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作家か、政治家か

2022-02-02 | 日記

「作家であり政治家の」石原慎太郎氏が逝去して、マスコミではいろいろな人たちが石原氏のことを語り、かつての石原氏の映像が流されている。今では石原慎太郎を元東京都知事として知っていても、彼が作家・小説家であることを知らない人も多いのだろう。石原氏の4人の息子たちが葬儀の際に自宅前でそれぞれに挨拶している映像で、次男・良純氏が「父は作家だったと思う。」と述べていた。

 昨日からの様々な石原慎太郎氏の映像や関係者の思い出話を見聞きしていて、「石原慎太郎はあくまで作家であって政治家じゃなかったんだな」という印象を強くしていたが、良純氏の言葉を通してそれが納得できたような気がする。石原慎太郎の場合は「作家が世の中を動かす政治力を発揮した」のであって、「政治家が作家活動をしていた」のでも「作家と政治家の二股をかけていた」のでも無いだろう。

 石原氏について誰かが「石原さんは率直に、真っ直ぐに発言する人だった」と紹介していた。「時には強く、見下されているように感じることもあった」のだという点には、多くの人が同意するだろう。しかし、よく見ていると、聞き手が見下されたと感じたのだとしても石原氏自身は「相手を見下して」は居なかったのじゃないかと感じることが多かった。

 発言の内容が正しいかどうかは別として、石原氏は自らの発言が正しいと信じて決して引こうとはしなかったということだろう。そういう意味で石原慎太郎は政治家ではなく、どちらかと言えば「自らの思想や考え方を説く人間」だったのだろう。作家が小説や作品を通して自らの世界観や人間観を世に問い続ける存在だとすれば、作家活動は広い意味で「思想家としての活動」と言えるかも知れない。つまり、石原慎太郎は作家活動を通してある意味で「思想家」として生きていたように思える。

 そんなふうに考えると何となく石原氏の政治家としての側面も理解しやすくなる。「政治」とは、あらゆる手段を講じて世の中を動かすことだと言える。そこには定型のやり方も決められた手段も無い。多方面に気を配り、人心を読み、上手く大衆を操り、世の中を自分達の思うように(理想を目指すかどうかは別として)動かす専門家、つまり「政治」の専門家と言われる人々は確かに居て、政治家と呼ばれる。彼らを「政治屋」とも呼ぶ人もいる。

 しかし、得てして世の中はその専門家(政治家・政治屋)によらず、「軍人の軍事力によって」「金持ちの経済力によって」「革命家の理想主義によって」「思想家の思いの強さによって」動かされることがある。つまり、軍人が政治家になることも、資産家が政治家になることも、理想主義者が政治家になることもある。そして、そのような政治家が「政治の専門家としての政治家(政治屋)」よりも強く世の中を動かす時代が、時として訪れる。

 同じように「作家もその思想によって」世の中を動かすような力を発揮する時代があると言えるだろう。ある時代には、世の中を動かすような強烈な思想の発露として小説その他の作品を書く作家が多数現れるだろう。石原慎太郎の思想がそこまで強かったかどうかはともかくとして、彼はそのような作家の一人であり、それが「作家として政治に拘わろう」とした理由じゃないかと感じる。

 石原慎太郎は「政治」に関わって居ながらも作家であり、政治の専門家が「押したり引いたりして「民心のどこに宿るかを測る」と考えるところを、その思想に基づいて「このように考え、行動すべきなのだ」と断じて発言したのだろう。それは、時としてそれが世の中を動かす政治力となり得るが、時を得なければ「独りよがりの妄想家」となる。

 石原慎太郎の作家としての作品を読んだことは無いが、彼は戦後日本が復興していく時代の中で「時を得て」若者の要望を掲げた旗手の一人として、日本の社会を動かす発言力を持ち得たのだろう。彼の政治家としての言動に必ずしも賛成では無いが、石原慎太郎の逝去は一つの時代の終焉を象徴しているように思える。思想を感じる政治家が居ないというか、この国の政治は暫しその筋の専門家(政治屋?)の手に渡った(戻った)というか。

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