ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

遠藤農園計画の青写真が出来つつある

2015年02月27日 18時17分02秒 | 自叙伝

今年も秋大根に挑戦する、問題は保存方法を発想転換する事だと結論付ける、それがネット上で見てしまつた、新しい事に手を出す事は楽しさも 倍増する。

野菜類の中で余り手がかからず、作り易いと思ったのは馬鈴薯だった6月になり花が咲くようになってからてんとう虫擬きが大発生した、てんとう虫ならアブラムシを食べてくれる味方なのだが姿かたちそっくりの「擬き」は害虫でいもの葉を食べ尽くす勢いに、ただただ傍観するしかなかった、隣に植えていた茄子も全滅状態だった、その隣のささげは大きな被害に至らず、そこそこ収穫出来たのは幸運と思っている。

トマトときうりを背中合わせに植えた、虫対策を見越してハーブのバジルをプランタンに植えて足元に並べて置く、これが効を利いたのか然程の被害は出なかった、薬剤を使わずハーブを足元に植えることで害虫予防対策にも効果があることも勉強出来た、手探り状態で様々な野菜も食べれる状態迄にし食べていたことが、分かりもう少し早くから始めていたらと、思ったがこの年齢になったから出来たことでと訂正している。

スイトコーンは殆んど被害を受けず2.3回も収穫している、今年は作付けを5割増しにと考えている、余り手が可からなりのでびっくりした。

大変だった野菜は白菜とキャベッだった、種がら植えた、白菜はほぼ全滅し途中から苗を買って植えたが出来栄えは5割くらいしか食べれなかった、キヤベッも種がら始めたが葉が巻き出した項から青虫にやられる、それでも出来栄えを度外視して8割くらいは食べれたので、2年目は期待している野菜で、もうひとつ枝豆も手が掛からないので増産してもと考えている。

援軍来る

食事はまだ始まっていないが、今日から援軍が加わる「径腸栄養剤」エレンタールを飲む事に1日300CCなのだが飲みにくい、丸一日をかけての薬だが初日から苦戦している。屋上に上がって歩行マシンのテストをする。

 

 

 

 

 

 

 

 


8日から始まった絶食も18日間にも及ぶ

2015年02月26日 05時20分43秒 | 自叙伝

良く生きている、栄養ざいが大量に頸動脈から1日1500ccが日夜を通して体内に補給されていた、大型ペツトボト一本が休みなしに体内へ、結果小便の間隔が1時間から長くても二時間感覚でやって来る、中日なら兎も角夜の夜中も同じで一晩で3・4回にもなるとただ苦痛しかない、近頃は慣れて来て尿瓶を使って夜中二度 ほど楽をさせて貰っている。

そんな生活も一週間ほどで終わると思っている 、週明けには口から食べ物が入って来る、点滴には傷口を塞ぐ薬剤が含まれていて、あれだけ大きかつた人工肛門の穴も近頃は目に見えて小さくなつた、やっと先が見え始めたと言える段階に来ている、昨日腸のCTで確認したがほぼ完璧に繋がっているとのことに、ほっと安心する。

先日気晴らしに近くでの外出願いをお願いしていました、昨夜になつて2~3時間ならと許可が出た、お天気を見ると今日が朝から太陽が顔を出す、暖かい12時頃から14時の2時間目的地は二丁目ほど先のスパーダイエイで一 番の目的は銀行のATMで、その後は店内をうろうろして来ようと思つています。

もう少しづつでも社会復帰の準備段階に入ろうとしている。

思いかけず南国沖縄から名物のポンカンが贈られて来たと妹から知らされる、まだ食べられる状態でないので持って来なかったが、食事が始まれば持参との事だった。

昨年の春早くに頂いていたことを思い出す、一番下の妹で昨年の五月の直ぐ下の妹の葬儀で名古屋の三河で妹夫婦と4~5日一緒に過ごした日本の南と北に遠い所だが死ぬ前には一度は訪ねたいと思つています。

外出時間を二時間と想定していた、歩道は殆んどアスファルトが露出されていた、カートを押して食品売り場をうろつく、食べたいものは沢山あったが、常人が が食べるもので病人が食べるものではない、見て歩くだけでも楽しかった、この辺が限界と帰って来る、ほぼ二時間の予定時間が掛かっていた、今日の外出は現在の体力を計る事が最大の目的だった、結果社会復帰には退院してから二ヶ月くらいは心要と計算している。

  


思いもよらず嬉しい便り届く。

2015年02月25日 22時45分43秒 | 自叙伝

思ってもいなかつた便りに、驚いたこんな本があるなど想像 すらしていなかつた、気がついたのは前回入院中の2ケ月近い間の出来事で退院が近くなってから病院内のフロアーの一角に図書コーナーがあり小説や漫画、写真本などが並べてある、最近は家にいたときから本を読むのを忘れていた、老人になってから益々本とは縁がなかつたが、入院中の後半は時間をもて余す、ぽっかり空いた時間には読書が理想的なのだが老眼鏡で緑内障のハンデーのある爺さんには最初がら諦めていた、そのブックコーナーに本らしかなう本が置いてあるのに気付き手に取って開けてみた、手書きで大きな字が並んでいるのに驚いた、根気よく綺麗な読みやすい字、老眼鏡がなくても読める本に巡りあった瞬間だった、あれから二年も経たないのに今回の 入院も二ヶ月近くになる、近頃漸く心にも余裕が出てきて思いだし例の本を読み始めた、新聞のコラムの様な短文なので読みやすい 。 

思わず失礼とは思ったが年賀ハガキの残って一枚に、その時の心情を書いて発行元に出してしまっていた、そんなことなどすつかり忘れていた、病室に看護婦さんが何やらハガキを持って来てくれた、例の手書き本「虫めがね」の発行元の代表者からのハガキだった、平均年齢70歳にもなるボランティア団体で二十年も続けているのに驚かされる、こんな善意な団体に心から敬意を表する。

私の読書の始まりは少年の頃の江戸川乱歩の怪人二十面相だった、成人になってからは著者にこだわって読んでいた。

 

 

 

 


春よ来い早く来い歩き始めた

2015年02月24日 10時17分33秒 | 自叙伝

日本の童謡には素晴らしいものが多い日本文化の誇れる所と思います。

 春よ来い早く来い

あるきはじめたみいちやんが

赤い鼻緒のじょじよはいて

おんもえ出たいと待っている

日本人がまだ文字を持っていない時代、日本列島には南に沖縄人北の方にはアイヌ人、それに日本原人が住んでいたと仮説を立てている学者が多い、日本の一番古い書物の古事記や日本書記等は、全部勝者の立場で編纂されているので戦いで破れた敗者側の歴史は抹殺されている、 僅かに神話として残ったものもあるが脚色された物と思う。

現在の人類はアフリカのオルドバイにを出て各地に移動して行ってる、現在アフリカに残った人種を除き、ヨーロツパ人、オーストラリア先住民、それに東アジア人だ、たから日本人の先祖は、ベトナムの少数民族、中国、蒙古、朝鮮民族の血と文化が混じりあつて出来ている、同じ民族同士で争いが起き敗者側は海を渡って日本に来て稲作文化を伝えて行ったと想像出来る、大陸から近い北九州に遺跡が多いのも頷ける。

中国の北側から現在のモンゴルに定住した人達の中に言葉発散なければ日本と見分けがつかない種族もいるし、今は相撲界はモンゴル人に席巻されてしまつているが、見た目では殆んど日本人と区別が付かないのが現状です。

ただ朝鮮民族民族だけは、隣国の中国との抗争で痛めつけぱさねづけ、先の大戦では日本の植民地にされ自分たちの文字文化まで破壊された、朝鮮にも日本の神話みたいな話が伝わって来ている、それ故中国人や朝鮮民族は日本人に対し蔑む「倭人」と呼んでいた。

お思うに、我々の国は日本国の本家であるので、其れなりの礼節があって当然と思う心が焼き付いていると想像出来る。

 現在一度取り付けた人工肛門が破れた前後を切りとリ接合して、傷口が完全に回復するのを待っている状態が現状で絶食を始めて16日目になている点滴だけで生きている状態で、今週中にはいよいよ口から食べ物が入って来る、まずおもゆから始まり来週にはお粥になると思っている。

ここまで来ると退院日も決まって来ると心待ちにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


どごかで春が生まれてる

2015年02月22日 11時46分52秒 | 自叙伝

今年はどこかで春が生まれてる

どこかで水が流れ出す

どこかでひばりが鳴いている

どこかで芽の出る音がする

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山の三月そよ風吹いて

どこかで春が生まれている

今年はもう間違いなくネコヤナギの白い綿帽子が青い空をバツクに輝いている映像を想像している、蕗の董 より一足先に春を主張しているのが猫柳を置いてない。

白旗山の帰り道の道路縁には良く見かける車を止めスノーシューをを履いて山林に入って行く、比較的高い小枝についているので下かうロープを引っかけ手の届く所まで来たら枝振りの良いものを数本戴いて帰って来る、もう何年も我が家の風物詩になっていた。

そんな項から素人農園の始まるのは、五月にならないと始まらない、素人相手なので畑は機械で起こされていて区画ごとロープで仕切られていて、昨年と同じ畑が使える様になっている、昨年は風向きを考えず畝切りの方向を間違えていた、今年はそれを参考に計画を立ている。

昨年も癌治療が終わって始まっていたので、三月四月頃は車だけ運転出来ていたのでスパーに買い物に付いて行ってた時はカートに掴まらないと歩けなかつたほどだった、年寄りを元気に長生きさせる為には、酷ののようだが残って使える機能から酷使するくらいの気持ちで接触、衰えている機能も積極的に使わせる鬼の様な気持ちで接しることで健康で長生き出来る本来の姿になると云うのが私の持論ですが、多分誰かのうけうりです。

 さて今年も農園は五月から始めますが種蒔きの前段階の床作りには、親友のH氏に応援を頼んでいて、昨年も大量に集めていた落葉に堆肥を入れ一日だけ借りて来た耕運機を使って畑床を作ろうと最初の計画はもう出来上がっています。

種蒔きは連休明けを予定し、それまでに自宅のサンルーム(仮設温室)き利用しポットに種蒔きを考えている、五月ごろになると野菜や花の苗が結構な値段で売っている、それと仕入れて作り出すと結構な金額になってしまう、最近はサカタの種屋さんから仕入れていた、今年苗を買わないで種買いをすることに決めている、これだけで、相当出費を押さえられると思っている。

昨年の遠藤農園のお陰で、体力が回復出来た、出来る範囲内でやれば良いことで楽しんでいる内に自然と機能も回復出来た、トマトやキウリ、ささげ等は毎日行ても収穫出来る、トーモロコシの収穫のときは友人も招待し畑の中で茹で揚げを食べてもらいたいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現実と未来の狭間で、

2015年02月21日 16時23分10秒 | 自叙伝

七十後半になってから立て続けに此の病院の外科の染谷先生のお世話を受けるようになった、食あたりかと来院した時も胆嚢結石が原因だったことも判り 開腹手術もせずお腹に四ヵしよほど穴を開けての手術で収まりほっとしていた、二年ほど経ってから胃腸の調子が気になり’染谷先生の所を訪ねる、二年間ほどの間に胃癌が進行していぶとが判明する、レントゲン写真を見せられて唖然とする、一番心配されていた病気に取り付かれいたのだ、胃は全摘せず4/3切り取ることで執刀が始まったまな板の鯉とはこの事で運を天に任せたのも此の頃だった、その後 経過も良く抗がん剤治療も四月には終わっていた、退院後慌ただしい一年が、待っていた、五月の連休中に名古屋の三河に住んでいた直ぐ下の妹の突然の死にショックする、連休明けに向かい葬儀を執り行って来る、帰る間もなく5月から初めていた市民農園を始める。

農園の広さは15坪畳30枚ほどの広さしか無いのだが、本格的に百姓は生まれて初めての経験に戸惑いながら、それでも野菜20種類くらいつくったがスパーの店頭に出ているものとは比較に成らなかったが、自分で、作った野菜は別格に美味しかった。

夏に撒いた秋大根が予想以上に収穫出来る処分にに困り、玄米浸けと沢庵漬けを一  斗づつ浸ける、出来立ての玄米浸けを試食したら美味しく出来上がっていたのを確認している、沢庵漬けは塩分を多くしているのでこれからのものだが、我が家では胃の消化に悪く滅多に食べる機会はない。 

そんな俄百姓は病後の機能回復には最高の仕事となった、決してスパーなどに出せる様な秋大根が想像以上に収穫されて、保存食用にと漬け物二種の玄米漬けと沢庵を浸けた、試食段階では我ながら褒めるほどだった、残念だが今はそれどころではない入院が長引きそうだ改めて計算して見ると雛まっりには間に合わない、早くても三月10日前後と試算している。

5月から始まる市民農園の佐々木さんの所から案内係届いていたので、申込みは済ませてある、一月以上余裕があるので今年はぼつぼつ始めようと思っている、人の三倍も時間を掛ければ、人並みに出来ると心を切り替える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早春賦

2015年02月20日 16時14分22秒 | 自叙伝

春は名のみの風の寒さや

谷のうぐいす歌は思えど

時にあらずと声もたてず

時にあらずと声もたてず

今年の札幌は季節がひと月進んで要るような季節感になっている、過去を振りかえって見ても記憶がない、此の所三月頃は白旗山の札幌台ルートにスノーシューのトレッキンゲと帰路は手製の橇を持参し二つ雪遊びをやっていた。

時にはバーナーまで持参し即席ラーメンを作って食べたり、ヘルメツトにカメラを取り付け動画撮りをやったり格好の冬の遊び場として利用していた、途中の東家も利用出来るのと入口の事務祈で無料でカンジキ貸出しもしているので、もう少し利用者が増えても良いと思っているが、感心のバス路線外にあるのて"マイカー利用しかないのが致命的で、クカンスキー用のロツチが有ったり、常設のスキーコースが完備されたり、施設だけは国際大会も出来る所です。

此の山は白樺の木も多く三月頃になると木の周りから雪が溶け出して木を中心に穴が開いてくる、春が近いと教えてくれている、近づいて白樺の木に耳を当てると木が生きよい良く土中から水を吸い上げている音が聞こえてくる、春は始まっている事を実感する、今年はもう始まっいると想像している。

 

 

 

 

 

 


第三の故郷になった円山

2015年02月19日 17時35分09秒 | 自叙伝

毎年北海道神宮の初詣では欠かした事はなかった、大通り20丁目に住んでいたので、家から一家揃って歩いて参拝に行くことが多かった、時には、車で行くこともあったが北二条通りを南 進し他人の家の前に無断駐車していたこともあった。

五月のお花見時期は桜は綺麗だが、あの人混みに入ることはなく、円山公園を素通りし盤渓峠や小別沢峠付近にお弁当持参で山遊びに出掛けていた、帰りには山菜がお土産になり自然と山菜の知識が蓄積されていったのもこの頃からです。

徒歩で行ける所は、この辺までで、時には三角山山頂から大倉山ジヤンプ台山頂そして小別沢峠で降りて帰るコースも歩いている、良く歩いてもいた。

少し本格的に山菜を採る様になったのは、盤渓スキー場裏側の百松沢山にも通じる深い沢が何本もあり最初の頃は車でも可なり奥まご入れていた、営林咼が弱体すると共に林道の整備が殆ど手付かずになり山は荒れていった。

車から降りて直ぐ採れる環境なら兎も角、羆との共存地帯なので自然と足が遠ざかってしまった、後半になり二輪車を持つようになてからは、良く出掛けたアイヌネギの畑があったり秋にはきの子が簡単に採れる所でもあった、沢の奥の方に採石場があり一般車両が出入り出来なくなり、それ以来足を踏み入れていない。

 その項の我家の冬の越冬食糧の浸けフキはここで間に合っていた。

9曰に一度取りつけていた人工肛門を、破れている前後を切り取り縫合する手術をおこなった、傷口が完全に繋がる様に食事類を一切絶つ、それに替わってエルネオパ2-1500「ブドウ糖、電解質、アミノ酸、総合ビタミン、徹量元素」一日一本1.500cc を心臓の直ぐ近くの血管から入れていた、一週間続き17日の昼から重湯を取り初めエルネオパ2の1000にし夜間は止めていた、所が初めての便ががあり縫合している一部から漏れて要ることが判明し、今日から又も絶食たなる、エルネオパ2-1500に後戻り、此では退院も遅れそう。

厳しい現実に戸惑う。

昨年の春、十勝岳吹き上げ温泉に湯治に行き三段山まで登り帰りは手作り橇で滑り降りて来る、今年は不可能也。

 

 

 


親離れと子育て時代へ

2015年02月18日 14時40分45秒 | 自叙伝

21歳頃から始めた古めかしい越後屋商店も最初は物さえ仕入れてを来ていれば何でも売れていた、人々の生活少しずつ向上しはじめてた、参謀の親父の発案で外販事業に手を出す決新をする、道東中心に廻る事にして宣伝カ―をワンボツクスカーに、小さなサーカス小屋のテント、それに商品を満載して町街を巡回し廻って歩きました地元の店の女店員も出張 させ旅館に泊めて戦力としていました、私は建てたテントの店のの中に宣伝カ―を入れ管理の為にも車中泊で頑張りました、行く先々で町中を宣伝カ―で廻る事から始まり苦労の連続でした、その頃はまだ地方には購買力が無かった、此の事業失敗し営業方針を変えて行くことになる、商品が高級化し高額になって行くので手形決済が中心になって行く、ただ外販事業で赤字のに出した補てんは足を引っ張っていた。

その頃お袋は子宮癌が進行し北大病院に入院退院を繰り返していた、此処等で私に妻帯させることを急いでいた事も解って来る、遠藤製網時代から親密になっていたエリート官僚で通産局の河合氏の親子の縁者の長女に似合いの女性がいる、しかも三越前のコマツ靴店に勤めているので最高の縁組みと、私を連れて彼女が働いている職場まで連れて行ってくれた、第一印象で私はすっかり魅了されていた事を生涯忘れない。

母も死期を悟っていた様に早々と決めてしまっていた、結局私達の仲人は河合親子がやってくれていた、その河合さんは一旦東京に引き戻されて再び札幌に赴任されて来たときは中小企業金融庁の所長に栄転していた、彼のお役人生活もそこで終わって要るが、民間に下り西村製菓の副社長で終わっている。

嬉しかったことは、母が存命で北大病院に入院中に待望の長男が授リ里帰りも兼ねて母に初孫を見せに通っていた、長男がやっと歩き出した頃、退院して来たが間もなく力尽き帰らぬ人となる。

親父は待つていたかの様に、再婚し札幌に出て行く、暖めていた事業計画の遠藤釣具店の復活だった、私の事業の行き詰まりを見越していたと思っているが、予想通リ倒産し夜逃げ当然に故郷輪西を出奔する。

当初は東札幌に、その項狸小路七丁目で店を構えていた親父の手伝いを、外販事業をさせてくれていたが、素質が無しと諦めたのか札幌での再スタートに円山公園近く20丁目の市電停留所近くに小さな平屋の家を見つけ、遠藤釣具円山店の出店のお膳立てをしてくれる、30歳を目の前にしての出来事で次男坊の庄二はここで生まれている、息子達の故郷はここになる、円山小学校、向陵中学校が母校となる、此の円山地域が私の子育ての舞台になって行く。

 

 

 

 

 


月日は百代の過客にして行きかう年も又旅人也

2015年02月17日 14時57分28秒 | 自叙伝

高校時代の国語勉強の中で此の文章が出てきた時には、全く意味も解しないで何十年も過ぎ去って来ていた、芭蕉が51歳で一生を終えて物凄い足跡を残して行ってる人生50年と言われて時代に、江戸を立ち日光、白河の関、平泉、山形、出羽三山、鶴岡、酒田、越後、金沢、福井、敦賀、大垣で奥の細道は終わって要るが、自分の脚だけでやり遂げた敬意にはただただ頭が下がるばかりだ。

高校時代は得意な学課は何一つ無かった、ひいて言えば高校を選んだ時から商人を志していたのも物心付いた時から親の背中を見て育っていたので自然に刷り込まれていたと思っている、英語、数学は苦手で何時も補習授業を受けでいた、ただ必要とした簿記と算盤だけは人並みにこなしていった。

老境に入ってから表題の一文が漸く解る様になつて来た、遺書になった句が現在の私の境遇にも重なり「意味深く感じている・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。

ここに来て高校時代の国語の勉強が生きていたいたことに気が付く。

芭蕉が木曽義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の側に葬って欲しいと言われている、大津市馬場の朝日山義仲寺仲良く葬られている。 

午後から屋上に真夏並みの日射しが差し込み季節は5月だった、管理が行き届いた温室に感心している。

 

 

 

 


一進一退が続く

2015年02月16日 22時21分41秒 | 自叙伝

朝から頭がぼ~としていた小水が90分感覚でやってくる、熟睡時間がなくなつてしまう、それも睡眠中も関係ないエルネオパ2-1500の点滴だけで一週間は生き延びた、不思議なものでお腹は全く空かない、今朝の回診で最後の抜糸をする、点滴を止めるとは言わなかった、それにプラスしてラコールNFを飲む様に言われる。

カテーテルの点滴だけで足りず胃の方からの援軍と思った、所がコツプ1杯ほどの溶液飲んで間もなく今度は大便の方、続け様に5回トイレから出られなかつた、そのむねを看護師に伝えるとラコールNFは出てこなかった、やれやれ、副作用欄にこの事も載っていたので難しいものだと思いを新たにした、

高齢と連続手術で今回の体力回復には時間が掛かっている様に感じている、思ったほどの元気が出てこないのも重症だったことも分かつて来る、エルネオパの副作用の湿疹も出始めている、決して痛いとかゅいとかは無いので助かっている。

夕方売店までリンゴジユースとポカリスセツトを買いに行って来た、これだけは飲むのを許可されている、体調が本調子でないと心も折れている、明日は心だけでも飛び回れる元気が戻って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 


異性への目覚め

2015年02月15日 15時58分27秒 | 自叙伝

遠藤製網会社の倒産から我が家の生活も一変した、どん底から這い上がる為に形振り構わず考えも及ばなかった遊郭経営に手をだし家族たちを別宅に移してしまった、悩み考えた末の決断だったと思うがお袋もよく付いていったと思っている、精々二年間位のみ近い期間だったが、この間に喧嘩三昧の硬派少年が性に目覚め軟派少年に変貌してしまった時期となる。

父母と離れて別宅で、若いお手伝いさんの食事の世話や日常の世話で情が移るのは時間の問題だった、私の下は妹三人、親も5歳も離れていたので間違いは起きないと思っていたと想像していたが、男女の中はそんな年齢差は意味もなかった。

今でも覚えているが学校を中退し一緒暮らし生活して行くと訴えていたことを覚えている、17歳のまだ少年にはどう見ても現実離れしている。

二人を諭し縁者預けが暫く続く 遊郭経営も二年位で辞め表側を店舗に貸す様にしていた、高校三年生になり一度がついた異性への関心は同じ輪西カら通学中の女学生に好きなタイプを見っけ悪友のK氏に頼んで授業中ラブレターを書いて貰う、そのラブレターを単行本に挟んで彼女の下校を確認して同じ列車に乗り込む下車する輪西駅寸前で彼女に必死にに渡す、渡したし終えていたら 列車は動き出していて私は降りれず仕舞い、ひと駅先から引き返して来る、問題はその先の出来事で室蘭の日活映画館の前で待ち合わせを書き込んでいたので、来てくれるか、全く姿を見せないのか代筆を頼んだ悪友が皆にばらしていたので、そろぞろと偵察に来る始末遠くから見張っていたの見ていた・・・・・所がその彼女が現れた、天にも昇る気持ちとはこの事と思った、すぐ近くにおやき屋がありお茶を飲みのみ、あの時何を話したのか今となつては記憶に残っていない、それかう数度デートを重ねたがさほど進展もせず二人で手を繋いで海辺を歩いたのが、映像に残っているだけで卒業と共に音信も途絶えてしまつていた。

此の後 小樽での丁雅時代に移 つて行く。

 

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マンガ時代を振り返る

2015年02月14日 12時27分36秒 | 自叙伝

本と縁が始まったのは何ともいっても、(田河水泡)のらくろ 二等兵でこの歳になっても子供の見る   絵本やマンガ本がその子の人間形成に知らぬ間に関係してしまっていると思う。

戦時中だったので子供心に上等兵、軍曹、と昇進して行く様を見て自然と兵隊に行く事が人の道の様に刷り込めれた国家戦略の一つでもあり、出版までには検閲で内容も変えたとも後日わかるが教育が如何に大事なものと認識するのも戦後になってからのことで、本当の勉強は今でも続いている。

 今日で入院45日になった、9日におこなった第二次手術で三日間位は朦朧としていた日が続いた、痛み止めと眠剤を飲んでいるので時には日時さえ記憶外となっていたこともあった、小便も人工的になっていたのでベット上から動かなくて良く体に負担が少なくなる。

絶食は今日で7日目になる、トイレにも自由に一人で行けるようになるえいようになる、カテーテルで栄養素が相当量入って来ているので全くお腹も空かないし水も飲まなくても良いのだが、時たまスポーツドリンクを飲む位で過ごしている、いよいよ週明けから点滴が終わって、食事が始まると思っている最初は流動食で始まり普通食に、やっぱり退院は月末が相当と考える。

 


21世紀にカムバツクする。

2015年02月12日 21時13分28秒 | 自叙伝

今朝起きたといつても昨夜は21頃眠剤を飲んで目が覚めたのは午前1時半、それきり明るくなるをじっとベツトの中、こんなときこそと決まってラジオのエフエム放送をイヤホンから流れ出して音響は、何ともない夢の中にいざなつてくれる、如何に音響効果がが大切だとも思蔦。

一夜の時間の長さも身をもって体験、それに規則違反を起こしてしまう、洗面所の使用時間は午前6時なのに5分位前にベツトの横のコールサイルを押してしまう、それほど私は次の段階に挑戦する段階だつた、小水の官を脱ぐさ後は首「カテ・テル」だけになりかなり自由が回復されて来る、此lで私の予定に決められた如く進んで"る、サポート付きで  屋上の温室や売店にポカリスセツトを買いに行って来 る。

ほんまにやれか

                                                                                                  


眠りは続く

2015年02月11日 20時05分58秒 | 自叙伝

術後二夜過ごす、辛い二夜だつた、様々なものが繋がっていて自由には動けない、全てベツトの上だけで用が足りてしまっている、未だ定期的に痛みが襲って来るその都度対処は続いている、点滴も首の辺りから纏めてなん本も入っていってる、今日も一日の半分は寝ている見たいだ、眠剤を飲まない日はない断ち切ろうと頑張るが寝る事が出来ず、やっぱり飲んでしまう、飲む時間が遅いので朝になって後ってしまい悪い循環になつてしまつた、それでも此の一定期さえ突破出来ればと明るい希望さえ感じられ出した。

お腹は全く空かない、今朝からスポーツドリンクを飲み出したが、一向に減らない、暫く使用していなかった肛門から屁が出る、着々と機能回復が始まっている、嬉しい。

点滴生活も一週間で、食事は此の後続く後は退院が待っている。