前回の「禅にはホームレスの系譜がある」の続きです。
写真 千田完治
ドイツ生まれの青い目の禅僧、ネルケ無方さんは、来日して禅の修行して、続いてホームレス仲間の輪に加わり、一緒に生活しながら、「ホームレスを救済?とんでもない。ホームレスよりも、毎朝肩を落として駅からビルの群れに向って急ぐ、サラリーマンやOLこそ救済しなければそのように思っていました」、と言いました。
禅にはホームレスの系譜があります。かつて、京の五条大橋の下でホームレスをしていたのは、若き日の大徳寺開山、大燈国師(1282~1337)だし、美濃の山奥で牛飼いをしていたのは妙心寺開山、関山慧玄禅師(1277~1360)です。
ホームレス禅僧の元祖、大徳寺開山・大燈国師の次の歌を6月のことばとしようとしました。
「蓑はなし 其の儘(まま)ぬれて行(ゆく)程(ほど)に 旅の衣に 雨を社(こそ)きれ」(平野宗浄『大燈禅の研究』教育新潮社)。
旅の途中でとおり雨がふってきたが蓑はない。そのまま歩くと、雨を着て歩いているようだ。といった意味でしょうか。雨と蓑は対です。「対」の字を使った熟語に、敵対とか対抗があります。雨を避けるために蓑をつければ、雨に対抗して敵対することになります。それほどの雨ではないから「濡れていこう」。濡れてみたら、自然とひとつになって晴れ晴れとした、という気分です。
でもね、掲示板の一句としては難しくないか。
そこで、歌人の永田和宏さんの『百万遍界隈』(青磁社)所収の短歌にしました。
「濡れながら若者は行く楽しそうに濡れゆくものを若者と言う」
筆者が住職する寺の門前を、男子高校の生徒が朝晩自転車で突っ走っていきます。そう言えば、彼らが傘をさしているのを見たことがない。もっとも、傘をさしての自転車走行は危険です。やめましょう。雨に濡れるのは若者の特権なのだろうか。少し前も女子高生が雨の中を傘もなくカバンを頭の上に置いて、傘代わりにしていたのを車で運転しながら見つけました。車にはビニール傘があったので、思わず窓をあけて差しだそうとしましたが、「坊さん、女子高生にちょっかいを出している」なんて思われるのもイヤだから、かわいそうだけど、通り過ごしたのでした。
でも、あの女の子。悲愴な雰囲気ではなかった。傘のない自分を楽しんでいるように見えた。やはり、「濡れながら若者は行く楽しそうに濡れゆくものを若者と言う」のだな。
追伸
雨に濡れるといえば、毎度お世話になっている金田一春彦著『ことばの歳時記』(新潮文庫)の3月29日の項目に「月形半平太」と題した次の文章があります。エチケット違反かもしれないけれど、短文なのでスキャンして転載します。
春雨の名所は何といっても京都である。私は、ちょうど今ごろの季節、京都をおとずれたかことがあったが、それまでは一面に霧が立ちこめているのかと思っていた。それが、ふと賀茂大橋を渡りかけて賀茂川の水面を見ると、糸のような波紋が無数に描かれては消えていく。気がつくと、なるほど雨とはみえないような細かな水滴が、空中を舞い上がり、舞いおりして、しっぽりと京の町をぬらしているので文部省唱歌に「降るとは見えじ春の雨」と歌われたのはこのことだったかと感じたことがあった。
新国劇の芝居で見ると、月形半平太が、三条の宿を出るとき、「春雨じゃ、ぬれて参ろう」と言うが、今思うと、彼は春雨が風流だからぬれて行こうと言ったのではなく、横から降りこんでくる霧雨のような雨ではしょせん傘をさしてもムダだから、傘なしで行こうと言ったのらしい。そこへゆくと、東京の春雨は「侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)」という芝居の外題でも知られるように、傘を必要とする散文的な雨である。
ね、すごい文章でしょう!