日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

豊田市美術館はランドスケープの機微

2015年12月29日 | 建築
 十二月のしぐれ雨、師走の三河からの旅はそんな空模様ではじまった。もっと正確にいうと自宅を出て、まほろ駅午前八時ちょうど発の小田急ロマンスカーはこね3号7号車3A席に座り、小田原に向かっていたときからすでに今回の旅は始まっていたのだけれど。
 
 小田原駅から新幹線に乗り換えて豊橋へ、そこから名鉄名古屋本線を乗り継いで山あいの住宅地がまじった鄙びた風景の中を進んでゆく。途中、岡崎に近くなるとようやく郊外らしい街並みが続き、知立で名鉄三河線に乗り換える。ここで来年2月中旬に「世界劇場会議フォーラム」が開催※されるので、もしかしたら再度訪れることになるかもしれないと思ってホームから周囲を見回す。まだ、それほど再開発の波に洗われていないのどかな地方都市のようだ。それからしばらくして豊田市駅には正午すこし前に着く。ここまでくるともう、名古屋近郊の中核都市の貌が見えてくる。
 ※これって記憶違いで再確認したところ、フォーラム2016の開催会場は可児市文化創造センター(岐阜県)。

 ブルーのコートを着た笑顔の友人が改札前で待っていてくれた。そのまま駅前のデッキを渡り、徒歩で十五分の豊田市美術館に向かう。愛知環状鉄道の高架をくぐって左方向へ緩やかな坂を上った先が旧七州城郭跡で、そこにすっと水平線方向横長にたたずむのが、開館二十周年を機にリニューアルしたばかりの美術館だ。
 以前最初に訪れた時とは逆の裏ルートからのアプローチが新鮮で、目的地に近づくにつれて高揚感が増してくる。上りきった丘の上は公園のようであり、周囲を見わたせる絶好のランドスケープ、アメリカの環境デザイナー、ピーター・ウオーカーによる設計で、人工池に映る建物姿が印象的である。さらに谷口吉生設計の建物本館前と人口池の間に横一直線に伸びる深緑色のパーゴラ(日陰棚)が風景を引き締めて美しく、効果的な周囲とのコラボレーションとなっている。建物正面の乳白色のグリット面の集合体は、リニューアルで幾分白さを増したようでこれまた清々しい。
 お腹がすいていたので、眺めのよいミュージアム内レストランへ。ここからは中庭テラスの彫刻作品、「色の浮遊 三つの破裂した小屋」が見える。立方形の外観はミラー仕様で周囲を写し、それぞれの内側が赤、青、黄と塗り分けられている。あとで外に出て近づいてみると美術館本体やテラス周囲と視覚的に共鳴して構想され、設置されていることに気がつく。ここで童心に帰ってかくれんぼごっこをしてみると、互いの実像と虚像が入りまじって実に楽しい。
 この池の端には、能舞台のような形状の突きだしがあって歩み出てみる。そこに佇むブルーのコートに城のタートルネックセーター、格子柄ズボン姿の解放された笑顔は、青空を水平に区切るパーゴラと雨があがってその澄んだ青空を映した水面のひかりを受けて爽やかだ。ちょっと北欧の風景の中の透き通った情景を連像させ、全体の風景と一体になっている。ふと、昨年の今頃公開されたスウェーデン映画「ストックホルムでワルツを」を思いだし、また観てみたくなった!

 隣接の日本庭園童子苑の茶室でお茶をいただき、外に出るとあたりはすっかり夕暮れ時で、闇が増してくる中、東には上弦のお月様、西方向は澄んだ空がかすかに光ってまぶしい。人工池の水面には、行燈のような美術館の逆さ姿が映っている。その美しさにふうと深呼吸、池の周囲を巡りながら暗闇にすうと浮かび上がる美術館をふたりして眺めていると、初めて出逢ったときに想像していたその夜の姿が夢の中のようで、しばしのあいだを慈しむ。

公園前の白い家はレーシーな装い

2015年02月28日 | 建築
 よく晴れた冬の青空の下、公園越しに丹沢大山の山並みを望める郊外にある白い家の見学会へと立ち寄る。JR相模原駅からバスに乗って10分ほどの大通りからひと区画入った相模原台地のはずれに近い住宅街にある住まい。建物のすぐ前には、けやきなどの樹木や遊具などが据えられた「てるて公園」が広がる。ちょっと不思議な名称だけれど、テルテル坊主とはまったく関係なくて、じつは説経節やスーパー歌舞伎で知られる「小栗判官と照手姫」の「てるて」にちなむ命名と知ると、たちまち中世に想像力が飛翔していく。この横山の地は、地方豪族横山一族の「照手姫」誕生伝説の地のひとつであって、その意味では歴史的に由緒のある名称なのだ。

 まあ、前置きはそんなところにして、その公園に面して竣工したばかりのホワイトハウスの前にたたずむ。40坪余りの敷地に在来木造二階建ての端正な住宅。外壁は弾性シリン吹付、妻入り屋根はガルバリム鋼板仕上げと呼ぶのだそうで、太陽光発電パネルが乗っかっている、。特徴的なのは、公園と対する南面テラス部分を覆う、表面を白く吹き付けられた花ブロックとよばれるコンクリートブロックの組み合わせ。この組み合わせが織りなすレース模様がなんともエレガントで美しい。テラスの下が車2台分の駐車スペースとなっていて前玄関口につながっている。設計したのは、都内雑司ヶ谷に本拠を構える設計事務所「アトリエマナ」の河内真菜さん。

 引戸をくぐると20平方メートルあまりの中庭があって、施主が自ら山野から移したというモミジなどの木々が植えられている。ここで始まる生活とともにこれらの木々も芽吹き、緑を茂らせ、紅葉そして落葉、ふたたびの芽吹きを繰り返し、家族とともに成長をしていくのだろう。ちょっとした市井の山居といった雰囲気、自然を呼び込んでいる
 前玄関から90度の角度で中庭に面した玄関口があって、大きな引戸をひらいていよいよ建物の中へ、外界のつながりから室内へと引き込む歩調のリズムがなんとも心地よい。玄関左手に階段があって少し掘り下げた西側は、大型居室(寝室)・ダイニングキッチン・ロフトの三層からなり、反対の東側一階はトイレ・バスルームなどの水回り、二階が20平方あまりの横長リビングスペースとなっていて、全体がゆったりとしたスキップフロア形式となってつながっている。そしてそれぞれの上層階は斜め天上高でじつに解放感あふれる空間だ。
 リビング前の広めのテラスに出てみると、さきの花ブロックの隙間から西日が壁に差し込んでできるシルエットがやさしくて美しく、まるでA.レーモンドが設計した教会堂の中にいるかのような不思議な感覚に陥る。その模様が陽光の動きにつれて移動していくさまを想像するだけでうっとりとしてしまう。おおきく拡げられた両手の中に内包されるかのような安心感に溢れ、テラス側からブロック壁模様を通して正面の公園の木々の様子が伺えて、このホワイトハウスが周囲の街なみと緩やかに繋がっている。


 夕暮れ時、公園前のケヤキのシルエットが端正なホワイトハウスの花ブロック壁面に映り込む様子にはっとさせられる。

 帰りはJR横浜線に乗って、まほろ駅前のベデストリアンデッキを乗り換えのために人ごみの中を急いでいていると、小田急デパートの巨大なガラス面にまもなく沈もうとする如月最終日の夕陽が輝く。そのあまりに郊外都市を象徴するような情景に思わず足を止めて見入る。小田急線をまたいでそびえるデパートの屋上壁面には、ウルトラマンの貌みたいな旧小田急のアイコン。太陽の塔の作者、岡本太郎が見たらきっと喜びそう。


 

慶應日吉キャンパスのヴォーリーズ教会

2014年12月06日 | 建築
 来年の秋に二胡の演奏会を企画していて、その所用で港北ニュータウンを結ぶ横浜市営地下鉄グリーンラインに初めて乗った。JR横浜線山中駅で下車して乗り換え、日吉行きの車両に乗り込む。都内大江戸線と同じで建設コストが低額で済むように、通常の地下鉄よりもひとまわり小ぶりの車両だ。
 五つ目の北山田駅で下車して、その日午後の演奏会が行われる地区センターを目指す。ここでのロビーコンサートに出演するのが、横浜をベースに活動してる二胡奏者のシェンリンさん、10月に町田でその演奏を初めて聴いたときになかなか素晴らしくて、出演依頼できる機会を持ちたいと思っていた。今回は地域の無料コンサートなので、ディズニー曲など親子連れを想定したプログラムだったけれど、最後の曲が意表をついておもしろかった。なんと、ジャズ原曲の「バードランド」。オリジナルはジョー・ザビヌルの率いたグループ、ウェザーリポートで、一般的にはボーカルコーラスグループのマンハッタントランスファーの大ヒットで知られる。アップテンポの明るい曲調で会場内に違和感なく溶け込んでいた。

 ふたたび地下鉄に乗り、終点の日吉まで出る。駅ビル改札を通って外に出ると慶應大学日吉キャンパス入口が正面だ。ちょうど黄色に染まった銀杏並木が両側に奥までずうと伸びている。すこし周辺を歩いてみたくなって、綱島街道を下り住宅街に入って奥まった階段を上り、キャンパスの裏手の高校グランドの脇に出た。丘の上から横浜都心のビルが住宅越しの望める風景だ。グランドでは高校生たちがバッティング練習を行っている。たしかこの奥には、谷口吉郎が戦前に設計したモダニズム寄宿舎があるはず。グランドの縁には新幹線のトンネルが通っていて、その路線は新横浜駅からその先の名古屋方面にもつながっていく。丘の縁の住宅の前には、冬空に伸びた皇帝ダリアの薄ピンク色のシンプルな花がいくつか、寒くはないのかいと声を掛けたくなってくる風情の中、咲いている。

 と、グランドの端に赤いトタン屋根の古い建物が目にはいってきた。最初は野球部室かと思ったけれど、よくみると小さな尖塔のうえに十字架がある。教会?でもミッション系でもないところにどうしてと不思議に思いながらも通り過ぎようとしたが、やっぱり気になって戻り、思いきってキャンパス内へと歩みいる。その建物はどことなくかわいげな感じ、どうぞと招き入れられるような気がして、建物前にまで歩み寄ってみた。すると入口に説明版があって慶應大学YMCA会館とあり、さらに読むとなんと戦前の1937年に竣工したW.M.ヴォ―リーズ(1880-1964)設計の教会堂だった!まさかこんなところで出会うなんて本当にうれしくもあり驚いた。なにしろ横浜でのヴォ―リーズ建築といえば、山手の横浜共立学園くらいだと思っていたので意外だった。キリスト教系の学園以外で敷地内にチャペルがあるのは、国内ではほかに例がないとか。中に入れていただくと、高天上はシンプルな木組みで、正面奥にはきちんと祭壇があり、並べられた椅子は坂倉建築事務所のデザイン、天童木工製で、東京六本木の国際文化会館から譲り受けてきたものなのだそう。う~ん、インテリアまでスゴイぞ。それにしても、戦前から戦後しばらくのヴォーリーズ建築の影響って、キリスト教をバックにして全国津々浦々まで拡がっていることの一端を、ここ日吉で実感する。

 帰りには、戦前1934年竣工の白亜の古典洋式を加味したモダニズム建築、慶應義塾日吉校舎(曽根中条建築事務所)の前を通り、キャンパス中央の見事に黄色く色づいた銀杏並木が続くゆるやかな坂を下っていく。この軸は駅ビルの正面吹き抜け空間を抜けて、反対側の日吉中央通まで一直線に伸びて、キャンパスと住宅地が結ばれている日本離れした象徴的なビスタ=眺望軸を形成している。
 わずか一時間あまりだったけれど、思わぬ発見の日吉さんぽを満喫させてもらったひとときでした。


 慶應義塾大学基督教青年会館の赤い尖塔と銀杏

 冬空の寒そうな空気のもと咲く、わらかいピンクがなんだか、けなげでいじらしい皇帝ダリア

金沢武蔵ケ辻、十間町の村野藤吾から鈴木大拙館へ

2014年11月24日 | 建築
 北陸金沢を訪れるのは二度目で2007年11月24日以来になる。振り返って調べてみたら、最初が仕事がらみの出張で七年前のちょうど今日のこと!夜までの勤務を終えた後、横浜発の夜行バスに乗り込み、翌日早朝の金沢駅前に到着したのだった。
 JR金沢駅前には能楽囃子の小鼓を模したような巨大なゲートモニュメントがそびえ、開館間もない話題の石川県立音楽堂の建物が目に入ってきて、底冷えはしていたけれど金沢に来たんだ、と実感したことをよく覚えている。まずは北鉄駅前センターに立ち寄って観光バスの午前コースを申し込み、隣接したホテルのカフェで朝食を取って出発時間を待った。バスはまず、浅野川を越えて東方向、金沢市街を一望できる卯辰山公園山頂に向かった。ここから俯瞰した浅野川と犀川にはさまれた金沢城と兼六園を中心とする街並み全体が、わたしの金沢の印象としてずっと刻印されることになる。

 そうして、期せずして偶然同じ時期にふたたびの金沢、その日は神奈川圏央道、関越道、上信越道から北陸道と車を走らせ、走行距離が500キロを越えた夕方五時過ぎにようやくホテルに到着。三階の部屋でシャワーを浴びて着替えた後、すぐに荒天の中をいそぎ足で金沢21世紀美術館を訪れて「ジャパン アーキテクツ 1945-2010」を見る。フランス人キュレーター、F.ミゲルーによる戦後日本建築史を俯瞰する六つのセクションで構成された展覧会。丹下、坂倉、菊竹、大谷、大江、谷口、前川、村野、吉阪、レーモンド、吉村といったすでに故人となった大御所をはじめとする有名建築家の作品図面、パネル、模型がずらりと並んで圧巻。興味をひいたもののひとつは1970年の大阪万博俯瞰模型、いまからみると無邪気なくらいに未来礼讃、SFチックな仮設建築のオンパレードが時代を感じさせる。故郷を同じくする異色の建築家渡辺洋治作品もみかけたが、肝心の「斜めの家」模型と図面は見逃してしまった。

 深夜、ふらふらと大手堀正面のホテルへ戻り、夜明け前に目覚めると暗闇に雷光が光っている。そのまま、前夜の出来事のことを考えながら眠れずにぼんやりと朝を迎えると、次第に白んだ空はあいにくの曇り空と時折の雨。ホテルから傘をさして歩きだし、Mから在処を教えてもらった、戦前若き日の村野藤吾が設計した十間町の中島商店ビル(1932年7月竣工)を見にいく。鉄筋3階建の正面がベージュ色タイル張りビルで隣の望楼つきの伝統町屋との対比がおもしろい。竣工した当時は、この街並みの中でさぞかし斬新であっただろうけれど、八十年余りを経ていい色合いのファサードをはじめ、建物全体がすっかり周囲になじんでいる。階層ごとの窓枠の違いの変化がいかにも村野らしい。中島商店ビルの向かいは、すみよしや旅館で創業が江戸時代、三百数十年以上の歴史を持つ宿だそうで、その重厚な木造二階建ての黒々としたただずまいが目をひく。宿泊料は意外と庶民的で、次の機会にぜひ泊まってみたいと思わせる宿だ。
 この近くの武蔵ケ辻交差点には、昨晩見て回った旧加能合同銀行本店(1932年4月竣工)現北国銀行支店もあり、こちらは同じベージュのタイル貼りながらも、船底型の尖塔アーチが三連で並ぶ特徴的なファサードで、辻にふさわしいランドマーク性を際立たせていた。その香林坊方向へ下ったすぐ脇が近江市場への入り口となる。この二つのビルは同年の竣工ということもあって、その意匠の類似性と立地による差異の対比が興味深い。

 まだ七時すぎ、Mと待ち合わせをして朝の近江市場通りをぬけていくことにした。海産物鮮魚を中心に、開店準備中で活気づき始めている市場をひやかしながら、朝食をどうしようか尾崎神社の近くまで歩く。結局、大手堀正面の宿泊先の二階のレストランでバイキングをとることにした。テーブル正面の窓際からは堀の向こう、城郭石垣に松の木の緑、イロハモミジの赤が対照的に映えて美しく、ここからの眺めがこの場所で食事する価値があるだろうと思えたくらいで、雨に濡れていっそう絵になる眺め。話題は最近亡くなられた赤瀬川原平さん、それから谷川俊太郎さんのことなどに及んで持参していた本を見せ合うことに、お互いの興味の視点がおもしろい。

 九時過ぎ、雨が降ってきた中を車で金沢城公園と兼六園の間を抜けて10分ほどの本多町にある今回の訪問のメイン、鈴木大拙館へと向かう。本多町交差点の少し先の民家の間を入ってすぐの背後の緑の斜面を背にしてその建物はあった。谷口吉生の設計で2011年7月に竣工しているから、村野藤吾設計のふたつのビルから79年後のこと。
 鈴木大拙(1870-1966)は金沢本多町出身、日本よりむしろ海外で有名な仏教学者で禅=ZENの思想を世界に広めた人物。晩年は鎌倉に居住し、東京で亡くなっている。わたし自身高校時代に禅思想に興味をもっていた関係でその名前を意識してきたけれども、久しぶりの再会だ。ただし今回は、鈴木の思想そのものよりも、Mからの影響もあって建築空間に対する期待をいだいての訪問で、コンクリート打ち放しのエントランスから期待感が高まる。入口脇から横に入るといきなり「水鏡の庭」と命名された人工の矩形の池に出会う。雨粒が水面に落ちて小さな泡となって模様を描いている。正面は花崗岩の壁で水平に隔てられ、その向こうが斜面の緑の木々で、モミジやイチョウの紅葉が見事な対比をみせている自然を借景とした情景。思索空間と名付けられた四角い白い浮身堂のような建物は、なんと土蔵造り二階建てで、本館鉄筋コンクリートのモダン建築と伝統建築工法が回廊でつながり、人工池に面して違和感なく融合しているのが本当に素晴らしい。

 順路に戻って本館に進んでいくと、なにやら人だかりの先に長身の白髪紳士、なんと谷口吉生氏ご本人が案内している場面に遭遇したのだった。館の係の方に伺うと、谷口氏設計の東京・京都国立博物館や豊田市美術館、資生堂アートハウスほか全国の博物館美術館の連携記念会合があって、その関係者が来館中とのこと、その後からそろそろと従うはめになった。そうこうしていると、遅れて黒のソフト帽に黒の上品なカシミヤコートの小柄な老人の姿が目に入る。あっ、とびっくり、槇文彦氏である。期せずして建築界の両巨頭のツーショットに遭遇するという僥倖!こんなことって偶然にしても出会うことがあるんだ、と心底驚ろかされた。やっぱり、午前中早くにきてよかった、その後しばらくは幸運にも、お二人の会話を伺いながら同じ空間体験を共有することとなった。
 外部回廊からふたたび水鏡の庭を眺めながら思索空間へと移動していく。雨はやんでの文字どおり“水鏡”状態、そうしてしばらく眺めていると、今度は雲が切れて奇跡的に青空から冬の陽光が差し込んで、水面にきらめく。しばらくの間のこと、その日差しのもと、雨に濡れた緑の木々と紅葉がいっそう鮮やかな表情をみせた。Mと歩いて回っていると、なぜか思わぬ出会いや偶然があり、何故だろうと本当に不思議な気にさせられる。帰りは池の脇を通って横から水鏡の庭を眺め、隣接の松風閣庭園との間の狭い通路を歩いて行き、中村記念美術館前庭園に出て表通り前の車まで戻る。

 わずか一時間あまりのことだったと思うけれど、凝縮されたここの空間での幸せな時間と体験は一生忘れることができないひととき。大拙と同年に生まれた石川出身の哲学者には、これまた高名な西田幾多郎(1870-1945)がいて、ふたりは旧制高校からの畏友どうし、その西田記念哲学館が金沢のほんの少し先のかほく市にあり、こちらは安藤忠雄の設計ということで現代建築家の対比としても興味深く、次回訪問の機会には目指してみよう。

 金沢芸術村での谷口吉生×槇文彦対談会場へ向かう車中、「LONGTIME FAVORITES」(2003年)を聴きながら移動する。この中に竹内まりや&大瀧詠一による唯一のデュエット曲「恋のひとこと Something Stupid」(ナンシー・シナトラ、1967年)というたわいのない甘いラヴソングがあって、このカヴァー曲を一緒に聴いてもらうのが夢だったのだけれど、まさか金沢で実現するなんてね。
 このたびの旅は、やっぱりきっかけを作ってくれたMにいつもながら感謝!
                                        (2014.11/24初校、11/28 0:10 改定加筆)



明日館講堂三枚おろしの秘密って?

2014年11月03日 | 建築
 霜月に入って最初の日曜日午後、自由学園明日館講堂を訪れるために、目白駅から徒歩で川ビレッジ前の通りから住宅街を通り抜けて、西武池袋線を渡ってしばらく行く。九月末にシルクロードゆかりの楽器による演奏会を聴きに来て以来の変わらず落ち着いたたたずまい。よく晴れた秋空の下、本館前の芝生広場に沿った通り沿いには、四本の大きなソメイヨシノが気持ちよさそうに枝を拡げていて、そよ風に揺れた葉がすこし色づき始めている。

 「明日館講堂と遠藤新」と題された講演会、この秋から耐震補強工事に入る前の粋な計らいの催しにはせ参じたのは、建築家の遠藤現(遠藤新の四男萬里の子息)氏と関澤愛(長女うららの子息で東京理科大学教授)両氏が登壇されるので。関澤氏のことは現さんから伺っていたけれど、てっきり女性だと思っていたら、さにあらず都市防災研究の専門家でいらして、ユーモアのある調子で祖父遠藤新の人となりを語って下さった。とくに大学卒業直後の東京駅中央停車場についての辰野金吾に対する批判文をめぐるエピソードが象徴的。

 現さんは、遠藤家子息唯一の建築家らしく、F.L.ライトとの出会いから始まって、帝国ホテル、甲子園ホテルというふたつの遠藤が設計に関わった都市ホテルについてスライドを交えてわかりやすく紹介していた。とりわけ移築された旧帝国ホテル正面玄関ロビー部分については、この八月明治村で対面してきたばかり。正面入口を入っていくと低い天井からいきなり三階部分まで吹き抜けとなるホワイエの劇的な空間構成と、回廊周辺の精緻で魔術的でもある装飾の印象が強く残っていたこともあって、ふたたび追体験をさせてもらったような心持ちがした。1893年シカゴ博覧会での鳳凰殿を体験しているライトが得たであろう建築上のインスピレーションについても、現さんから指摘されるとさらに興味深い気がする。
 また、帝国ホテル玄関前の宇都宮産大谷石とスクラッチタイルで作られた人口池(もともとは睡蓮が植えられていた)が、東洋的な印象の視覚効果も考えられたものではあったんだろうと想像していたが、防災用にも置かれていたと聞き、目からウロコが落ちる思いがした。事実、竣工直前の関東大震災では、防火用水の役目も果たしたという。

 さらに話は自由学園本館と講堂にも及び、本館周囲の大谷石敷がそのまま内部をつなぐ廊下にまで使用されているのは、内外のつながりを意識したものとの説明に休憩時間あらためて本館を巡ってみる。正面旧ホール食堂部分と両側に翼のように伸びた教室部分のうち、向かって左の西側がライト自身の設計により1921(大正10)年に竣工し、東側部分はライトが1922年に帰国した後、30代の遠藤新が引き継いで関東大震災後の1925(大正14)年に竣工していることを今回初めて詳しく知った。この事実を踏まえれば、自由学園明日館は文字通り二人の合作となることが納得される。また通りの向かい側にあって、本館の意匠の調和に考慮された講堂については、遠藤の単独設計により、1927(昭和2)年に竣工している。
 あらためて本館食堂からホールを見下ろしてみると暖炉の配置といい、空間のつながり具合といい、同時期に竣工している帝国ホテルや葉山加地別邸との関連性がわかってじつに興味深く、ライトと遠藤新はこの時期一心同体という感を改めて感じる。現さんはその共有性について、ふたりが日米の違いががあってもともに地方出身で、幼いころの牧場や農業体験つまり自然や大地とのつながりにあるだろうと推察されていたが、まったく同感である。

 最後に三枚おろしの秘密について、これは講堂や教会などの大空間を必要とする建物の構造について、雑誌「婦人の友」で語っていたことを指す。遠藤新の一般家庭向け主婦への建築に対する熱意とユーモアの一端を感じさせるコトバだろう。要するに中央平土間大空間部分と両側高土間部分からなる空間構成と構造について、魚の調理法(さばき方)にたとえて説明したもので、遠藤新の建築論の代名詞とでも呼べるようなもので、目白が丘教会の内部もぜひの目で見て確かめたい思いが募ってくる。

 帰り道は、山手線沿いの通称F.L.ライトの小道を再び目白駅まで歩く。目白通りがJR山手線をまたぐめじろ橋の脇には間もなくオープンの四階建て商業ビル“MEJIRO TRAD”、夕暮れの駅舎の向こうに新宿の高層ビルの灯り、振り返れば池袋駅周辺のビルの合間にサンシャインシティの姿。大正からイッキに大都会の夜の情景が広がっていく、これから郊外のわが家まで約一時間ほど、自分の存在に小さくため息。

湘南の風光 葉山加地邸

2014年10月06日 | 建築
 6日午前中、昨日からの台風18号は東海地方に上陸したあと神奈川を吹き抜けて北関東に向かっていった。ここまほろ近隣はお昼前からみるみるうちに青空が覗きだし、風も止んできてまぶしい陽光が差し出してきている。


 台風通過前の3日の秋空、イワシ雲?ウロコ雲が拡がる。学校の校庭のクヌギとヒマラヤスギの剪定がすんだばかり


 台風がやってくる直前の4日に早起きして、小田急江ノ島線藤沢からJR横須賀線と乗り継ぎ、逗子からバスで葉山町一色町の加地別邸へ向かう。その日が一般公開の初日、バスは市街地をぬけて134号線の山間を走り、旧役場前停留所で降りて、反対側の南向き斜面の住宅地の狭い間を上っていく。やがて佐島石らしき石積垣の先に擦り減った年代を感じさせる大谷石階段と門柱があって、思いのほか茂った木々の間のその奥に別邸(設計:遠藤新、1928年=昭和三年竣工)は佇んでいた。リュウゼツランの植え込みや南洋植物のシュロが三本アプローチ沿いに伸びていて、保養地湘南の歴史と風光明媚で温暖な気候を感じさせる。
 玄関の左手に突きだした展望室と特徴ある庇に、同じ遠藤新が設計した自由学園明日館講堂との共通した意匠をみる。玄関口は大谷石の階段を数段あがるが、その手前脇右手の大谷石柱の間をくぐり抜けると、あかるさが溢れた南向きの庭園に出てる。ここからは別邸のほぼ全景を見渡すことができる。庭から建物の反対側を振り返ると、木立の向こうに葉山と横須賀境の山並が連なり、右手方向に視線を流していくと相模湾が拡がっている。これ以上申し分のないロケーションと豊かな風光のもとに、別荘は庭に沿って暖炉のあるリビング、三角に突き出た日光浴室が連なり水平に伸びている。銅版屋根の緑色と大谷石の淡い翡翠色、建物のくすんだベージュ壁が軽やかに調和している。その配色を装った外観は海に近いこのあたりの風土に似合ってやさしく、同時に奥ゆかしくもあり、またなんとも美しい。
それぞれの部屋の軒先の外側部分には、部屋の両端を区切るアクセントにもなっている大谷石を組み合わせた列柱が立つ。これって、どこかで見たことがあると思っていると、さきに記した明日館自由学園講堂舞台のプロセニアムと同じモチーフであることに思い当たる。同じ大谷石の列柱は、講堂では室内舞台上、別邸では屋外の湘南風景を演出する一部として存在するのだろう。

 

 ゆっくりと室内をめぐる。タペストリが壁に架けられた高天上のリビングと吹き抜け回廊の造りは、明治村に移設された旧帝国ホテル正面玄関ホールを入った時のつくりを思い起こさせる。遠藤新が別荘の団欒に欠かせないと重視していた暖炉はリビング、ビリヤード室、展望室の三か所に設けられてゐる贅沢さ。リビングの照明、机、椅子などはすべてがトータルにデザインされている。二階の書斎は低めの机にやや高めで住宅などの世間が気にならないよう目線を限って周囲の緑と山並みだけを臨めるようにした測られた書斎窓の高さが絶妙で、これなら集中しての読書や書き物ができそうだ。その隣の西北隅にひらけた主寝室は天井高があり、ゆったりとしていてよく休めそうな開放感が漂っていた。
 しばらくして遠藤現さんがやってきた。今回のご案内をいただいたのは、遠藤新のお孫さんにあたる建築家の現さんからのメールであって、久しぶりの挨拶を交わす。ここは時間の流れがおだやかである。

 お昼前、別邸を出て裏手に回り、葉山三ケ岡山緑地ハイキングコースを真名瀬(しんなせ)に抜けるコースを歩く。途中の山頂付近から木々の間に曇り空のもと一色海岸、御用邸、長者ガ崎さらには遠く荒崎の海に突き出した姿が望めて、湘南の潮騒のさざめきがかすかに聴こえてくる。
 真名瀬に降りて昼食を地元の料理屋でいただき、少し歩いての森戸神社に立ち寄ったら、本殿裏手から江の島の遠望を眺めた。ふたたび海岸通りに戻ってバスを待つ間に、トヨタの高級車レクサスが二台続けて通り過ぎていった。

 
  あいにくの曇り空だけど・・・、下方の白い箱型建物は、旧高松宮別邸後にできた神奈川県立近代美術館葉山。

 
 

 

明治村、旧帝国ホテルとの対面

2014年09月09日 | 建築
長年の想いを果たすべく、とうとうというか、ついにというか、愛知県犬山市にある明治村を訪れることがかなって、先の八月二十七日お昼前、旧帝国ホテル(新館中央玄関部分)と初めて対面してきました。

 その時、この建物の印象として率直に感じたのは年代を重ねたこともあるけれど、じつに爬虫類のような彫の深い表情をしていて、東京豊島区南池袋にある自由学園明日館と規模や建築素材は異なれど、そのおおまかな外観と配置レイアウトはよく似ている、ということ。当り前といえばその通りで、両者ともフランク・ロイド・ライト設計により、旧帝国ホテル新館は1923年(大正12年関東大震災の年!)竣工、明日館のほうは1921年の竣工と年代も近く、ともに弟子の日本人建築家、遠藤新が献身的にかかわっていた。明治村の開園は1965年3月だから、旧帝国ホテルは1967年取り壊し後の余生?というには現役時代以上に長い40数年の年月をこの地で静かに送っていることになる。村内バス運転手さんによると、宇治平等院を模した造りとの解説があったけれど明日館はともかく、こちらのほうはおそらくライト自身にはそのような意図はなくて、日本人から見た印象が通説となった気がする。

 夏の暑い日差しが残る明治村の奥まった場所に移築された旧帝国ホテルの正面に立つと、建物本体と同じくスクラッチタイルの壁面と大谷石に縁どられた四角い人工池があって、その後方が正面玄関となっている。明日館の場合は、この池が芝生広場に置き換わったと考えれば同じだ。もともとのホテル建物全体は、人工池を含んだ正面玄関部分をコの字型で取り囲む両翼のように300室ほどの客室棟が伸びていたようだ。
 池を回り込んで、正面玄関から低い庇をくぐりぬけてホールにでると、ぱあぁと視界が広がり高い吹き抜け天上となる劇的な空間。さらにその奥には、大食堂が続いていたらしい。ホールの二階には回廊がめぐらされ、柱まわりには大谷石のゴシック風の彫刻が取りつき、正面玄関の真上部分の二階部分は現在喫茶ルームとなっていて、そこからテラス越に人工池を隔てて遠方の緑の風景が眺められるようになっている。明治村の中のじつは大正時代の空間にたたずんでいることが幸せな気分にさせてくれる。ひとりじゃないのに、いま目の前に向きあっているのに、想う期間が長すぎたのか、出会ってみるとなんだか呆気ない気もして、戸惑いともどかしさが混じったような不思議な気持ち。

 目線の見下ろした先の人工池にはモネの油絵のように睡蓮が浮かんで清楚な花を咲かせているはずだったが、残念ながらその姿はなくて、だた水面が夏の陽光を反射してきらめいているだけだった。もう少し言葉にしてみたいのに、言葉にならない・・・。


 さよなら、F.L.ライトさん
 信じられません、あなたの歌がこんなに早く消えちゃうなんて
 まだメロディもろくに覚えていないのに
 こんなに早く こんなに早く

  “フランク・ロイド・ライトに捧げる歌“より/サイモン&ガーファンクル


補足:最近出たばかりのイラストレーター安西水丸さんの遺作「地球の細道」(2014.8.25発行 A.D.A.エディター)に、旧帝国ホテルがイラスト付きで思い出が書かれているのを読んだ。スノードームの話題からNYグッゲンハイム美術館ミュージアムショップ、そしてライトへと飛躍するのが面白い。ライトが来日しての宇都宮、大谷石との出会いのこともあって、へえと思わせる。

 

豊田市美術館を慈しむ

2014年09月02日 | 建築
 八月の終わりに、名古屋郊外の豊田市美術館を初めて訪れた。

 地下鉄鶴舞線赤池駅を下車したところで、その日の案内役のMが先に待っていてくれて、車でR153を現地へとむかう。美術館一帯へつながっていく道路の両側には、おそらく1995年の美術館開館と同時に植栽されて大きく箒状に枝を拡げた欅並木の緑陰がゆるやかな曲線を描いて続く。美術館を含む展望の良い公園敷地一帯は、江戸時代中期に築城された「七州城」跡地ということで、駐車場から見上げた高台先には隅櫓が復元されていた。この隅櫓、真新しい白壁の印象もあり、美術館整備と同時かごく最近の復元かと思っていたら、よくよく調べてみると移築された書院「又日亭」とともに美術館建設に先立って1977年に整備されたものという。ということは美術館を含む全体のランドスケープ計画は、先行するこれらの建物との調和を意識しながら行われたことになる。

 その隅櫓を左手に見ながら、美術館の両側が常緑の植栽に切り取られたアプローチへと勾配を進んでいく。ここからはまだ、美術館の姿は望むことができなくて、さらに登り切った期待感の先に見上げていくと左手コンクリート壁に階段があり、上ると建物二階レベルにつながっているようだ(レストランへ直行できる)。正面視線の向こうに突然、という感じで淡い緑色のスレート(石板)と乳白色の擦りガラスで覆われた美術館が端正な姿を現してくる。谷口吉生が50代の時に設計した建築との初の対面。
 一階入口前の広場には、円形の池があってその右手にコンクリート製の列柱からなる立方体(これもアート作品)が置かれていた。正面入口を入るとすぐ左手に受付があって、にこやかに案内女性が迎えてくれる。三階までの吹き抜けの天上から釣り下がった四角い柱状のメディアアート作品が絶え間なくメッセージを点滅させている。壁一面には黒地に白抜きの文字列が、手回しストリートオルガンの譜面板のようだ。さきに外側から見えた乳白色の擦りガラスを通して室内に差し込んでくる陽光がやわらかな効果を生み出していて心地よい。
 平面図を参照すると長矩形の美術館の中に、広さと高さの異なった独立した11のホワイトキューブ状の展示室がおさまっている。訪れたときには「ジャン・フォートリエ展」(まったくの初見)が1、2階のスペースを使って開かれていた。戦前初期の具象から大戦をはさんでの抽象画への変遷が展示室が変わるごとに効果的に構成されていた。二階フロアには、パティオを隔てた別棟の漆工芸作家「高橋節郎館」がある。本展を見終えたところでパティオに臨むミュージアムレストランで昼食。最も奥まった席からは、全面ガラスを通して東方向に豊田市街の中心部が望める。カブトカニのような巨大なスタジアムは、名古屋出身の黒川紀章設計なんだそう。

 食事を終えてテラスに歩み出てると、眼前の正面西方向に連続して並ぶ10個の連続した薄緑の石板の長矩形(パーゴラ)越しに浅い水深の人工池(一階入口前の円形池と相似形)が拡がり、その中央には低く噴水が円形に吹き上げられていて、水面が風に揺られて絶えず水紋様を淡くたてているのが見える。天空の青を水面に映して周りには緑の木々のざわめき、周辺環境と一体化した造形の美しさに息を吞む。この情景は、夕刻になって美術館内部の照明が外壁の擦りガラスを通してまるで行燈のように浮かび上がり、人工池の水面の反射して照りかえった時に、さらに美しさを増すのだろうと思われる。モダンでありながら上品な和風の雰囲気を漂わせ。建築を含むランドスケープの織りなす優れた環境ということはこういうことなのかと感じ入る。

 Mに促がされて人工池のうねった曲線にそって歩き、美術館を人工池越しに眺めながら、童子苑と命名された庭園に向かう。木造数寄屋造りの二つの茶室(あとで確認したらこれも谷口吉生設計とのこと。このひとの和風建築は珍しく、本人によると“写し”の手法とのこと)。庭先の水琴窟の音色を聴き、露地の飛び石を腰掛待合まで進んでみてしばし佇むうちに自然と安らぎを感じた。「市中の山居」とはこの感覚なのだろうか。そこからモミジの植栽越しに見える「一歩亭」の秋風景を想像して、その時期にここまた訪れることができたらいいなあと思う。
 ふたりで立礼席のお茶をいただき、庭園をでるとふたたび人工池越しの美術館の姿が望める。日日是好日、気持ちが肯定的になって五感が研ぎ澄まされて遠くへ飛んでいけそうな気がした。ここで、Mはいつも何を想っているんだろう?この日は帰りの高速バスの時間までもう時間が残されていなくて、後ろ髪をひかれる思いでその場を後にすることにして、豊田インターまで車を走らせてもらう。
 いつか必ずまた機会を作って、ここをふたたび訪れようと思う。今度は、夕暮れまで美術館の内部の灯りが水面に映って浮かび上がっていく情景をゆっくりと慈しんで眺めていたい。

旧古河庭園とJ.コンドルの洋館

2014年08月09日 | 建築
 真夏日の酷暑になった伯父の命日の五日、墓参の帰りに旧古河庭園へ足を延ばした。JR上中里駅を初めて降りて急な切り通し坂を上って五分ほどで、本郷通りにつきあたる。横断歩道を渡って田端駒込方面へ歩いていくと立派な石柱門がみえてきて、ここが旧古河庭園の入口、明治初期の政府御雇いイギリス人建築家のジョサイア・コンドル設計の旧古河虎之介邸(1916=大正6年竣工)との久しぶりの対面だ。
 
   夏の日差しの下、芝生前庭の先に英国貴族カントリーハウスのような洋館の東面を望む
   ヴィクトリアン洋式の煉瓦構造二階建て、深い赤味を帯びた外壁は真鶴小松石(安山岩)

 石柱門の前に、NHK文化センターの旗を持った男性が立っていたので何事か伺ってみると、街歩きツアー当日で、この旧古河庭園を参加者が講師とともに巡っているところだという。武蔵野台地の縁に立つ英国貴族風洋館をメインに薔薇で知られる洋式庭園(これもコンドルの設計)と、台地が下がった位置には“植治”こと小川治兵衛作庭の心字池を配した日本庭園からなる総面積三万平方メートル余り。都内でも有数の規模と景観を誇る文化財庭園だから、ときどきこのようなツアーが催されているのだろう。

 ちなみにその講師とは誰だろうと目を凝らすと、なんと重森千青氏!重森氏は私より少し若い年代の作庭家で、昭和期に名を遺すモダンな作風の作庭家、重森三玲の孫にあたる。2006年秋にワタリウム美術館で「重森三玲展」がひらかれた関連で京都庭園ツアーが行われた際、やはり講師を務めていらして、東福寺境内でほんの少し話を交わせていただいたことがある。その時は、京都芸術センターで行われた重森三果&中村善郎コンサート“和楽×ボサノバ”を聴きに行った翌日のことだったと思う。重森三果さんは千青氏の従妹にあたり、京都在住の三味線奏者、面長和服姿の現代美人で微細な発声までよくコントロールされ、丹田の底からでてくるかのような“気”の籠った唄には、本物の芸能がもつ香気と気品が伝わってきた。そのお二人に真近に接することができて感じたのは、思い込みがあるにしても、祖父重森三玲の遺伝子が代々綿々と伝わっているということ。

 庭園散策は後回しにして、まずは洋館内の喫茶室に入ろうと玄関までくると、午後二時から館内見学ツアーがあるというのでそれを待つことにした。受付後に一階ホール南東角、薔薇の壁紙の暖炉つき応接間で、私たち以外の参加者の二組のカップル計六名で待つことしばらくして、時間になると案内の女性(マネージャーの坪井美紀さん?)が出てきてくれて、館内巡りが始まった。古河財閥の当主邸宅らしくビリヤドー室と付属サンルーム、書斎があり、真紅のビロード壁の大食堂がため息が出るくらいゴージャスな雰囲気で、当時としたら驚くべき豪華さだっただろう。天上の果物を掘り込んだ漆喰の技がなんとも素晴らしい。
 ホールにでて玄関左手の階段を上がって二階へ。この手すりも細やかで丁寧な木彫りの仕事が残り、日本職人の優秀さを表す。ここからさきの二階がこの洋館の見どころで、寝室以外が外観からは全く想像だにできない完全“和風”なのである。扉を開けた先が忽然と畳と障子の日本間が開けて魔法にかかったかのようにびっくりさせられる。とくに仏間の花頭窓をかたどった意匠には、これがイギリス人コンドル?とうなってしまう。となりの客間も見事な意匠の書院造り(ただし天上高は3.5メートルと高い)で、日本の女性と結婚して日本画を習得し、日本文化を生活を通して理解しようとし続け、1920(大正9)年、67歳で日本に骨を埋めたコンドルの建築家としての人生の総決算がこの古河邸なのだろう。コンドルの人生は前半がスコットランド、後半が日本で織りなされ、その両方を愛した。それは建物内では壁紙や暖炉などいたるところに見られる薔薇の意匠と、一階の洋間そして二階の和室と分けた造り(安易な融合ではなく)、外においては建物前面すぐのバラの植えられた西洋庭園と平面に下がった位置の和風庭園の完全並列にあわられている。

 あらためて外に出て建物の外観を眺め、附属の台所や使用人家屋の造りも面白く、高台から下がって小川治兵衛の手になる日本庭園の心字池、枯れ瀧、深山幽谷といったたたずまいの茶室を巡りながら、大瀧の前でガイドを終えた重森さんを見つけ、思い切ってお声掛けさせていただく。一仕事終えた後でほっとされたのか、思いのほかフレンドリーな感じで京都重森庭園美術館、神奈川近代美術館の保存問題の話題、重森三玲と交流のあったイサム・ノグチのことなど話が弾んだ。
  
 ふたたび、階段を上って東屋のある展望台に戻る。ここからは東南方向の洋館とその前の薔薇園と台地斜面に展開する植栽刈込の幾何学模様、その先の木立を経て広がる日本庭園が望め、もっとも全体を俯瞰できる園内の一等席だ。おそらく、完成当時古河家当主はもちろん、晩年のJ.コンドル自身も施工中に幾度となくこの展望台からの風景を時には思案しながら、時には心安らかに眺めていたことなんだろうなと思うとこちらも感慨深くなってくる。


 日本庭園木立から洋館南面を眺めたところ。左右が非対称で、入口からの東側とはまた表情が異なる。

 最後におまけ、一昨年の3月に京都に家族旅行したときに東山で見つけた看板、小川治兵衛の“植治”造園会社。


※本文を書くあたって、石田繁之介「J.コンドルの綱町三井倶楽部」(2012年相模書房)に教えられた。

 (8月8日書始、9日初校。)

 


建築・美術館周遊(3)~明治神宮から外苑絵画館へ

2014年07月07日 | 建築
 明治神宮手前の山手線にかかる神宮橋から、代々木国立室内競技場の二つの勇姿を眺める。改めて、よくぞ五十年前の時代にこのような建物を完成したものと素直に感動。本当に称賛されるべきは構造設計者と施工会社と建設に従事した人々である。なにしろ、竣工が1964年9月第18回オリンピック東京大会の開幕直前だったとのこと。この同時期、丹下健三は、目白の東京カテドラル大聖堂も設計していて創造性の絶頂期だったのだろう。
 この吊構造による大屋根と大空間を内包した建築は、当時構造的にも造形的にも類のないもので、未来に向って燦然と輝いていただろうし、いまみても全く古びていない。個人的な印象で言うと、構造的には海洋をまたぐ吊り橋と同じ土木的あるいは原初的壮大な力強さを感じるとともに、造形的には第一(水泳場)・第二(バスケットボール)競技場ともカタツムリかサザエまたは南洋貝類の一種に見えて、近代的でありながらどこか有機的な印象である。近代建築にありがちなよそよそしさがないのは、50年の時間経過が周囲になじんできたことと敷地の余裕、そしてあの大屋根にあるのだろう。現代建築がなくしたものの大きな要素のひとつは、一般に屋根だといわれている。それは伝統木造建築と比較すると一目瞭然だけれども、この建築は吊構造から生じる大屋根の存在が、見るものに壮大さと同時に寺院建築をみるようなどこか安心感をあたえるのではないだろうか、と思ったりもするのだ。ふたつの異なった柔らかな屋根と壁面が描く曲線の対比もすばらしい。

 ひとしきり、オリンピック遺産を崇めてから南参道を進んでいく。小雨の中、200メートル余り進むと内苑の東門入口、500円の入苑料を納めて中へと進む。この時期に訪れるのは本当に久しぶり、南池ほとりの御釣台前にでる。初夏らしくスイレンが白い花をたくさん涼しげに浮かべていた。初めて見たときは、モネの絵画のようだと思ったけれど、自然が芸術を模倣するなんて地球上では人間だけの見方なんだと思い当たった。ここは、都心にありながら変わらなさがいい。草木は日々変化しているのだけれど、その変わり方のリズムがゆっくりと人になじみ、安心をあたえるだろう。
 先にすすむと、木々の緑に囲まれて菖蒲田が見えだし、幸運にも最後の花々を崇めることに間に合った!田んぼにはすでに水は張られてはいなかったけれども、この霧のような雨が瑞々しさを遺していてくれた。四阿の茅葺屋根は葺き替えられていたけれど、この風景も、上京したばかりの30数年前同様、ほっとさせてくれて時間が戻ったかのようだ。さらに奥へと誘われると、自然湧水の清正井に辿り着く。都心のパワースポットとしてブームになってしまった分、以前ほどの神秘性が失われてしまったのは、まあ仕方がないのかな。

 内苑北門からふたたび参道へ。右に折れると拝殿と向き合うことになる。以前より外国人、とくにアジア人の観光客が増えている。1958年に再建されて風格の出てきた本殿を囲む回廊の屋根の連なりがいい、やっぱり伝統建物には屋根だ。したたる緑の中の屋根の存在が安心感と一定のリズムを建物に与えてくれるのだと思うことしきり。
 平成に入って新築された神楽殿の前を通り、社務所の先の北参道を進むと、ぐっと歩く人の姿が減ってきて大鳥居を抜けると、右手に神社本庁の黒々した建物が見える。そのまま銀杏並木にそって、山手線高架をくぐって並木にしたがっていくと、代々木・千駄ヶ谷方面へと続く。この参道は大正期に明治神宮が創設された際には、内苑と外苑をつなぐ裏参道として馬車道とともに整備されたそうだ。いま、両側の銀杏並木は残るが、地下には大江戸線が通り、どうやら馬車道の部分は首都高速がJR中央線と並行して走っていて、ここがかつて計画された北参道と意識できる人は少ないだろう。

 途中、国立能楽堂(1983、設計:大江宏建築事務所)をみていくことにする。古典芸能を意識しながらも建物は伝統的な様式を装った鉄筋コンクリートと御影石を組み合わせた現代建築で、とても竣工30年が経過しているようには見えない。九つの大小の屋根がリズミカルに連なる。
 やがて、千駄ヶ谷駅前にでると目の前に津田ホール(1988年竣工)と東京体育館(1990年)、ふたつとも槇文彦総合計画事務所の設計による。前者は青山スパイラルのファサードをすこし大人しくした感じで、駅に向かったコーナーが丸みで柔らかくデザインしてあるのが目をひく。後者は、いまにも飛び立とうとしている宇宙船のよう、屋根と立面にはアルミ板が使われてメカニックな感じがするが威圧感はなし。どうしても国立代々木競技場と比べたくなるけれど、敷地の広さにあわせ象徴性を押さえている分、まわりの緑や住宅地との調和が考慮されてるのだろう。背後の新国立競技場建て替え問題が議論を呼んでいるいま、それはそれでひとつの卓見だと思う。このトピックスには、一般市民の立場からいずれじっくりと整理して考えてみたいと思っている。
 
 東京体育館広場を通り抜け、外苑西通りを跨ぐ明治公園橋を渡り、その国立霞ケ丘陸上競技場正面入口に立ってみる。解体準備の工事囲いの向こうの競技場本体壁面には、オリーブの小枝をかたどった模様と東京オリンピック1964のメモリアルプレートがはめ込まれ、陸上競技優勝者名が刻まれている。きっとマラソン優勝者アベベの名もどこかにあるはずだ。
 ここはスポーツの聖地であると同時に、前身の明治神宮外苑競技場だった戦時中の1943年10月21日、文部省主催で時の首相東條英機が激励し、出陣学徒壮行式が行われた地でもある事実が重く迫ってくる。戦争の暗い影の歴史の上に平和の世界スポーツの祭典が開かれたのは、記憶されるべきことだろう。その記念碑があるのを知ったのは5月末の朝日新聞別刷be「映画の旅人 東京オリンピック」記事中だったけれど、残念ながら今回は見つけることができなかった。

 国立競技場を半周して、いよいよ終点の聖徳記念絵画館(1926年竣工、設計:公募当選作を明治神宮造営局で修正)の前に立つ。絵画館というくらいだから、これこそ歴史ある空前の規模のギャラリーで、それも近代の実存したお二人の人物事蹟をたたえる80枚の日本画と洋画が展示された絵画館だ。建物裏に回ると中央ドームの真後ろの位置には、明治天皇葬儀の際の葬場殿址があって、そこには楠の大樹が神々しく聳えていて、西洋近代化にひた走った「明治」という時代のメモリアル聖地を象徴しているかのようだ。
 ふたたび、表の絵画館正面階段にたって、広場から青山通りまでシンメトリーに連なる銀杏並木とその先の高層ビルが対比が見事なランドスケープに見入る。広場前の石造の旧国旗掲揚には、二頭のたて髪をなびかせた麒麟のブロンズ像が前足を高々と上げて向き合っている。ここは明治の幻影を引きずった大正期の壮大な都市計画が、大戦をはさんだ昭和を経て、平成の現代までとつながった歴史的文脈の中で存在してきているかけがえのない空間だ。

 
 一か月前、Mとふたり青山から表参道を横断して神宮前のワタリウム美術館に立ち寄ったあと、黄昏時の外苑西通りにでて青山通り側から、ライトアップされた銀杏並木ごしに眺めた絵画記念館を発見し、ロマンチックな気分に浸ったのもつかの間、ひと気の途絶えた静謐な並木のもとを歩きながら正面から近づいて見上げたときの何とも言えない不思議で神聖な感慨は、この幾重にも重なったこの地の地霊のようなものが呼び覚ましてくれたのかもしれない(いったいあの時は何を話したのだっけ?高尾にある大正と昭和天皇御陵のこと?う~ん、今から思うとあの情景のなかでは確かに相当ヘン!もしかして天皇の祖霊がいたのかな?)。

 ここがTOKYOという都市空間の優れた景観として鎮座し、平和の中この先もずっと変わらずにあってほしい、そう切に願う。