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日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

建築・美術館周遊~表参道を明治神宮へ(番外編)

2014年06月30日 | 建築
 夏本番近し! 次々とあざやかな朱色のノウゼンカズラが咲き誇っているのがあちこちで目に入ってくる。水無月最後の今日は、夏越しの祓(なごしのはらえ)にあたり、今年もちょうど半分が過ぎて、これまでの穢れや不浄を払い清めるの茅の輪くぐり行事が行われる。夏越しとは、神慮をやわらげる「和し」(なごし)の意味であるともいわれているそうだ。

 表参道青山から外苑めぐりを記述するにあたって、すこし時間が経ってしまったこともあり、思い立って前回見落としたところや訪れることがかなわなかった明治神宮内苑の花菖蒲を久しぶりに眺めてみようと、再度週末雨模様の表参道へ足を延ばしてみた。
 午前11時に地下鉄表参道駅のA4口から青山通りを挟んで、山陽堂書店の壁画、「傘の穴は一番星」(谷内六郎)が目に入ってくる。ここから8日の建築・美術館めぐりははじまったのだった。小雨の中に一瞬、Mの姿が見えたような気がしたけれども、ちろん現実にはそんなことはない。


 山陽堂書店の壁画(谷内六郎)、その前の女性の姿は偶然の他人です、念のため。 

 青山通りを渡って壁画の前に立つと、銘板があって昨年亡くなられたコラムニスト天野祐吉さんの谷内ROKUさんに寄せる文章が書かれているのに気が付く。天野さんの主宰された雑誌「広告批評」編集事務所は、このちかく南青山四丁目にあった。書店のショーウインド展示は、「女のいない男たち」から、“小澤×村上春樹”「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮文庫)に代わっていた、やれやれ。そうしてもうひとつ、今年亡くなられてしまった安西水丸さんの最後の著作「ちいさな城下町」も。イラスト集ではなくて紀行集だろうか、意外な気もするが水丸さんの知られざる側面が書かれているのかもしれないね。この二冊はこの書店で購入するのがふさわしい。


 山陽堂書店ショーケースの小澤×村上対談本と安西水丸エッセイ集。

 ポスター左側丸囲み部分に「厚木からの長い道のり」とあるが、これはお二人が厚木のライブハウスにジャズピアニスト大西順子を聴きにいったエピソード゛から来ている。この邂逅は、サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子との松本での共演につながるきっかけとつながる。この文庫本が表参道で展示されているのは、厚木から小田急線に乗って代々木上原で地下鉄千代田線に乗り換えて、長いいばらの道=ロング&ワイディング・ロードということなのか!?
 せっかくだから、書店内に入ってみる。正面は雑誌ラック、唯一ムラカミ短編集が平置されているのがご当地らしい。左手にレジがあって、狭い店内の壁面には実用書や単行本の棚が並ぶ、置かれた本のセレクトが地域柄を反映しているかのようだ。右手に階段があってその壁面にも書棚が二階へとつづく。二階はギャラリーで、これまでのおもな企画展のイラストや版画作品が展示されている。和田誠&安西水丸の合作イラスト、谷内六郎さん壁画の原版画(「488/600」と記された)もありました。それとならんで正面のガラスを通して眺める青山通り風景が何よりもここらしい?展示作品かもしれない。向かいの「落ち着いた雰囲気だった「大坊喫茶店」は、ビルの建て替えもあって数年前に閉じてしまったのですね。
 ここから、青山通りを渋谷方向へ、にわかに雨が激しくなってきた。前回行けなかった「Found MUJI」へ駆け込む。1983年にオープンした「無印良品」路面1号店(神宮前5-50 中島ビル)は世界各地からのセレクトショップへとコンセプトを変えて健在だった。だたし、おおまかな店構えと2階建ての構成は変わっていない。商品陳列棚の白い壁には、黒字でシンプルに次のメッセージが。

 「何か新しいものを見つけることではなく 古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを 新しいもののように見出すことが 真に創造的なことである。」
                                 フリードリッヒ・ニーチェ

 いってみれば『温故知新』、この店内はモノを売るだけではなく、街なかで「スマートなライフスタイル」を哲学しているのである。おかげで少し賢くなれたような気がしたのは錯覚かな。そのせいか、柄にもなくすこし微熱を帯びてきたようで、店をでて横町を歩きまわる。「シナリオ・センター」の看板をチラリと目にする。住宅街の中におしゃれなショップ・飲食店が進出してきて街の空気がいやおうなく伝わってくる。ここらで空腹を覚えてどうしようか迷ったけれど、やっぱり「ねぎし」青山通り店で牛タンとろろ・麦めしの定食をいただくことした。ここは、前回コース周りによっては立ち寄ったかもしれないところで、味・雰囲気・値段ともに相応の大好きなところ。少し早めに入ったおかげですぐにカウンタ―席に座れたけれど、たちまちビジネスマンや若い女性でいっぱいとなってしまった。

 昼食を終えると外はすこし小降りとなっていた。246号青山通りのマロニエ並木は、どうやら若いケヤキに植え替えられたようだ。通りの反対側に、スパイラル(1985、設計:槇総合計画)の複雑ではあるけれど、端正で上品なファサードをちらりと望む。ちょうど前回のときみたいな天候のもと、雨に濡れたケヤキ並木の表参道をこの日は明治神宮方面に抜けていこう。TODS(2004、設計:伊東豊雄)、ルイ・ヴィトン(2002、設計:青木淳)、ディオール(2003、設計:妹島和代+西沢立衛/SANAA)、ポール・スチュアート=神宮前太田ビル(1981、設計:竹内武弘)をはじめとする欧米ブランド店舗のオンパレード、いすれも有名建築家の設計による現代建築のショーケース通りだ。その反対側の通り沿いには、店舗フロア上に住居を載せた表参道ヒルズがケヤキ並木と高さを揃えた姿を現している。先の周遊時は、青山通りからクレヨンハウスに立ち寄った後、その前の道をTODSビルのわきからでてきて、横断歩道からこのあたりのまっずぐに伸びる並木と建築を眺めたのだった。ここからの眺めは、東京を代表するヴューポイントとしてまさにハイライトといえる景観のひとつ。この地点から参道は少しゆるく下がり気味に傾斜して伸びて行き、やがてキャットストリートを過ぎると上昇に転じる。その絶妙な勾配にそってケヤキ並木の緑ときらびやかな現代建築が連なり遠近を意識させる眺めは、都市東京ならではのドラマ性を強く感じさせる。
 さらに先に進むと、戦後の米軍相手のお土産店からはじまったという「オリエンタルバザー」や「富士鳥居」などのエキゾチック!な伝統工芸品を販売する店舗は、予備校時代に興味深々で覗いたことがあり、懐かしいところだ。田中康夫「なんとなく、クリスタル」(1981年)の主人公由利が学生時代を過ごした舞台の設定はこのあたりで、小説ラストには表参道を青山通り方面にむかって走り抜けるシーンが描かれていた。30年くらい前の都会の華やかさ、それは今から考えると実に表層的にすぎなかった風俗のようなもの(その分確実にその時代の一面を現していた)にあこがれていた記憶が、雨の中を歩きながらフラッシュバックする。
 
 明治通りとの交差点までくる。雨が再び激しくなってきた。雨宿り先を探して原宿駅前のドトールコーヒーへ入る。ここも改築されてしまったが、旧店舗には入ったことがあって、記念すべき第一号店の遺伝子を継ぐ店だ。その反対側には東京オリンピックの翌年1965年に竣工した、コープオリンピア(設計施工:清水建設)の姿。ケヤキ並木にそって雁行式に並んだファサードが並木に調和して、そこに住んでいる都市生活者の豊かな風景を感じさせる建物だ。一階にはいまも変わらず老舗の広東料理店「南国酒家」があって、この支店がまほろ市にもできたときは、真っ先にここの風景を連想した。ドトール店内で村上短編集の中の一篇「木野」を再読しているとラストシーン、脳裏にはボブ・ディランの「天国の扉」の陰鬱な重たいメロディーが聴こえてくる。

 雨が少し止んでいた。山手線にかかる原宿橋から来し方の参道を振り返ると、駅前歩道橋が撤去されていて見通しがすっかりよくなっていることに気づく。ケヤキ並木が続く視線の先に雨に煙って六本木ヒルズも望め、その反対方向左手前方には、国立代々木体育館の反った吊構造の大屋根が見える。いよいよ、明治神宮だ。内苑の花菖蒲はまだ、残っているだろうか?

建築・美術館周遊(2)~ 南青山 旧山田守自邸

2014年06月21日 | 建築

 南青山五丁目の交差点から、こどもの城青山劇場を右手前方に望んで通称骨董通りを渡り、さらにワンブロック進んだ青学記念館手前を左に入る。そのすぐ先の貸しギャラリー「蔦サロン」と「蔦珈琲店」がある三階建てのやや古びた白い鉄筋コンクリート建物が、建築家山田守(1894-1966)の知られざる?旧自邸だ。各階の薄い庇と建物の角がやや丸みを帯びているところが特徴的、グレーと水色の中間くらいのペンキに塗られたベランダの手すりと調和している。竣工した当時(昭和30年代と思われる)はさぞかしそのモダンぶりが目立っていただろうと想像されるが、レンガ塀の向こうの庭の桜も大きく育った枝ぶりを拡げている。
 山田守自邸が青山学院のすぐ隣、南青山に存在していることが意外な感じがする。この旧自邸を訪れた機会に、建築家山田守とその代表的な建築をめぐっての事柄をいくつか記すことにしよう。

 山田守は、岐阜県出身で1920年代の大正時代に近代建築運動の先駆けである“分離派建築学会”の有力メンバーだった人物。元逓信省官僚となり省庁建築に関係したあと、東海大学に転身して建築学科の礎を築いた。ともに東京オリンピックの1964年に竣工した「京都タワー」や「日本武道館」など、誰でも知っている建物の設計者なんだけれども、名前をあげられる一般人は少なくて、その評価も建築以外の観点から話題にされることが多い建築史上微妙な位置にいる存在だ。だいいち名前からして、マンガの主人公みたいで拍子抜けするくらい平凡?、その実績の割にはちょっと不運な印象をもつ。なんだか建築家としては、主義主張を述べるより状況にあわせて柔軟で器用な人だった気がして、法隆寺夢殿を模したといわれる武道館などは、本人の指向というよりも東京オリンピックを控えた政治的な思惑に従った産物だったのだろう。その正統派とは少し異なる建築家人生をたどるとなかなか興味をひかれる存在だ。ちなみに同じ分離派メンバーで、その後明治大学建築学科教授になった堀口捨巳は茶室や日本庭園の研究で有名だけれど、山田と同年代で同郷岐阜の出身。こちらのうほうが、伝統に回帰したといわれる分敬意を払われているかな。

 個人的に山田による代表的な建築についての随想をあるがままに。まず、京都タワーは商業施設とホテルとローソク型の展望塔が合わさった構成といい、構造的にも実にユニークなものでけっこう好きな建物だ。竣工当時は賛否両論、景観論争の走りのようなものだったらしいが、時代の経過とともに「和ローソク」を思わせる展望台が夕闇に浮かぶ姿は、それなりに古都となじんできたようで、東寺五重の塔とともに京都駅周辺のシンボルとなっているのだろう。その時代の受け取られ方の変遷がおもしろく、興味を覚える。
 地下にある浴場施設はたしか午前7時から営業していて、早朝深夜バスで京都駅に到着した際には目覚めのリフレッシュに利用させてもらったり、夕方帰りの新幹線の時間があるときには、展望台から盆地に広がる碁盤の目の街並みを俯瞰して感慨にふけり、そのあと地階に降りてひと風呂浴びせさせてもらってから帰路に就くなど、おおいに利用させてもらって実はとても愛着のある存在だ。
 日本武道館はオリンピック柔道大会の後、ビートルズ来日演奏会場をきっけかに日本を代表するロックコンサート会場としてその名前は内外に轟いているのだから、そのような用途は想像していなかったであろう本人も草場の陰でさぞかし驚いているだろう。まったく、建築も人生もそんな意図しない要素のなかで新しい局面が展開されていくのは、まあ一緒なのかもしれない。
 東海大学湘南校舎の基本配置計画と主な初期校舎群は、やはり山田守の設計で特徴あるアール角と螺旋状スロープ、細い水平ラインの手すりは、一目で山田の意匠と印象づけられる。やや日本離れしたかの広々した湘南キャンパスはじつに気持ち良いだけれど、総じて大味な印象は否めない。まるで、東海大学そのものの日本の大学における微妙なポジションを象徴しているようでもある。ここのあたりが、建築家山田守としての脇の甘さ?ともとられない、建築史におけるやや評価の定まりにくい位置加減なんだろうと思うのだ。

 さて、南青山の白き自邸に入ってみる。古びた螺旋階段を上がると二階がサロンだ。その大ぶりの鉄扉はグレーに塗られた観音開きで、やはり弧を描いているのが山田らしい。扉の上の壁には、牛乳ビンの底のような丸くて厚いガラスが埋め込まれている。鉄・コンクリート・ガラスと素材からして完全にモダニズム建築の要素がそろっている。室内は意外にも、和風数寄屋の造りで奥の間には囲炉裏を切った茶室の間もあることに驚かされる。お庭に面した方向は、大きなアクリル面(ガラスではなく)がはめこまれ、外の緑陰が飛び込んできて実に和風モダン。適度に自然のままにまかせたお庭風景が都会の真ん中を一瞬わすれさせるかのようだ。このような情景も“市中の山居”のたたずまいというのだろうか。こうしてみると山田守も西洋モダニスト一辺倒ではなくて、和風にも接近して自分なりのアレンジを加えた意匠を試みている。外観がモダニズム、室内のある部分は和風を取り入れて融合を図っているところが、やはり日本的なのだ。早すぎた巨匠にして遅れてきた変革者という山田守への独特な評価は、ある意味肯定できる名誉ある称号なのかもしれない。

 訪れたときは、素焼き主体の焼締陶器(作陶:山本安朗)と古流式お花の室内によくあったしつらえ、ひと休みに抹茶を出していただいた。流れているBGMは環境音楽風であり、室内空間のなりたち・展示品・音の組み合わせによく気が配られている感じがよかった。もう少し、内装の保持に手が回らないのかと惜しまれるが、うーんこれも時代の流れをあるがままに受け止めてやがて朽ちていくかもしれない予感が漂う山田守自邸らしくて、味わい深くこのままでいいのかもしれないと思った。
 帰り際、Mが愛おしい感じで建物の裏手を眺めていたのも何か感じるとことがあったのかもしれない。退屈させちゃうかもと心配したけど、ホント好奇心旺盛なんだね、とてもうれしいよ。

 さて、ここを出ると次は青山通りを渡って、それぞれにとって思い出があるなつかしの(20数年ぶり?)落合恵子さんが主宰する、絵本のクレヨンハウスへと向かう。そして、表参道の歩道橋から見事なケヤキ並木越しに世界のファッションブランドビルの数々を眺め、神宮前の横町を抜けてワタリウム美術館、「塔の家」と進み、本日の締めくくりは、外苑銀杏並木の先の聖徳記念絵画館へと、まだまだ建築・美術館周遊の旅は続く。
 (6/18書始め、6/21初校、6/26校正)


建築・美術館周遊(1)~表参道青山あたり

2014年06月14日 | 建築
 八日午前、地下鉄出口を駆け上がると表参道は小雨に濡れていた。交差点脇からすぐ、山陽堂書店の谷内六郎の壁画を傘を差しながら見上げている黒のコートを着た細身なMのうしろ姿が目に入った。はるばる来てもらったのに、先に待っていてもらっていて申し訳ない気持ちで声をかけると、振り向きざまのすこし不安げな表情が和らいで、たちまちいつもの彼女のたたずまいに戻ったような気がした。いよいよ、建築・美術館めぐり表参道青山周遊のはじまりだ。

 今回の連絡をもらって、建築めぐりで歩く場所を考えていたときに真っ先に浮かんだのが、南青山六丁目旧高樹町にある根津美術館あたりだった。五月雨に濡れた表参道の欅並木や周辺の緑が落ち着いた街並みにふさわしいだろうと思ったのだけれど、もうひとつ頭の片隅にあったのは(ちょっと背伸びだけれど)村上春樹の最新短編集の中の一篇「木野」(主人公の名前、初出は文芸春秋2014年2月号)の舞台が、根津美術館裏の路地の奥にある“小さな一軒家”一階を改造したバーだったからということもある。そうしたら驚いたことに、「これね」といってMの指差す書店の壁画の下のショーケースには、なんとその単行本「女のいない男たち」が、お勧め?の一冊として展示されているではないか!ちなみに単行本の表紙カバー画には、バー入り口のしだれ柳の木と灰色の猫が描かれていて、おそらく連載中「木野」篇に添えられたものだろう。まあ、地元老舗書店のすこし気の利いた経営者であれば、青山あたりが登場する短編集なのだから当然のことなのかもしれないけれど、この心遣い?はうれしいな(書店のショーケース画像を後日アップ予定)。

 二人して小雨の中、傘をさしながら美術館の方向へ歩き出す。銕仙会能楽研修所はモダンなコンクリート打ち放し(1983年竣工、設計:日本共同企画建築設計事務所)の壁面と古典芸能との組み合わせが実に斬新な建物で、能楽界の前衛と目される流派に相応しい。ここの舞台で上演される青山能や沖縄舞踊公演には何度か訪れたことがある。その向かい、アカシヤ並木の合間からにヌメッとした全面厚いガラス張りの表情を見せるプラダブティック青山店(2003年)は、ビル自体がブランドを象徴するショーケースとなっている。その隣は、鮮やかな北欧ブルータイルの壁面を見せる洋菓子ヨックモック本社で、シンボルの西洋花水木が中庭に植えられた瀟洒な喫茶ルームに立ち寄ってみたい気はするけれど、まずは目的地へと進もう。
 根津美術館は10時の開館前なのに、もう数人の入場待ちの姿が見える。ひっそりとした状況を予想していたからすこし驚かされた。やはり隈研吾設計で建て替えられた建築自体の話題もあるのだろうな。この場所にふたりして来れるなんて想像もできなくて、それが実現してとてもうれしい反面、なんだかそわそわして照れ臭い。だって学生時代ならともかくこの年代になってみて、お互いの知らなかった側面がここで交差するなんで不思議でしょう。まさしく“僥倖”という言葉がふさわしいように思えるし、くわえて偶然にしてもこの日六月八日は、忘れることができない。何故ならば、このブログ“日々礼讃日々是好日”の開設一周年にあたるささやかな記念日なのだから!

 今回の展示は、館所蔵中国明清時代の工芸品で、コレクションで企画展ができてしまうこの美術館のたいした底力を思う。一階の展示を見た後は、茶室の点在する庭園をひと巡りして、ミューズカフェでひと休み。天上の和紙を通した照明が優しく、四方のガラス面からは周囲の庭園のあるれる緑がまぶしい。お互いのいまの暮らし、実家と家族のこと、豊田市美術館ミュージアムガイドのこと、中村好文氏と建築のこと、小田原本家と名古屋“ういろう”談義?など、いろんな話が次々とでてきてあっという間に正午を回ってしまっていた。
 本館に戻って二階の中国古代青銅器、明清の絵画、日本茶器コレクション(さりげなく千利休の茶杓、山田宗偏の黒楽茶碗も)を見たあとは、青山ブルーノート前を通って次の訪問地、同じ町内の岡本太郎記念館(1954、設計:坂倉準三)へ。
 ここが楽しかったのは、岡本、坂倉と70年大阪万博の関係についてで、なんと!同行してくれたMは、小学生のときに近所の数家族がそろって初めての新幹線でこの万博に出かけていったのだそうだ。太陽の搭の模型をはじめ、当時を振り返る記録集も最近出版されたようで、そのページをめくると見覚えのある各国や企業パビリオンが「あー、これもこれも覚えている、確かにテレビニュースでみかけた」といった感じで目に入ってくる。懐かしさを通り抜けたニッポン高度成長期の時代と「進歩と調和」を掲げた博覧会テーマがダブって走馬灯のように脳内を駆け巡ってクラクラしてきた。実際にアメリカ館で「月の石」を見てきた記憶があるよ、というなんともうらやましい万博体験の持ち主といっしょに、いまも唯一当時の記憶をとどめてそびえ立つ「太陽の塔」作者である美術家岡本太郎のアトリエを訪れているなんてね!

 いったん青山通りに向かって進み、小原会館横を通った横丁の和食店で昼食をとったあと、この先表参道を下り神宮前方面に抜けて外苑西キラー通りのワタリウム美術館を訪れるか、それとも青山墓地を通り抜けて乃木坂方面の新国立美術館に行くかを話し合った(Mからキラー通りの「塔の家」の名前が出てきたことに感謝。だってワタリウムへ行くなら、自分もその塔の家を久しぶりに眺めてみたかったからという思いとシンクロしたからね)。まあ、せっかくだから以前東京在住だった子育て時代に通ったという思い出の国立「こどもの城」(いま見ないと来年には閉館が決まったそうだ)と落合恵子さん主宰のクレヨンハウスを経由していくと、前者のコース取りがいいだろうということなり、青山学院方向に歩き出すことにした。
 ここの交差点で立ち止まっていたときに話を交わしたことで、この建築周遊コーズにさらに加えて岡本太郎(1911-1996)や坂倉準三(1901-1969)と同時代に生きたもうひとりのモダニズム建築家、山田守(1894-1966)の自邸を尋ねることにしたのだった。




Houseから、Hut(休暇小屋) へ

2014年06月01日 | 建築
 水無月にはいる直前でしたが、中村好文さんの「食う寝る遊ぶ 小屋暮らし」を手に取り読ませていただきました。例によって著者自身のカラーイラストスケッチと手書き説明文がついた表紙の総ページ数112頁の書籍で、思わず手に取りたくなるような素敵な装幀です。表紙カバーをとると本体にもイラストが描かれていて、そこにはちょっとした著者の遊び心が表現されています。イラストの煙突から煙を上らせた山小屋にいたる曲がりくねった小経には、「The long and winding road that lead to yuor Hut」とあり、ビートルズの一曲に重ねられたメッセージが書きこまれていることに思わずニヤリとさせられるでしょう。

 この本の中で、著者は2005年から信州浅間山のふもとの御代田(新潟への帰省の際に上信越自動車道で通りすぎる場所!)で、既存の小さな建物を改装増築してはじめた休暇時の田舎暮らしについてのあれこれを11章仕立てで書き綴っています。そこにあった建物は、もともとはこの辺りを開拓に入った老夫婦の住まいだったもので、床面積14坪の住宅というよりは小屋という呼び名に相応しいものでした。その建物を借りて改装した際に、著者の干支にもちなんで「レミング・ハット=旅鼠の小屋」と命名したんだそうです。ここにおいてようやくこの文章タイトルのハット=HUT(山小屋)につながってきます。それは日常の住まいである「HOUSE」と、週末や休暇をを過ごす山小屋「HUT」を対比してみることで、暮らしとか生活の質について、大きくは宇宙船地球号の環境とエネルギー問題について、思いつくままあれこれを書き綴ってみたいと思ったのでした。

 序章の「憧れの休暇小屋」とは、南仏にある建築家コルビジュの“夏の休暇小屋”やアメリカのボストン郊外コンコードのH.D.ソローが暮らしたウオールデン湖畔の小屋を意識したものでしょうけれども(わたしはここに、岡倉天心が太平洋を眺めながら思索にふけったという五浦六角堂をくわえてみたいのですが)、若き日の著者は以下のように記しているんです。ちなみにこの当時の著者は、海を望む場所に小屋を建てて、日がな一日、海を眺めて過ごしたいという願望を長年にわたって持ち続けていたそうです(ほらね、やっぱり五浦六角堂に籠って瞑想する岡倉天心の心持ちと一緒でしょう)。
 「私はこの小屋を電線や電話線、水道管やガス管などの便利な『文明をの命綱』で繋ぐのはやめようと考えている。・・・自然の恵みで真正面と向き合って暮らす質素で贅沢な休暇生活を送りたいのである。」
 つまり、これは「不便も愉しい」ことに価値をおいた暮らすことの原点と向き合う日々を試行してみようという表明にほかなりません。ここでいう文明とつながれた“さまざまな菅”とは、例えれば病院のICUで重体に陥った病人につながれたチューブのようであり、いたずらに延命を図る現代医療行為の写し絵のようにも思えてくるのです。その命綱を繋ぐことをやめてみた時にみえてくる本当の姿とはいったいどのようなものでしょうか。

 中村氏は、ここで“食う寝る遊ぶ”暮らしを実践する日々を嬉々と記しています。ときに敷地の畑での農作業、ベランダでの大工仕事や、ハム造りの愉しみ、晴耕雨読と音楽三昧の日々・・・。その姿を映した数編のショットから受ける印象は、どことなく“無印良品”の提唱するような、都会の豊かで裕福なエコロジーにも関心のある“ソトコト”世代のライフスタイルにどことなく似ている印象を与えますが、そのこと自体は決して悪いことではないだろうな、という気がします(これは批判ではありません。実際のところ、わたしも都会近郊の生活を享受し、無印良品の恩恵に預かっていますし、その製品のファンでもあります)。中村氏の述べるところの“食う寝る遊ぶ”暮らしは、ハウスとハットを往復しながらけっして無理がなく地に足がついた自然なものと見受けられます。

 もうひとつ、この本の中で紹介されている小屋があり、それは「書斎兼風呂小屋」というもので、山小屋のある敷地内の対角線上、畑を隔てた位置にちょこんと存在しているかわいい建物なのです。建築面積はわずかに三畳半で、「起きて半畳、寝て一畳」の書斎と風呂を共存させた発想がたいそうおもしろく、設計者快心の居心地の良い建築空間に違いありません。山小屋の台所兼居間からすこしの距離を歩いてその「書斎兼風呂小屋」にたどりつくと、小机の前の突き上げ窓からは佐久平を挟んで八ヶ岳が望めるのだそうで、なんとうらやましい!ロケーションでしょうか。
 この小屋にはまだ愛称はつけられていないようなので、その生まれた巣穴に戻ってきたような心持ちからして、著者への憧憬の想いを込めて(僭越ではありますが)次のように名付けたいと思います。
 いわく、レミングネット=鼠の巣!小屋。これで「レミングハウス」(世田谷奥沢の著者が主宰する建築設計事務所)、「レミングハット」「レミングネット」と三つ揃いとなりました。どうですか、コウブンさん、気に入っていただけましたか?
(5/31書下ろし、6/1追補、6/3改定、著者の文体を模して習作を試みました)

 
 
 

目白逍遥~ゆかりの建築家と二つの教会を巡って

2014年04月06日 | 建築
 目白ケ丘教会と東京カテドラル聖マリア大聖堂。目白駅をはさんで山手線の外側と内側にあるふたつの教会は、その建築としてのたたずまいも、設計した二人の建築家の生き様も鮮やかなまでに対照的だ。目白という緑豊かな、まるで都会の中のエア・ポケットのような周辺を語ろうとするときに、このふたつの教会の存在から導き出される事柄はとても興味深いものがある。
 そして目白周辺ゆかりの建築家との関わりでいうと、目白ケ丘教会を設計した遠藤新、東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計した丹下健三にくわえて、あとふたりの著名な存在をあげなければならない。この地に晩年の約10年間、事務所を構えて活動した吉村順三と、自由学園明日館(国重要文化財)を設計したフランク・ロイド・ライト。目白周辺を逍遥しながら、建築作品を通して四人の建築家に想いを巡らしてみることにした。

 
 3月22日午前10時半、目白駅前ではるばる名古屋から来てくれた友人Mと待ち合わせ。昨年来の再会がうれしい。すぐに目白通りを横断して、山手線沿いに池袋方面に歩いて目的地へと向かう。10分ほど歩くと左手方向に婦人の友社社屋が見えてきて、そのすぐ先を左手に折れた住宅地のなかに自由学園明日館が飛び込んでくる。中央の二階建てのホールと食堂棟を中心にして水平に両手をひろげたように芝生広場を取り囲む、高さを抑えたプレーリー様式と呼ばれる建物。F.L.ライト(1867-1959)と遠藤新(1889-1951)の日米師弟による設計で大正10年(1921)の竣工。自由学園明日館は、ライトが帝国ホテルの設計のために来日した際に、遠藤が学園創立者の羽仁吉一・もと子夫妻から依頼されて紹介し、共同設計した建築作品だ。簡素でありながら、壁のベージュと軒先や窓枠の濃い緑のラインの対比、大谷石の階段が美しい。広場前の道路にそってソメイヨシノの大木が枝を拡げていて、桜の季節には少し早いが、もうすぐの満開の時期は素晴らしく美しいに違いない。この日も建物をはさんだ道路前でスケッチしている何人もの方たちがいる。竣工当時、この風景はまだ出現していなかったはずだから、もしライトが桜風景と明日館との夢見ごこちの競演を知ったならば、大変驚くと同時にさぞかし喜ぶに違いないだろう。
 この日は貸切の結婚式が執り行われていたので、室内を見学できなかったのがすこし残念!だが、以前ホールの中に入ったときには、外見の印象からは想像できないくらいの豊かな高さのある空間が拡がっていた。ホール室内からは、正面左右対称の五つの縦長窓ガラスから差し込む外光と、中からの広場の眺めが印象的だった。幾何学的なデザインの小ぶりの椅子やテーブルは遠藤新によるオリジナルデザイン。
 通りを挟んで明日館の右手向かいには、遠藤新設計による講堂があって、こちらは昭和2年(1927)竣工の国の重要文化財指定。いわゆる脊椎動物の背骨と肋骨を応用した、遠藤が三枚おろし構造と呼んだ初めての建築で、落ち着いた室内空間だ。二階席から眺めた舞台と距離感がほどよい。大正時代の自由主義教育運動の流れの中で創立された学園のモットーは、キリスト教精神に基づき「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」(まるでH.D.ソローそのもの)だそうだが、それに相応しい雰囲気が確かにここには漂っている。さほど広くはない敷地に、F.L.ライトと遠藤新の師弟建築がふたつ調和してじつに豊かな空間をつくりだし、背景の近代高層ビル建築との対比がこの地の奇跡ともいえる稀少な空間をいっそう鮮やかに浮かび上がらす。ふうっとため息が出てくるのだ。

 明日館をあとにふたたび歩きだし、西武池袋線を渡って区立目白庭園へ。Mをここへ案内したかったのは、もう20年くらい前に勤労青少年大学講座仲間と宿泊したことがある思い出の「うずら荘」(公立学校共済組合宿舎)跡地だから。でもよくよく聞くと、Mはその時は参加できなくて宿泊はしていない!現在は、長屋門のある緑ゆたかな回遊式泉水庭園としてよく手入れされ、都会の中のオアシスとして、まるでもとからそこにあったかのように存在している。庭園の塀の向こうに、かつて勤務していたことのある池袋サンシャイン60がなぜか墓標!のように望めた。
 お昼時になって、何を食べようかと話しながら目白通りを歩いていて「志むら」へ。和菓子と甘味屋さんなんだけれど食事もできて一階が売店、ニ階が満席で三階を案内される。周りを見ると地元人に愛されているんあだなあと実感する顔ぶれ、おいしくて値段も良心的で落ち着ける。ここでMが今回用に購入してきた「東京建築散策ガイド」を見せてもらい、次の訪問場所をあれこれ検討。さらに私が持参した愛用の「どこでもアウトドア 東京山手・下町散歩」(昭文社)を開いて、地図上で実際のルートと距離を確認する。

 次は、目白ゆかりの建築家の三人目、吉村順三(1908-1997)の建築事務所をギャラリーとして公開している場所へとむかう。そこへの道はどうも目白骨董通りと呼ばれているらしい。歩いていると古美術や古道具が並べられているあきらかに何か独特な雰囲気を放つ店舗の前で、Mが立ち止まって中を覗きこんでいる。一呼吸おいて、中に入れていただくとヨーロッパや中国韓国の陶器、アフリカの古い民具などが置かれている。男性の先客がふたり、奥にご主人らしき人。どうやら白洲正子とも交流があった、高名な骨董の目利きとして知る人ぞ知る方の店舗らしい。Mによると芸術新潮に連載を持っているそうだけれど未読だ。店内は選び抜かれた骨董品と著作本が並び、静謐な雰囲気が横溢していて、私たちの会話も自然と声を潜めた感じになっていく。

 そして吉村ギャラリーへ到着。吉村順三は住宅の名作を多く残した建築家で、A.レーモンド直系の弟子、そのレーモンドは、帝国ホテルの設計の仕事でライトに呼ばれて来日後、独立して日本にモダニズム建築を確立させた人だから、吉村はライトの遺伝子を継ぐ孫弟子のひとりで、その意味ではまあ、遠藤新とは伯父と甥っ子の関係にたとえられようか。端正で合理的な意匠は、モダニズムの正統を引き継ぎながらそこに日本の伝統を加味して、ヒューマンな味わいがある好きな建築家のひとりだ。
 代表作のひとつ、愛知県立芸術大学キャンパスは写真と資料でしか見たことがないけれども、昨年新潟への帰省の途中に群馬谷川岳のふもとにある、遺作となった山の別荘といった感じの「天一美術館」を訪れることができた。また数年前に、初期の設計になる「箱根ホテル小涌園」(1959年竣工)へ宿泊してわずかに残された竣工当時の意匠の面影を外観に探ったりしたものだ。古さは否めないが、外国人向けリゾートホテルの草分けらしく、部屋の間取りはゆったりとしている。裏側の庭園から望む外観に当時の意匠が残されていた。
 今回は、晩年の代表作のひとつ、八ヶ岳高原音楽堂で1989年に録音されたCD(チェンバロ演奏:キース・ジャレット)を持参、そのCDジャケットには、白地に金文字でタイプしたかのように「J.S.BACH GOLDBERG VARIATIONS]と印字されている。この音楽堂をいつか実際に訪れてみたいと思い続けている。せめて、設計者の吉村ギャラリーに持参することで実現するようにと願っての思いだ。一階の落ち着いた雰囲気のVIP応接室を拝見しながら、建築資料を参照していると思いかけず、かつての仕事部屋であるスぺースを見せていただけることになった。二階から三階の半分は吹き抜けで外観からは想像できないくらいのゆったりした容量の空間に設計デスクが並ぶ。ここで、おそらく八ヶ岳高原音楽堂も設計されたのだろうと思うと感激もひとしおのものがある。

 ギャラリーに隣接した尾張徳川当主家東京屋敷にある、通称“徳川ビレッジ”を通り抜けて目白通りを渡って旧近衛町へ。その通りの真ん中に残された大ケヤキを過ぎると、美しい鐘楼をもった建物が見えてくる。その目白ケ丘教会(新宿区下落合)は、遠藤新最後期の建築作品で1950年竣工。F.L.ライトの愛弟子にして、晩年ライトからの書簡において、日本における「我が息子」とまで呼ばれた。
 
 軒先に使われた大谷石と寺院の五重塔の先にある“水煙”をほうふつとさせる“鐘楼”が特徴。建物はよく手入れされて大事に使用されていることがわかる。

 その先の突き当りには、旧学習院学生寮で現在は日立倶楽部となっているしゃれたスパニッシュ様式の白亜洋館が見えてくる。白い漆喰壁に高さが平行移動して並んだ縦長窓と白い煙突がアクセントとしてリズミカルな雰囲気を醸している。その先を右折して、もういちど反対方向から目白が丘教会へと回り込み、目白駅に戻ってバスに乗車して、椿山荘方面へと向かう。

 学習院キャンパスをすぎ、目白三丁目で下車してすこし歩くと、左手に日本におけるカソリックの総本山、東京カテドラル聖マリア大聖堂の大伽藍が見えてくる。目白通りをまたぐ歩道用からMがスナップ撮影した、アルミキャストをまとった宇宙船のようなメタリックな姿。夕方五時の夕陽を反射して輝く姿が実に神々しい(さすが来日時ローマ教皇も説教したカソリック総本山の大聖堂!)
 
 設計:丹下健三(1913-2005)。ここが竣工した1964年は、東京オリンピックにむけて代表作の国立代々木体育館が竣工した年でもあり、聖堂の左手に直立するコンクリート塔のデザインは、代々木体育館屋根を吊構造で支える中心軸のデザインとよく似ている。Mと大聖堂の中に入ってみる。コンクリ―ト打ちっぱなしの硬質で荘厳な空間に息を吞む。ここの空間で、新調されたパイプオルガンの響きを聴いてみたいものだと願った。同じ教会建築でも先の遠藤新の設計とは対照的で、丹下のほうは天上へ権力や神への上昇志向がうかがえ、いっぽうの遠藤新の教会はまさしくヒューマンそのものであり、建物は水平に低く拡がり、地に足がついている印象がある。どちらが美しいかは、価値観によるものだろうけれども、すくなくとも付随した塔の造形デザインに関しては、日本の伝統美を生かした目白ケ丘教会とシャープな直線を生かしたコンクリートによるモダニズム建築が必然的に指向する世界標準仕様との対比であると思われる。

 ふたりの建築家の志向を単純に図式化してみれば、国家権力により沿うかたちのモダニズム建築家丹下健三と、自然・地所との調和を重視し、市井に生きた生活派の遠藤新。この対照的な建築家による二つの教会は、奇しくもふたりの建築家がこの世を去った1951年と2005年、それぞれの人生の最後の場、斎場として選ばれている。
 さらに丹下にすこし先行する世代の吉村は、モダニズム派でありながら和風建築にも通じ、住宅建築に設計活動の重点をおき、印象に残る作品を多数のこしている。何よりも皇居新宮殿設計をめぐる気骨ある決断は、約ニ十歳年上の遠藤の生き方につながる建築家のように思える。目白において吉村が関与した建築は、自ら主宰した建築事務所の現吉村ギャラリーしか知らないが、晩年の吉村が事務所をそれまでの赤坂からこの地に移してきた理由を想像してみるにひとつ思い当たることがある。それは、大正期から昭和初期に活躍した建築家、山本拙郎(1890-1944)と所属した「あめりか屋」が関係した目白文化村住宅の存在だ。
 吉村は対談集のなかで、初期に影響をうけた建築家として、山本の名をあげていると同時に、山本が関係していた建築雑誌の住宅設計競技に応募して入選したことが建築家を目指すことになった原点=オリジンであることを語っていた。吉村のモダニストでありながら、ときに見せるヒューマンでロマンチスト的側面は、山本の影響があるんではないだろうか。付け加えれば、遠藤新は山本拙郎との住宅論争でも知られるから、吉村はそのあたりで遠藤を意識していたかもしれない。

 それでは最後に、もっとも年長のF.L.ライトの日本における存在と影響力がどのようなな系譜に位置づけられるのか。これはもう今のわたしの容量範囲を遥にこえてしまうことになる。勇気を出して大胆な仮説を述べると、日本においてライトの建築上の遺伝子は、A.レーモンドを介して吉村順三に無意識下に伝えられたはずで、ライト直系の遠藤新とライトの影響を脱したレーモンドの直系弟子吉村順三は、期せずしてこの目白の地において、原点であるライトの建築遺伝子でつながれたといえるだろう。その意味でモダニスト建築家吉村順三は、ほぼ同世代で同じ括りとして見られるであろう丹下健三よりも、じつは一世代前の遠藤新と親和性のある存在であると思う。ライトの自然との調和を指向した“有機的建築”思想は、日本ではここ目白の地において、遠藤新と吉村順三に受け継がれている。
 
 目白の地は、四人の建築家(くわえてあとふたり、A.レーモンドと山本拙郎も)を巡る物語の聖地であって、その地を巡礼することで近代建築のおおきな流れと建築家の生き様をたどることができるところ、といえようか。建築も建築家も大きな歴史の潮流のなかでの相関関係の中、育まれていくものだと実感した一日だった。

 そしてそれができたのはM、あなたのおかげです。ありがとう!

                                                   (4.3書初め、4.6校了、4.8追記、4.12再修正)

藤沢市労働会館~70年代モダニズム建築の光芒

2014年03月08日 | 建築
 藤沢宿ちょいぶらの続きで、いよいよ今回のまちあるきのハイライト、藤沢市労働会館(1976年竣工、設計:群建築研究所・緒形昭義)に辿り着いた。

 この建物の存在を知ったのは、数年前「湘南庭園文化祭」という、毎年秋行われる神奈川湘南地区の旧別荘地域に遺された歴史文化資産を活用した市民主体事業のキックオフイベントの会場として訪れた時が最初だ。藤沢駅から徒歩10分ほど南仲通り沿いにの高台にそのやや古びた建物はあるのだが、その前に立ってみて、ここが小田急江ノ島線で藤沢駅に到着する少し手前の鉄橋をすぎたあたりの左手側の方向に見える、周囲から少しとびぬけた高さの錆色列柱に持ち上げられた塔屋の建物であることに気がつく。建物正面部分の外側に非常階段がらせん状についていて、ファサードデザインとして大胆かつ強烈な自己主張をしている。コンクリート、鉄とアルミ、ガラスを材料とするモダニズム建築の特徴が見事に表出した建物で、今回はその空間と外観を解説付きでじっくりと見れる機会となった。

 坂道をすこし上った傾斜地にある会館は、コンクリート打ち放しの一階、地階一階部分が城壁のようで、その上に合計12本の円柱で持ち上げられた三層分の本館が乗っかるなんとも大胆な構造と空間構成だ。中二階部分は周辺に向けて開かれたピロテイーもしくは空中庭園のようになっていて、裏手の丘陵高さに合わせて自由に出入りできるようになっている。城壁部分の縦長や円形の窓枠とあわせて、コルビジェの唱えた近代建築の条件を意識して適えたかの印象すらある。ただし、赤レンガ床なのがなんともおもしろい。中島先生に、「“スカイハウス”(1958年竣工、文京区大塚、設計:菊竹清訓)を彷彿とさせますね」と話すと(お互いに実物は見たことがないものの)一応?同意していただいたので、まんざら見当はずれでもないのだろう。
 中世の城郭のような低い入り口を通り抜けてエントランスホールに入ると大きく天井までの空間が広がり、思わずため息がでる。内面の一部はコンクリート打つ放しの壁面が外からそのまま内部にも露出してきたかのようだ。天井もコンクリート梁が格子状に露出している。う~ん、40年近くを経たとはいえ、この生々しさすら漂ってくる雰囲気は、設計者のこの建物に込めた迫力というか執念のようなものから来ているのだろうか、しばし沈黙。

   
     ≪正面入り口から本館を見上げる。これだけでこの建物の全貌を想像するのは難しい。≫

 正面からは本館の存在は強調されるが、裏側に回って空中広場に出ると、ホール棟と食堂等の楼閣屋根が立ち上がり、まるでチベットラサのポタラ宮殿のような印象すらある。地階一階および一階建物底地の約三分の一程度に地上四階建ての本館が立ち上がっているという特異な(建築効率から言えばなんと贅沢な!)設計であり、いまこのような建築を成立させることは不可能である、と断言できるほどの建築物がこの地で現実のものとして存在している。その意味で、70年代モダニズム建築の奇跡を体現する「巡礼の旅」の終点に相応しいのかもしれない。

  一階には、300席ほどのホールと和室があるがここも見どころ満載だ。まず、ホール。中に入ってみると荒々しい赤レンガ壁面、天井照明の黒いグリッド、むきだしでうねるような真っ赤な空調ダクトの異様な迫力に一瞬、息を飲む。座席は四角いスペースを三方から平土間舞台を囲むような配列。対面する舞台後方の壁面には木製の音響反射板が取りつけられていて、扉に張られた木板とあわせたホール室内意匠の一部ともなっている。
 それでは和室はどうか。この建物内に和室があるということがちょっとした意外性だと思うのだけれど、これがまたモダン和様ともいうべき二十四畳の広さ。なんといっても入り口の襖戸と中の障子戸のサイズが通常の1.5倍ほどの幅がとってあって、とくに障子戸は四隅の一角二辺を合わせる形でレイアウトされ、その2枚をそれぞれいっぱいに開くと、ガラス越しに鮮やかに大きく外庭が望める仕掛けとなっている。隅を支える室内柱をなくした代わりに、建物外に張り出した二本の列柱を設けている。ここにも構造体を建物の外側こ押し出して、モダニズム建築意匠の一部として強調し、内外との開かれた関係性を保ちながら室内空間を魅力的に構成するという手法がみてとれるようで、これらには意外性の二乗!くらいに驚かされた。コンクリート建築の中の和室としては、様相は異なるが、現在の目黒区役所本庁舎としてコンバートされた旧千代田生命本社ビル(1966年竣工、設計:村野藤吾)を見たときの感動を思い起こした。

 中二階は会議室、三階も会議室四室があり、窓が横長水平方向に連続して大きく取られていて、高台周囲の眺めをみわたすことができるようになっている。そして最上階である四階は、驚いたことに体育室のスペースがとられている。三方向はガラス張り!となっていてこんなに眺めの良いフロアで汗を流すことができたらさぞかし壮快に違いないだろう。遠方には江の島や富士山も望めるはずだから、なんとまあ贅沢なスペース!しかも驚いたことに、竣工当時からしばらくは、サウナも併設されていたというから、さらにびっくりである。
建物設計者、緒形昭義(1927-2006)は、基本構想として五箇条からなる「藤沢労働会館基本法」を遺していて、この原則に則って建物空間を構成したことを今回の中島先生の説明で初めて知り、当時40、30代だった建築家集団のモダニズム建築への意気込みと“労働運動”“革新自治体”(当時の藤沢市長は葉山峻氏)がまだ輝きの残り香を放っていた時代精神=ヒストリカル・スピリットを感じないではいられなかった。
 この建物が数年後に改築される可能性があるという話もでていたけれど、1970年代モダニズム建築の光芒を体現しているこの知られざる傑作(もしかしたら記念的問題作か?)をぜひとも遺したうえで、活用してもらいたいと切に願う。

 全体を見終わった最後に全員が三階の会議室に戻り、群建築研究所所員でこの建築設計に関わられたK氏が市民運動にも熱心だった緒形昭義の設計思想と生き様について語って下さった話がとても興味深かった。
 終了後、K氏と建築家A夫妻と、労働会館から歩いてすぐの漆喰壁蔵造りの蕎麦処“喜庵”に立ち寄る。そこで緒形氏をめぐる70年から80年代に建築に情熱を傾けた青年像のエピソードの数々を伺うことになり、時代と建築を切り結ぼうと意気込む姿になんともいえないうらやましさと敬意を感じつつ、話ははずんだ。K氏より「緒形昭義のこと」というタイトルの2008年発行追悼文集の思わぬプレゼントがあり、ありがたく頂戴した。2006年に故人となられた緒形氏の肖像を初めて拝見したが、はにかみを含んだ笑顔が魅力的な印象でその生き様を彷彿とさせる。

 群研究所+緒形昭義の建築は、同じ藤沢市内ライフタウンの湘南大庭市民センターを見学にいったことがあるが、新横浜のオルタナティブ生活館も同時代(1985年)の設計であることを知り、ほかの竹山団地センターや寿町総合労働福祉会館も見に行ってみようと思う。緒形氏の遺稿である「書評:前川國男ー賊軍の将」が興味深く、もしかしたら緒形氏は自分の建築家としての生き様を、前川國男に重ねていたのかもしれない。

 この日は終日雨だったが、早春の人と建築と歴史性との僥倖に感謝!

 

東海道藤沢宿ちょいぶら ~常光寺、1970年代モダニズム建築

2014年03月03日 | 建築
 二日はあいにくの雨天だったが、旧東海道藤沢宿まつりに出かける。小田急江ノ島線藤沢本町で下車して、徒歩数分の白旗神社境内を通りぬけ会場の御殿辺公園へ到着。雨の中いくつかのテントが並んでいたなかに、慶應大学湘南藤沢キャンパス大学院中島ゼミのブースをみつけることができた。

 きっかけは、約一年ぶりにいただいた静岡伊豆半島在住のK氏からのメールだった。直接お会いしたことはないのだけれど、気になっていたモダニズム建築「藤沢市労働会館」の設計にかかわられて、その直後郷里に戻られ、いまも建築事務所を主宰していらっしゃる。今回の藤沢宿まつり参加プログラムの中に、藤沢市労働会館をとりあげて見学するツアーがあり、興味があれば参加しませんかというお誘い、二つ返事で申し込みを済ませて当日、K氏の到着をテントの中で待った。
やがて、集合時間の11時半近くに、地元外といった感じの三人連れが受付に立ち寄られた。もしやと思いお声掛けすると、案の定、K氏当人と建築仲間の方だった。K氏は白髪交じりの眼鏡をかけた中背の紳士、やや長身のコート姿の男性と黒上下の女性のお二人は横浜市内に事務所を構える建築家ご夫妻である。初めての対面の挨拶を交わして、さっそく今回のツアーのコースを地理模型図上で確認して、しばし歓談。
しばらくして、別のコースガイドから戻ってこられた今回の企画者である慶應大学の中島直人先生の先導で、ほかの数人の参加者とともに雨の中を傘を差しながら、東海道を渡って向かいの常光寺(浄土宗)に到着。門をくぐると楠の木の大木がそびえていて、よく手入れされた境内はすぐ手前の街頭とは異なる静寂な雰囲気を醸し出している。さらに奥左手の墓地中に、樹齢350年といわれるカヤの巨樹が見事だ。
 ここには、彫刻家にしてランドスケープデザイナーのイサム・ノグチの父、詩人・評論家の野口米次郎(1875-1947)が眠る墓がある。前回の横浜こどもの国に引き続くイサム・ノグチとの邂逅で、藤沢のつながりが全くもって意外な驚きだったが、米次郎の兄がここの住職をしていた縁だという。その墓石は御影石の台座の上に、黒色で密度のある長方体石を三つ組み合わせたもので、ローマ字サインで墓名が刻まれていた。30代の若き中島先生によるとイサムノグチのデザインによる可能性があるというが、真偽のほどははっきりしない。イサム・ノグチは米次郎が米国留学のときに、現地の恋人との間に生まれた子供でその直後、米次郎は二人を残して帰国してしまう。なんだか当時の知識人のひとつの典型で、森鴎外を連想させる。その複雑な関係が父子と親族関係にも影を落としているようだ。ちなみに米次郎は、慶應大学文学部英文学科主任教授の職にあった、これも今回の企画主催が慶應大学ゼミであることと、まあつながるという偶然のような必然的不思議ではある。

 さてさらに進むと、今回のコースゆかりのもうひとりの人物、中島統一(日本特殊鋼管株式会社の創立者、のちの新日本製鐵につながる会社のひとつ)一族の墓石も少し先の小高い丘部分に木立に囲まれてある。一般になじみのない名前で、今回のツアーで初めてその経歴を知ることになるのだが、次に訪ねる70年代モダニズム建築の隠れた?傑作(いや問題作?)の藤沢市労働会館敷地は、昭和40年代中頃まで中島氏邸宅と江の島相模湾の望める庭園があったところだという。明治中期以降、藤沢駅周辺が新興の住宅地として開けてきたころの記憶をとどめる丘陵の突端の景勝地であったわけだ。

 江戸時代以降、宿場としての発展してきた町の記憶の堆積と現在に残る社寺、そして大邸宅跡の70年代モダニズム建築をめぐる巡礼の旅、次回はメインの「藤沢市労働会館」(1975年竣工、設計:群建築研究所、緒形昭義)についての訪問について記そう。   (3.3書きおろし、3.6初回校了)