ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

無神論者の死生感

2015年02月09日 11時50分58秒 | 自叙伝

そこそこの年齢になっていた頃、立ち止まっては過去の人生を振り返る日が増えて来ていた、還暦を前にして生まれ故郷の新潟の巻 町の役場に我が家の系図を父方、母方の謄本を取り寄せた、二代位まで解ればいいとその先のものは取る事はしなかった。役場ではその先も有りますがと言ってくれたが、これだけで充分と思っていた。

五ケ浜村は、何百軒あるが遠藤姓と姓部性が圧倒的多いのでお互い屋号で呼び会うようにしているとも言われていた。

結婚も村同士で結ばれ村を守って来た歴史が、 父と母も隣同士で親同士で決められていたとも言っていた、そんな封建的な村を飛び出したのも親父の性格なら無理からぬことと私は理解している、大げさだが坂本龍馬の脱藩に匹敵していると思っている、無学で小学校しか出ていないのに実社会大学で身に付けた学識や思考決断力は素晴らしく、それた人の話しをよく聞く親父だった。仁人間的タイプは黒田勘兵衛の軍師型で^    

 

明日に続く

 

 

                         


八十となり、みたび縁しに、導かれ

2015年02月09日 03時30分44秒 | 自叙伝

愛妻を最後で迎えた此の医院、以来私も此の医院の患者になっていた壮年期を終える頃、車で例えると耐用年数が来た中古自動車で、自分の健康管理を意識している人は最低年に一回は検察入院でチェツクを受けている、車の車検と定期検診なのだが、こんな人は全体的に見て稀と思う。

60才代頃には、老人の意識は全く私とは無縁と思っていた、現に70才迄は山専用にヤマハトライアル250を車に積んで山菜採りやキノコ採りに乗り回していた、バイクを乗せて行く車が壊れてしまいそこでバイクは断念した。

丁度その頃近くに住む従兄夫婦が、シニア大学の創造学園でそれは楽しそうに通っていた、方や習字方やフオークダンスに二人とも今でも続けている、私とは10才先輩だが、等々90才を超えた、私の身近なな所に素晴らしモデルとなったのが竹内稔、キサ夫妻だ。

その後、妻に先立たれ妹と同居するようになってから、旧姓に戻った妹の泰子を伴って二年間シニア大学に入学したのは75才を過ぎてからで、楽しい二年間だった卒業パーティーの真っ盛り中東北大震災が襲っていた、この日は忘れられない記憶となってしまった。

妻の病気が、不治の疾と知り20年以上ペタンク普及の先頭に立ってやってた、後継者も育っていたのでペタンクのリーダーとの役割を終えた、妻の理解と協力があってこその「ペタンク爺さん」今はブログの名前だけになってしまった。

せめて今年の秋頃迄に、市内の大会に参加出来るような体に回復しよう思っているが、少し先を読み過ぎているかも。

今夜から三日間が勝負となる。

 


花言葉-信じて向かう-鯉心

2015年02月08日 04時24分39秒 | 自叙伝

まな板の鯉にコンサート

19才で盲腸炎で初めて腹部にメスが入った、局部麻酔行われている、21才で肛門の手術この時も、 局部麻酔で終わっている、その後40才前半にギックリ腰のツイカンバンヘルニア手術で全身麻酔で手術時間も七時間 かがった。

それでも翌年の1974年夏休みに親子三人で旭岳裏側で一週間を超えるテントでのスキー合宿を決行している、私も若かった、70才代で胆嚢結石手術、三年前胃癌摘出手術、やっと回復したと思ったら、今回の大晦日の緊急入院で大腸の一部が破裂の穿孔性腹膜炎に、そして手術後40日目に人工肛門閉鎖手術が決まっている、約2時間ほどの手術時間 を入れると体にメスが入るのが7回にもおよぶ、今回の手術に合わせるように同じ階 でコンサートが開催される。

コスモスコンサート

ピアノ・オカリナ------佐藤歌織

歌--------------------駒ヶ嶺ゆかり

曲目

1)・雪

2)・新雪

3)・雪山賛歌

4)・銀色の道

5)・スキー

6)・オカリナ・ソロ

7)・歌・ソロ

8)・ブルーライトヨコハマ

9)・冬の夜

10)・虹と雪のバラード

心はコンサート会場に行っていると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


蒙古(モンゴル)日本国技を征服する。

2015年02月07日 06時04分49秒 | 自叙伝

1274年モンゴル初代皇帝「ジンギス・カン」が大船団を組んで日本征服に到来する元軍三万二千人日本武士一万人、一度で懲りず、1281年元軍十四万人で再度襲来する、この時日本の武士団は十二万人で応戦する、この時二度の遠征とも暴風雨が原因で元軍は壊滅状態に、此れを称して日本では絶体絶命のピンチには神風が吹くと本気に信じる人も多かった、私とて大平洋戦争は負けるとは思いもしていなかった少年だった。

私が輪西で幼稚園に通っていた頃、ノモンハン事件が起きた、その頃日本は朝鮮半島を植民地に其を足掛かりに中国の一部(こ傀儡政権の満州国を作り日本の陸軍の関東軍の指令部も現地に作る、すると川を挟んで対岸はモンゴル領となる、たまたまモンゴルの遊牧民が馬に水を飲ますのに何時もの様に川で馬に水を飲ませていた、其を川の対岸 から見ていた国境警備、実力で追い払う。

翌日モンゴル側から60騎ほどで現れ、此処で馬に水を飲ますのは何千年も前から続けて要ること言ったが、意が通じず所か日本側は挑発し「断固排撃」とモンゴル軍のゲル20個を爆熄したとも言われている、「国家行為」をやるのに現地軍が自らの判断でやってしまった出来事で、関東軍の勇み足に他ならない。

建前は満州国を庇護している日本とモンゴル軍を庇護しているロシアとの近代武力戦争になる、この戦争で両軍合わせて三万人以上の死傷者を出す。旧ソレン軍の戦車は日本軍のオモチヤみたいな戦車に対し重戦車部隊で戦いを挑んで来る、日本の戦車隊は壊滅状態に、騎兵隊もモンゴル軍活躍したりコザツク兵の巧みな戦いに、日本軍は大苦戦を強いられたが日本の歩兵部隊の白兵戦によって大惨敗だけ免れれる、この時の戦記が果敢な少年達に焼き付けられて行く事に、そしてまもなく大平洋戦争繋がって行く、兎に角この頃の日本の外交交渉術も未熟で、此の後の国連脱退にも繋がった。

日本の負け戦と見る人も多い。

あれから70年、日本の国技である大相撲界をモンゴルの若者達に征服されてしまった。考え深いものもあり、日本人の遠い先祖とも言われているいるので、生まれたての赤子にはモウコ斑点があったり、風貌や体格も相似ている親近感も湧いて来るのも自然と思っている。

暫く日本人の横綱は誕生していない、~~~~~~。

     

 


昨夜の雪まっり協賛食事で~す。

2015年02月06日 05時47分48秒 | 自叙伝

走る事は幼児頃から記憶しているが、健在は走りたくても走る事は出来なくなっている気が付いたのは70歳頃と思っている。

今でも「きたえ~る」のトレーニング室に時々通っているが1回30分使用出来るランニングマシーンは歩測を2kから4K位にして路面の斜度を最高15度位まで,上げて行くトレーニングが私のプログラムの一部だが、途中で8Kほどのラニングを入れても最早走る能力は残っていなかった、自分の体力の実力を知ってからラニンク"は死語になってしまった。

最近はもっぱらストレッチ中心と、バツクカントリーを想定したプログラムにしている。

もう今年の5月も無理と感じているニセコアンヌプリ山頂からの手製橇滑走計画も等々3年ものプランクが出来てしまう2011年5月スキー場がクローズした日に行っている、天候が良くひらふコースから登り始め山頂に到着したのは昼近かった、びっしり四時間はかかっていた、羊蹄山を眼下に見下ろし持参したおにぎりと一杯のコーヒーの美味かったこと忘れられない記憶となる、橇の大きさが幅30センチ長さ60センチ、高さ10センチの大きさしかなく、本体は発泡スチロールなので軽く出来ている橇なので、スキーみたいにはスピードは出ない。

結局山頂の壁からほぼ一直線滑り、スキーのダンヒル滑降で滑り降りる、兎に角爽快だった、ヘルメットにカメラをガムテープで固定し動画も撮った、そしてユーチューブにもアップした。

2012年の5月にも行ったがこの年は雪が少なかった、それ以来病気でプランクが出来てしまい今年も行けそうもないので、3年の穴が空いてしまった。この体では精々白旗山の札幌台の東家位が目標と思っている。

退院後の養生を色々と考えている、十勝岳の吹上温泉が理想的だが真冬の四時間の車の運転は少し負担が大き過ぎると判断する、経済的にも優しい他の我が家からも近い温泉があると調べると、今までも行ったことがある輪厚にある竹山温泉が有ること思い出す、ネツトで再調査をすると源泉かけ流しと露天風呂が魅力的な所と日帰り用に広間もあって、日帰り料金も600円、これなら妹同伴でも銭湯と然程変わらないのも気がいってる、月寒の我が家からも市外に出て行くので運転も楽だと判断する。

今日担当医から順調に行けば二月23・24日頃には退院出来ると告げられる、もうひと山越えねばならない最後の頑張りが待ち構えている、男の意地の見せ処とやせ我慢することにしている。

  

                     


いずみバザー(院内)

2015年02月05日 04時26分13秒 | 自叙伝

今日昼から院内イベントのいずみバザー開催の放送で流れた、好奇心旺盛の爺さん暇をもて余していたので開催時間に合わせて顔を出す、何か買えるものが無いかな~と物色するとハンカチとスカーフが激安の50円の値が付いていた、二枚買って100円を支払う。

その内にサロンも賑わって来たが、その後は必要とするものもなく早々と引き揚げる。

ふるさとの輪西町は北西側は日鉄の工場群に全て専有されていて室蘭港には普通の人達は入る事は出来なかった、そこで正反対側のイタンキ浜は海岸は砂浜が続く、陸上から見ると絶好の海水浴場に最適と思うが、此の浜の特徴として大平洋の外海に直接対峙していて普段でも白波が多い浜だった、それに沖の砂底が凸凹で、一番恐ろしい現象に場所により押し波と引き波の場所がありそれを熟知した人ならこの浜でも水泳は出来るが、地元住民も、イタンキ浜での遊泳を禁止していた、子供の頃この浜では泳いだ事はなかった。

小学生の頃、工場群の切れる西側が御崎駅で、その項僅かだったが海に入れる所があり、室蘭港の一番奥に位置していたので普段は波が立っ浜ではなかった、輪西の町から子供達数人で海に行った、私は連れられて行った方で、同じクラスの兄がリーダーだった、その頃は私はまだ泳げ無かったので、多分水遊び程度だったと思っている。太陽が西の空になる頃、友達の兄の姿が見えなくなっているのに気が付き、全員で大声を上げて叫んだ「タンドー」「タンドー」と声が枯れるほど叫んだが、二度と逢うさとは出来なかった、弟の友達のだけ残し輪西の町までトホトボ、悲しい帰還となった、竹屋の息子で泣き泣き報告したと記憶しているが、町から大人達が駆けつけたら水死していた、本当に、本当に悲しい思い出が焼き付いている。

中学生の頃の出来事で、イタンキ浜は人跨ぎで行ける所だった、その項は私も多少は泳げる様になっていたが、先生に誘われ数名とイタンキ浜水泳に加わる、沖に向かって泳ぐとすいすいと泳げた、さて岸に向かって帰ろうとするといくら泳いでも一向に岸に近づかなかった、引き波の中に入った事を覚り横に泳ぎ出すと動いて要ることが判り、その内に背が立っ岩にたどり着く、溺れ損ねた事件だった、それ以来イタンキ浜までは泳いだ事はない。

その後、鯨半島辺りかう波消しブロツクが置かれ今では海水浴場にも利用されたりサーフィンのメッカになっている、隔世の感があり時の流れを感じさせられた。

泳ぎを覚えたのは、小学5年生の学童疎開先の増毛で、戦後は戦時中作られていた町中の防火用水で、深さは2Mほどで背は立たなかった、格好の子供達のプールになっていた夏はボウフラが沸いていた。

 

100円で買ったハンカチとスカーフ

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小さな小さな冒険旅行

2015年02月04日 04時29分59秒 | 自叙伝

日帰外出許可は予定が急遽変更し今朝9:30には病院を出て地下鉄駅に向かっていた、出発前には主治医の回診を受け、9日子細も話してくれた比較的簡単な手術のような話しぶりに、暗示を掛けられているのかなと小さい疑問も出て来るほどだった。

今回は命に関わるほどの大手術でもないので、妹だけ来てもらう事にしている、平日なので長男には終わった後からでいいと思っている。

最初の外出予定 を3日ほど早めたので、肉体強化のトレーニング不足を心配していた、短期間だったが努力の成果も現れていたので、多分大丈夫と計画していた事を実行する、今回 も帰宅途中で南郷7丁目近くにある中華料理のパオパオに立ち寄り昼飯を買って帰宅する予定だった、短いが駅2つ地下鉄に乗る、久しぶりだ院内の五階段を休まず上りきれる様になり一日に朝、昼、夕方と繰り返しやっていた補足に自転車こぎ、無動力のランニングマシーンもこなしていた。

兎に角歩きと雪道に1は靴に簡易スパイクを付け、片手にピン付き杖を付いての歩行で絶対転ばぬ事を心がける、昼飯はチヤーハンと麻婆豆腐を買ってぞからは歩く訳にも行かずタクシーを拾う、帰宅後昼飯には早すぎるので病院から出してもらった書類を持って目の前の回明堂眼科に目薬を取りに行ってもらう、本人が行けば簡単ななのだが眼科は待ち時間が長い、耐えられると思うがそんな所に体力を使いたくない。

 その間にデスクパソコンを開けて、メールの整理をする外出目的の一つで今回も100本以上のメールの整理をする、お昼になり美味しそうに見えていた麻婆豆腐に箸をいれると余りの激辛に吃驚し食べれない物を買って来て事に気が付く、やむを得ずシチヤーハンだけが昼飯になったが一人前完食してしまう。わ私の留守の間に女手一つでベランダの整理や、近々北ガスガス十数年振りにリースの風呂バスの交換工事があり、孤軍奮闘して準備を整えていた、本当に頭が下がる思いをさせられた。感謝、感謝

帰りは、自宅前のバス停から月寒中央地下鉄駅へ、階段も下りなら手すりに掴まって降りるのは然程しんどいと思わなかったが、雪道は怖かった、大通り駅で乗り換えて東西線に乗り換えてダイエイ東札幌に、地下鉄、タクシー、バス、そして地下鉄乗り継ぎで一回り、ダイエイでは副食の佃煮類、魚の缶詰め類、重たくなるのでリンゴ二個を買って自宅から背負って来たリツクに詰め300M先の病院迄スパイク靴で歩き通す。

外出許可時間の15時30分には15分前には院内に到着していた、

可なりの覚悟の小冒険旅行と思って出掛けたが多少なりともトレーシゲの成果が証明された少し自信を付ける。帰って来ると今日行われた豆撒きの豆がベツト上に置いてあった残念ながら直接参加出来なかったが、今日のミニ冒険旅行の意義の大さを感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


蘇る昭和の記憶

2015年02月03日 03時20分34秒 | 自叙伝

変更する、突然にして私が6歳の春まで春まで遠藤家の次男坊でありながら私の上に兄弟は居らず、長男役を謳歌している、兄と姉が中学進学の 為故郷の祖父の所に預けられていたのが両親に引き取られ我々家族と一緒に住み出したので一気に家族が増えてしまつた。

兄は室蘭商業中学学校へ、その項で足に軍隊並にゲートルを巻き黒いマントを翻し三キロほどある東室蘭にあつた学枚に徒歩で通っていた、格好良く見えていたのを記憶している。姉は近所のおばさんの所に和裁を習いに行かされていた。

私の生まれぬまえの日露戦争で日本が勝利して終わったが、陸軍の乃木希典と海軍の東郷平八郎の評価は二分されたが、明治天皇が崩御されると乃木希典夫婦共々殉職して果てた、物心が付いてから少し前の武士そのものの所作に驚いていたことを 思い出す。

後年乃木神社に立ち寄りお参りしている。 

もうひとつ、子供頃見ていた山本五十六の、言葉ががあった

「やってみせ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ」。

やってやる、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

今度の入院で跡を振り返る時間が出来、此の言葉が甦って来たが子育て時代を通して思い出された事はなかった、現代でも通じる名言に心打たれる。

めっきり少なくなった日本男子、これで良いのかも。

苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。

これらをじっとこらえてゆくのが男の修業である。

山本五十六

 予定は突如として変更する、緑内障の治療の目薬が退院が長引いたことで足なくなった、本人が行かないで常備薬の目薬を貰うのに入院中の病院の書類が必要との話で昨日頂いた、電車やバスでの乗り継ぎで通って来てくれている妹をわずわせづに、数日後に日中だけの外出予定を早め、今日の日中の一番暖かい時間を見計らいて外出許可を出してもらう、目薬は本人が顔を出さず妹に頼む事にしている、今回もお昼はパオパオの中華料理を途中で買って行くことにしている、何にするか迷っている。

同時にPCを開けて整理して来る事にしている、それに社会復帰の予行練習も兼ねている小さいさな旅になる。大袈裟がな~`                                     


明日は節分

2015年02月02日 07時59分20秒 | 自叙伝

我が家での節分の豆まきの風習はかなり遡る、親父がやっていた記憶は微かに残っているがいっの頃 からからか男子である私の仕事として定着し、未だにに続いている。

子供の頃の豆は大豆だったフライパンで煎ってくれていた母のイメージが強いが大家族の我が家では二階の各部屋べやに撒き廻って最後に玄関を明け「鬼は外」「福は内」で玄関の戸を閉めて終わっていたが、終わった途端投げた豆を拾って歩いた、戦時中は学校の行き帰りでも母が作った布袋に煎った大豆をいれ、万が一緊急事態が起きたときに食べる食糧として腰にぶら下げて歩いていた事もあり、畠の肉と言われていた副食であり、おやつでもあった、私も含め子供達は沢山の豆(大豆)を拾い集めていたが大人達には豆まきの豆は歳の数しか食べれないと決められている。

とよく言われていたことを今でも思い出す。

今は大豆でなく落花生を使うのが当たり前に、今でも大豆を使う所は大豆を何粒か透明の袋に入れて使っている。

今年は我が家では豆まきは中断する、入院中なのでやむを得ない、代わって院内豆まき部隊が各病室を廻ってくれるイベントが計画されている、子供心に返る一瞬を楽しむ事にしている。

豆撒きが終われば少し春に近づく、吉報と思っているが最初の予定が代わり退院日が遅れる事になった、当初は今頃一旦退院して4/5月頃再入院し人工肛門の処置を計画していたが、私の体力の回復力を見てサイボークから解放する手術を2月9日の火曜日と決めてくれた、此の後一週間後に、嬉しいと言う以外言葉が見っからない。

手術後長くても二週間後には退院が待っている。

 

 

 

 


ミットウエー海戦に参加した先生が

2015年02月01日 05時16分36秒 | 自叙伝

大沢国民小学校にミッドウェー海戦に参加し負傷して帰って来た若い先生が赴任してきた、授業をそっち除けで海戦の話をしてくれた教室の真ん中に座り子供達は周りを囲む、先生の乗っていた軍艦も撃沈され何時間も泳ぎ続けて友軍に助けられだとその時の戦いで、負傷を負いもう戦争には参加出来ない事など、子供達は目を輝かして聞いていた、海軍力では日本は有利だったが空軍力は此の戦いの時点で、日本を凌いでいた、国力の差を見せ付けられた海の戦いで、この時日本の航空母艦の四隻が沈められているが国民には軽微としか発表されていなかった、此の戦いの後は劣勢に立たされた日本がいた。

その頃は、海軍幼学校が少年達が目指す所で歌の七つボタンの桜に錨が憧れだったが文武両道でないと入隊出来ない事も子供心に判っていた、最後は私達の二つ上の先輩がいた戦後間もなく国に帰されるが、ぐれて行くのもいたり予科連帰りと一般の人から恐れられていた。

そして間もなく小さな町の輪西にも町中をヤクザが闊歩するようになる、利権が絡む仕事やもめ事、屋台、や興業関係に顔を売り関係を深めて行った。

この頃ちょとした広場に闇市が開かれ何処からとなく食べるものが売られる様になって行った、傍らではインチキ商品を、サクラを使って売っていたり何やら博打みたいな事もやっていたのを覚えている、終戦直後は何処の家庭も食べる物にに窮していた時代で政府の配給食糧だけでは餓死するニュースまで出ていた、我が家も急遽山の荒れ地を借りて家族全員で薯や大根それにトウキビを植えていた、秋には収穫し食べている。

兎に角何でも食べた記憶は残っている、その内釣具卸売業が軌道に動き出し背負子が持ち込む闇米が買える様になって行った、疎開先から戻り学校に行くと先生自らリヤカーを引き子供達を連れて近郊の農家まで食糧の調達に歩いていた時代を通り過ぎている。

 8月の終戦の日は学校から至上命令で日中の暑い盛りに近くの農家の畑で害虫のてんとう虫取りをしてサイダー瓶に貯めていた、家に帰ると大人たちは天皇陛下の玉音放送があると異常な雰囲気が漂っていた、ラジオから流れて来た言葉は子供には理解出来ないでいたが大人たちが戦争には負けたと言っていたことだけが分かつて来る。

間もなく疎開先の増毛町から故郷の輪西に帰省して行く。


米英鬼畜の標語が溢れる町中

2015年01月31日 04時36分41秒 | 自叙伝

兵隊とは死ぬことなりと、子供の脳裏に焼きっけて行った当時の国の指導は政治家はいたが実働組織は軍[陸軍、海軍、空軍]]に握られていた、伝統的には海軍のレベル高かった、所が日中戦争で力を付けてきていた陸軍の意見が優先される環境になっていた。

この頃の少年達の頭の中には1905年5月27ー28日の日本海海戦が刷り込まれていた、大国ロシア海軍のバルチック艦隊との大海戦、戦艦三笠に東郷平八郎、「本日天気晴朗なれど浪高し」信号を受け待ち構えていた日本海軍が「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の号令この時Z旗が掲げられ先端が切って落とされた。

この時戦法はT字戦法で日本独特の手法で歴史を遡り村上水軍まで行きつく。

太平洋戦争で日米開戦に最後まで反対したのは聨合艦隊司令長官の山本五十六であった彼は日本とアメリカの国力の差を熟知していた数少ない軍人だった、彼の意見は取り入れられず意にそま無かったが根は軍人、真珠湾攻撃を指揮をとる初戦は勝ってもその後をうるえていた、初戦だけは勝てたが二年ほどで日本のゼロ戦の上を行く飛行機、海軍より空軍が活躍する時代になる、諜報戦でも日本は負けていた、昭和18年4月18日ラバウルからブーゲンビル島に向かっている途中でアメリカ陸軍機編隊の待ち伏せで撃墜される護衛にゼロ戦6機がついていたがアメリカ製のPー38の16機との戦いに負けていた。

日本の暗号文が全て解読され時間もルートもアメリカ側に筒抜けだったことが後に分かる、海軍ではこの人しかリーダー的な人材は残っていなかった。

その頃の軍歌に「海行かば」・海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ。

此の歳になって凄い、酷い歌であった事が分かつて来る。少年期の世相は

本当に天皇の為に死ねたであろうか。合掌

 

 

 

 


兵隊さんの予備軍だった僕がいた。

2015年01月30日 12時32分22秒 | 自叙伝

戦争ニユースが画像で見られたのは、今の民放テレビのコマーシャルの如く映画の始まる前にはニユース映画として流されていた、勝った勝った映像、新聞も検閲があり報道は自由ではなかつた、昭和10年の東京の人口は500万人と発表されていた、今日の人口比とは隔世の違いが判るが、兵隊さんを作るにはと生めや増やせの大号令が国家を挙げての国策が条文化されていて疑わない国民がいた、一般の市民はお上の言うことには順応で子供の量産が当たり前の世相で無論我が家を含めて一家は大家族世帯で町中は子供で溢れていた、町内会こ"と子供グループも自然に出来上がり、子供達だけで遊んでいた、中でも二組に分かれリリアンを使って、兵隊、戦車、軍艦、大将、工兵、偵察、大砲、飛行機、など役をつけ戦争ごっこをしていた、背中に赤子を背負った子も一緒になって遊んでいた、広場は無かったが下水道を挟んで日鉄の平屋社宅が並んでいて町中の道路より広かった'ので我が町内の遊び場は決まっていた、子供同士の喧嘩何時も有ったが親が出てくることはなく子供同士で解決出来ていた、少し年長のリーダーがいてグループを納めていた。

中学生になると自然に巣って行った。

この頃の大きな出来事で私が解体工事現場に入り込み、上から落ちてきた材木が頭に当たり大出血をしてしまう、親に連れられて医者に行って包帯で頭をぐるぐる巻きにされた記憶はその後消えないが、坊主にすると禿げとして残っている。

もう1つは、子供同士の溝川を挟んでの石合戦で私の投げた石が運悪く相手側の子供の頭を直撃してしまった、子供は泣きながら帰って行ったが、暫くして家に帰ると石をぶっけられた子供が包帯頭で母親と連れ立つて我が家の店先の上がり口に座って話しているのを遠くから垣間見た私は、これは大変なことになっていると我が家の敷居を跨げなかつた、行方あてもなく店先の道路に積んであった俵の中に潜りこみ暖かくなって寝込んでしまった、家では暗くなっても帰って来ない私を探しまくり店先の俵の中で寝込んでいるのを見つけ出しました。

顛末はこの件についてあまり怒られたと言う記憶はない。

継ぎ竿は大量に入荷してくると俵を上手に使い包装して来ていた、俵の山が私を救ってくれた出来事だった。

 

 

 

 


予定と現実の狭間で

2015年01月29日 09時49分24秒 | 自叙伝

当初今月か2月の頭辺りで、一旦退院を言われていた体力の回復を待って2、3ヶ月後に人工肛門の処置をしましょうとの主治医の話しだったが医師の目から見て手術に耐えられると判断したのか昨日の朝の回診で話してくれた、最悪の場合は人工肛門のままで終わる人もいるとのこと、私の意志は固かった私の計算では90歳迄の方程式が出来上がっている、後10年は生きる事になっているので元に戻して欲しいと主張する。

予定が変更し一週間後に回復手術をしましょうと言う事になる。

今日からトレーニングのピッチを上げる、手術後傷が塞がれば退院出来る少なくなった未來に朝日が射し出した全身からフアイトが湧いてくる。

昭和13年は漫才の横山エンタツが出て来たり、双葉山の連勝が続き、プロマイドの上原謙と高杉早苗の写真がヒットしていた、それにエノケンが活躍したのもこの項だった。スポーツ界では東京オリンピツク中止、国家総動員法が公布されたり世相は軍事色に染って行った。

そんな事とは無関係に悪がきを続けていた、時には隣の年上の友達と輪西から室蘭まで遊びに、歩きと無賃乗車の荷馬車に隠れ乗り、馭者に見っかり怒鳴られたり、冒険の少旅をやったりした子供だけで食堂に入り小銭で食べた物はカレーの煮っけだった、もうその頃は食品も少なくなり、間もなくお米も配給制になって行った。

その内お米以外の物質も配給制に、隣組婦人部に配られて来ると真剣にくじ引きをしていたのが思い出されて来る。

もう退院後の予定をたて初めている、二月の十勝岳吹き上げ温泉の湯治取りあえず3、4日間くらい素泊まり2,750円で食料持ち込み炊事場に鍋釜、食器あり、建物も立派だ、温泉も素晴らしい、露天風呂から十勝岳が見える温泉天国を予定に。

5月に入ったら今年も市民農園を続けようと、これは決定事項にしている、病気には負けて要られない。/

 

 

 

  


昭和10年代は戦争突入時代へ

2015年01月28日 13時44分21秒 | 自叙伝

前年二二六事件があり昭和12年のこの年に日中戦争が勃発、日本軍が仕掛けたとも言われている、町内会に警防団や隣組、婦人会が整備されて行く、小さな我が輪西にも映画館が二軒あつたひとつ下の友達がいたのでよくタダで入館していた、その他に大人が入るときその子供のふりをして滑り込んだり悪がきその物であった映画は古川ロツパ、エノケン、高瀬みのるの喜劇映画、それに大河内傳次郎の丹下左膳、嵐寛の鞍馬天狗等娯楽に飢えていたので映画館は良い商売と子供心に思い詰めていた。

その項から赤紙一枚で戦場に駆り出される時代に街角で婦人会のおばさん達が千人針をやっていたのを記憶している。大本営令が公布され日独伊三国防共協定が調印されたのもこの項だった。

そんな世相とは全く関係なく全て遊びの世界が我が世で朝から晩まで家に寄り着かないで遊びまくっていた、親達も外で元気で遊んでいてくれれば喜んでいた時代でもる。

就学前と思っているが遠藤百貨店は、冬には子供のスキーなども夏には釣り具などもぼつぼつ置いていたと思う、継ぎ竿はたいした長さでないが恵比寿さんが使っているのべ竿があるが長いものなら13尺もあったと思う、輪西駅には引き込み線もなかったので貨物は全部室蘭駅迄行ってしまうので、その後は馬車で運んでもらうか、自分で引き取りに行くかなので、自転車で運べるとテコにまだ五歳ほどの私を同行させる、荷物は長尺なので自転車の横に ー輪だけのサイドカー方式なので平地や下り坂は荷台に乗れたが、室蘭迄の国道には坂が3ヶ所もあり坂道を猫の手ょり良いと思ってのことだったがその時の記憶も残っていたのは辛かった事もあったと思っている、室蘭迄迄は約5Kはあった。

 昔はつき"竿より安い述竿が主流だった。

今日からトレーニング器具を使い出す、矢張しんどく感じ初日はそこそこで終わる。

 

 


遥か彼方70年~遠くに遠くに来たもんだ。

2015年01月27日 17時35分39秒 | 自叙伝

親父の大工職人職人も二年ほどで日本製鉄所の城下町町輪西に移り住む、国策で、会社の操業活発に大勢の従業員が輪西の駅を利用し、会社の正門まで真っ直ぐ行く通勤道路もあるが駅前の三条通リを南下し輪西町の銀座通リの仲通リを四条、五条、六条、七条、八条、九条まで商店街を眺めながらここで左折すると会社の正門に続いていた、我が家は四条仲通リで、親父は四つ角の場合は必ず死角があって商売しても駄目な所があるので見る目が大事と言っていた、我家の斜め向かいは一般住宅であとは殆ど商店繋がっていた、我が家の左隣は場鉄屋と八百屋、下宿屋の隣は射的とパチンコ屋が続いていた、向かいは仕出しとおかずや、菓子工場に魚やさん、米屋の隣は質屋さん、仲通を挟んだお向かいはお風呂屋が隣が髪結い屋さんに靴屋、雑貨屋と、右隣は化粧品店に少し大きなお菓子屋さんと、続き、テレビの「3丁目の夕日」で町並みが再現いたので驚いた。

親父は小学校しか出ていなかったが専門的な建築の話はよく話してくれていて、町並みの四つ角は死角を見極めと商売屋は道路と引居は同じ高さにする事で、客の入りが入り易くなるとよく話していた。

室蘭から輪西に移り住んだのは、二年後くらいで間もなく四条仲通リの角地の一角を手にい入れ遠藤百貨店の店をオープンしている、あっという間に小金を貯め商人に変身してしまった、私がまだ幼稚園時代でその頃は町中より少し高台にあった幼稚園まで毎日通っていたが、もうその頃から粗暴で弱いものいじめするガキだった、幼稚園では、帯で縛られ柱に繋がれたり、園内から閉め出されカギを掛けられたり、悪童だったことは間違いなかった、それでも近くの沢でザリガニ取りがある時などは、おお張り切りで一番収穫しては得意になっていた事を思い出す、園では茹でて子供達に食べさせていたが、真っ赤に茹で揚がったザルガニはおやっになっていたと思う。

その粗暴さは、小学生まで続くことになる。