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手塚治虫×石ノ森章太郎『マンガのちから』展

2013-08-18 | エンタメ
巨匠二人を並べて一緒にみせちゃおうっという意欲的な企
画展がMOT
で開催中。9/8まで。



手塚治虫1928年(昭和3年)- 1989年(平成元年)
石ノ森章太郎 1938年(昭和13年) - 1998年(平成10年)


ともに60歳で亡くなるんだけど、手塚治虫の方が10年早く
生まれて、10年早く死ぬ。この10年が二人の師弟のような、
ライバルのような関係が、黎明期を牽引する力になる。マン
ガ&アニメ界においてだけでなく、出版&テレビ&映画界に
おいてもさまざまなモデルを生みだしていく。



二人の接点は、手塚のデビュー長編作「新寶島」(1947)に
遡る。石ノ森は幼少の頃「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志し
たっていうのだから驚き。抜粋した拡大版が手にとって読めた
けど、映画の書き割りのようだ。当時かなり斬新だったのでは。

手塚が連載していた漫画少年の投稿欄に毎回送っていたそうで、
「ズバ抜けたデッサン」「天才的な少年の絵」と評価し、高校
2年生の時、「鉄腕アトム」のアシスタントを頼んだそうだ。

初期の二人の大きな接点は豊島区にあった「トキワ荘」が実
物大で再現。その小ささに驚く。今のアパートより一回りも
二回りも小さい。その上、漫画家達各人の部屋の小ささ。2畳
くらい!創作には小さい机があれば充分だと思わされる。



でもトキワ荘で一緒に住んでいたことはなかったみたいで;
手塚治虫(1953年初頭 - 1954年10月)
石ノ森章太郎(1956年5月4日 - 1961年末)

石ノ森は1959年、手塚の劇場アニメ『西遊記』の制作のために
手塚の依頼によりアシスタントとして派遣される。アニメの世界
にも手塚が先導役になっている。



そんな二人の仲が1967年急変。手塚の「火の鳥」が看板作品だっ
た新雑誌『COM』(1967-1973)に石ノ森が連載した『ジュン』に
手塚治虫が読者への手紙の中で「あれはマンガではない」と公に批
判。なぜ個人的に言わなかったんやろうね。

石ノ森はショックを受け『ジュン』の打ち切りを宣言!のちに手塚が
石ノ森を訪れ嫉妬からの発言である事を告白して謝罪したそうだが、
どんな気持ちだったろう。それを受けて『ジュン』も連載が続いた。

『ジュン』を読んでみたい。二人が交叉する時間と空間を思い浮かべ
ながら。

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