日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

春の暴風雨のちイチリン草

2016年04月17日 | 日記
 朝のうちは曇り空だったのに、朝食を済ませてしばらくしていたら、どんどん雲行きが怪しくなってきて小雨が降りだしてきた。そうこうしているうちに、新緑が芽吹きだした中庭のケヤキの大木の枝枝が大きく揺れ出し、雨はますますひどくまるで台風が来たかのような、春の嵐である。
 さて、せっかくの休日どうしたものだろうと思案してみたが、このまま暫くは家にこもって様子をみるしかないだろうと覚悟をした。だからといって決まった予定があるわけでもなく、天気次第でこの先晴れてきたら、まほろ市博物館の中国陶磁器展を見に行こうかと思っていた。それまでの過ごしたときにとりとめなく考えていたことのあれこれ。

 まずは、四月に入ってから土曜日の新聞別刷りに連載されていた記事「古都さんぽ 夢枕獏が歩く」に、二回にわたって京都東山にある長楽館のことが取り上げられていたので切り抜いて読み返す。
 二十代の頃の京都への旅で、清水寺から八坂塔、高台寺ときて円山公園を歩いていたときに遭遇したのだったか、四条から八坂神社をぬけてきたときだったか、建物内喫茶室でひと休みした思い出があり、その時の不思議な印象として記憶に残っていた洋館だ。外観がネオルネッサンス様式の三階建、明治四十二年(1909)に実業家村井吉兵衛(1864-1926)の迎賓館として、建てられた。
 京都建築マップを確認すると、設計したのはもともとは聖公会の宣教師として来日したアメリカ人のJ.ガーディナー(1857-1925)で、明治から大正期にかけて活躍したクリスチャン・アーキテクチャーのはしりというべき人物だ。ということは、W.M.ヴォ―リーズに二十年ほど先立つ存在であるとわかって急に親しみがわいてきた。ご本人が敬虔なクリスチャンゆえ、日本各地の聖公会教会を設計していて、その一つである重要文化財の京都聖ヨハネ教会堂は、現在明治村に移築されていて、一昨年現地を訪れていたのだった。さらに付け加えると本格的な建築家活動前のガーディナー氏は、立教学院三代目の校長を務めた人物でもある。
 建物一階のロココ、バロック様式あたりは目に入った記憶があるが、そのほかにも館内にはイスラム風、中国風、書院風と様々な様式が混在しているとある。このあたりをさしてか、夢枕獏氏は次のように書いている。
 「建築は芸術そのものだ。(中略) ヨーロッパの古代ローマ帝国から、トルコはイスタンブールを経て、唐の長安を過ぎ、そして日本まで、シルクロードを旅するような心地にさせてくれるのが、この長楽館である。」
 このあたり、まさしく施主である村井吉兵衛が迎賓館に寄せた願望を言い当てたものだろう。なにしろ明治中期以降に煙草王として一財産を築いた人物だったのだから、悠久の大陸東西のシルクロード交易に想いを馳せていたのかもしれない。

 まだ、雨はやまない。

 シルクロードにつづく連想は、日本地図を眺めながら来来月に足を延ばす予定の三保の松原と霊峰富士の眺めについてのこと。いうまでもなく三保の松原は、羽衣天女伝説や謡曲「羽衣」でも名高い地である。富士山が平成25年に世界文化遺産に登録された際、25の構成要素のうちで唯一富士山周辺から離れた一カ所がこの「三保松原」なのは、知ってはいた。今回改めて地図で見ると旧清水市にあり、駿河湾に突き出た形状の砂洲=州浜と呼ばれる釣り針のような地形なのだ。
 ここの松原にある少しレトロな温泉宿の洋室に泊まって、早起きした朝に黒松と砂浜、寄せる駿河湾の白波の先の霊峰を眺めてみたい。ここに温泉が採掘されたのは最近のことのようで、「三保はごろも温泉」と呼ばれるナトリウム塩化物強塩冷鉱泉の源泉加熱!かけ流しの“天女の湯”、さぞかし美肌効果がありそう。伝統的名所旧跡へのイメージをなんとも素直に踏襲しているようで、観光の本道からしてそれはそれで好ましい。
 三保の州浜の地は、あたかも富士へと真っ直ぐにつながる松の架け橋か、海上の浮き舞台のようだというから、歴史的にここは悠久の異次元空間として意識されるのかもしれない。そんなふうに思うと、ここの景観がこれまで幾多の文化を生み出してきた創造の源泉であると実感できるのだろう。
 さて、昼過ぎにようやく雨は止んで急に日が差し始めてきた。雨上がりのにおいを嗅いでみたくなった、すこし外にでて散歩してみることにしよう。


 すまい敷地内北斜面自然林に、今年もひっそりと咲く希少種、イチリンソウの可憐な白い花二輪。