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学術会議

2020-10-07 | 日記

学術会議が推薦した委員候補数名が政府による任命を見送られたことについて、「学問の自由の侵害ではない」とする人たちがいる。学術会議が政府のコントロールを受けたくないなら「政府から完全独立して税金を使わずに自主運営すれば良い」という人たちもいる。たしかに今回の出来事は、直接個々の研究者や学会に対して「これをやれ」とか「あれはするな」と言ったわけではないので、学問・研究の自由には無関係だと考えているのかも知れない。政府設置の学術会議のメンバーがどのように決められようと「学者個人や学会・学術会議が自力で財を集めて研究する分には、そ自由は制限して無いのだから」、学問・研究の自由は大丈夫と言いたいのだろう。その上で、政府から支援を受けるならそのコントロールを受けることも当然というわけだ。

 ”学術会議”は公的研究費の流れや、政府による研究支援の決定に関わって来たと紹介されていたが、その委員構成が左右されれば、直接的に「〇〇を研究しろ」と命令しなくとも、どのような研究が発展するか、どのような研究者が研究を続けられるかという意味で「社会全体の学問・研究の方向性」に影響を与えるだろう。ある研究者個人の研究の方向は自由でも、日本の研究者全体の構成を変え、研究資材・研究資金の流れが変わることで、日本の研究全体の方向は変化していく。

 「自分で研究資金を集め何を研究しようがそれは自由」というのは、個々の学者・研究者の自由の補償である。それだけでは、「目先の経済利益が見えないテーマの研究は、自己資金の豊富な研究者だけに許されるのだ」ということになる。日本社会全体としてそれで良いのだろうか。自己資金で先端的研究が実現できる研究者など存在しうるのかも分からないが、大半の研究は目先に利益が見えているテーマだけを追求することになるのではなかろうか。それは日本の科学研究の欠点・弱点として指摘され続けてきたと記憶する。つまり、他国の研究成果ではっきりと利益が見える所に来て初めて、日本はそれを後追いする(他国の研究を真似するのは上手い)と長く言われて来たのではなかったか。

 社会または国として「学問・研究の自由」を重要視するのは、研究者個人の自由・人権を守る寛大さのゆえではない。新しい発見や画期的な技術進歩がもたらされたのは、むしろ短期的に目先の経済的・政治的利益が見えていなかった研究からであったことを社会が経験し、その重要性を認識したからである。世界の多くの国で、「学問・研究の自由の補償」は、研究者個人のテーマ設定の自由というより、社会全体の利益、進歩・発展を求める議論の中で生まれた姿勢だと思っている。「民間資金」によってその自由の補償が実現できてないことは、日本国民にとって残念至極だと思う。

かと言って、「政府が出した資金」が「政府の金」というわけではなく、それは「国民からの税金」である。国民としては、政府の意見の他に政権から独立した「学術会議」の意見を求めたいと願い、公的機関(国民の資金を使用する機関)としての学術会議の設置を考えたのではないのか。そうであれば、「国民からの税金」の一部を独立した公的機関に分配する手続きを政府が委託されていることが、その資金提供を通して学術会議をコントロールして良いという根拠になるわけじゃない。

 政府がその方針に沿う研究者・専門家を選んで「学術者会議・専門家会議」を作り、その会議の「お墨付き」をもって政策の正当性を主張することを良しとするなら、政権から独立した意見など必要ない。政府の打出す政策に対して(政府の思惑とは別の第三者として)科学的客観性に基づく意見をも聞いてみたいと考えないのなら、「独立性の高い学術会議」の維持に税金を投入する意味も無くなるのだと考える。果たして、”国民”自身はどのように考えるのか。

 国民は既に「自由な発想や独創的な理論による学問・研究の進歩を生み出す社会を必要としなくなっている」のだろうか。自分たちが選挙で政府を選んだのだから、その政府の言う事為す事の個々について「自由な発想や学問・研究に基づく批判」を聞く仕組みなど要らない、と考えているのだろうか。

 

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