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日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

早春の伊東温泉旅行

2016年03月14日 | 旅行
 早春の日、すこし冷え込んで、雨の合間に曇りとほんの少しの春の日差しといった天候のなか、熱海の少し先の伊東へと一泊二日の温泉旅行へ行ってきた。
 今回はJR横浜線で橋本駅までゆき、北口からバスに乗って出発するとそこから一路南に進む。圏央道の相模原愛川インターで高速道路に入って、相模川沿いの風景を眺めながら下っていく。いつも新潟に帰省するときとは逆になる、初めて走るルートだ。バスは左側に海老名運動公園脇を過ぎたかと思うと、厚木インターチェンジから小田原厚木道路に入った。この新旧の自動車専用高速道の対比が対照的で、一方は高架の構築物が曲線でしなやかに続き、後者は両側に並走する一般道に挟まれて専用高速道四車線が伸びるシンプルな造りで、その両者の構造の違いがななか興味深く、半世紀くらいの時代の違いがはっきりと表れている。

 やがて、バスは小田原市街を迂回するように郊外の丘陵地帯を疾走していく。左手には、関東学院大学の小田原キャンパスが見えた。すぐ先の早川の手前でインターを下りて、漁師町の一般道をしばらく進むと早川漁港が見えてきたところで右折し、国道135号線を相模湾沿いに走ることになる。海辺の先はどんより曇った雨模様だ。右手が箱根連山につながる断崖、左側は視線の先に海の水平線と曇り空の境目が混ざり合ってつながっている。
 根府川の手前で真鶴道路の江之浦の先、ひなびた岩海岸を海上を突き抜ける高速道路側から眺める不思議な光景を体験した。そこをすぎるとしばらくトンネルで半島をぬけることになり、ふたたび地表に出たところが福浦漁港、湯河原へと入る。そこからは海岸すれすれのビーチラインをひたすら熱海へむけて走ったあと、ふたたび国道135号線に戻ると伊豆半島の付け根を多賀、網代、宇佐美と下っていく。しだいに海の風景と生活感が濃くなっていき、ようやく、伊東市街のホテルへと到着したのは、もうお昼過ぎだった。
 六階建てのホテルのロビーは天井高で広々としているが、幾分昭和の時代を感じさせるやや大仰な空間で、築四十年以上は確実にたっている印象、天上のからのロッジ風吊照明など少しなつかしい感じがする。いかにもといった大温泉地ホテルの雰囲気が濃厚に残っていて、なつかしくもワクワクしてくる。これで暖炉があれば、別荘リゾートそのものといった感じ。
 
 荷物を預けてから、近くの威風堂々とした元旅館で観光施設として再生されている東海館を訪れる。大通りからすこし狭い旧道に入ると、昭和初期のじつに雰囲気のある木道三階建てが見えている。玄関の屋根は唐破風造り、中に入るといきなり正面に中庭が望めて奇石青石のたぐいが鎮座し、廊下から階段周り、各部屋も木材や建具意匠を吟味した凝った造りで、南側の客間からは松の木越しに市街を貫通する松川の流れが望める素晴らしい立地である。この建物外観を特徴づけるのは、なんといっても仏閣の様な望楼部分だ。初めての念願かなって、上層からの市街と周辺の山並みの眺めを楽しむ。
 午後からは、三階舞台つき百二十畳敷大広間での芸妓連の踊りの披露があって、かつての栄華を偲びながらの鑑賞で、タイムスリップしたかのような温泉地情緒を味わうこととなった。

 東海館を出ると雨があがって、ほんの少しの日差しも見えている。大川橋を渡って対岸の遊歩道をそぞろ歩き。サクラの開花には少し早かったけれど、川沿いの気持ちのよい小径が続く。川の流れには、鯉や鴨たちの姿、対岸の緑や旅館の風情ある情景がこのあたりにはよく残されていて湯の町らしい雰囲気。途中の左手に広大な緑の屋敷、どうも北里柴三郎の別荘跡らしい。その先にはさらに木立に囲まれて広い芝生前庭がひろがる、おおきく円弧を描いたモダンな建築が望めて、何かと標札を観ると「野間自由幼稚園」とある。この“野間”にピンときて後で調べたところ、やはりあの講談社オーナーの野間一族により、戦後すぐに別荘敷地の一部が提供されて開設された伝統ある幼稚園なのだった。しかも気になったモダンな円弧園舎は、平成十五年に完成したばかりの、安藤忠雄設計によるもの、とあって思わぬ“発見”にびっくり。あのアンドウ建築が温泉地に、しかも幼稚園舎なんて! ここはテラスがひろくつながり全体に外観は黒基調でありながら、内装や軒先の裏側には天然木を使っていて、環境指向を意識している昨今流行?の現代建築なのだ。もう少しじっくりと観察しておけばよかった、と後悔しきり。
 外出の後に戻ってチェックインした宿泊室は最上階の六階で、十二畳の和室と広縁スペースには低めのテーブルに向いあわせの椅子、くわえてツインベットルームにバスルーム、独立トイレ・洗面室が付属している広々とした間取りはいまでは考えられない。ベランダからは駅方向の市街と、周辺の山肌にひらけていった高台のホテル建物が望めた。大浴場はもちろんローマ風呂風、安造りのビーナス像がシェルの形の台座に乗っかって、そこから温泉があふれていた。

 さすがに温泉地として歴史ある伊東だけあって、ほんのすこし歩いただけのホテル・旅館をはじめとする建物探訪だけでも奥が深そうで、まだまだ楽しめるに違いない。また季節を変えて、潮風を感じだす初夏のころにここを再訪できたらと思った。


 左側奥に見えるのが市街の中心を流れる松川沿いの東海館。手前隣は旧山本館といい、現在はゲストインとして営業中なのでここへはぜひ泊まってみたい。それぞれ和洋の望楼閣の対比がライバルみたいでおもしろく、ここは伊東市内随一の景観。
 

信州日帰り松本、安曇野行

2015年08月30日 | 旅行
 鶴川にある町田市の文化施設、和光大学ポプリホールのオープニングで以前知り合った方々にお声掛けいただいて、晩夏の日帰り旅行へ。目的地は信州松本郊外の浅間温泉にある和光学園松本研修センター。ここを拠点にして、秋に小旅行が計画されていてその下見というわけ。早朝八時に鶴川に集合、シニア男女六名が二台の車に分乗して多摩丘陵越え、国立府中インターから中央高速道を一路西へ。

 八王子、相模湖をすぎて山梨県に入った談合坂サービスエリアで最初の休憩、空はどんより曇りでこの先の山間は雨になりそうな感じだ。大月から甲府盆地のあたりにくるとぐっと視界が開けてくるとともに先方の空が明るくなってくるが、八ヶ岳や南アルプスは雲に覆われてすっきりと見ることができない。それでも諏訪湖に近づいてくるにつれて、青空がひろがりだして陽射しがまぶしくなってきた。
 11時前に諏訪湖サービスエリアに着くと、目前の湖のはるか向こうの雄大な蓼科の山並みの上に、真夏を思わせるような白雲がモコモコと湧き出すかのようだ。思わず心の中でラッキーと叫び、ここでインターを降りて諏訪湖を一周したい気分にかられるが、目的地はもうすこし先なのでじっとガマン。


 諏訪湖サービスエリアより蓼科方面の山々と白雲の連なりを望む。諏訪湖手前には藻が発生。

 やがて、車は塩尻から松本へ。インターを降りて国道158号線を上高地方面へ約10分、明治二年創業の亀田屋酒造へ。大谷石の塀に囲まれた敷地の中に瓦屋根の重厚な木造家屋が立ち並び、老舗造り酒屋のおもむき。門の脇には男女の道祖神、その前の通りは、かつて人馬が行き交わった千国(ちくに)街道で、母屋は明治18年にヒノキなど木曽の木材を使って三年越しで建てられたのだそうだ。
 玄関に入ると土間があり、囲炉裏のうえを見上げると天窓までの吹き抜けの造りで、煙で煤けた太く曲がった梁組が明治の気骨をあらわして力強く迫力がある。立派な神棚を拝んで入った帳場先の座敷には、この屋敷の歴史を物語る箱階段など家具調度、写真、陶器、工芸品、墨跡などの数々。母屋をでて酒遊館と名づけられた販売所で試飲をさせていただく。「アルプス正宗」というのがここの銘柄で当時の当主が山好きだったのかと思わせて、ハイカラな感じがした。

 来た道を戻り、地元のお蕎麦屋さんんで昼食後、JR大糸線と篠ノ井線が並行するガード下をくぐって、松本市街の縁を北上する。途中、松本城の黒い城郭がちらりと見えた。松本深志高校をすぎて右折すると、ゆるやかな勾配となって、女鳥羽(めとば)川を渡り、しばらくすると浅間高原温泉街に入る。どことなく上品な雰囲気の漂うすずらん通りから、やや急な狭い湯坂を上った途中の露地に研修センター、鉄筋コンクリート二階建てのなかなか綺麗な建物、管理人のおばさんがにこやかに迎えて下さる。ざっと館内を見学させていただたあとに周辺情報を教えていただく。さすがに地元のおばさん、気さくなうえに周辺情報に的確でくわしい。せっかくなので男性陣は入浴体験。清潔な湯船はさほど大きくないが、無色透明で匂いもないサラサラのさわやかな湯、温まって寛ぐとなんだか畳の上に寝転がりたくなってきたが、そこは下見なので辛抱。

 研修センターを出て、次の目的地美ヶ原温泉の近くの松本民芸館へ。周辺を田んぼに囲まれた落ち着いたたたずまい、長屋門の入口の先に雑木が茂ったいい感じの庭園があって、その奥のなまこ白壁二階建て蔵造りの小宇宙。柳宗悦の民芸運動に共鳴した工芸店主丸山太郎が昭和37年に創館したとある。その後、コレクションと土地建物が寄贈されて、現在は松本市立博物館分館だ。中に入ってみたかったが、これも次回の楽しみに。

 ふたたび浅間温泉に戻って、管理人さんお勧めの“つけもの喫茶”でひと休み。ココナッツの白玉ぜんざいというのをいただいてみたが、なかなかコクがあってアンコといける。もうひとつ、冷やしたニ八蕎麦をオリーブオイルであえて、わさび塩を振っていただくというのも、和風イタリアンみたいでさっぱり美味しかった。初秋の高原の温泉町で、和洋食味の融合を体験するのもオツなものか。
 外にでて見ると通りにはブルーのフラッグがはためいて、そこには「SEIJI OZAWA 松本フェスティバル」の金文字が。ちょうどこの時期、小澤征爾を中心とした国際音楽祭が始まっていたのだった、だたし本人の骨折か、五万円のオペラチケットの払い戻しもあり、こちらの和洋融合?はちょっとした騒動なのだとか。

 一路、三十数年ぶりの安曇野へ。穂高駅近くの碌山美術館周辺はすっかり開けて、明るく観光地と化していた。教会風の美術館にも最初は気が付かなかったくらい、この陰りのなさもよいのだろうが、当時のように一人旅でもの想う雰囲気ではなさそうだ。
 午後四時になろうとする頃、小雨が降りだしてきた。最後の訪問地は、せっかくだからというので大王わさび農園へ。今回がはじめての訪問だが、期待以上のところ、穂高川清流に三連水車小屋と広大なワサビ田が拡がる。真夏の日差しの中なら、遠く雄大な北アルプスを望んで、素晴らしく気持ちが解放されそうだ。
 あらためてゆっくりと訪れてみたい、そう思った。

(2015.8.29書初、8.30初校)

齢を重ねることで気づく旅  京都庭園篇 

2015年04月10日 | 旅行
 旅の三日目、最終の日。山科をでて京阪電車で「蹴上」下車、ウェスティン都ホテル京都の和風別館佳水園へ、二年ぶりの再訪だ。


 ※2013.03.24 撮影
 
 ホテルのメインロビーから七階に上がって一度宿泊棟の外に出て、屋根つきの通路の下を進んでいき、やがて見えてくる茅葺屋根の門をくぐると、薄いカミソリのような軒先が低く連なる数寄屋造別館と東山の岩肌をそのまま生かした庭園が現れる。もともとは政治家清浦圭吾別邸だったところで、大正14年(1925)に八代目小川治兵衛、通称“白楊”が琵琶湖疏水を引き込んで作庭したものに、昭和34年(1959)村野藤吾がコの字型に配置した近代数寄屋の建物とあわせて、芝生に白砂敷の中庭をつなげる形でモダンにデザインしたもの。緑で表現されたのは瓢箪と杯であり、植治の庭の岩石から流れる疏水を酒に見立てていて、なかなかシャレている。村野は先人の遺産を生かし、そこに自分の創意で新しい魅力を産み出すことにも実に長けている建築家だと思う。数寄屋建築の銅屋根の緑青色の重なりが連続して流れる華麗さと各部屋の窓の縦格子に壁面のベージュ色の比の美しさは比類がない。色彩と形状比の両方において完璧な建築だ。庭は、芝生が成長した新緑の季節がひときわ美しいだろう。


 次は南禅寺ちかく琵琶湖疏水のすぐ脇にある、無鄰菴
 
 
 七代目植治の初期代表作。もとは山県有朋の別邸庭園で、明治27年(1894)から35年(1901)にかけて作庭されたとあり、まさしくニ十世紀初頭の日本庭園のさきがけにふさわしい。作庭にあたって施主から三つの注文を取り入れたそうで、一つ目は芝生の明るい空間を作ること、二つ目はそれまでの寺社の庭の脇役であった樅、檜、杉といった木々を生かすこと、三つ目は当時の明治近代化の象徴でもあった、琵琶湖疏水を引き入れること。この三つの課題を見事に調和させ、まち中の立地に周囲の自然を取り込み、開放的で明るい近代庭園として表現してみせたのがこの無鄰菴ということになる。じつは、はじめてこの庭園に接した時は、なんとも凡庸な借景庭園だとしか理解できていなかったが、いまじわじわとその時代背景と植治の想いが伝わってくる。やはり七代目もするどく時代精神を体現した人物なんだな。もうひとりの気になる昭和の作庭家重森三玲は、モダンな枯山水や石庭が特徴だけれど、ふたりの対比が時代の移り変わりを反映していて、とくに草木、自然観の違いが興味深い。
 このすぐ隣には懐石料理の老舗の瓢亭がある。入口に下がるハタノレンと玄関先の壁に吊るされた草鞋が南禅寺参道に面した茶店だったなごりを遺している。いつかの機会、こちらの朝粥定食を夏の早朝、陽が上る前のひんやりとした頃にいただいてみたい。


 旅の最後のしめくくりに、フィックションと実在、江戸ゆかりの歴史的人物銅像を並べて掲載しよう。

 まずは、旧東海道の終点である京都三条大橋西詰にたつ、「東海道中膝栗毛」の主人公弥次さん喜多さんの像。ずうと前からあったと思い込んでいたら、平成にはいってからの建立なんて意外!この作者、十返舎一九(1765-1831)の辞世の句が好きだ。
 「此の世をば どりやおいとまに せん香とともにつひには 灰左様なら」

 ※「YAMAKAN 2015.2 ヤジキタコーナー」より。この写真をみて実物像に対面したくなった。
 
  こちらは実在の相州小田原は栢山村出身の偉人、二宮尊徳こと金次郎像。京都の旅を振り返るにあたって、どうして小田原の偉人なのかっていうと、東海道の起点江戸日本橋から途中の程ヶ谷や相州小田原を経由して、辿り着いた終点が京都三条大橋の弥次喜多像であれば、勤勉な金次郎少年像に敬意を表し、神奈川を代表してもらうことで、最初と最後の帰結点がつながるだろうと思ったから。こうして並べてふたつを鑑賞してみるのも面白い、歴史はそして旅の思い出は様々な要素で振り返られるものなのです。



 JR小田原駅コンコース南口側に城郭を望んで建つ金次郎少年も平成の建立。

 (215.04.10初校、04.12改定追記) 

齢を重ねることで気づく旅  京都篇

2015年04月09日 | 旅行
 旅の二日目午後。山科から地下鉄乗り入れで京阪本線へ、そのまま乗車していくと大阪につながっていて淀屋橋が終点だ。七条駅で下車して、右手に七条大橋と鴨川の流れを眺めながら通りを左折、京都国立博物館へと歩み出す。途中、うなぎ雑炊の老舗「わらじや」の変わらないしもた屋風たたずまいにほっとした。和菓子の七條甘春堂の前を通り過ぎ、七条通と大和大路との交差点までくると、威風堂々とした博物館が見えてくる。

 赤レンガ造りの本館は、明治30年開館のネオ・バロック様式の重要文化財建築物。昨年開館の平成知新館入口は七条通りに面していて、正面ゲートは蓮花王院三十三間堂の大門方向と対峙して設けられている。敷地内はかつての方広寺境内だそうで、新館前人工池やエントランス部分に金堂柱跡が痕跡として記されることで、歴史的記憶が継承されている。谷口吉生設計の長形横長のモダンでスマートな建物、コンクリート打ち放しにステンレスの列柱と薄い庇、ベージュの石版を張ったファサードが、赤レンガに石造りの本館と鮮やかな対照をなしていて、すべてが端正で美しい。人工池とその庇のむこうに和蝋燭のような京都タワーが望める。薄曇り空からほんの少しうっすらと日差しが街中に注いで、建物前の人工池水面に映り込んだ曇り空が波紋状に揺れる。ああ、京都にいるんだ、という実感がふつふつと沸いてくる。



 広い前庭正面には噴水があって、その脇にはロダン「考える人」像がたたずむ。ひとしきり入口前を歩き回って建物を眺めてから館内へと進む。完成したばかりのすがすがしい空間に、「春も京博、名品ギャラリー」と題した展覧会のための収蔵名品がゆったりと並ぶ。途中、疲れてベンチに座ったまま、気が付くと眠ってしまっていた。しばらくして目覚めてあたりを見回し、手元の本に貼られた付箋に書き残してくれたメモに気がつき、先に見学を終えてミュージアムショップ前で待っていてくれたMと合流してふたりで博物館を出る。

 先ほどの七條甘春堂に立ち寄って麩饅頭を買ってもらい、八坂神社へと向かうバス中で頬張るのも旅道中の醍醐味かもしれない。祇園でバスを降りて八坂神社脇を通り抜け、京郷土料理いもぼうの平野屋本店へ。ここも変わらぬ佇まいで、ゆっくりと夕食をいただき、店を出るともうあたりは夕暮れ時となっていた。そのまま誘われるように円山公園方向へ歩むと、ゆるやかな傾斜のある回遊式庭園に点々と灯籠が広がる風景がひらけてきて、人通りがにぎやかになる。ここの庭園は、七代目小川治兵衛が明治時代に作庭した市内最古の公立公園で、桜の季節には早かったけれど、冷え込みのなかの灯りが暖かった。暮れかかった西方の空は今宵最後の澄んだ光りを放って、周りの木々のシルエットがくっきりと浮かんでいた。


  円山公園枝垂れ桜のシルエットの先に、宵の明星が輝く。忘れられない夜景。


 浄土宗総本山の知恩院へと進む。宿坊和順会館は新装なって華やかな感じで、そのすぐ隣の山門前では人だかりである。何かと思ったら、京都国際芸術祭2015“PARASOPHIA”関連のアートイベントが開催中で、和太鼓と津軽三味線にベース、シンセなどの和洋楽器が奏でる音楽を背景にして、琳派400年俵屋宗達へのオマージュらしく、雷神風神図をサンドアート影絵で描いていた。しばらく楽しんだ後、すっかり綺麗に整備された参道を下り、東大路を三条大橋に向かって歩く。

 三条駅前には、現代枯山水のZEN禅庭園を囲んだショッピングモールがあった。春物のショールを買い求めたいと言ってたMと、その中の和装店に立ち寄り、しばらくして春物を軽やかに装って店を出た先の鴨川の対岸には、暗がりの中に先斗町歌舞練場が見えている。三条大橋を渡ると西詰たもとが旧東海道の終点にあたる。到達の記念に、弥次さん喜多さん像を探して対面をはたすが、その前ではストリートミュージシャンがにぎやかな人だかりを集めていた。通りの向こう側に渡って、手ほうき専門の内藤利喜松商店の職人技が光る品々のディスプレイに魅せられてしばらく覗き込む。すぐ隣が豆菓子の船はしやで、ここで“古都五色豆”やせんべいを買い求めてから、鴨川べりを望むカフェで一服すると、ガラス窓の向こうには、沈んだ流れの川面に両岸の建物外灯とネオンが映ってゆらゆらと煌めく。
 その情景を横に並んで眺めながら過ごす時間の重さ、これからさきの深く、長い夜。 Kyoto 週末 弥生 2015。

  (2015.04.09初校、04.10校正、04.12修正)

齢を重ねることで気づく旅  琵琶湖畔篇

2015年03月26日 | 旅行
 旅の二日目は曇り空の金沢をあとにして、JR北陸本線から湖西線を特急サンダーバード号で下り、琵琶湖の西側湖畔沿いに京都へと向かう。

 途中の石川県内には松任、小松、加賀市大聖寺と平坦な日本海に面した平野の田園風景が続く。地図をみるとこのあたりの近郊には山中、山代などの有名温泉郷が点在していて、やがて雪の県境を越えた福井駅で停車する。ここは前日早朝まだ薄暗い中、金沢行の高速バスが停車したところなので、駅前の風景には覚えがある。駅の西方には金銅の福井大仏の姿が聳えていて、どことなく少し財力のある地方都市にあるような典型だ。続いて眼鏡フレーム産地として有名な鯖江から武生を過ぎると、京都府に近い北陸トンネルをくぐって敦賀に到着。そこからふたたび山間せまる県境越えのトンネルをぬけて、西浅井町の近江塩津で北陸本線とわかれて湖西線に入り、マキノ町あたりでようやく琵琶湖の北端に到達した。滋賀県近江は、「淡海国」とも書かれ、その異名が目の前の広大な琵琶湖からきていることが車窓の眺めからも次第に実感される。どんよりと曇った冬空のもと対岸の伊吹山地がうっすらと望めて、湖畔には今津の松並木が続く。じつにのどかな情景のなか湖上の視線の先には、ずんぐりした形の竹生島が望めて、対岸の町は長浜であるはずだ。なんだかすこし眠くなってきて、ふと気がつくと、窓側隣のひとは時々目をつむっているかのよう、その柔らかな横顔越しにたゆたう風景を眺めていると、静かに時が流れていってその風景が次第にゆっくりと身体に沁みていく、せつないくらい。

 やがて線路は湖畔からすこし内陸に入ってきて、途中通過するホームの「安曇川」という文字が読めた。ふたたび湖畔に近づくと近江舞子のあたりで、リゾートホテルやロッジ、ヨットハーバーなどが目につき始め、車窓右手には白雪の比良山地が迫っている。お昼のお弁当に買った笹押し寿司を二人して食べ出したのは、このあたりだったろうか。ああ、これまで何度か日本地図を拡げながら夢想していたのは、じつにこの風景が眺めてみたかったからなのだ、ずっうと。金沢から京都へ北陸路で移動しながらのふたりの視線には、いったいなにが映っていくことだろう。それにしても、ふたたびここを再訪したときに、このあたりの湖畔周遊の道路を初夏か初秋あたりにドライブしたら、どんなに気持ちが解放されることだろうか。いつか必ず実現したい夢のひとつとして加えることにしよう。

 しばらくすると琵琶湖大橋がみえてきたが、このあたり琵琶湖が最も対岸距離が近くなるところ、つまり瓢箪形のくびれの位置にあたる。雄琴をすぎると次第に街並みに俗っぽさが増し、大津周辺のビル街や高層マンションも視界に入ってくる。日吉大社のある坂本から右手に迫る山を見上げて、「ここが比叡山なのね」と隣のひとがつぶやく。数年前に研修で滞在したなつかしい唐崎を過ぎて、近江神宮と三井寺の間をぬけるように線路は逢坂をトンネルで通過する。山科盆地をへて京都駅に到着したのは、午後一時すぎ。すぐに在来線に乗り換えて、ひとまず宿泊先がある山科へと戻ることにした。

 午後からは、いよいよ京都東山周遊と国際現代美術展2015見学のはじまり、スタートは昨年竣工したばかりの京都国立博物館平成知新館からである。

齢を重ねることで気づく旅 金沢篇

2015年03月23日 | 旅行
 21日は春分、これから日々陽光の注ぐ時間がすこしづつ長くなっていく。金沢・京都からの旅から戻ってきて、はや一週間がすぎた。その間にすいぶんと春の兆しが進んだようで、早咲きの河津桜は濃いピンク色、コブシは白い花を満開してに咲き誇っているし、中庭のケヤキの枝枝の先も薄緑色の新芽がふくらんで、もう春を待ちきれんばかりに伸びだそうとする寸前の様子だ。
 “このたびの旅”の風景の断章をいくつか。まだまだ寒さの残る雪の金沢からJRで北陸路を下り、琵琶湖西岸のやや鄙びた山あいを抜けて、のどかさが残る湖岸に広がる里山風景を眺めながら、京都まで移動し山科を拠点に東山と岡崎周辺を巡る丸二泊三日の凝縮された旅。

 翌日の北陸新幹線開業を控えた十三日早朝の到着、金沢駅前は予想どおりの寒さ。夜行バスの疲れを朝スパで流した後は、十間町の宿泊先に荷物を預けて、そのままタクシーで卯辰山頂公園まで一気に上がると、展望台周辺は雪国らしく一面うっすらと白く覆われていた。あいにくの曇り空で能登半島方面や日本海は望めないけれど、金沢駅方面の町並みが一望される。金沢城公園や雪つりされた姿の松の木々で兼六園の位置を知ることができた。吐く息が白く、この北国の空のもと、雪原に記された足跡にこれからの旅の時間が始まることが実感されて、まるで無邪気な子供のようにうれしくなる。
 
 帰り道の途中、タクシーを降ろしてもらって、坂道を下る途中の寺の境内から浅野川の流れと、黒々と低く連なる瓦屋根に規則的な残雪が幾何学模様のように記されたひがし茶屋街方面へと降りて行く。
 町屋を改装した工芸ギャラリーで、和紙に印刷された写真、九谷陶芸、漆工芸、眼鏡、盆栽などに小一時間ほど見入って過ごす。このあとは浅野川を渡って、観光定番の兼六園へ。園内を巡って歩き、茶店「兼六亭」で昼食の治部蕎麦をいただく。ここの梅園はこれからの開花時期を迎える様子、新幹線開通前の平日で時々の雨降りということもあって、まだ人出はそれほどれもなく、ゆったりとした雰囲気がよかった。
 随身坂門口から通りを渡り、県立美術館の脇の斜面緑地のデッキを下って、本多町の鈴木大拙記念館を再訪する。昨年11月の際は、背後斜面の銀杏の黄色い葉がまだ鮮やかに残っていたが、いまの季節はモミジの木々も枝枝をひろげて、その先の新芽が春の到来予感を秘めているかのよう。まちなかの深い思索空間のなか静寂の池の水面には、その木々の姿と冬の曇り空が映りこんでいた。

 記念館ちかくの鈴木大拙生誕地に立ち寄ってから、金沢21世紀美術館へと歩く。到着して中に入ると、こちらは雨宿りも兼ねた様子の観光客でなかなかの賑わい。「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」展を再見する。全体6セクションの構成からなり、今回は見落としの展示内容の再確認も含めて、じっくりと見て回ることにする。
 第1セクションの戦災から立ち上がった初期、あるいは戦前からのの歴史的建築物のかけら展示物が、赤瀬川さんたちの路上観察学メンバー、一木努コレクションから成ることに気がつく。第2セクションの前川國男、坂倉準三、A.レーモンド、大江宏、吉村順三、村野藤吾ら巨匠の古びて破れもした設計図が妙に生々しい。第3・4セクションはよく知られた近現代建築模型の数々、メタボリズム、1970年大阪万博会場の近未来型模型、それに見落としていた郷土高田出身の異色建築家渡邊洋治の「斜めの家」模型とようやく対面。第5セクションは1975年以降が対象で、建物が現存していて現役で活躍中の建築家も多い。最終第六セクションが現在進行形を含めた建築状況を網羅した形となっていて、現在と未来はいよいよ混沌としている印象だ。表層上の多様性のなか、じっくりと地に足の着いた社会や生活とつながりのある建築はどのようにして成り立つことが可能なのか、が大きな課題だろう。

 夕刻、回遊バスに乗り近江市場で下車して十間町の今夜の宿泊先の旅館に戻る。ここは金沢で最古の歴史をいまにつなぐ宿で、明り取り窓に坪庭、天井に残る太い曲がり梁にその風格をあらわれている。改装したばかりの二階の清潔な部屋に案内される。前室の障子窓をあけて格子越しに外をのぞくと、通りを隔てた真正面にあの中島商店ビルの三階建ての陶タイル張りの外観が望める。戦前の若き三十代の村野藤吾の設計、そのいまも現役の歴史的建築の前にしたここの場所を選んで今宵滞在することの幸運と不思議さにとまどい、夢が現実となったことに感謝し、そのことの意味を想う。


根府川の海、早川港から小田原城下へ

2015年02月07日 | 旅行
 如月に入っての最初の晴れ渡った日曜日の早朝、小田急江ノ島線を藤沢まで下り、JR東海道線小田原止まりの車両に乗り換えて、湘南の地を西へと向かう。小田原で一度コンコースまで上がり、隣のホームに下って熱海行きを待っていた時が午前9時すぎ、ちょうど二週間前にMと待ち合わせた熱海行きの際のホームと時刻も天候も全く同じで、その偶然に少しとまどいを感じながら、小さくため息をつく。これから見にゆく旧片浦中学校近くのリフォーム住宅は、いったいどんな佇まいでそこから望む眺めはどんなものだろう。

 やがて、熱海行きの電車がやってきて乗り込む。小田原から二駅目で根府川駅に到着、ホームの向こうには180度の相模湾の雄大な水平線が拡がる。透き通って凛とした空気の中を、まだ上りきっていない午前中の陽光が、たおやかな海面にひとすじを煌めかせ、幾つかの船がゆらゆら揺れている。右手斜め方向に目をやると、江ノ浦地区のミカン畑の斜面がなだらかに真鶴半島までつながっている。かつてブルーノ・タウトが日本滞在中、熱海の旧日向別邸に向かう際、このあたりの風景を目にして“東洋のリヴィエラ”と絶賛したそうだけれども、さもありなん、そんな情景にのっけから立ち尽くして、いったいこの眺めにどう向き合ったらいいのだろうか。まあ、小さなことは気にするなよ、あるがままに心をひらいて、ゆっくりと自然に身を任せてみたらいい。

 ホームから階段を上がって連絡橋を渡り無人の改札を出ると、木造の鄙びた水色の駅舎内の額縁に毛筆で和紙に書かれて掲げられた一篇の詩は、茨木のり子「根府川の海」。何年か前の八月終戦記念日の新聞記事で読んだ覚えがあって、二十歳の時に終戦を迎えた作者のもうこれ以上何も失う恐れのない青春の彷徨を、抜けるような空と海の碧さに託して謳った清々しさが印象に残っている。それ以来、根府川といったら、この詩のことが連想される。

 

 冬のこの季節、海側ホームの前にはカンナの花はもちろん咲いていなかったけど、駅舎を出た広場正面の南斜面には、小さな金色の冠をいただくニホンスイセンの花々が群生しているが目に入ってきた。楚々とした立ち姿がここでは眩しいくらいで、いつもの秘めた感じと少し勝手が違う。かぐわしい香りは何を誘っているのだろうか。

 約束の時間にはまだ余裕があったので、ここからは連絡バスに乗ってさらに高台にそびえるヒルトン小田原リゾートへ。10数年ぶりだろうか、以前はバブル時代に計画された勤労者のための豪華すぎる厚生保養施設が、いまは高級リゾートホテルに変わっているのは時代の流れを感じさせる。正面玄関でバスをおりて館内に入ると、意外にもロビーの雰囲気はそのままだ。あいにく最上階のレストランは改装中とのことで、時間調整の当てがはずれてしまい、仕方なく周辺を歩いてみることにする。敷地を少し外れるとあたりはミカン畑、もうすっかり収穫は済んでいて葉っぱだけが青々と陽光を浴びている。斜面のミカン畑から眺める相模湾もなかなかいいものだ。

 ここから海を眺めつつ曲がりくねった道を目的地まで下っていくことにする。駅方面に戻って石垣の積まれた人家の先を中学校の裏手に進むと、どんづまりの場所に目的の家はあった。予想通りの眺望、玄関先の奥が展示ギャラりーというので、初めてこの家が陶芸作家の一階工房兼二階が住宅であることを知る(だたし、その主人高橋誠氏は、不慮の事故で一昨年に亡くなられたということだ)。しばらくリニューアルを担当した女性建築家の説明を伺う。
 二階に上げていただくと、そこが生活スペースで海に向かったリビングとキッチンが広がる。ベランダからは、庭の桜の木越しに相模湾と真鶴岬が望める素晴らしい眺め。いまの時期、朝日は左手の海上から昇ってくるそうで、新年初日の出が自宅から拝めるなんてうらやましい! 30年前とはいえ、よくこんなところに住まい兼工房を構えられたものだと感心しきり。日常生活は買い出しなど大変であっただろうに、自宅兼工房として陶芸制作を行うには、理想の環境であったのだろう。初夏にはギャラリーを公開されるそうで、その折りにはまた訪れてみたいものと思った。
  
 途中の片浦中学近くの道端でみかけた水仙の花、まぶしいくらい黄金に輝やく。

 帰りはふたたび根府川からJRに乗り、となりの早川駅で降りて漁港まで歩く。魚市場食堂の海鮮丼をいただいたあとは、そのまま早川を渡って南町西海子小路のお屋敷街をぬけ、途中小田原文学館に立ち寄ってから、国道沿いの「ういろう本店」喫茶でひと休み。それからお城を眺めながらお堀端を抜けて小田原駅まで、この一日よく歩いた。小田原は前日から「梅まつり」が始まっていて、南向きの梅の花はそろそろ見頃を迎えている。お城と海と富士山の眺め、すこし行けば箱根・伊豆の温泉地も近くと、小田原の魅力は近すぎてうっかり気がつかなかった感がある。

 先月30日から朝日新聞夕刊では、「各駅停話」という欄で小田急小田原線が紹介されている。その最初は「城下町 宿場町 今グローバル」と題された小田原駅から始まり、これから順番に上り方面の駅を紹介していく。二回目の足柄駅では「ライバル“アマゾン行き”」とあり、13年9月にあのネット通販大手アマゾンの物流センターが駅近くに開設されてから、人の流れが大きく変わりつつあることを紹介している。これまでは千葉県市川にある物流センターから注文品が送られてきたけれど、いまはここが国内最大の流通拠点になったそうそうで、今後アマゾンを利用するときは、富士山の望める足柄駅を思い浮かべることとしよう。

(2014.02。07初校/02.08改定)

初春江の島詣で、そして日本武道館へ

2015年01月15日 | 旅行
 小正月の15日は大安、秋篠宮家の次女桂子さまが、成年を迎えた報告のために当日午前中、八王子市長房町の武蔵陵墓地へ初めておひとりで参拝されたと報道されていた。先だつ7日は昭和天皇が崩御された日であり、毎年皇族方が参拝に訪れているようだ。その際は必ず成年者おひとりずつで参拝されるようで、わたしも何年か前に参拝させていただいた際には、黒塗りの車からコートを着て降りて歩み出されたお姿に遭遇したことがある。
 南浅川を渡っての参道の両側にはケヤキ並木が続き、やがてこんもりとした御陵の杜が見えてくる。境内に入れていただくと玉砂利の参道の両側は、こんどは杉並木に変わっている。厳かな雰囲気の中、道なりにまっすぐ進むと武蔵野陵(昭和天皇陵)と武蔵野東陵(香淳皇后陵)があって、饅頭型の巨大な陵の正面には白木の鳥居が建っている。その西側には、大正天皇、皇后の多摩陵と多摩東陵があり、こちらは90年の年月を重ねて、より風格が増している。なんとも不思議な空間が東京西方のはずれの多摩の裾野にひっそりと確かに広がっている。

 さて、さかのぼって新年初日は、九年振りになるという新雪で迎えたのだけれど、翌二日はすがすがしい快晴となった。初春恒例の家族行事は、元旦にお屠蘇と雑煮をいただいてゆっくり自宅で過ごし、翌日二日に箱根駅伝のスタートを見届けた後に江ノ島詣でに出かけること。今年も地元に練習拠点と合宿寮がある青山学院大学が出場していて、加えてやはり!紫のタスキの明治大学と東洋大学を応援することに。東洋大学をひいきにするのは、創立者井上円了が新潟出身、また第二次大戦前の混乱期に7年間学長を務めた大倉邦彦は横浜ゆかりのひとだから。
 初詣にふさわしい快晴の凛とした空気のなか、横浜水道みちを最寄駅まで歩いて、もう一家族の方と合流して新年のあいさつを交わしたあと、小田急線に乗り一路江の島へと向かう。途中の六会日大前あたりを過ぎたところで、大山丹沢連なりの左側に白き冠雪を抱いた富士山がくっきりと姿をあらわす瞬間もいつもとかわらない幸せな光景だ。ここ十数年、習慣となっている初春のお出かけ、子どもたちの成長に伴って揃う顔ぶれは変わってきたけれど、過ぎ去った年月をなつかしく感じる。

 終点の片瀬江の島駅に到着、改札をでて境川にかかる弁天橋を渡り、地下道をくぐって江の島大橋を進むと正面先の江の島と右手の片瀬浜の海岸越しの間の遥か山並みの先に、さらに大きく裾野を広げた神々しい富士山が、文字通り“絵になる姿”で立ち現われてくる。海風を浴びながら、陽光のもとを神社へと向かう晴れやかでゆったりとした人たちの歩みが続く。江の島の頂上には灯台を兼ねたローソク状の展望塔が立ち上がる。この江の島と丹沢山脈背後の白雪富士と相模湾が組み合わさったまさに日本的な情景はなかなか得難いものであるし、それをお正月に住まいからわずか一時間たらずの移動で目にすることができる境遇と幸運を本当にありがたく思わずにはいられない。

 江の島神社参道の入口にある、江戸時代(1747年)に建立された青銅製鳥居をくぐると、両側には参詣客を迎える土産物店や飲食店が立ち並んでいて、私たちは肩をよせ合いながら先へと登っていくことになる。このヒューマンなスケール感と勾配は江戸時代からずうと何百年と変わらないのだろう。石段の先の竜宮城のような端心門を見上げてそこをくぐるとさらに急な階段が連なり、上りきると島の高台に鎮座する江島神社辺津宮へと至る。少し並んでから本殿に詣出て、新年の計を祈った。
 その先をさらに中津宮、奥津宮と進んで行き、江の島詣での締めくくりは、展望台下の「江乃島亭」に立ち寄っての新年の乾杯と少し早目の昼食会。島の西側に位置するここの店のベランダ側の席からは、相模湾に面した湘南の風景が一望できて、その先に丹沢の連なりとその先の富士山がしっかりと望める最高のロケーションで大のお気に入り。ここでいただく海鮮物が盛られた“まかない丼”はトロロ汁をかけていただくと美味しさ満点で大好きな一品、そのほかハマグリの酒蒸しやイカ丸焼きなどもイケる!さすが、明治創業の老舗で、対応もてきぱきと気持ちよく、店内の清潔感は江ノ島イチだと思う。

「江乃島亭」のベランダからの相模湾の遠景、山頂が白き富士には雲がかかっている。湘南茅ヶ崎、平塚の街並みが見える。


 奥津宮からも戻る途中の参道で日向ぼっこしていた姿勢正しき“島猫”の姿に惚れてパチリ!

 昼食の後は、裏参道を通って端心門下の石段へと戻り、江の島大橋の手前で同行いただいたご家族とお別れして、急ぎ足で片瀬江の島駅まで戻って再び江ノ島線に乗り込み、中央林間で田園都市線に乗り換えて一路、今年の初笑いの会場となる都内九段下の日本武道館へと向かう。うーん、何かというと、“九段下一本勝負! 千鳥ヶ淵、越えてもらいます!!”が謳い文句、「清水ミチコ 一人武道館 ~ 趣味の演芸」公演を家族三人そろって見に行くためなのでした。
 新春二日の午前中は江の島初詣から、午後は大好きな「清水ミチコ 日本武道館ワールド」への飛躍がなかなかのもので、ライブもとっても!楽しかった!!清水ミチコさんは、1960年生まれの水瓶座でB型と血液型、星座がいっしょ、ますます親しみを覚える存在。その様子はまた次回に記すことにしよう。

(2015年1月15日書始め、1月16日校正、追記)



北九州小倉と鴎外、明治の面影

2014年10月24日 | 旅行
 新横浜を発ってから約四時間半、東海道・山陽新幹線が本州西端の山口県側から新関門トンネルを通り抜け、九州に入ってから地上に出た最初の停車駅が小倉だ。ここで鹿児島本線に乗り換えて、戸畑区、八幡東・西区と湾岸沿いに続く北九州工業地帯の工場煙突を眺めながら、JR線は少しずつ内陸に入っていく。その途中の岡垣町で義父の法事を済ませて、ふたたび18日夜小倉へと戻った頃には、すっかり夜のとばりが落ちていた。駅改札から直行のステーションホテル11階の部屋の窓からは港の夜景がきらめいているのが望めた。旅行に出かけた時は大抵翌朝の散歩に備えるため、その日は早く休むことにした。

 翌日19日、まだ夜明け前の薄暗闇の中を起きだす。目覚めのシャワーを浴びてからベッドに戻って窓の外を眺めると、もうあたりは今日の秋晴れを予感させて、眩しさをすこしづつ増しつつあった。ジーンズにボタンダウンのシャツ、ジャケットを羽織ってエレベーターを降り、まだひんやりとした空気の小倉の街中へ歩み出す。ホテルのある駅ビルは三階が駅改札へのコンコースにつながっていて、ビルの中が都市モノレール小倉の発着場にもなっているなかなかダイナミックな造りだ。ベデストリアンデッキからは、モノレール架線に沿ってまっすぐ伸びた平和通りが見通せて、その両側に小倉の中心街が拡がっているのだ。

 最初に、鍛冶町一丁目にある森鴎外旧居を目指す。駅からほど近いここの横町には明治32年(1899)6月に軍医として当地に赴任した37歳の鴎外が一年半ほど居住した明治時代の木造町屋が垣根のむこうに遺されている。広めの庭先には、平屋の瓦屋根と鴎外の胸像を望むことができて、鴎外が好んだという紗羅の木が植えられているそうだ。びっしりと飲食店ビルが取り囲む中、ここだけが明治時代からの異彩を放っていて、夜になればネオンのまたたく賑わいをよそに、ひっそりと暗闇に沈んでいることだろう。その落差を想像するだけで、不思議な感慨にとらわれる。日本近代文学史上の金字塔といわれても正直ピンとこないけれども、このわずか一年半しか居住したにすぎないこの町屋と敷地の存在こそが、いまにつながる鴎外の威光を実感できる空間だ(一昨年2012年は、鴎外生誕150年メモリアルイヤーで文京区千駄木の鴎外が亡くなるまで住んでいた邸宅跡には、区立鴎外記念館が竣工している)。

 旧居をめぐってから、紫川のほとりに近い小倉井筒屋(百貨店)を目指して歩く。昭和のニオイが横溢した感のある小豆色タイルで覆われた巨大な本館と対照的なモダンな新館の間の通りの先に、その名もズバリ「鴎外橋」があって地図上でみつけたときには歴史の古いものかと思っていたら、ここニ、三十年ほどの現代に架けられたものらしい。渡った先に「鴎外文学碑」が建てられていて、まさしくこのあたり、鴎外づくしである。ここ小倉で鴎外は、さきの鍛冶町から駅前の京町の二階屋(現存していない)に転居したあとの40歳のときに再婚し、三ケ月の新婚生活を送ったあと帰郷している。

 対岸方向、青空に向かってそびえている小倉城天守閣(昭和34=1959年再建、今年が55周年)。その手前には木立に囲まれた池泉回遊式の小倉城の遺構庭園が貴重な緑空間を提供している。こじんまりとしているが都市の中の貴重なオアシスで、池に面しては本格的な書院造りが建っている。この建物は正面の広縁が池に向かって張り出していて、そこから殿様気分で庭の眺めが楽しめる。池の先の目線には北九州市役所本庁舎のスマートな姿、昭和時代のデザインをまとった典型的箱型ガラス窓の高層ビルだ。江戸時代の遺構を復元した庭園との対照性が、現代都市ならではのダイナミックさを現していて不思議な感動がある。庭園の反対側には、お城の石垣と濠を隔てて、北九州芸術劇場や美術館分館、NHK北九州、地図のゼンリン本社の入った赤・イエロー・黒が基調の派手な色使いの再開発ビルのリバーウオークがみえる。

 ここ周辺をほんの少しひとめぐりするだけで、江戸(小倉城史跡・庭園)・明治(鴎外旧居)・昭和(市役所本庁、井筒屋)・平成(リバーウオーク)の時代建築がモザイク模様のように点在していて、それを発見し味わうことこそが、街歩きの楽しさだと思う。
 もう、朝八時を回ろうとしている。ふたたび紫川を勝山橋で渡り、通勤の人混みが増え始めた京町銀天街を抜けてホテルに戻る。(2014.10/18、19滞在)

                                            2014.10.23書き始め、10.24初校、10.26改定
  
 

江の島湘南港から椿咲く伊豆大島へ

2014年02月15日 | 旅行
 一週間前の話に戻ってしまうのだけれども、10年ぶりくらいで伊豆大島へ行ってきた。今回は通常の熱海か東京竹芝からの定期便ルートではなく、年二回ほどしか不定期就航していない相模湾江の島から高速ジェット船に乗り伊豆諸島の島へ、いうのがミソ。6日早朝、ダウンを着込んで住まいから小田急江ノ島線の終点で歩いて港に向かう。大橋を渡り切り、通りにそって左手方向に進むと、明治十年(1877)の夏にエドワード・モースが訪れて、ひと夏滞在し貝類など臨海生物を調査した記念碑がたっている。

 集合場所のヨットハウスについたのは午前9時になろうとする少し前だった。できた当時は、さぞかし輝いていたであろうモダニズム建築も、50年をへて年輪を重ねてすっかり古ぼけている。正面入口に案内のひとが立っていて、二階を案内される。そこにはすでに何人かの出航を待つ参加者が集まっていた。平日ということもあって、年齢はやや高めの六十歳台のようだ。壁面にはこのヨットハウスの輝かしい歴史が記されている。1964年8月の竣工、つまりここは東京OLYMPIC大会のヨット競技の会場として建てられたものだ。その軌跡を記した年表を引用してみる。

  昭和34年5月   第55次IOC総会 第18回オリンピックヤード大会“東京”決定
    35年6月   ヨット競技 江の島・葉山決定
    39年5月   ブランデージ会長 江の島視察
      8月   ヨットハウス竣工
      10月10日 開会式(東京国立競技場)
      10月11日 聖火分火(江の島) 
      10月12日 オリンピックヨット競技開始
      10月19日 皇太子・妃 ヨット競技観覧
      10月21日 オリンピックヨット競技7回目レース、表彰式
      10月24日 閉会式(東京国立競技場)

 続いて、優勝者の名前が国名とともにクレジットされている。競技は江の島沖の相模湾三海域で五種目行われた。国名だけ記す。  

   ヨット競技5種目 WINNER オーストラリア/デンマーク/バハマ/ニュージーランド/ウエスト・ジャーマニー

 
 日本人選手11名の成績はどうかというと、参加40国中種目により最高13位から21位、とある。宿舎は大磯選手村でおそらく、大磯プリンスホテルがそうだったと想像する。そうだとしたら西武プリンス、つまり堤康次郎・義明親子と連なる日本オリンピック委員会とのつながりはここからもすでに伺える。このアジア初のオリンピックから56年後の2020年に、東京での二回目のオリンピック開催が決定したのは昨年のこと、時の流れを感じて不思議な気分になる。それは、ほぼささやかな自分の人生の軌跡に重なるのだ。

 さて、そのヨットハウスから歩いてすぐの湘南港を午前9時半に出航、ボーイング社製のエンジンを搭載した高速ジェット船の時速は安定走行時時速80㎞になるのだそう。薄曇りの空の下の海上を約一時間、大島に近づくと落葉樹と常緑樹がまじったこんもりとした自然林におおわれた岸壁がみえてくる。11時前に大島岡田港に到着する。途中期待していた相模湾越しの富士山は、残念ながら望むことができなかった。
 ここからバスで椿祭りの大島公園に向かう。途中右手に昨年秋の台風26号の大雨で崩れた茶色の山肌と寸断された道路とへし曲がったガードレールの白い帯が見えてきて、はっとさせられた。もっとも被害が大きかった場所は元町地区の上方ということだが、今回のルートからは外れていたので、唯一惨事をかいまみせられた瞬間だった。

 大島公園につくと、10年前の前回の訪問に記憶がよみがえってきた。椿資料館、キョンやラクダ、クジャクのいた動物園も当時と変わらない感じでなつかしい。椿は学名を“カメリア・ジャポニカ”と呼ばれるのことからすると、日本の在来種ということか?そういえばお茶の木も“カメリア”と同類だ。
 屋外広場で、さっそく島内でしか発売していない「大島椿シャンプー」と島唯一の蔵元谷口酒造の焼酎「御神火」三本を購入。今回は、復興支援事業ツアーの名目で3000円の商品券がついているのだ。東北だけじゃなくて、大島だって復興にむけて頑張っていることへのささやかな支援の意味も込めて単独参加した次第。ここのあとは、早くも三原山噴火跡の裏砂漠を望む、大島温泉ホテルでの目鯛べっこう漬けの刺身と明日葉づくしの昼食。お目当は雄大な眺めの露天風呂なので、昼食はそこそこに地階の浴室へ向かう。本来は入浴外時間なのだが、勝手知ったる?で誰もいない大浴場で身体を延ばして、続きの屋外露天へ。浴場の縁の遥前方にくっきりと雪化粧した三原山の雄姿が飛び込んでくる、ここだけのオンリーワンの眺めも三回目だけれど、やっぱり!素晴らしい。めったにない雪化粧の三原山と裏砂漠に続けて出会あえるなんて本当にラッキー!

 ここからさらに標高をのぼり、約600㍍の三原山頂口の展望へ。ここからは先のホテルから西に45度回った角度で、三原山の姿と表砂漠が望める。その情景がコレ!


 反対側には、大島空港と元町地区の街並みが一望される。その先は相模湾が広がり、天気がよけれ富士山が望めるそうだ。午後一時半に展望台を出発、岡田港に戻る途中の道沿いから放牧場があり、そこには沖縄から連れてこられた小型の躯体の「与那国馬」が数等、枯草を食んでいた。与那国といったらすぐ先はもう、台湾である。へえー、そんな遠くからわざわざと感心しながらも、彼らには今日の天候はさどかし寒いだろうし、大島の住み心地?はどのようなものだろうか?と、ふと聞いてみたくなった。
 バスは、ふたたび岡田港へ。ここで出航町の間に最後の買い物で、かわいい舟形パッケージの“島島弁当”を購入。お昼にも食べた目鯛のべっこう漬を乗せた梅ゴマ酢飯を明日葉にくるんだ寿司で一個七百円也。これで充分買い物は愉しむことができて大満足。

 午後3時すぎに高速ジェット船で出航、湘南港には4時半の戻りとなった。あっという間の大島日帰りツアー、江の島弁天大橋の近くまで来るとちょうど干潮時間帯にあたって、海は対岸と陸続きとなっているところに遭遇!千載一遇のチャンスとばかり、海岸におりて砂洲を渡ることに。このありそうでまたとなさそうな貴重な経験は、何度も江の島に来る中で初めてのことだけれど、島から島への旅を締めくくるにふさわしいだろうと思った。うん、記憶に残る、なかなかいい島々めぐりだった。