浜松これが日本一

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犀ヶ崖と遠州大念仏

2016-01-22 05:55:55 | 浜松七不思議
 昔,昔の話です。
 浜松城の殿様であった徳川家康は,三方原の合戦で武田信玄の大軍に負けてしまいました。家康は城ににげ帰ると,城門を全て開け放し,城内にかがり火をたいて昼間のように明るくしました。城の近くまでせまった信玄軍は,「敵に策略があるのでは?」とせめるのをためらい,城のすぐ近くの犀ヶ崖の北に陣をはりました。
 犀ヶ崖は,長さが約2km,深さ約40m,幅約50mにおよぶ断崖で,昼でも樹木がうっそうとしげり,暗く深く入り組んだ崖でした。
 家康の家来は,その崖に布で作った橋をかけました。信玄軍が布と気づかずに橋を渡ろうとすれば崖の下に落ちてしまうように,橋への道まで作りました。
「このままでは,信玄軍に総攻めに合い,わが軍はぜんめつだ。」
「なんとか、ひとあわ吹かせたいものだ。」
 家康の家来は,夜おそく,生き残った十数人の鉄砲隊と百人ほどの兵で信玄軍の陣の後ろに回り,突然おそいかかりました。信玄軍は,奇襲に驚きにげまどいました。布の橋を渡ろうとして崖の下に落ち,命を落とした人も数多く出ました。
 その後,家康軍は,信玄軍にせめられることなく,何とか生きのびました。

 次の年のお盆のころになると,崖の底から人のうめき声が聞こえるようになりました。最初は小さな声でしたが,日に日に大きくなり,何日も続きました。周りに住む人々は不安でたまりません。ちょうどこのころ,浜松の各地で,いなごの大群が現れ,稲の葉を残らず食ってしまうなど,困った出来事がいくつも起きました。
「きっと谷底の信玄軍の亡霊のしわざだ。」
「なんとかのろいをとかなくては‥‥‥。」
 人々の不安は,家康にも伝わりました。家康は,おぼうさんに犀ヶ崖で命を落とした人々の霊をとむらうように命じました。おぼうさんは,周りの人々と力を合わせ,七日もの間,供養しました。すると,あれほど人々をこわがらせたうめき声は聞こえなくなり,いなごもいなくなるなど,不安な出来事は次々に収まりました。
 こうして始まった死者の供養は,遠州大念仏として,遠州地方の各地に今でも伝えられています。

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