愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

山頭火の句

2021-09-28 | 日記

鷹見の山に登る入口付近の曲り角に山頭火の句が書いた立て札があることに気付いた。ここ数年はこの時期に必ず通っている道、今年もすでに10日近く通りかかった曲り角なのだが、こんな所に種田山頭火の句が掲げてあることには全く気付かなかった。

 自分が育った土地には山頭火が晩年を過ごしたという庵があるという。子供の頃から退屈しのぎに時々登った小さな山の入口近くに、その庵の名を記した案内板がある。いつの頃からかそこが山頭火という俳人に所縁の場所だと知っていたが、その庵にまで行ったことは無い。

 大人になるまでは、彼がどのような人生を送った人物なのか知らなかったが、大学生の頃に地元放送局の番組で聞いた彼の友人だったという男性の言葉が忘れられない。或る時、夜更けまで二人で飲み続けて寝てしまった明け方、目覚めると、その友人の身体の上に小さな卓袱台がひっくり返して載せられていたのだという。

 「彼(山頭火)が自分を気遣い、何も無くては寒いだろうと掛けてくれたのだ」と、その高齢の男性は昔を振り返っていた。友人の下宿で酔いつぶれて二人で寝てしまうこともあった学生時代、その話を自分に重ねて、彼の自由俳句の味わいがさらに深まったように感じたものだ。それ以来、自分も、飄々としつつ何か一つ「取り付かれたもの」と一緒に歩く人生を見つけたいと願って来た。

 むしろ、何か強烈な一つの思いに取り付かれたからこそ、それ以外は気に留めず飄々と生きて行けるのかも知れない。通り慣れた曲り角で何故か今朝は気付いた山頭火の句に、昔のそんな思いを思い出した。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。