寺崎八十四石米

地産地消に向け、美味いと評判を呼んだ地元の米を「八十四石」の名とともに蘇らせるため、見える米づくりを紹介していきます。

強風にも負けず!ガンバレ「八十四石」

2021-05-17 18:53:16 | PR

今朝、田んぼの水まわりしてたら、なんと、強風によってのぼりが倒れてるではありませんか。そしてほかも今にも・・・。結局、半分の5本を持ち帰り妻に洗濯してもらいました。




このように鎖10cmほどをクリップで留めて風対策をしたつもりでしたが、あまりにも強い風のため、このような結果となってしまいました。(また反省)
あした修繕せねば。

ちなみに見出し画像は、夕方の水まわりの際、夕日がきれいに見えたのでバックにして撮りました。
イマイチ?すみません、カメラはど素人なもので・・・。

同志でPR活動開始

2021-05-15 13:12:13 | PR
 今日は知名度向上を図るために、同志で「のぼり」計10本を八十四石に立てました。なにせ根っからのお祭り好きな少年のままなので・・・

 朝8時に集合して、事前に用意した竹を田んぼに打ち込み、その中にのぼり竿を差し込むという方法で行いました。田んぼだからといっても思いのほか、打ち込む際、土が硬いので苦労しました。後は高さなど微調整です。
 立ててみて、小さいか、もう少し大きく作ればよかったと反省。
 でも目につきますよね!ね?
 最初は看板を立てる計画でしたが、コストがあまりにも高くつくことがわかり、広告やさんが「のぼり」を提案してくれました。ADの酒井さんありがとう。
 生産者によって田植えの早遅はあっても、これから八十四石の苗はすくすくと成長していき、来月(6月)に入る頃には一面が緑色となることでしょう。
 その頃の「のぼり」が、どのように映えているか、そんなことを想像していると楽しみでいられません。

 八十四石よ、最高のロケーションをたのむ・・・!

おいしい米といわれる理由

2021-05-12 21:13:30 | 米づくり
 
 八十四石は、二つの川(高崎川と鹿島川)に挟まれた三角地帯で、古くから、大雨による氾濫を繰り返してきました。洪水に泣かされてきたのです。
 しかし皮肉なことに、その都度、上流から肥沃な土が運ばれてくることによって、八十四石の土壌は豊かになり、質が良い、おいしい米が穫れる水田地帯になったと伝えられています。





 これは2019年秋、千葉県を襲った台風による豪雨、洪水がニュースでとりあげられたものです。このとき八十四石は湖と化してしまいました。
 特に大きな被害はなかったものの、遠方の上司や同僚から多くのお見舞いの電話をもらったときは、ありがたかったなぁ・・・

 このような氾濫が、たびたび起こったことで八十四石ができたのです。




 ちなみに我が家には、こんな舟が残っています。詳しい製作年代はわかりませんが、たぶん昭和20~30年頃だと思います。田舟といって宮大工に造ってもらったと父から聞いていました。当時は、稲刈りの時期になると、上の画像のような氾濫がしばしば起こっていて、舟を持っていた農家はこんな舟で稲穂を刈り取り収穫ができたのだとか。そこで祖父も手に入れたそうです。しかし、その後は土地の改良が進み、結局一度も出航?しなかったそうで、現在も物置の中に眠っています。
 

「八十四石」とは

2021-05-12 19:51:00 | PR
利根川水系の印旛沼に注ぐ高崎川と鹿島川に囲まれた、広大な水田地帯の呼び名でした。江戸時代の寺崎村は佐倉藩の所領で、八十四石の年貢米を献上していたことから、この一帯は「八十四石」と呼ばれるようになり地名にもなっていました。
昭和初期のものと思われるこの地図、タイトルは、「千葉県根郷村全図」となっています。赤い丸をアップすると、
八拾四石(はちじゅうしこく)の地名が記されています。当時の「じゅう」は「拾」が使われていました。
その後、水田は耕地整理によって現在の整った形になり、八拾四石の地名は消えたのでした。
 
八十四石は、二つの川(高崎川と鹿島川)に囲まれ、古くから大雨による氾濫を繰り返してきました。そのたびに上流からは肥沃(ひよく)な土が運ばれ、八十四石の土壌は豊かになり良質な米が穫れる農地になったと伝えられています。

現在の八十四石は、弁天前や木崎など複数の地名で構成されているものの、地元では今でも、この一帯を八十四石と呼んでいます。


ちなみに佐倉城ですが、画像の中央の小高い場所に築かれていたそうで、きっと先人たちからは、このように見えていたのでしょう。

寺崎について

2021-05-11 20:20:21 | 地元紹介
 ここ寺崎は、佐倉市の「へそ」といわれていて、地図では、四街道市に接したところに位置しています。赤く囲まれた部分をご覧ください。よく見ると「ランドセルを背負ったキャラクター犬」が、左を向いて二本足で走っているように見えませんか?そのちょうど「おへそ」辺りが寺崎です。この村の歴史は古く、地図には「寺崎城跡」も記されています。多くの方が探索に訪れ、ブログなどで紹介してくれています。ぜひ検索してみてください。
 
 江戸時代の寺崎村は、八十四石という広い水田地帯を耕作する百姓集落でした。そして今でも少数とはなったものの、それぞれの農家が精魂を込めて稲作に勤しんでいます。また、当時の寺崎村は、佐倉城を守備するため、多数の侍を配置した、所謂、砦の役割もしていたと伝えられています。