館とか資料館として保存されたらいいのにな、と思います。

 

それにしてもキング=スミス氏という人は、本当にこの地域からまったく出ずに一生を終えられたんですね。彼自身が「5kmと離れていない」と言っていた生家のあるビットンからクィーン・チャールトンまでは、グーグル・マップによる私の調べでは、実際は5kmとちょっと離れているようですが。あ、でも生家とダイアモンド・コテージの位置次第では、本当に5kmと離れていないことも十分あり得ますね。

 

 作家として成功し経済的に豊かになっても、以前とまったく変わらぬ平穏無事な田舎暮らしを最後まで続けたというキング=スミス氏。同じ小さな家に住み、贅沢な旅行(飛行機は嫌いだったそうです)や散財をすることもなく、複数の飼犬との日課の散歩を楽しみつつ作家活動に精を出したそうです。穏やかで機知に富み、愛嬌もあって子供好きで、最後まで背筋をピンと伸ばした姿勢を保ったという、田園社会の真のジェントルマンのお人柄が見えてきました。このような尊敬に値する方が我が町ダーズリーから余裕で日帰りできる距離に7年前まで暮らしておられたなんて、驚きであるとともに光栄に思います・・・

でもこうなると、映画“ベイブ”が英国ではなくオーストラリアで撮影されたというのがとても残念。英国での撮影も考慮されたけど、宅地化が進みすぎて適切な土地が見つからなかった・・・なんてことはなかったですよね!?

 ちゃんとしたタイプの打ち方を習わなかったため指1本でのみタイプしたというキング=スミス氏の The Sheep-Pig の原稿の一部です。

 

 開発のニュースがきっかけでディック・キング=スミス氏についていろいろと学べてよかった

そうそう、この記事の主な情報源にした同氏のウェブサイトはイラストがとっても可愛いです!  

 

 このサイト、同氏の没後の2015年2月に、家族・友人・出版関係者が協力して立ち上げたものだそうです。とてもよくできていてとても参考になりました。

ありがとう~!!

   

 

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レイコック・アビー

2018-08-12 18:27:07 | イギリスのあれこれ

前回のトピックに関連してレイコック村についてもいろいろと知ることができたので、今回はそれについて書くことにします。

直線距離でロンドンから西に140km/ブリストルからは東に30kmくらいに位置するレイコック(Lacock)村。ウィキによると人口は2011年時点で1,159人、田園風景に点在する素朴な村々のひとつという感じです。そのレイコック村で一番立派な建物といえば、何といってもレイコック・アビー(Lacock Abbey)では。

 アビーの基礎を築いたのは、第3代ソールズビュリー伯爵夫人エラ(? Ela of Salisbury, 3rd Countess of Salisbury, 1187-1261)でした。1226年に夫を亡くした彼女は、3年後の1229年に尼僧院を創設し、1238年には自らも尼僧になりました。しかしヘンリー8世の修道院解散令によりアビーは1539年に閉鎖に追い込まれ、アビーは村そのものを含む領地とともに富裕な廷臣ウィリアム・シャリントン卿に買い取られ、増改築されて私邸として使われるようになります。8角形の塔を増築したのは彼だそうです。

 

横から見ると一角に塔があるだけの平べったい建物だけど、上から見るとなかなか素敵、お城みたい! 

 その後何度も改修・改装を加えられたアビーは、異なる年代の異なる様式が混在する建物に。18世紀にアビーを所有していたタルボット家に生まれたのが “近代写真技術の父” ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1800-1877)でした。現存する世界最古のネガから印画されたポジと信じられている画像は、1835年8月にタルボットが、レイコック・アビーの格子の入った窓を撮影したものでした。

 

 アビーと村を含む284エーカー(1.15平方km)の領地は、1916年にウィリアム・タルボットの息子チャールズからその姪のマチルダに遺贈されました。マチルダは1944年に、遺贈されたレイコックの全領地をナショナル・トラストに寄贈。レイコック・アビーは現在、歴史的遺物の展示場兼フォックス・タルボット博物館として、ナショナル・トラストにより一般公開されています。

Lacock Abbey, Fox Talbot Museum and Village - National Trust

 

 

 

 もと僧院部分の内部はがらんどうっぽいですが、何となく見た覚えのある方もおられるのでは?

 

 

というのもここは、ハリー・ポッター映画の撮影に使われたからです。(私は特にファンというわけではないので知りませんでしたが。)

 

 アビーに残る大釜は16世紀製とのこと。また村には、赤ちゃんだったハリーが両親と暮らしていた家として撮影に使われた家があるそうです。

 

レイコックはハリー・ポッターだけでなく、ダウントン・アビーほか多くの映画・テレビドラマの撮影に使われていたんですね。

その理由は、18世紀以降に加わった建物がごく少数しかないこと、また衛星アンテナ設備や電線が家並みから隠れていること。

こちらの画像を見ると、本当に昔ながらの素朴で可愛らしい村で・・・行ってみたくなりました。

 

《 レイコックの歴史を学べるサイト: Wiltshire Community History: Lacock - Wiltshire Council 》

 

我が町ダーズリーからなら十分日帰りできる距離だもの、そのうちぜひ!行ってみなきゃ。

(歳も歳だし、手遅れにならないうちにね・・・

 

 

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わがままカミラ夫人?

2018-08-11 20:14:11 | 王室

未来の英国王チャールズ皇太子の奥さんは、ご存知コーンウォール伯爵夫人です。

・・・が、メンド臭いのでここではカミラ夫人で通させていただきます。

彼女に関するすっぱ抜き記事を見つけたので、今日はそれについて書きます。

ウィルトシャー州レイコック(Lacock)にあるレイ・ミル・ハウスは、カミラ夫人の私邸。(レイはRey/Rayというふたつのスペルがでてきてどちらが正しいのかわからず。) 最初の夫と離婚後の1996年に85万ポンドで購入した邸宅で、自分の子や孫と気兼ねなくのんびりゆっくり過ごせるよう、チャールズ皇太子と結婚後もこの屋敷はキープしているそうです。ちなみにこのお屋敷、現在の推定価格は2百万ポンド(1ポンド=¥141として2億8千万円)だそうな!

 

ロンドンから西に向かって約140kmの距離にあるレイコック。レイ・ミル・ハウスはレイコックの北東の村外れにあります。

 

赤丸で囲ってあるのが、カミラ邸の北にあるお隣りさんの外小屋。隣人は今年3月、この外小屋を取り壊して跡地に年老いた母親の離れを建てることを計画し、役所に建築申請を提出しました。ところがそれを知ったカミラ夫人は、計画を阻止すべくチャールズ皇太子の別邸ハイグローヴの管理長に、王室のレターヘッドを使って隣人の計画に反対意見を表明する文書を提出させたそうです。反対理由?「この地域は洪水が起こりやすく実際過去に何度も洪水しているので、環境に大きく影響するような建築は避けるべき・・・云々」みたいなことのようです。

隣人の外小屋の右下にあるのが隣人の本宅と思うのですが、画像から察するにその本宅って、エイヴォン川の支流?の上に立っているみたい。現在水流がどうなっているのかわかりませんが。カミラ夫人の家がレイ・ミル・ハウスという名だから、きっと以前ここ――現在隣人の本宅があるところ――には水車があったんでしょうね。(というか、この支流は水車を回すためにわざと引かれたのかも。)でもって、おばあちゃんの離れを建てることが、本当に環境に影響を及ぼすのでしょうか。カミラ邸から外小屋までは61mほど。実のところはカミラ夫人、自分の視界に新たな建築物が加わることが目障りだったとか?

 

カミラ夫人の訴えに賛同したお役所に建築申請を却下され、隣人はがっかりしているそうです。離れに高齢の母親を住まわせて介護をするという計画が潰れてしまったので・・・。 「不公平です。お隣りさんは、母親の住まいを造りたかっただけなのに。カミラ夫人は自分の影響力を使ってお役所を意のままにしました。イジメとしか思えません。」と、ある地元住民。

本当に洪水が心配なのだとしても、洪水したらその時はその時。たとえ洪水被害に遭ったって、カミラ邸の補修工事費は国民の血税から出るのだろうから、お隣りさんの建築許可の邪魔をしないであげないで欲しかったです。そしてもし視界に新たに建物が増えるのが嫌なのだとしても、それくらいは目をつぶってあげて欲しい。平民の誰もが羨むような生活をしているのだから。

6寝室あるというカミラ邸にはプールもあるみたいですね。ちなみに2006年にカミラ夫人の娘さんが結婚したとき、レイコックの教会で挙式後、披露宴はこのレイ・ミル・ハウスでおこなったそうです。チャールズ皇太子・ウィリアム王子・ハリー王子を含む数百人のゲストを招いて。

当然のことながら、ストリート・ヴューはカミラ邸まで接近できませんでした。

 

誘拐やテロの標的にされるかもしれませんからね。素敵な家に住めるのは魅力だけど、有名人はやっぱりそれなりに大変だなぁ・・・

 

 

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年齢がわかる車のナンバー

2018-08-04 22:27:05 | イギリスのあれこれ

・・・といってもドライバーの年齢じゃなく!車の年齢ですけどね。(ホッ・・・

*       *       *       *       *

先月散歩中に、Pレジ(ピーレジ=P registration の略)というかなり古い車を見つけました。

私が今の車のふたつ前に乗っていて2010年に手放した車がRレジだったけど、Pレジはそれよりさらに一年古いことになります。

車体の色も単色ではなくて、フロントガラス上部には FAKE TAXI (偽タクシー)なんても入っているし、なかなかユニーク

 

 後部は赤錆色で、車の古さと相まって妙に馴染んでいました。本当にサビだったのかも。

 

 驚いたことにその数日後、同じ通りにさらに古い車が駐まっていました。

別個の荷台などを後部にくくりつける際に取り付けなければならない余分なナンバープレート(車自体とは別のナンバー)が車内に見えましたが、なぜか前面のナンバープレートはついていませんでした。

 

 でも後部のナンバープレートはついていて、この車はなんとNレジ、緑&赤錆色の車よりさらに1歳年上でした。

 

 今ちゃんと調べてみたら、Pレジの車は1996年8月(1日)から1997年7月(31日)までの間に製造・登録された、満21歳の車ということです。そしてNレジの車はそれよりさらに1歳年上だから、満22歳ということに。

というわけで、イギリスの車はナンバーから製造年がわかるのです。というか、ナンバーに製造年が含まれています。ここから先は英語版ウィキからの受け売り、画像もすべてネットからの借り物であることをご了承ください。

イギリスの車のナンバー制度は過去に何度か変わってきました。1963年から1983年までは、ナンバーの末尾につけたアルファベットで製造年を表示していましたが、1983年から2001年までは製造年を示すアルファベットをナンバーの先頭につけることに。先ほどのNレジ・Pレジの車がまさにそれでしたね。ちなみにアルファベットのO・I・Z・Uは、数字の0・1・2とアルファベットのVとの誤認を避けるため年齢表示には使われませんでした。1992年にイギリスに来た私が覚えているのは主にこの形式のナンバーからで、ナンバーはアルファベット1文字に数字が3つ・スペース・アルファベット3文字という構成でした。(例: P481 DPZ

私が1992年にオットーと知り合ったとき、オットーはEレジつまり5歳くらいの軽自動車に乗っていました。オットーの人生初の車だったそうです。(それまではバイク。)

 現行のナンバー制度は、2001年9月1日に導入されました。それまでとの大きな違いは、製造登録年を半年ごとに区別できるようにしたこと、またアルファベット1文字の代わりにふたつの数字で製造登録年を示すようにしたことです。3月1日から8月31日までに製造登録された車のナンバーは西暦の下2ケタ、9月1日から翌年2月末日までに製造登録された車のナンバーは西暦の下2ケタに50を足した数字でその車の年齢を表示するようになりました。

今オットーが乗っている車は11だから2011年3月~8月製、私のは63だから2013年9月~2014年2月製ということになります。

 

 

任意でつけるEU圏内国識別票     製造登録年表示     地域コード     ランダムな3文字

 

 

もちろん緊急車両も例外ではありません。これで下のパトカーは2015年9月~2016年2月製、救急車は2015年3月~8月製であることがばっちりわかります。

  

 運転していてピカピカの車を見ると(今年/去年製か!やっぱり新車は光ってるな~)なんて思ったり。古い車を見ると(うわぁ~もう20歳を超えてるのに、よく頑張ってるな、あの車)なんて思ったり。

 

 

というわけで、もしかしたらどこかでちょっと役に立つかもしれないマメ知識をお届けしました。

イギリスでの長いドライブの際、ヒマつぶしのお役に立てれば嬉しいです。

(あ、でもドライバーの方は主に運転のほうに集中していただければ幸いに存じます。

 

 

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