今月の上旬、故郷新潟へ帰省していた。この時期の山間は、緑と生命溢れる季節、春の陽光と大気にいのちが洗われる。すこし山間を上って棚田を見下ろす位置からは、山里風景と遠きに冠雪をいただいた長野との県境の美しい山並みが望めた。ああ、人間は自然の中で生かされているなあって、つくづく実感させられる。
戻ってきて、まほろの住まいの裏の自然林の緑もいよいよ濃くなり、ヤマザクラ、ヤマブキに代わって稀少植物のキンランが可憐な花を咲かせている。今年はうれしいことに初めてギンランも二株、植生を確認することができた。こちらはよく注意しないと気がつきにくらい緑の下草にまじってひそやかに清楚に白い小さな花を咲かせてくれている。
帰省の前後、ほんの少し上の世代にあたる竹内まりやのCD「Denim」(2007年)を聴きだす。1978年の慶應大学生時代にデビューして、当初は女子大生アイドル的なスタンスで売り出されていたのだけれど、セカンド「ユニヴァーシティ・ストリート」、サード「ラブ・ソングス」あたりから、アメリカポップスカバーと自作オリジナル曲を前面に出すようになり(もともとそれが彼女の本領だった)、特に後者は私にとって思い出深いアルバムになった。大学生時代の夏休みに北軽井沢の嬬恋村にある会員制別荘地でアルバイトをしていたのだけれど、そこでよくひとり早起きして浅間山の雄姿を望みながらカセットテープ!で聴いていた曲が、竹内まりやの「ラブ・ソングス」だった。冒頭の「FRYAWAY」(詩C.B.セイガ-/曲ピーター・アレン)の伸びやかな歌声が、爽やかな避暑地の早朝にぴったりだった。そこですっかりはまってしまい、帰ってから4THアルバム「Miss M」(1980年)をよく聴いたのを思い出す。それはいまも手元に愛聴盤としてあるのだけれど、このアルバムの中で山下達郎が二曲「エブリイ・ナイト」「モーニング・グローリー」を提供している。これが、まりあと達郎のはじめての接点でいまにつながるきっかけだったと思う。
さて、前置きが長くなったけれど、この「Denim」の中のラスト曲が「人生の扉」なんだ。じつをいうと竹内まりやは「Miss M」以来、しばらくご無沙汰していてた。達郎&まりやの理想の音楽カップル、才能のある夫を支える主婦専業シンガーソングライターという世間レッテルに少々の反発も感じていた。久しぶりに「インプレッションズ」をひっぱりだしてその良さを再認識してまた聴きだしたのだけれど、あまりによくできたスタンダードともいえる楽曲の数々に満足して、ほぼその範囲の中でとどまってしまっていた。
ところがである、ドライブ中に何気なく「Denim」を流していて、ある日歌詞の中の「気がつけば五十路を越えた私がいる」というフレーズにはっと気が付いた。このおおよそこれまでの彼女の音楽イメージらしくない言葉と自分の年代が重なり合った瞬間、これまで「デニム」というタイトルにピンとこなかったけれど、この「人生の扉」って曲は竹内まりあが自分と同世代にむけた人生肯定の応援メッセージソングだったんだ、と。そう気が付いて、改めてCDリーフレットに記載された竹内まりや自身の文章を読むと、ちゃんと以下のように書かれている。
アルバム「Denim」について
人生はまるでデニムのようだと、私は思う。
青春をおろしたての真新しいインディゴ・ブルーにたとえるとすると、
年を重ね人生が進むにつれて、そのデニムの青は少しずつ風合いを増しながら、さまざまに変化していく。
ある時には糸がほつれ、穴が開いたりもする。
けれど、歴史とともに素敵に色褪せたその青には、若き日のあのインディゴにはなかった深い味わいが生まれているはずだ。
この中の「人生の扉」という曲はタイトルからして、気負いもてらいもなく人生賛歌にそのまま向き合っていて逆に、彼女の余裕のようなものを感じる。ピアノ主体の演奏や落ち着いた歌唱も真っ向勝負の大人の曲そのものですがすがしい。リーフレットの写真には、デニムスカートやジーンズをまとった竹内まりやのショットがあって、舞台となった瓦屋根の日本家屋はクレジットされてないのだけれど、はたしてどこだろうと想像するに、おそらくこれって島根出雲地方出身の彼女の生家の旅館ではないだろうか? ちょうどこの春が去ろうとする季節、帰省したばかりのタイミングに相応しい心象も相まって、この歌曲の歌詞を引いてみるので、もし興味をもってくれて機会があったら聴いてみてほしい。
人生の扉
春がまた来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少しづつ変わるよ
陽気にはしゃいでした 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 超えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったから
どんな小さいことも 覚えていたいと 心が言ったよ
(作詞・作曲/竹内まりや、編曲/山下達郎、センチメンタル・シティ・ロマンス)
戻ってきて、まほろの住まいの裏の自然林の緑もいよいよ濃くなり、ヤマザクラ、ヤマブキに代わって稀少植物のキンランが可憐な花を咲かせている。今年はうれしいことに初めてギンランも二株、植生を確認することができた。こちらはよく注意しないと気がつきにくらい緑の下草にまじってひそやかに清楚に白い小さな花を咲かせてくれている。
帰省の前後、ほんの少し上の世代にあたる竹内まりやのCD「Denim」(2007年)を聴きだす。1978年の慶應大学生時代にデビューして、当初は女子大生アイドル的なスタンスで売り出されていたのだけれど、セカンド「ユニヴァーシティ・ストリート」、サード「ラブ・ソングス」あたりから、アメリカポップスカバーと自作オリジナル曲を前面に出すようになり(もともとそれが彼女の本領だった)、特に後者は私にとって思い出深いアルバムになった。大学生時代の夏休みに北軽井沢の嬬恋村にある会員制別荘地でアルバイトをしていたのだけれど、そこでよくひとり早起きして浅間山の雄姿を望みながらカセットテープ!で聴いていた曲が、竹内まりやの「ラブ・ソングス」だった。冒頭の「FRYAWAY」(詩C.B.セイガ-/曲ピーター・アレン)の伸びやかな歌声が、爽やかな避暑地の早朝にぴったりだった。そこですっかりはまってしまい、帰ってから4THアルバム「Miss M」(1980年)をよく聴いたのを思い出す。それはいまも手元に愛聴盤としてあるのだけれど、このアルバムの中で山下達郎が二曲「エブリイ・ナイト」「モーニング・グローリー」を提供している。これが、まりあと達郎のはじめての接点でいまにつながるきっかけだったと思う。
さて、前置きが長くなったけれど、この「Denim」の中のラスト曲が「人生の扉」なんだ。じつをいうと竹内まりやは「Miss M」以来、しばらくご無沙汰していてた。達郎&まりやの理想の音楽カップル、才能のある夫を支える主婦専業シンガーソングライターという世間レッテルに少々の反発も感じていた。久しぶりに「インプレッションズ」をひっぱりだしてその良さを再認識してまた聴きだしたのだけれど、あまりによくできたスタンダードともいえる楽曲の数々に満足して、ほぼその範囲の中でとどまってしまっていた。
ところがである、ドライブ中に何気なく「Denim」を流していて、ある日歌詞の中の「気がつけば五十路を越えた私がいる」というフレーズにはっと気が付いた。このおおよそこれまでの彼女の音楽イメージらしくない言葉と自分の年代が重なり合った瞬間、これまで「デニム」というタイトルにピンとこなかったけれど、この「人生の扉」って曲は竹内まりあが自分と同世代にむけた人生肯定の応援メッセージソングだったんだ、と。そう気が付いて、改めてCDリーフレットに記載された竹内まりや自身の文章を読むと、ちゃんと以下のように書かれている。
アルバム「Denim」について
人生はまるでデニムのようだと、私は思う。
青春をおろしたての真新しいインディゴ・ブルーにたとえるとすると、
年を重ね人生が進むにつれて、そのデニムの青は少しずつ風合いを増しながら、さまざまに変化していく。
ある時には糸がほつれ、穴が開いたりもする。
けれど、歴史とともに素敵に色褪せたその青には、若き日のあのインディゴにはなかった深い味わいが生まれているはずだ。
この中の「人生の扉」という曲はタイトルからして、気負いもてらいもなく人生賛歌にそのまま向き合っていて逆に、彼女の余裕のようなものを感じる。ピアノ主体の演奏や落ち着いた歌唱も真っ向勝負の大人の曲そのものですがすがしい。リーフレットの写真には、デニムスカートやジーンズをまとった竹内まりやのショットがあって、舞台となった瓦屋根の日本家屋はクレジットされてないのだけれど、はたしてどこだろうと想像するに、おそらくこれって島根出雲地方出身の彼女の生家の旅館ではないだろうか? ちょうどこの春が去ろうとする季節、帰省したばかりのタイミングに相応しい心象も相まって、この歌曲の歌詞を引いてみるので、もし興味をもってくれて機会があったら聴いてみてほしい。
人生の扉
春がまた来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少しづつ変わるよ
陽気にはしゃいでした 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 超えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったから
どんな小さいことも 覚えていたいと 心が言ったよ
(作詞・作曲/竹内まりや、編曲/山下達郎、センチメンタル・シティ・ロマンス)