ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

親離れと子育て時代へ

2015年02月18日 14時40分45秒 | 自叙伝

21歳頃から始めた古めかしい越後屋商店も最初は物さえ仕入れてを来ていれば何でも売れていた、人々の生活少しずつ向上しはじめてた、参謀の親父の発案で外販事業に手を出す決新をする、道東中心に廻る事にして宣伝カ―をワンボツクスカーに、小さなサーカス小屋のテント、それに商品を満載して町街を巡回し廻って歩きました地元の店の女店員も出張 させ旅館に泊めて戦力としていました、私は建てたテントの店のの中に宣伝カ―を入れ管理の為にも車中泊で頑張りました、行く先々で町中を宣伝カ―で廻る事から始まり苦労の連続でした、その頃はまだ地方には購買力が無かった、此の事業失敗し営業方針を変えて行くことになる、商品が高級化し高額になって行くので手形決済が中心になって行く、ただ外販事業で赤字のに出した補てんは足を引っ張っていた。

その頃お袋は子宮癌が進行し北大病院に入院退院を繰り返していた、此処等で私に妻帯させることを急いでいた事も解って来る、遠藤製網時代から親密になっていたエリート官僚で通産局の河合氏の親子の縁者の長女に似合いの女性がいる、しかも三越前のコマツ靴店に勤めているので最高の縁組みと、私を連れて彼女が働いている職場まで連れて行ってくれた、第一印象で私はすっかり魅了されていた事を生涯忘れない。

母も死期を悟っていた様に早々と決めてしまっていた、結局私達の仲人は河合親子がやってくれていた、その河合さんは一旦東京に引き戻されて再び札幌に赴任されて来たときは中小企業金融庁の所長に栄転していた、彼のお役人生活もそこで終わって要るが、民間に下り西村製菓の副社長で終わっている。

嬉しかったことは、母が存命で北大病院に入院中に待望の長男が授リ里帰りも兼ねて母に初孫を見せに通っていた、長男がやっと歩き出した頃、退院して来たが間もなく力尽き帰らぬ人となる。

親父は待つていたかの様に、再婚し札幌に出て行く、暖めていた事業計画の遠藤釣具店の復活だった、私の事業の行き詰まりを見越していたと思っているが、予想通リ倒産し夜逃げ当然に故郷輪西を出奔する。

当初は東札幌に、その項狸小路七丁目で店を構えていた親父の手伝いを、外販事業をさせてくれていたが、素質が無しと諦めたのか札幌での再スタートに円山公園近く20丁目の市電停留所近くに小さな平屋の家を見つけ、遠藤釣具円山店の出店のお膳立てをしてくれる、30歳を目の前にしての出来事で次男坊の庄二はここで生まれている、息子達の故郷はここになる、円山小学校、向陵中学校が母校となる、此の円山地域が私の子育ての舞台になって行く。

 

 

 

 

 



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1 コメント

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Unknown (同級生)
2015-02-19 11:32:00
最愛の奥様の写真をはいけんしたいものです
お母様はどんな方でしたか?きっとお優しかったのでしょう。
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