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日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

立夏、端午の節句。みみずくは何処へ

2017年05月05日 | 日記
 いよいよ新緑の中に夏の気配が立ち込めてきて、陽光煌めいてくる季節の始まりにふさわしい爽やかな一日となった。

 この時節、相模川両岸では、伝統の大凧揚げがある。その会場に程近い高田橋上流では、相模川を横断して様々な色合いの鯉のぼりが薫風にひるがえっていて、田名から愛川へと車で抜ける際には、想像していた以上に多くの鯉たちが豪快に泳ぐ情景に驚かされたものだ。

 愛読している『日本の七十二項を楽しむ』(文・白井明大、東邦出版2012年)によれば、鯉のぼりの風習は、江戸時代の武家の行事から始まり、鯉は滝を昇ってやがて龍となって昇天していくという中国古代の逸話に遡る。それが男子の立身出世にふさわしいと武家の間に広まっていったのだそうだ。今年の「鈴鹿歴」には、端午の節句はもともと中国の風習が奈良時代に日本へと伝わった邪気を払い災難を避けるための行事で、もともと月初めの午の日の意味が陽数五が重なる五月五日へと定着したと書かれている。

 立夏の日、我が家でも京都一保堂の煎茶にあわせて家人が買ってきた柏餅をいただき、しょうぶ湯に浸かった。しょうぶ湯には、身体の血行を促進させて、疲労回復や鎮静効果があるそうで、ささやかながら浴室の湯船のなかで無病息災と健康無事を願う。(補足:菖蒲から溶け出す成分は、テルペンといい皮膚や呼吸からも取り込めるそうで、こころも身体もリラックス!)

 また柏餅を食べる習慣は、日本で生まれた純国産の習わしだそうで、新芽が出るまで葉が落ちない柏の木にちなみ、家系繁盛につながる縁起物とされたことによる。このあたりはユズリハも同様で、正月の縁起物飾りとして象徴的に用いられる由縁だ。そして菖蒲湯に入ることは健康への効果があり、加えて邪気を払うと信じられいた。菖蒲ショウブは尚武、武を尊ぶにつながり、それが端午の節句が男子の成長を祝う節句となっていった、と先の本では書かれている。
 
 なるほど端午の節句には鯉のぼり、そして柏餅と菖蒲湯がつきものとなっていった経緯はそういうことだったのか。なにはともあれ、この日は日の出が午前五時すこし前、日の入りは午後六時半とすっかり昼間時間が長くなってきた立夏の夕暮れだった。
 
 最近読み切った本は、作家川上未映子による作家村上春樹への創作の作法や発想方法に迫ったロングインタビュー集「みみずくは黄昏に飛び立つ」である。対談後、わずか三か月足らずでの異例のスピード刊行!
 その四回にわたる対談の初回は、2015年7月西麻布ブックストア&カフェ(地下一階にある)で行われた。話題の焦点は、作家の深層心理や集団的無意識の世界についてだから、この地下にある会場にぴったり。二回目が2017年一月の神楽坂矢来町新潮社クラブ、三回目は最新刊の小説の登場人物のひとりが肖像画家であることにちなんで、画家三岸好太郎アトリエ(中野区上鷺宮だろう)で行われ、最終回が2017年二月二日、いよいよかという感じで川上を村上春樹自邸(たぶん大磯?)へと招いて行われたとある。この会場の選ばれ方が、その回ごとの話題にリンクしているようで興味深い。
 
 村上氏、本編ではユングや河合隼雄などの固有名詞を出していたが、建築方面には興味がないと話していたし、日本の伝統やしきたりとか、季節のたたずまいといった方面には、いまのところあまり関心がなさそうである。その印象があるのはドライな文体からくるのであろうか、村上は文体が導いてくれる物語性こそが何よりも大事だと語っている。反面、小説のなかの風景や景観といったとらえ方については、あまり話題になっておらず、感性の違いを感じた。さて、そうすると本文に収録されなかったふたりの雑談では、いったいどんな本音?がでていたのだろう。
 
 ここで思い起こしてみよう、対談最終日のその日は三島の富士山ろくクレマチスの丘にいた。写真美術館をのぞき、クレマチスの花が咲く前の季節の野外彫刻作品を巡った。最後に、B・ビュッフェ作品を眺めて、夕方富士山麓をあとにして、その日の長い深い夜は、沼津で明かしたのだった。
 もしかしたら、ふたりの対談を見届けたあのみみずくは、夜更けに駅前ホテルの室内に降り立ってくれたようにも想う。そしてひっそりとその部屋の片隅に潜んでいてくれたのだ。ながい夜の日付けが変わろうとする頃、やさしく羊を数えた夜にクレマチスの花の精の深い夢をみることができたのは、そのおかげだろうか? ひそかにずっと望んでいた、自然の赴くくままに魂がつながる無意識の一期一会の世界、、、。

 あれから三島の庭園美術館のクレマチス=暮れ待ちす の花は、いまが見ごろとなっていることだろう。もう一度訪れるとしたら、今度こそはその咲き誇る花の風景を見に行かなくては、そしてそこから黄昏にみみずくが飛び立つ姿と、その方向と行く先をしっかりと見定めなくては、、、。


 すまいの敷地内北斜面に残る自然林の咲くイチリン草の花ふたつ寄り添って。その季節は立夏へと巡る日々。


 こちらは、イチリン草の五輪ショット、この春も日陰に咲く清楚なすがたを目にした小さな幸せ。

 
(初校2017.05.05、05.09改定)

新緑の季節、山吹笑う

2017年04月16日 | 日記
 お釈迦様の誕生日花まつりもすぎて、二十四節気でいうところの清明の名の通り、新緑の季節が巡ってきた。その変化の様子は、住まいの中庭にあるケヤキの大木の芽吹きが、むずむずとくしゃみをしそうな色合いからうすい黄緑色へと変化していく日々のなかで感じられる。とくに晴れた日の早朝は、ヒガラの仲間とおぼしき野鳥が盛んにチュピ、チュピ、チュチーとさえずりまわっていて、生命のいとなみを伸びやかに謳ってくれている。

 マンション裏の北斜面に残されたわずかな自然林をよく眺めると、そこには三本の山桜が自生していて、木々全体に薄いサクラ色をちりばめたかのよう。この季節の北斜面緑地は、さまざまな野草の可憐な花が見られて、自然界に息づく多様性に驚かされる。そのひとつ、軽やかで鮮やかな黄色の一重咲の山吹は、先日の植栽作業で下草と一緒に刈り取られてしまっていた。ひそかにずうと楽しみにしていたのに、ほんのわずかしか見かけることしかできなくて、とても残念な気がしていた。
 そこで愛読している「季節を知らせる花」(2014年、山川出版)を手に取って読み返してみる。

 著者の白井明大は、1970年生まれで沖縄在住の若き詩人。その白井さんの文章はじつに平明簡潔でありながら要領を得ていて、こころにすっと入ってくる。加えて本文に添えられた木版画家の紗羅さんが表現する季節の花花の挿画が美しく、文章にぴったりと寄り添っての視覚的効果をあげている。各章下段に挿入された解説、参考文献、巻末の索引が充実していて、編集者のセンスと細やかな心配りに感心するばかり。このような本を作り上げたこと自体が、優れた文化的行為だろうと思う。
 この本からは花の生態そのものについての知識と、その背景にある文学的歴史的素養を得ることができた。帰りの駅改札を出て立ち寄ったのか、たまたまの休日にふらりと覗いてみたときなのか、出会いの記憶はもう定かではないのだけれど、地元本屋での偶然の出会いに感謝である。その日、店内の本棚を巡っているうちに、ふと目に留まったこの本を何の予備知識もなしに手にしてみて、すぐに購入しようと思ったのだ。

 「季節を知らせる花」から「山吹笑う」の章に目を通す。
 
 「吹き渡る風にしなやかに触れながら花が咲きこぼれる様子から、古くは山吹のことを山振といいました」と古名のいわれにふれ、春の山の様子を「山笑う」とたとえるように、山吹の鮮やかな花の咲きぶりに新緑で黄色に染まる山の様子を見てとり、自然の生命力がその咲く花に乗り歌ったかのような名前だと讃えている。そして続く一節が、今春に咲き誇るはずだった幻のヤマブキの花への想いを代弁していて、いにしえといまの心象が重なる。

 「『振る』とは、小刻みに動かすという意味で、そうすることによってものの生命力が目覚め、発揮されると考えられていました。古えの人にとって、山吹色に輝きながら風にふれて生き生きと咲く情景は、まさに生命の息吹そのものに映ったのかもしれません。」

 息吹きと山吹きの音韻が重なる。一定のリズムで吹く=深く吐いて吸うことで、自然な呼吸が生まれる。それこそが生命の源であり、律動だ。

 人生の出逢い風景のなかで変わっていくもの、変わらずにあるもの、それでも季節は繰り返し巡ってくる。自然界の営みは、きまぐれのようでいて人智を超えて、いつも泰然自若としている。

ドトールの復活、JAZZ喫茶バード1979

2017年04月08日 | 日記
 季節は花曇り、このあたりではソメイヨシノが満開を迎えた。駅前広場に一本だけ残った桜の古木も、その枝枝に目いっぱいの花を咲かせて、遠目には全体がピンク色の綿菓子のように柔らかい姿を見せている。

 先月末、駅前ビルが耐震工事と化粧直しを終えた。それに合わせて一時営業を見合わせていたドトールコーヒーが半年ぶりにリニューアルオープン、ようやく気軽にひと休みできる憩いのカフェ空間が復活したことは地元人としてはなんとも喜ばしい。いまや都心型大手コーヒーチェーンだが、ここまほろ郊外に最初にできたのは1986年6月のことで三十年以上前のことだから、チェーンの歴史の中でもごく初期にあたる。それはお隣の相模大野よりも早いはずで、木製出窓のある温かみのあるデザインだった。新店舗の構えはその手作り感が消えて、よくいえばスマートな標準タイプで取り澄ました感じ。このまちになじんで親しみが沸くには、すこし時間がかかりそう。
 店内カウンター背後のどこかヨーロッパの街並みを描いたパネルはオリジナル、このローカルタウンもそのような街並みになればよいのにと夢想したことがある。あのパネルは残念ながら復活しなかった。もうすこし暖かくなったら、店先のオープンスペースにも愛犬を連れた散歩途中の住人がくつろげるように、いくつかのテーブルと椅子が並べられたらいい感じだ。

 午後から小田急線でとなりのまちへ。旧まほろ街道シルクロードから横丁へ入ると、町田では老舗のジャズ喫茶BARDが見えてくる。この店の佇まいにしてこの看板、裏表ともになんともいえぬ味わいがあって昔から気になっていた。その看板を改めて眺めてみる。入り口側には、ギターを抱えたジョアン・ジルベルトの上半身のイラスト(これってオーナーが描いたものなのか、何ともヘタウマである)、反対側に回ると半分日焼けした味わいのある看板に、店名となったチャリーパーカーのクレジットと代表アルバムジャケットだろうか、BOSSA BAR の文字の下に何故かグリーンのピアノ鍵盤が横にデザインされてて、「1979」の数字がオープン年を表わしている。まだ、東急や丸井がオープンする前の駅前大改造時期のことで、ささやかな個人史における大学入学前の年だ。まもなく四十年がたとうとしている看板が、静かに歴史を物語って佇んでいる。

つい最近まで、このイラストがジルベルトだなんてうかつにも気がつかなかった。
 この店内でボサノヴァ、中村善郎さんのライブを聴いてみたいな。アコースティックベースとフルートのトリオ、あるいはピアノ、サックスのトリオで。もちろんソロでもOK!




  
 そして、BARD表の店構え全体の様子はこちら、シブイよ!
 店入口は通りに面していて、そこをステップアップで入る感じがなんともカッコよくいいイントロを奏でる気分だ。この中の空間で深夜にパットメセニー&チャーリー・ヘイデン「ミズーリーの空高く」を聴いてみたらどんな気分だろう。あるいは、ロバータフラックの初期のボーカルナンバーを。



 

弥生月ミモザ 三寒四温

2017年03月09日 | 日記
 早朝、快晴のまだひんやりとした冷え込みの残る大気の中、中庭にある二本の欅の大きく天空に広がった枝枝を眺める。まだ芽吹きはには早いけれど、着々とその準備は進んでいるに違いないだろう。雲の無い碧空のぬける様な高さを感じる日々だ。

 昨日の国際女性デー八日、あちこちの花屋店頭では、その象徴とされるミモザの黄色の綿菓子のような花をしばしば見かけた。この澄んだ早春の空の碧さには、ミモザのたわわに咲いた豊かな花花が映えてよく似合う。街角でよく見かけるのミモザは、正式にはマメ科のギンヨウアカシアで、その風に吹かれて(ボブ・ディランの歌みたいだ)揺れる鮮やかな黄色の花束と、反転してひるがえったときに光る銀色の細かい葉の取り合わせが、乾いた地中海地方か、原産地南半球オーストラリア大陸などの未知の遠い外国を思わせる。


 ギンヨウアカシアの咲はじめ、座間神社の境内にて。
 すぐむこうのフェンスの先にひろがるのは、米軍キャンプZAMA。ここには、A.レーモンド建築の指令本部棟、教会が残る。


 住まい近くの中学校グランドの片隅には、松鶴園と名付けられた緑地が整備されている。このあたりでは珍しく見事な松が十数本残されていて、そのむこうに大山丹沢の山並みがくっきりと望め、かつての相模野原野だったころを彷彿とさせる風景を遺す。松の木の根元には、西洋スイセンが群生していくつものクリーム色のやさしい花を咲かせている。先行して咲くニホンスイセンは色香しい空気を漂わすが、こちらは大ぶりの花がつく。その情景を駅へ向かう道中に眺めては愉しんでいる。

 駅近く、その手前にあるその名も東芝林間病院前は「東林さくら通り」といい、両側がソメイヨシノの並木となっている。かつては、桜のトンネル状態で本当に見事だったのに、誰が望んだのか無残に枝が落とされてしまっているのが哀しい。
 病院運営母体である健康保険組合の企業経営環境が厳しいことの余波なのか、この冬は正面ロータリーの松の植栽の雪つりも行われず、さびしい気がしていた。それに輪をかけるようにその駅寄りの敷地がマンション用地として売却され、戦後に結核療養棟が健在だったころ、昭和30年代の面影を残す豊かだった自然林が伐採されて整地が始まっている。来年には十数階建ての建物がそびえて、駅前の風景も一変するだろう。

 ようやく駅ビルの耐震改修工事の覆いがとれて、テナントの看板が掲出されたのを見たら、そこに長く親しんだドトールコーヒーの名前があって、あっと思った。リニューアルして半年ぶりに復活するのを確認できて、ささやかながら嬉しくなる。これで前のように本屋も入居してくれると、この町もなかなかの暮らしぶりを謳歌することができるのにと思う。カフェと本屋の相性の良さは、昨今のツタヤの盛況をみれば納得だ。くわえて日用雑貨や文房具の揃ったミニ無印良品ショップなんていうのもあるといいね。

 竣工の三月末、広場に一本だけ残されたソメイヨシノの古木が咲くころには、駅前の様子はどのようになっているだろうか。

藍色浪漫あいいろろうまん

2017年03月05日 | 日記
 啓蟄の日のとおり、日中はポカポカと春らしい陽気となった。

 住まいのマンション集会室脇に植わっている山茱萸サンシュユが、薄黄色の球形に拡げた可憐な花々をいくつか咲かせ始めている。それを遠目で見かけると全体がポワッと軽やかに霞んで見えて、ああ春が来たなって思わせる。この花が終わってから楕円形の若葉がひろがってくるのは、五月の頃だろうか。
 住宅正面入口には、マンサクの花が咲きだしている。咲く時期が同じころなのでサンシュユと混同していたが、比較してみればまったくその容姿は異なり、こちらは少し濃い目の黄色の異形の花で、根元部分が赤褐色の紐状の花弁を四方八方に拡げている。あちらは、大陸からの外来種、こちらのマンサクは日本原産で、本州太平洋側から九州の山林に自生する植物だ。

 まほろ博物館へ「伊万里染付図変わり大皿の世界」の副題が添えられた磁器コレクション展を見にゆく。出品大皿に描かれた図柄はすべて藍一色、題して「藍色浪漫」、あいいろ“ろうまん”、と読ませることがミソのようで、大陸の異国情緒も漂い、見ごたえのある意匠がずらりと並ぶ。案内チラシも藍に敬意を表してか、地が白、柄は実際の本物以上に濃い藍一色のなかなか目をひくデザインとなっている。
 現物の大皿をみていくと、すべて江戸時代以降に制作されたもので深みよりも柔らかみを感じさせる。意匠図柄は花鳥風月が基本であり、当時の職人たちが自然や風景を描くことでこの世の中に生かされているものと同化し、よりおおきな一体感や充足感を得ようとしているように思える。また描かれた龍や鯉、象、虎、鹿といった動物たちは何らかの吉祥のアイコンであり、どこかユーモラスが格好である。そのほかに干支図と八卦の組み合わせ、蕭湘八景、近江八景の絵柄がおもしろい。

 お昼を過ぎる前に、鎌倉街道を戻って16号線に入り、相模原中央地区へと移動する。市役所前桜並木大通り沿いのロイヤルホストで昼食をとる。久しぶりに入る店内、ここはファミリーレストランが輝やいていたころの栄華をいまだに保つ、王道レストランの雰囲気をもっている。
 一目でわかる大きなガラス窓と暖色系瓦の屋根をもつ平屋建ての店舗、広めの駐車場、店内のゆったりしたレイアウト、しっかり調理された料理と盛り付け、白衣を着てきれいに頭髪を揃えた店長、品よく教育された従業員の接客態度、清潔なトイレ、スイートポテトに代表される吟味された持ち帰り用お土産品など、ホスピタリティと顧客満足を意識した店舗オペレーションが徹底されていることに少々感動してしまう。その分、値段はそこそこ高めだが、月に数回くらいの贅沢としては納得できるだろう。
 ただしここでは、ファミリーがメインに珈琲やスープ、サラダつきのセットメニューを注文するようにのぞまれていて、一人客が安くあげようとして単品の注文をすることは憚られるようだ。ちょっと今日の自分にはそぐわない感を抱きながらの昼食、いまの自分にいろんな意味での余裕がないからなのだろうか?



 まほろ駅ビルデパート。その真中を小田急線が貫通し、ホームからエスカレーターで店舗まで直結。1976年に開業してもう四十年が過ぎたが、郊外都市型百貨店の典型としていまもにぎわっている思い出のデパート。
 このなんともストレートな外観のフォルム、とくに屋上部ウルトラマン的アイコンは、いまはほかに見ることの叶わない貴重な?小田急電鉄のCI更新前のマークだ。ビルの反対側の同じ位置にもあと二つが残されている。ビル本体に型取りして作られたから遺されたのだろうか、このマークを眺めるとこの町に住みだした学生時代を思い出す、記憶のシンボルのようなものだ。

 そして隣のビルは、小田急に先行して1971年に開業したかつての大丸百貨店町田店で、東京駅店舗につぐ関東進出第二号店だった。もし、これらのデパートが存在しなかったら、この郊外において都心に行かずして得ることのできた東京体験は、相当異なっていたことは確かだろう。そのくらいに当時のデパートは、ひとびとの憧れの存在だったと思う。
 大学生時代、地下食品売り場や配送センターでアルバイトをして、サンプラ時代は人事部付で研修をさせてもらったりとすっかりお世話になった場所。当時の職場の方々の顔がいまでも懐かしく浮かぶ。

 

雨水過ぎて草木萌え動く

2017年02月23日 | 日記
 立春から約三週間がすぎて、故郷では雪の表面が溶け出して流れだし、冬の間を忍んできた草木の芽々がようやく膨らみだすころだ。この時期、私的にはまたひとつ齢を重ねて、還暦までもう片手の指折りで到達する年代となってしまった。ただ時の流れの無常の前にここまで来てしまったのかな。いままでがあまり大きな変化がなかったといえばそうだし、その分いまになって普通よりも十年おくれで人生の課題がまわってきているようで、キリギリスになってしまったかのような動揺も感じる日々。
 
 先週、二十四節気でいう雨水翌日の休日は、自転車で久しぶりに中央林間「慈緑庵」へ。園内の書院は一般利用があり、立春の室礼の様子を見ることは叶わず少々がっくり。その先、相模カンツリークラブ手前に残る旧米軍将校向けに建てられた広めの敷地割の平屋建て住宅、通称“ハウス”群がわずかに残る一角を巡る。ここだけが、民間地でありながらすこし周囲と違ったかつての輝いていた頃のアメリカの空気が流れているのを感じる。学生時代に初めて巡ったときのなんともいえないエアポケットにハマったような不思議な非日常的感覚を思い出す。

 ここを歩く楽しみは、その一角に異能の建築家白井晟一設計の「桂花の舎」(M邸、1983-4)があり、その周囲をゆっくりと巡って経年の変化を眺めること。家の周囲壁に瓦を載せて赤レンガを埋め込み、いかにも左官職人仕事の片鱗、コンクリの荒い塗り壁でまわした平屋建ての低い屋根の軒先が伸びる前庭に名前の由来としたのだろうか、大きな金木犀が植わっている。
 少し奥まった玄関前の門扉と車庫(倉庫)扉が揃いの白木の格子でデザインされているのが印象的で、洗練された重厚な都会の民家、といった雰囲気を漂わせる。おぬし、ダダものではないなと思っていたら、白井晟一設計と知り、こんなところに彼の最晩年の住宅があることに驚かされたものだ。とにかく、変わらずに存在してくれている姿に安堵する。

 午後は16号線を超えてまほろ方面へ走り、方運山青柳寺(日蓮宗)へ移動する。境内にある、まほろゆかりの文人墓碑めぐり。墓地の入口手前に和スイセンが咲き、馥郁とした香り。梅の花も盛りだ。 
 歩みをすすめて、まずはいま文学館で「散歩の愉しみ」が開催されている野田宇太郎の墓前へ。黒色の細身のつくりで、隣は堅実な銀行員詩人だった、田中冬二。その向かいは乾直恵、蒲池歓一と昭和初期時代の詩人たちの墓碑が集まっている。少し離れて、自然石に「寂」と一時書かれた映画人栗山信也の墓、これはなかなか人柄も彷彿とさせて見習いたいくらいのいい感じ。通路を隔てたブロックには、石川桂郎、高木蒼梧、人見勇といった名前だけは聞いたことのある俳人・詩人たちの墓誌もある。
 それにしてもいかにして、安息の地としてここの地を選びたもうか。強者どもが夢のあとではない、それぞれの文学人生の小さききらめきのような一角。此の世を去っては、おそらくみなさん平等です、ただここに偲ぶ人あり。

 追記:如月11日、イラストレーター原田治、12日アル・ジャロウ(ジャズシンガー)逝去。おふたりとも、学生時代から、その作品を通して親しんだ方たちの冥福を祈る。


御殿場駅前広場、“LOVE is ART“ を大胆にも標榜する珈琲屋兼中古カメラ屋?(2017.02.03)
芸術愛はわかるけれど、LOVEが芸術なんて!いえる? LOVEすることは信頼の証し、快楽の追求、人生の妙味?


いよいよ、この人の長編小説新作が間もなく発売になる。
まほろ市内書店で見かけた予告ポスターは、拍子抜けする位になんの変哲もないデザイン。

白い朝に目覚めて

2017年02月11日 | 日記
 目覚めたら、白い朝だった。

 昨日から降った雪が芝生やツツジ、常緑の植栽の葉の上に積もっていたのだ。しばらくして、東方からの朝の陽光が中庭に差し込み、ケヤキの冬樹形のシルエットをマンションの白い壁面のカンヴァスにしてくっきりと映し出すようになる。

 ぼんやりと一週間ほど前、木曜日のできごとを反芻してみる。

 午前10時すぎ、新幹線で新横浜から三十分くらい乗車するとJR三島駅に到着する。駅前ロータリーからの美術館行連絡バス、目指すは目前にそびえている富士山ろくの「クレマチスの丘」と名付けられた風光明媚な庭園美術館だ。クレマチスの花の季節には早すぎるが、この時期の澄んだ空気の中の情景もなかなかのもので期待が高まる。
 まずは、杉本博司が内装と坪庭を設計した写真美術館。モノクロの動物写真展「せかいをさがしに」を見て回る、古代の岩積の石棺のような苔庭、白くてシャープな空間に浸る。

 センターコートに戻って、ゆるやかな通路を上ると視界がぱっと開けて、芝生広場のむこうにコンクリート打ち放しの彫刻庭園美術館と三島市街が望めた。こんどはゆるやかな下りとなり、石庭を通って小さな入口から下るとすぐに美術館内に誘われる。イタリア人彫刻家ヴァンジの作品が並ぶその美術館を出ると、クレマチスガーデンと呼ばれる第二の芝生広場が広がる。芝生の端に円形の小さな池があって、中央に水の流れる女像のブロンズ彫刻が佇み、夏になると睡蓮の花が浮かぶ様子を想像できる。これはやはり、春から初夏にもういちど訪れてみるべきだろう。

 カジュアルなイタリアン・レストランでピザをつまんでひと休みの後は、別荘地をぬけて小さな渓谷の上に架かる吊り橋を渡って、すこし離れたエリアにあるベルナール・ビュッフェ美術館へ移動する。ここまでの景観の変化もあきることがない。入口正面で楠の大木が迎えてくれる。建物の設計は菊竹清訓で、1973年に開館してもう45年になるが古さを感じさせない。ふとどこかで見てきたかのような気がしてきて、そういえば、箱根彫刻の森美術館の分館ピカソ館みたいだ。あちらも同じ菊竹の設計だろうか。
 館内にはいれば当然、B.ビュッフェ一色、この人の尖って暗い印象のある絵は好みが分かれるだろう。意外にも都会の摩天楼を描くと、この画家のスタイルにマッチしているのがおもしろい。大空間のキリスト像の連作は、ひたすら痛々しく悲惨な印象ではあるが、館内の雰囲気は白基調のせいか妙に明るい印象だ。ここ富士山麓に、エコール・ド・パリ最後の世代の大コレクションがあるのが不思議な気がしてくる。


 帰りの三島駅行きのバス、振り返ると冠雪の富士山が覆いかぶさってくるかのようだ。その日は三島駅から隣の沼津まで移動し、まだ明るいうちに駅前の真新しい宿にチェックインして、翌日の御殿場線の旅に備えることに。

 やさしく羊を数えた長い夜に、クレマチスの花の精の深い夢を見る。


ヴァンジ彫刻庭園美術館の芝生広場から、箱根外輪山の連なりを望む。


御殿場東山のとらや工房特製どら焼き、焼印が富士の形に「と」を組み合わせたもの。

金柑と蝋梅

2017年01月28日 | 日記
 大寒のこの季節、民家の庭先などにミカン科の小さな果実、金柑が色づいているを見かける。金色の蜜柑だから、キンカンと呼ばれていて、よく熟したものはよい香りがして甘酸っぱく旬の果実である。はちみつを入れて煮詰めて作った甘露煮や金柑酒など、風邪の予防によく効くようだ。

 黄色系統から連想したのは、寒空に映える蝋梅ロウバイの艶のある黄金色の花で、その馥郁とした香りが季節を感じさせる。まとまって見られる場所は意外と思いつかなくて、隣りまちの忠生あたりの公園にすこし群生していたのを思い出した。このあたりからはすこし離れるが、松田町寄には山の斜面を利用したロウバイ園が開かれていて、それは見頃な咲きっぷりのようだ。それを手軽に駅張りのポスターで見つけて愉しむ。
 
 早咲きの梅は、いまがもう盛りである。今朝の新聞地方版には、小田原市内久野のフラワーガーデンで紅梅、白梅が満開になっていると書かれていた。このあたりは小田原でも郊外のひなびた里山地域にあたり、いつか伊豆箱根鉄道大雄山線に乗って、のんびりと一日かけて巡ってみたいと思っている。山道をゆくと周囲には古代の古墳遺跡がいくつも眠っていて、その存在のあかしは、いまは静寂の彼方に吸い込まれてしまったかのようだ。

 相州小田原と言えば、早川中流域の入生田駅からしばらく歩いた山間に咲く、長興山しだれ桜も久しく眺めていないなあ。いつか、ここらあたりから早川対岸の太閤石垣山一夜城歴史公園まで登って、ひと休み、相模湾の広がりを一望したら、小田原漁港まで下っていこう。最寄りのJR早川駅から小田原駅までは一駅である。
 歴代の城主、北条五代、大久保氏、稲葉氏につづく殿様気分で小田原城天守閣へ登楼したら、老舗「ちん里う」の蜂蜜梅漬けと本家「ういろう」駅前店で金柑を模した和菓子を箱入りで買って帰るだろう。

 晦日正月まであと三日、そのあと如月を迎えたらすぐに節分だ。もう春は近い。


この時期の水仙の花も忘れられない。一休和尚の漢詩の世界。(2017.01.05 相模台団地にて)
乙女のような清楚な五弁の花びらのかぐわしき香りの広がりの中、金冠台の鮮やかさはいったい何を受けとめようとしているのだろ。

新春2017 江ノ島詣之絵巻

2017年01月03日 | 日記
 新春にふさわしい穏やかで晴れ渡った三が日、しばらくはこの天気が続くようである。

 本年西暦2017年は、明治でいうとちょうど150年にあたり、その間の世の中の変化・変動といったらそれまでの史上類例がないくらいの激しさだろう。欲望の赴くまま世界のグローバリズム化が進行し、効率化や利便性と引き換えに失ったものや忘れ去ったものの大きさに気がついたときは、もはや人類生存自体が手遅れの危機に陥っているといったことのないように祈るばかりだ。尊大な態度で自然をないがしろにしたものは、自然からしっぺ返しをくらうだろう。

 本日三日、恒例の江の島詣に出かける。小田急線に乗ってほんの三十分もすれば、終点の片瀬江ノ島駅のホーム、思いのほか空いていて肩すかしを食った。島への大橋を歩いて渡る途中の右手前方、相模湾と丹沢大山の連なり越しに見える富士山は、冠雪を覗かせた中腹が雲で覆われてしまっていたが、まずまずの御姿を表わしてくれている。島に入ってすぐの参拝入口に立つ青銅の鳥居には、江戸文政年間に再建された刻印がある。その先の参道の幅は当時のままほとんど変わらないはずで、この絶妙の幅が独特の賑わいを生み出しているように感じられる。

 店先の賑わいを抜けた先、急な石段の先にそびえる竜宮城のような端心門は、異空間への誘いを効果的に演出しているようだ。そこを上りきると辺津宮とその隣の弁天堂、すこし歩いて途中ヨットハーバーを望みふたたび石段を昇り、朱色が鮮やかな中津宮、さらに歩いて山頂のコッキング苑のある広場へと続く。ここからは、相模湾を一望でき、三浦半島の先からぐるり箱根伊豆方面まで、周囲三百六十度のパノラマ風景が望める。

 奥津宮まで参って、帰りの江之島亭でひと休みの食事をとることにした。島の道中では、陽だまりの猫の姿をすっかり見かけなくなった。なにはともあれ、いつもの穏やかな三が日であることに感謝しよう。




 恒例の風景、展望台と富士山のツーショットは望めなかったけれど、相模湾と空の碧さがまぶしい。
 中央雲の下は大山丹沢の山並み、画像左端に少し濃く低く連なるのが、大磯あたり高麗山から湘南平。 
 海上は遠目におだやかで、弁天丸の進む波状が長く引き、まるで鏡面のミズスマシのよう。


 島の頂上広場でみつけた、春のきざしの河津桜。一輪二輪と薄ピンクの可憐な花が、今朝ひそやかにといった感じで。


 参道入り口の青銅製鳥居は、江戸文政年間(1830年代)再建の刻字。掲げられた額は、迫力ある昇龍の姿で縁どられている。


1986年6月3日のドトール・コーヒーショップ

2016年10月08日 | 日記
 今月15日17時、小田急江の島線沿線にひろがるごく普通の住宅地にある駅前コーヒーショップが最後の営業日を迎える。ショップ入口に掲出された挨拶文によれば、開店は1986年つまり昭和61年6月のことだそうだから、なんと今年で三十周年を迎えたというのに、まさに青天の霹靂のできごと!

 当時、カフェという言葉自体がまだ世間に認知されてはいなくて、この手の新興資本による少しシャレた雰囲気のコーヒーショップは、都心ならともかく、この郊外の地に置いてはまだまだ珍しく新鮮そのものであった。 
 なにしろ、第一号店が原宿に開店したのが1980年(昭和55年)4月だから、ドトールというブランド自体がいまほどは知名度は高くなかったはず。それが早くもここにできたことで、この駅前もすこし都会的になったかのような気がして嬉しかったのを覚えている。いまなら鳥取県にスターバックスが開店した時のような気分だろうか? だだし、そのようなマスコミを巻き込んだおおげさな空騒ぎはなくて、謙虚なものだったと記憶している。まあ、そこがこの地域らしくて好きなのだが。この周辺は、小田急が小田原線から江ノ島線に分岐して最初の駅で、おとなりが田園都市線の始発に接続する中央林間という、言ってみればエアポケットのような土地柄で、商売には少々難しいところだ。

 そのドトールショップのオリジンである原宿店は、もう新しいビルになってしまっている。当時、地元のお蕎麦屋さんがあって、その隣がショップ、うなぎの寝床式のスタンドが主体の店内だった。珈琲一杯が150円というのが新鮮かつ衝撃であり、看板メニューであるジャーマンドッグとの組み合わせが当時としてはじつに旨く、大学生になったばかりの僕は、よく原宿表参道ぶらぶら歩きや明治神宮の行き帰りにひと休みしようと通ったものだ。この年に村上春樹、翌年に田中康夫が小説デヴューしている、そんな時代だ。
 あのころは駅前歩道橋のそばに国土計画本社があり、いまも参道並木のケヤキの緑に沿って、高級分譲マンションのはしり、コープオリンピアが健在だ。すこし下るとケーキのコロンバン、ステーキのスエヒロ、メンズショップのSHIPS、そして明治通り交差点のラ・フォーレ原宿、パレ・フランセ、セントラルアパートメント、レトロな同潤会アパートとメガロポリス東京の記号の集積、まさしく1980年代の表層文化を象徴するような小説“なんとなく、クリスタル”の舞台が続く。
 その余波のなかに堅実な1号店をスタートさせて勢いのあったドトールショップが、早くも地元の駅前に堂々と登場したのである。まだ、バブルがはじける前で、まほろ周辺や相模大野にも同じ形態のショップはなかったと思う。その驚きは、同じくコープオリンピアにあった有名中華料理「南国酒家」がまほろ駅ちかくに開店したとき以上のちょっとした感慨深さだった。これからは、郊外がおもしろくなる、なんとなくそんな予感がしていた。

 あれから三十年、すっかりショップ自体が地域になじんで、地元住人には憩いの場として親しまれるようになっていた。ある意味ここになくてはならない場所となりえていたから、効率を旨とする大資本論理からすると、継続して存在していたこと自体が奇跡のようだったのかもしれない。これまでマクドナルドもケンタッキーも撤退してしまったし、思い起こせば現ドトールの前のテナントは、あの「レストラン・ジロー」だったのだから!
(ジローはすこし形態をかえて、最近になって玉川学園、鶴川駅近くに復活したのは喜ばしい)

 ひょっとしたら、創業者の志にあるように地域に親しまれるコーヒー文化を提供するという使命が結果的に叶っていた、ユートピアのような場所たりえたのかもしれないと想像する。この小さなわずか28席のショップ空間の中に、この三十年の時代の流れと記憶が象徴されていた。きたる15日はその閉店に立ち会うことで、まあたぶん、やれやれとつぶやきながら、村上春樹にとっての1973年のピンボールのように何かが失われて過ぎ去ってしまった時代の転換を思うだろう。

 ドトール、のち、はれやか、あなたは三十年前、誰と出会ってどこで何をしていましたか?
 (閉店間際の東林間店を見る 小田急駅ビル)