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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

かしの木山自然公園の山桜

2016年04月14日 | 文学思想
 春、次々と咲きだす花だよりの季節となった。すでにソメイヨシノは散り落ちて葉桜となり、これからは、八重の牡丹桜が咲きだし始めている。夕暮れに近所の公園や水道みちの桜遊歩道などを歩くと、まるで全体の枝枝にボタン雪が降り積もったかのように咲いている様子は、雪国出身者からするとなかなか壮観ですらある。
 桜といえば、明治に近い江戸時代後期、都内旧染井村において、エドヒガン桜と大島桜の交配種として生成された“染井吉野”がまたたくまに全国普及したのは、都市化が進んだ近代日社会において、その成長の早さと樹形の良さ、咲きっぷりと散り際の潔さによるものだという。
 それ以前の時代、桜といえば奈良の吉野山が有名なように、山中に咲く“山桜”を指すものだったから、今の私たちが桜に寄せるイメージは、平安時代以降、鎌倉、室町、安土桃山と連なる時代に人々が眺めていた風景とは異なり、明治以降の近代の産物だといえる。それでも不思議なもので、ソメイヨシノに代表される「サクラ」の言葉のイメージのもとに、わたしたちは連綿と続く日本人の心象風景をみているのだろう。 となれば、都市部や公園に整えられたヨメイヨシノだけに一喜一憂するのではなく、郊外の里山風景のなかに咲く山桜の姿にも目を凝らしてみれば、旅する歌人西行法師の心境も、より真実味を持って迫ってくるだろう。

 願わくは花のしたにて春死なむその如月の望月のころ  西行

 ここにある如月とは、もちろん旧暦二月のことで新暦の三月にあたり、まさしく一重の薄霞のような山桜の花の咲き誇る時期となる。静寂に満ちた月明かりのもとで咲き誇るサクラの様子には、悟りきろうとしてそれでもまだ悟りきれない己を振り切ろうとするような、凄絶な気配すら漂っているように思われる。
 最近、もうひとつの歌を知ってからひかれるようになった。それは、憧れの山桜が散ったあとにつづく生命の営みの連鎖を歌ったものだろうか。

 あくがるる心はさても山桜散りなむのちや身にかへるべき  西行



 久しぶりに訪れた、かしの木山自然公園。尾根広場を下ったところにある山桜の花は散りなむ。
 この桜は芽吹きの変化と開花が同時進行する。


 こちらは、すまいの敷地内北側自然林のいまが盛りに咲く野生の山吹。そのまっすぐな黄色はまさに春の装い。