Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

三つのパンの祈り  ルカ 11:5-8

2011年11月04日 | Celebration
ただ今、レポート執筆中




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完了した人生 ルツ4:14-17

2011年10月02日 | Celebration
感動のない人生はつまらない。商業界においても、何かしら人を感動させることができれば、リピーターを得、業績が上がる。教会も同じことだ。しかも、教会が与える感動は、世のものとは違う。それは永遠の命へ繋がる希望あふれる感動だ。私たちキリスト者は、福音のもたらす豊かで深い感動を人々に伝えることを絶えず心がけて生きよう。

 さて、そのキリスト者の生きる源、聖書からも私たちは感動を受ける。今日はえんぢぇる師が受けたルツ記の感動からシェアしていただく。ルツ記は、かの文豪ゲーテが「小さなスケール上に描かれた最も好ましく完璧な仕事」と評し、また聖書と知らない文学者、批評家の間でも「珠玉の短編小説」と言われるほどの、4章から成るルツとナオミの物語。評価に違わず、その物語としてのレベルは高く、しかも読みやすい内容。キリスト者であれば、何度となく読んでいる書のひとつだろう。しかし、聖書は66巻から成り、ルツ記はその内の一書簡。ルツ記本来の意味は、聖書の中にあって輝きを一層増すことを覚えよう。まず、ルツ記が位置するのは、創世記に始まるモーセ五書に続くヨシュア記、士師記の次の書物。その後には、サムエル記、列王、歴代、預言書と続いていく。そのことからだけでも、ルツ記は、大きなイスラエルの動きの中で、歴史の流れ、民族の葛藤から離れて佇む風情を色濃く表し、あたかも砂漠のオアシス、また荒野に咲く一輪の白百合のような美しさを際立たせる。

 えんぢぇる師は、このルツ記にキリスト者の人生のモデルを見た。クリスチャンの人生とはこういうものだ、ということをルツ記全体から神様は示唆してくださったのだ。その3つのポイントで語った。


自分の最善が神の最善とは限らない。

 人生には苦しみがある。津波に家族も財産も奪われた人の苦しみ、また仕事の人間関係での悩み、夫婦、親子、友人間にも傍目には小さかろうと苦しみはある。この人生の苦しみの意味、曳いては人生を生きる目的は、キリスト者であればこそわかることだ。クリスチャンにならないとわからない、と言っても過言ではない。最終的な解決策はイエス・キリストにしかないのだから。その希望の福音を、初穂である我々は内にいただいている。

 ルツ記の主人公はルツと言うよりもその義母、ナオミだ。異邦の地まで夫に従い赴き、そこで家族生活を営むものの、伴侶を亡くし、子供たちまで失い、心の支えとなるものが何もなくなった女性。当時の時代背景では、まさに皆無と言える状態だ。仕事のない女性ゆえに経済的基盤もなく、息子が異邦人と結婚したために社会的基盤もなくなった。ユダヤの社会が一般認識していたように、神様の恵みから外されて恥辱に喘ぐ人生しかなかった。

 ナオミの人生は神様の存在が感じられないことばかりだった。実は聖書は失敗談の記録なのだ。モーセは約束の地に入れなかった。ダビデは神殿を建てることを許されなかった。パウロは願っていたイスパニアに行けなかった。そしてナオミは恥から逃れるよう祈り続けた。彼らの前に神様はいらっしゃらなかったか。否。神様はモーセに、ダビデに、パウロに、そしてナオミにも確かに現れていらっしゃる。

 そのルツ記の最後の部分、「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。」赤子を胸に抱いたナオミを言い知れぬ平安が包んでいる。彼女は祝福の内にある。ナオミ自身はその意味を知らないが、この子供からイスラエルの王が生まれるのだ。そして、更には全人類の救世主、イエス様が誕生する。数多の苦難を経、恥の人生しかないと嘆くナオミから。確かに嫁であるルツの子とナオミに血縁関係はない。しかし、神様は「ナオミに子供が生まれた」とされている。ナオミの約束の子なのだ。私たちは個人の最善を望む。しかし、神様は全人類の最善を望まれる。そしてそれを確かに成就されるのだ。悲しみのナオミから希望のメシアが誕生する。これが神様の最善だったのだ!


暗闇の中でこそ神は働いておられる。

 確かに人生には苦難がつきもの。しかし、その苦しみを乗り越えた経験は、人格形成に重要な位置を占める。真の悲しみを知らない人は、人の痛みを知ることはないからだ。真の悲しみには傲慢さが入り込む余地はない。それは神様との一対一の対座によって示される。「父親から鍛えられない子供はいない。」とあるように、悲しみや試練を通らない人は、人生をわからず、人を愛することはない。更に、試練を通して私たちは天国民としての適格者と認められていく。信仰が本物と証明されていく。これが苦難の存在理由だ。

 とは言え、理由の付けられない不幸な出来事もある。戦争でゴミのように殺される子供たち、身勝手な理由での迫害・虐待、人間の手が下しようのない自然災害、確実に広がりつつある目に見えない放射能汚染。世の中には、存在理由など考えられない、簡単に「試練」の一言で片付けられないどうしようもないことがあるのも事実だ。なぜ?

 実は聖書には2つの「苦難」という語がある。ひとつは前述の「鍛錬のための」苦難を意味するもので、もうひとつは「誘惑」とも訳される苦難のことだ。これは、悪魔が人間を神様から引き離すために陥れようと試みることで、キリスト者にとっては試される時、チャレンジになる。アダムとイブが出遭った苦難もこの後者だ。この試練の時にどう出るか。神なんかいない!と否定に走るか、それでも尚、神様に信頼するか。忘れてはならない。本来人間は神に問う存在ではなく、神様から問われている存在なのだ。「なぜこんなこと?」と神様に愚痴るのではなく、その時にこそ、神様からの助けを求めるか、祈るか。その態度を神様はご覧になっている。

 祈りが届かないような真っ暗闇の中であっても、神様は働いておられる。祈り続けたナオミは見放されてしまっただろうか。暗い魚の腹の中で必死に祈ったヨナは、捨て置かれただろうか。イエス様が十字架に付けられて世が暗くなったその時、神様はイエス様の声に背を向けられただろうか。その時にこそ、神様は働き、その力をもって全人類救済計画を完了された。だから私たちは生きている。光は決して闇に負けることはない。


神の御手にあるキリスト者の人生は既に完了されている。

 十字架上でイエス様が仰った、福音の核となる七つの言葉のひとつ、「テテレスタイ」。これは完済したという経理用語であり、すべてのクリスチャンライフが完了した、という意味だ。苦難の恥の中にあるナオミは、自分に祝福などあるわけないと思っている。メシアが生まれるなんてとんでもない!夢にも思っていない。しかし今、ナオミは静かに子供を抱き、彼女自身はメシアが出ることなど知らないけれど、平安に包まれている。これがキリスト者の人生だ。

 キリスト者の苦しみは、決して取り消されることのない悔い改めを起こす。私たちが嘆き苦しむ時、それは人々の慰めと救いとなる。それが聖書に約束されている。クリスチャンの苦しみは人の救いに変換されるのだ。イエス様が十字架上で非常な苦しみを受け、それが私たち、全人類の救いを成し遂げられたように。現時点ではまったく知り得ないことであったとしても、今の私の目には見えないことであったとしても。「テテレスタイ。」すべてのクリスチャンライフが完了した、とイエス様の宣言通り。主の言葉は真実なのだ。

 だから、勇気をもってほしい。決してくじけないでほしい。私たちクリスチャンの苦しみは、神様によって用いられ、神様の栄光にと変えられる。そこに希望がある。人の欲望には限りなく、人間は必ず死ぬ。所有物にも時間にも限りあるものだけに目を向けていても希望はない。しかし、クリスチャンは永遠の命をいただき、永遠を見ている。神様と共にある。だからこそ、希望がある。だからこそ、神様に信頼できる。主に栄光あれ! (執筆担当:睦美)




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しんがりの神 ヨハネ 20:11-16

2010年11月28日 | Celebration







ハワイに伝道旅行に行った時のこと。マウイ島からオアフ島行きに乗った飛行機の調子がどうもおかしい。何度エンジンをかけても何故か途中で止まってしまうのだ。整備員が修理して再びエンジンをかけるものの、やはり二つあるプロペラの一つが動かない。そうこうしている内に何だか焦げくさい臭いがして来るではないか?! 「主よ、どうかこの飛行機が飛ばないようにしてください!! この飛行機から降りられますように。」と私は必死になって祈った。結局その飛行機は無事、飛ばないで済んだ。

 私がこの飛行機から必死に降りたいと願ったのは、飛んでしまってからエンジンが止まったのでは遅いからである。いつエンジンが止まるか分からない飛行機の中で、どんなに機内食が美味しくても、どんなに景色が綺麗でも、どんなに映画が楽しくても、私は決して楽しむことはできない。死ぬかもしれないという不安の前には、そのような楽しみなど楽しみにはならないからである。

 しかし、よくよく考えてみると、私たちは誰一人も例外無く、死に突っ込んでいく飛行機の中の乗客と同じなのである。クリスチャンでなくても、人生それなりに楽しいことやエキサイティングなことは沢山ある。毎日楽しい食事をして、面白い映画を観て、様々な感動的な出会いがある。しかし、最後はみんな一人残らず死んでいくのだ。それはまるで機内サービスが充実しているけれど、エンジンが止って墜落の途上にある飛行機の乗客と同じではないか!?


地下700メートルの祈り
 今から約3ヵ月半程前、33人の労働者が地下700メートル下に閉じ込められるというチリで起きた落盤事故に世界中が注目していた。彼らは実に69日もの間閉じ込められていたが、全員が無事に生還することが出来た。何故のそのようなことが可能だったのだろうか?それは、地上との通気孔が有り、地下水が湧き、缶詰などの食料が避難所にはあったからである。そして、彼らが全員生還することが出来た最大とも言える理由がもう一つあった。

 それは、彼ら33人全員がクリスチャンであったことである。更に作業員の一人にプロテスタントの牧師(ホセ・エンリケス・55歳)がおり、彼の依頼によって33冊の聖書が通気孔から届けられ、彼らはで定期的に互いに励まし合い、神に救済の祈りを奉げるための礼拝を、地下700.mの下で行なっていたのである。

 そのことが、10月15日付け読売新聞の朝刊の『奇跡を生んだ団結力』という見出で、日本中に報道された。その記事には、「神が引っ張ってくれた」、「私のそばには神と悪魔がいたが、私を引っ張ってくれたのは神だった」という、作業員たちの迫真のコメントが写真付きで掲載されていた。それは神によって守られた正に奇跡の生還であった。

 さて、地下700mの下に閉じ込められていた彼らの境遇には三つの特徴があった。それは・・・

1) 彼らは自力では脱出することが出来なかった。
2) 彼らには仲間がいて互いに励ましあい、暫く生きるのに必要なものがあったが、いつまでもそれを続けていくことはできない。
3) 彼らにとって、外部から岩盤を取り除いてもらう以外に救出の道はなかった。

 地底に閉じ込められた33人の状況は、死に閉じ込められている人類の状況と同じである。私たちは地下にこそ閉じ込められてはいないが、誰一人死から自力で脱出出来る人はいない。その基本的状況において私たちは彼らと大差はないのである。また彼らに仲間がいたように、私たちにも友人たちや家族はいる。しかし、彼らとて、死の問題を解決する力は持っていない。そして彼らが外部からの救いを必要としていたように、私たちも神による救いを必要としているのである。


日本人の祈り
 日本人の祈りは、災いに遭いませにょうに『家内安全』、病気になりませんように『無病息災』、お金に困りませんように『商売繁盛』。この三つの願いに集約される。問題は、本当にこの三つが満たされたら、人は幸せになるのだろうか?ということである。残念ながら応えは否。そこには、『死』と『罪』と『裁き』という、人間には避けることが出来ない、実に重大な事実が欠落しているからである。

 この世の成功哲学や処世術は、人間は誰もがいつか死んで行く存在であるという事実と、人間は自己中心性という罪のために日々不安との内に生きていかなければならないという事実を覆い隠そうとしている。この世のどんな成功も、喜びも、慰めも、決して死の不安を超える希望には成り得ないのである。

 つまり、人生における様々な問題への解決を突き詰めると、結局それは死の問題を解決するということに他ならない。文学も、芸術も、哲学も、宗教も、結局そこに端を発していると言っても過言ではない。日頃私たちがそのようなことを考えないのは、考えても解決が見当たらないからである。しかし聖書はこの死という問題について、唯一解決を約束してくれている書物(神の言葉)である。


後ろに立たれていたイエス
 キリストが十字架刑に処せられた三日目の早朝、マグダラのマリアがイエスが埋葬された墓にやって来ると、重さ約2トンもある石の蓋が何者かによって取り除けられていた。うろたえながらマリアが墓の中を覗いてみると、何とキリストを埋葬した時に巻かれた布が抜け殻のように置いてあり、イエスの遺体が何処にもない。マリアは誰かがキリストの遺体を盗んだのに違いないと思い、悲しくなって泣いた。

 そんなマリアの後ろから、復活したイエスが彼女に話しかけた。すると彼女は驚き振り向いた。彼女はイエスと話しているのだが、自分が話している相手がイエスであることが全然分からない。しかし、マリアはそれでも必死になってイエスを求め続けていた。すると、イエスはマリアの正面に立って、「マリア」と、彼女の名前を読んだ。マリアはその懐かしい声を聞いて、「ラボニ(先生)・・・」と応えた。

 さて、イエスは何故、マリアの後ろに立たれておられたのだろうか?


イエスは、マリアが全く気付かないところで、彼女守り、支えておられた。人はその生まれもった罪の性質上、誰も見ていないと思うと、悪に走ってしまう。しかし、神は私たちの目には見えなくても、人間の視界を越えた所で、私たちを見ておられる。だがその視線は、私たちの過ちを追及し、批判し、裁くための眼差しなどではなく、ただ私たちを救うがための一心で、私たちを見ておられるのである。

 チームで山登りをするとき、熟練者は必ず列の最後につく。先頭は道案内のため、しんがりは後ろから全体を見守るためである。しんがりの人は、遅れがちな人、疲れている人、弱い人に対して特に気を配る。どうぞ覚えて欲しい。あなたが誰からも忘れられていると思っている時も、神は私たちの安全をずっと見守っておられるのである。


イエスが私たちの後ろに立っておられる理由は、私たちの人生における試練や悲しみに共感するためである。神は私たちが試練で苦しんでいる姿を、雲の上で腕を組んで眺めているようなお方ではない。後ろに立って見るということは、その人と同じ視点で見ているということである。マリアの後ろに立っておられたイエスは、マリアが見つめている対象を、同じ角度、視線で一緒になってご覧になっておられた。

 マリアが見ていたのは空っぽの墓だった。最愛のイエスが殺されてしまい、その上遺体まで盗まれてしまった。もうどうしていいのか分からない・・・、と途方にくれているマリアを、イエスは、「私は復活すると言っていたではないか」といった態度ではなく、悲しみに打ち震える彼女の後姿に心痛めておられたのである。

 人は、共通の趣味や仕事について共感することは出来る。しかし、人は他人の気持ちを共感することは非常に難しい。特にその人が大きな悲しみの中にある時、その気持ちを共感することは無理だと言っても過言ではない。何故なら、人はたとえその人と同じ経験をしたとしても、同じように感じることは出来ないからだ。しかし、イエスは私たちの気持ちを同じ環境、同じ視線で、完全に理解してくださることが出来るお方なのである。


イエスが後ろに立たれている理由は、私たちを神の方に振り返らせ、解決を示すためである。マリアの悲しみの根本的な理由は、イエスが死んだということであった。彼女は三日前にイエス処刑現場を見、その後に急いで葬られるところもじっと見ていた、だからこそ、安息日が開けた後直ぐに墓に飛んで来て、遺体を丁重に葬りなおしたいと思ったのだ。ところが、イエスは死んだままではなく、死んで甦っておられたのである。

 イエスは私たちの人生のすぐ後ろに迫っている死と、死後に定まっている裁きから私たちを救い出すために、しんがりとなって十字架に架かって下さった。「私の十字架の御業で、わたしはあなたに迫る全ての死と裁きは食い止めた、もうそれは過ぎ去り、死は恐れるに足らないものとなった。それなのにあなたは何時まで墓を見つめているのか?さあ身を翻し、永遠の命であるわたしを見上げなさい!」と私たちに語りかけておられるのだ。

 さあ、今まで神からずっと背を向けていた生活から、神の方へと向き直ろう!

 もしあなたが向き直るなら、そこにはあなたが真の自由と幸福を得るために必要な全てを、あなたに代わって成し遂げたキリストが両手を広げて待っておられる。

 真の希望を持たないまま、人生を送り続けて死に直面するほど、人間は愚かであってよいものだろうか?

 我々は皆、死ななければならない。どうしてその事実を無視したり、笑い飛ばしてしまおうとするのか?

 両手を広げてキリストを喜び迎え、キリスト者と呼ばれることを一生の内で最も誇るべき特権と考えることは、全ての人間にとって最もふさわしいことではないだろうか!

 どうぞあなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、永遠の命・真の喜び・平安を、自分のものとしてください! あなたの祝福を切にお祈り致します。



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生き生きと生きる! Ⅰコリント10:23-24

2010年11月21日 | Celebration
 クリスチャンは真面目で悪い人たちではないが、冗談が通じない面白くも何ともない人たち...。実際、一般の人々が教会に対して持っているイメージは、清く、正しく、真面目と言ったもので、それは悪いわけでも、間違っているわけでもないが、教会と聞いて、命、自由、喜びといった言葉は全くと言っていいほど出てこない。

 確かに聖書は私たちに清くあれ、正しくあれと言っているが、キリストが私たちに先ず望んでいることは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が私たちに望んでおられることである。(Ⅰテサロニケ5:16-18)

 真理を受け取るには、「頭(知識)」-「心(感情)」-「霊」の3つの段階がある。知識では知っていても、それを行動に移せなければ、それは知らないことと同じことであり、それが感情迄で止まっていると、時や状況や気分によって行動が変わってしまう。真理は霊に到達して始めて、その人のものとなる。喜びがないのは、真理が霊迄到達してない証拠。つまり、完全な片手落ちでなのある。

 世界中の人々が尊敬する人物の一人、マハトマ・ガンジーは、自分の生涯で最も影響を与えた本は聖書だというヒンズー教徒である。「もし、クリスチャンがその信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者達は一人もいなくなってしまうだろう」と彼は言った。

 世の中の人々は、私たちがキリスト者らしく生きることを期待しているのである。では、キリスト者らしく生きるには具体的にどうしたら良いのか?人はたとえ病気になっても、厳しい試練の中にいたとしても、生き生きと生きるためにはどうしたらよいのか?今日はその人生の大命題の初歩について語る。

 人間の身体は約兆個の細胞で構成されており、その細胞一つ一つにレセプターと呼ばれる、主体性を持った「糖鎖」と呼ばれる受信装置が付いている。この糖鎖機能の不備があらゆる病気の原因であることが、現代医学によって明らかにされている。

 それと同じように人間には、世の中のあらゆる情報の中から、自分が何を取り入れるかで、その人の人生が変わってくる。世の中の情報には、「生活のために必要な情報(無害)」、「自分の成長に繋がる+情報(有益)」、「自分の成長(救い)を妨げるー情報(有害)」の大きく3つの情報に大別され、その情報をどれくらい自分の中に取り入れているかかによって、その人の人格・人生が決まるのである。


ボルネオの猿:放せば楽になるのに、罪を握り締めたまま自分の人生をダメにする。
パタパタポラロイド:確かめもしないで、ただ周りがやっているから自分もやる。
カステラの底紙:よく考えもせず、我流に拘り続けて自分の世界を狭くする。

 つまり、生き生きとした人生を阻む最大のもの。それは、自分で変わろうとしない間違った価値観である。

 「種の起源」で生物進化論を提唱したダーウィンが、実はクリスチャンであったことは、ほとんど知られていない。聖職者になるためにケンブリッジ大学神学部で学んでいたダーウィン(1809-1882)は卒業後、海軍の測量船に乗り、南半球一周の旅に出た。その旅の途中でガラパゴス島に寄り、そこに生息している動物たちを見て、動物は下等生物から高等生物へと進化するのではないかと考えた。その後で南米の孤島に住む凶暴な原住民を見て、彼らは進化の途中にある猿に近い人間であると判断した。

 そして1859年、ダーウィンは「種の起源」を発表した。しかし、彼の目的は、創造論の否定ではなく、神の創造の過程を説明することにあった。ところが、唯物論者や共産主義者などの無神論者によって熱狂的に支持された「種の起源」は一人歩きを始め、また、名実共に時代の寵児になったダーウィンも、社会的成功に酔いしれて信仰を失い、第二版から「神」という言葉が出版社から削除されてしまったのである。

 その20年後、彼らが進化の途中にある猿と断定した原住民が住む南米の孤島を再訪問した時、以前は凶暴な猿人であったはずの彼らが、この島に派遣された宣教師たちの働きによってクリスチャンに変えられ、何とにこやかに握手を求めてきた。神の恵みによって高度な人間に生まれ変わっていた島人たちを目の当たりに見たダーウィンは、神否定に利用された『種の起源』を発表したことを後悔した。

 彼はこう言い残している。「宣教の働きの結果起こったテイエラデルフェゴの奇跡は、どんな奇跡より偉大であると確信する。それまでの彼らの不正や軽率な行動は、事実、キリスト教の影響によって変えられていた。」 またダーウィンは晩年、ある有名な女流作家とのインタビューで、「あなたは今、進化論をどう思いますか?」という質問に、「あれは未熟な若者の考える論理だった。あんな冷たい論理では人間は幸せにはなれない。」と答えた。

 ダーウィンが悔い改めてクリスチャンになったことは、ダーウィンとインタビューした女流作家(ホープ)が、ムーディの宣教大会で講演し、印刷部でも公表した。その中には、ダーウィンが死ぬ寸前に早く天国に行きたいという思いで、「あぁ神よ!」と叫んだことが記されている。ガラパゴス島にはあれから教会が建設され、現地の人から牧師になる人が現われている。


人生の目的達成に至るための3つの自己問答
悩みや不安の基となっている問題の原因と根拠を客観的に考察する。

その原因は複雑に重なっているので、一つ一つ書き出して、その責任の所在、修復の方法、可能性、将来性を分析する。

自分自身の内側にあるエネルギーの根拠を探る。


人生の目的達成のための4つの条件
明確なVisionを持つ。目的遂行のためには、他のものを切り捨てる勇気と決断が必要である。
幻のない民は滅びる。(箴言29:18) 

具体的に計画に立ててそれを着実に実行する。
だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。(Ⅱコリント8:11-12)

周囲の否定的意見や批判に流されない。御言葉に反するものを、きっぱりと拒絶する強い信仰。
しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。(Ⅰテモテ4:1)

自分の目的に賛同してくれる同志を持つ。
倒れれば一人がその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(伝道4:10)

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)

 「天才とは1%の才能と99%の努力だ」と言うトーマス・エジソンの言葉の真意は、「1% のひらめき(聖霊の力)がなければ、99%の努力も無駄になる。」という意味である。

 この1%のひらめきこそ、不可能を可能にし、私たちを絶対に間違うことのない方向に導いてくださる(目に見えない)聖霊の力である。私たち人間を目的を持って創造してくださった創造主から離れて人生の実現は絶対不可能。私たちを愛してくださり、私たちの人生を最善へと導いてくださる神に信頼しよう!




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魂を獲る漁師 ヨハネ15:5

2010年11月14日 | Celebration
 沖縄の糸満で生まれたツネさんは、7人兄弟の下から2番目。子供の頃から、男兄弟の中で自立心を養い、硬派の水産男子校で体育会系男っ気満々の環境に育ちました。若かりし日の彼は、体資本の仕事で稼いだ大金を、遊びのために湯水のように使うという生活を繰り返し、そして1972年の沖縄本土返還を機に、短期間で大金を得られるというアメリカでの漁へと渡りました。

 最初の航海は、ひきしに優る重労働でしたが、収入もこれまでにない大金。アメリカでも大きく稼いでは、大きく使うという生活の繰り返し。さて20代も後半になったある日、お寿司の板前さんになった漁師仲間から将来のビジネスについてアドバイスを受け、今迄の海での生活から陸に上がって、お寿司屋さんへと転向を試みます。そしてハワイ、ロサンゼルス、また東京の新橋で板前としての修行を積み、アラスカベーリング海での仕事で得たお金を元手に、遂に自分のお店を持つことが出来ました。

律儀なお寿司屋さんとして、これから新しい人生を始まる!と思いきや、開始早々大きな試練が彼を襲います。お店の従業員の一人が、原因不明の自殺をしてしまったのです。ツネさんにとってそれは大きな衝撃でした。仕事が直接的な原因でなかったにせよ、今迄一緒に働いていた人が死んでしまった…お店もこのまま続けていいのかどうかわからない、これからどうしたらいいんだろう? そんなことがいつも頭を過ぎって夜も眠れず、気が狂ってしまうかと思ったその時、当時クリスチャンだった婚約者(今の奥様)が「賛美を聴いて。」と言ってCDを送ってくれました。

 すると不思議なことに、賛美を聴いていると安らかに眠ることができたのです。今思うと、これが聖霊様の御業の始まりでした。その後、結婚して夫婦生活を続けて行く内に、タバコもお酒も休みのゴルフを自然と止められるようになり、今迄大好きだった演歌も賛美に変わってしまいました。こうして知らず知らずの内に、もっとクリスチャンになりたい、もっと学びをしたい、もっと御言葉を理解したい、という思いが少しずつ与えられて来たのです。

 そして今は、「私にはできないが、神にはできる!」の信仰へと至りました。「日々御言葉に生かされる生活が、ビジネスの秘訣であり、間違いない真理です。」という明確な信仰をお持ちのツネさん。彼のこれまでの人生を通して、神様はいつも背後で見守り、ツネさんを少しずつ、しかし着実に主の器として練られ、磨かれるよう導いておられたことをひしひしと感じました。海の男の力強いお証しに感謝します!


 




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真の故郷 ヨハネ14:1-6

2010年11月07日 | Celebration
■宇宙に半年間滞在した野口聡一

 神は人が生きていくために地球という環境をお創りになられたが、人は空気と水と食料があれば、宇宙でも生きて行くことが出来るのだろうか?答えはNoである。

 野口聡一氏が163日間に及ぶ国際宇宙ステーションでの滞在を経て帰国した。内部は地球上と同じ気圧の空尉、温度、湿度で、乗員は地上と変わらない軽装で活動することができる。ところが宇宙生活は、私たちが想像しているような快適なものではなく、肉体的にも精神的にも大変なストレスがかかるという。彼はそのストレスを乗り越えるために以下の3つの方法が欠かせなかったと言う。

 第1は熟睡。野口氏の就寝場所は、国際宇宙ステーションの中の日本実験棟。他の国の実験棟はポンプや機械の音がやたらと大きかったそうだが、日本の部屋にあるのは全て精密機械で音はほとんど出ず、宇宙ステーションの中では一番静かな場所だった。そのため、熟睡出来たのだそうだ。睡眠は健康の必要条件である。

 第2、彼には電話ボックス程度の個室があり、そこで必ず毎日家族とのテレビ電話や地上の友人たちとメールを毎日交わしていた。中でも最も頻繁に交信していたのが、南極基地の隊員たち。互いの孤独な気分を正直に分かち合える友と繋がっているという安心感が、彼のストレスを和らげた。人は人との関係の中で生きており、決して一人では生きて行くことが出来ないのである。

 決定的なのは第3。それはカルシウム溶解阻止剤。実は無重力状態では骨の中からカルシウムが骨粗鬆症の約10倍のスピードで抜けていくのだ。つまり何もしないで長時間宇宙にいると、骨がスポンジのようにすかすかになってしまうのである。それを阻止する薬を飲みながら、彼は毎日2時間体を鍛えることで肉体を維持した。


聖書は3千年前から地球が球体であることを伝えている

 多くの人は、聖書というと、数千年前に書かれた非科学的な書物だと思っているようだが、聖書には、当時としては驚嘆すべき科学的な記述が記されている。例えば、古代インド人は、この大地は巨大な象が支えていると考えており、古代エジプト人は、五本の大きな柱がこの地上を支えていると思っていた。しかし聖書は、今から約3000年前に地球が宇宙空間に浮かんでいる球体であることを告げている。

 彼は北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる。(ヨブ26:7)

 わたしは密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。(ヨブ38:9)

 「むつき」(口語と新改訳)とは、当時のユダヤ人が、生まれたばかりの赤ちゃんを巻いて包む産着のこと。つまり、神様は生まれたばかりの地球を、産着のように雲とオゾン層で包まれた。つまり、地は平面ではなく、球形であることが分る。

 原始の海の面に円を描いて、光と暗黒との境とされる。(ヨブ26:10)

 人類は、大航海時代が始まる中世まで、この地上は平面だと誰もが思っていた。地上が平面だとすると、太陽が地上の上にあれば昼で、下にあれば夜になるわけで、当時の天文学者は、太陽が地球の上を行ったりきたりしていると無理なことを考えていた。だが、このヨブ記の記述には、光とやみの境界線が円となるとある。つまり、聖書だけがこの地が平らではなく、球形であることを伝えていたのである。

 主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。(イザヤ40:22)

 主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。(エゼキエル5:5)

 「地の中央に住む民」(エゼキエル38:12)

 エルサレムはイスラム、ユダヤ、キリスト教という3大宗教の聖地であり、アジア・ヨーロッパ・アフリカの3大大陸の接点であり、黄色・白色・黒色人種のそれぞれが住む地域の交わる地点である。アメリカの物理学者、アンドリュー・J・ウッド博士が、全陸地の中心が何処であるかをコンピューターによって算出した。

 「地球上の全ての分割地までの距離の総和が最小となる地点」

 これを算出した結果、全陸地の中心はパレスチナ地域であることが判明。今から2600年前、未だ世界が球体であることが知られていない時代から、聖書は全地の中心がエルサレムであることを知っていたのである。


■奇跡の生還を果たしたアポロ13号

 3人の飛行士を乗せたアポロ13号は、地球から33万キロ上空で酸素タンクが爆発。電気が切れ、宇宙船誘導装置が止まるという、正に絶対絶命の状況に陥り、ニクソン大統領は殉職声明文を用意した。しかし、3人の飛行士たちは失望することなく、必死で神に祈った。実は彼らは3人共クリスチャンであり、Ⅰコリント10:13の御言葉を知っていたのだ。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 すると彼らに、月面着陸船を救命ボ-トとして使うという奇想天外なアイデアが与えられた。彼らは月面着陸船に乗り移り、着陸船用の燃料と電気と酸素を使って何とか地球まで辿り着き、大気圏突入を敢行し、奇跡の生還を果たした。確実に言えることは、彼らが神を信じていなかったら、この奇跡の生還はあり得ななかったことである。

 アポロ13号のジム・ラベル船長はこう語っている。「どんなことでも決して諦めてはいけない。神を信じ、神の内に夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にあるのだ。神への祈りは必ず聞かれる。だから勇気を持ち続けなさい。希望を失ってはいけない。」

 アポロ14号の出発の際、宇宙船には16ヶ国語で書かれた『聖書』が積まれた。聖書は、地球圏外から宇宙へ持ち運ばれた最初の書物であった。


人類初の宇宙飛行に成功したガガーリン

 「地球は青かった」と言う名言を残したのは、1961年、人類初の宇宙飛行に成功したソ連の宇宙飛行士・ユーリ・ガガーリン。また彼は、「宇宙に神などいなかった=ここでは神は見えない」と言ったことでも有名である。

 この彼の発言と、宇宙から帰還後、牧師・宣教師になった多くのアメリカの宇宙飛行士(特にアポロ15号で月面着陸を果たしたジム・アーウィンは世界をまたに駆ける宣教師として有名)との対照的な差は、神を否定する共産国と、キリスト教国家であるアメリカとの差ではないかとも言われた。

 ところが近年、ガガーリンの友人である空軍士官学校のワレンティン・ペトロフ大佐が、ガガーリンは無心論者などではなく、彼は共産主義によって崩壊されたモスクワの教会再建を公的に提唱していた敬虔なクリスチャンであったことを公に発表した。「ガガーリンは反政府主義者ではなく、人は自分のルーツを知らなくして愛国心は強まらない。」と言っていた。彼は洗礼を受けており、私が知っている限り、彼はキリスト信者だった。

 ガガーリンが言ったとされている「ここでは神は見えない」という言葉は、実はガガーリンのものではなく、当時のソ連共産党の指導者フルシチョフが共産党の会議の際に発せられた言葉が、政府による反宗教活動のプロパガンダとして、あたかもガガーリンの発言として利用されたのだ。彼はそんなことは言っていなかった。


月面まで行った科学者 チャールズ・デューク

 全くメディアに出ていないアポロ16号のパイロット、チャールズ・デュークに伝道された日本人牧師がいる。彼は牧師になる前、エジプトのカイロに駐在していた商社員だった。ある日、休暇を使って4泊5日のナイル川クルーズに一人旅の途中、たまたま船上でデューク一家と出会い、一緒に食事をしようということになった。共にテーブルについた時、彼らが手をつないで食前の祈りを始めたので、彼らがクリスチャンだということが分かった。その祈りの後に、デュークは彼にこう囁いた。「ユージ、神様って本当にいるんだよ」と。

 彼はこの時に始めて、デューク氏がアポロ16号で月面まで行った科学者だということを初めて知った。まさかナイル川の上で、月に行ったことがある宇宙飛行士に出会うなんて思いもしかなかったからだ。そしてもう一つ驚いたのは、彼の奥さんのドッティーだった。こんなにいつも笑顔で、喜びで輝いている女性を、彼は今まで見たことがなかったからだ。

 更に驚いたことに、その彼女が「実は、私は昔自殺しようと思ってたのよ。」と言った。彼女は人生のどん底の生活の中でキリストと出会い、聖書に書いてある通り、人は生まれ変わることが出来るということを知って、本当に自分の人生が変わってしまったのよ。」と彼女は言うのである。

 しかし、彼は、「人はそんなに変わり得るものだろうか?」と疑問に思った。デュークに対しても、「月まで行った科学者が、何故神がいるなどと言うのだろう?」という思いしかなかった。とにかく、彼にとってこのデューク一家との出会いはかなり強烈で、また同時に、「解けない謎」として、彼の心の中にずっと残っていた。

 それから暫くして、彼がエルサレムに出張した時に、何と彼は突然聖霊体験をしてしまうのである。それは彼にとっては何だかワケの分からない体験だった。いきなり自分は神と出会ってしまったものの、その神がどういう神なのかよく分からない。自分の中で何かが確実に変わってしまったということは判るのだが、何をどうしていいのか分からない。

 単なる気のせいじゃないかと自分で否定してみるものの、どうもそうではない。そこで頭に浮かんだのはデュークのことだった。彼はエルサレムからデュークに電話をし(留守電)、「彼に会えば、きっと次のステップがわかるにちがいない」と信じて長期休暇を取り、カイロからテキサスのデューク宅を訪ねて行こうと決心した。

 さて、カイロから遥々テキサスの空港に着いのは良かったが、気が動転していたせいか、空港でデュークの住所のメモに電話番号を書き忘れていたことに気が付いた。仕方なく色んな人たちに聞きまくりながら、何とかデュークの家迄たどり着いた。ドアの前にナイル川で会った日本人青年が立っているのを見て驚いたのはデューク家の人々だった。彼らは全く突然の訪問にも係わらず、喜んで一週間泊めてくれた。エルサレムからの留守電を聞いて、「あの日本人青年が神と出会ったことを知り、家族皆で喜び、主をあがめていた」のだと言う。

 デューク夫妻は彼を息子のように扱い、聖書を与え、祈り方を教えてもらい、彼がエルサレムで出会った神が、「聖霊」であったことを教えてくれた。そして日本に帰国後、生まれて初めて、もし何か変なことがあったら直ぐに逃げようと考えながら、教会の一番後ろの席に座っていた。しかし、礼拝に出るたびに、自分がエルサレムで出会った神が、確かに聖書に書かれている神だと分かり、もっとこの神のこと知りたい、神の近くに行きたい。この神に仕えてみたいという願いが強まり、約10年間勤めた会社を退社して献身した。

 退社の時、彼は「神様が私に会社を辞めるように言われたので辞めます。だからこれから先は、全て神が備えています。神学校に行って牧師か宣教師になります。」と言った。変人扱いされたことは言うまでもないが、彼自身もこれから先どうなるのか全く分からなかった。牧師となったことを一番喜んでくれたのは、デューク夫妻であったことは言うまでもない。彼らは「とてもエキサイテイングだ!」という手紙を送ってくれたという。

 デュークは、「私たちにとって『偶然』はないんだよ」と言っていた。そのとき彼にはその意味がよくわからなかったのだが、今はそれが「イエスが全てをなして下さっている」という意味なのだと言うことが分かった。彼は突然エルサレムで聖霊体験をしてしまったと思っていたが、それは既に進められていた神の計画であり、神は次のステップにちゃんと進めるように、前もってデューク家と会わせて下さっていた。そして、彼らとテキサスで再会し、日本帰国後の道も備えられていた。主の備えは完全で、なさることは時にかなって美しい。


天の御国こそ我らが故郷

 日本人初の女性宇宙飛行士・向井千晶さんが、「宇宙飛行で一番感動したことは?」と聞かれて、「勿論、地球に帰って来れた時です!」と答えた。自分の生まれ育った地球という故郷に戻って来たことの感動が、彼女にとっては何よりの感動だった。

 イエス・キリストがこの地上に来られた目的を一言で言うと、天の御国という、私たちが真の故郷に戻れるようにするためである。

 神が私たちのために創造してくださった地球は美しく素晴らしい星である。しかし、そこには人間の罪のために、不公平があり、不条理があり、戦争があり、災害がある。だが、私たちの本国は天国にある。そこに帰ることが私たちの最終目的であり、真の人生の希望なのである。






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心の宝 Ⅰコリント13:11-13

2010年10月31日 | Celebration
 「自分がミジメなのは分かっている。でも教会に行くともっと自分がミジメに思えてくる」

 こう言ったのは、以前風俗店で働いていた経験のある女性だった。実際、多くの日本の教会は、真面目で常識的で教育レベルも高そうな人たちばかりで、そんな彼らを見ていると、とてもじゃないが「私もクリスチャンです。」とは言えなくなる。教会へ行って慰められるかわりに、劣等感を植えつけられてしまいそうになるのである。

 そう感じさせてしまう日本の教会の体質にも問題はあるが、基本的にそれは彼女の誤解である。何故なら、清く正しく立派になることがクリスチャンになる目的ではないからだ。そんなことではなく、大切なことは先ず、「あなたは何を信じているのか?」ということなのである。

 クリスチャンは何を信じているのか?それは、キリストを自分の救い主として信じているということである。それを砕いて言えば、「自分には出来ないことを神が代わりにして下さった」ということ。つまり信仰とは、先ず自分の限界を知るところから始まるのだから、教会で劣等感を感じるということは、元来話しがおかしいのである。


□心の探求
 あなたの周りには多くの友人や知人たちがおられると思うが、あなたが人生の境地に立たされた時、自分の周りには、以下の4種類の人間がいることが分かる。自分が本当に困った時、色々と心配してくれる人はいたとしても、実際に力になってくれる人は、現実には非常に限られている。自分にとって真の友人が何番目の人なのかは言うまでもない。

1).あなたの状況を何も知らない人
2).あなたの状況を見て見ぬフリをしている人
3).あなたを励ましたり、助言をしてくれる人
4).何も言わないでただ力になってくれる人

 このように、人に対する洞察は、良い人間関係を構築する上において非常に大切であるが、それよりも大切なことは、自分自身に対する洞察である。自分は本当は何を求めているのか?自分にとって本当に大切なものは何なのか?自分は本当は何をしたいのか?自分の希望だと信じていたことが、実は親の希望であったり、実はクリスチャンとしての建前であったり、世間の流行だったり、他人の夢だったり、一時的な感情・感覚に流されていたということは、現実によくあることである。


□心の時間
 藤井美和さんはクリスチャンホームで育ち、15歳で洗礼を受け、新聞社に勤務していたキャリアウーマンだった。ところが28歳の時に突然ギランバレー症候群という原因不明の難病に冒され、生死の間をさまよう。そこで彼女は、日本の病院では死に直面している患者の心のケアーをする人もシステムも何もないことを知る。

 ところがある日、彼女を測りに来た看護婦が涙を流しながら、「藤井さん辛いね。でも、神様の力はあなたの弱いところに完全に現れてくださるからね」と言ってくれたのである。それで藤井さんは、自分は何が出来るからとか、何を持っているから価値があるのではなく、たとえ何も出来なくても、何も持っていなくても、愛されて生かされているということが尊いのだ。

 彼女は苦悩の闘病生活の中で、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」というイザヤ43:4の御言葉を、神様から霊で受け取ることが出来た。神にあって自分は尊い存在なのだという充足感がなければ、人は劣等感と傲慢を往復する人生になってしまうのである。

 その後、奇跡的に回復した藤井さんは、30歳で関西学院大学に編入し直して大学院に学び、米国に留学後、関西学院大学に『福祉学科』を設立し、そこで学生たちに『死生学』を教えている。死生学とは、『死』を自分自身の問題として真剣に受け止め、自分の人生の終着点として明確に位置付けることによって、限られた人生の課題を、真に明確化させる実践的学問である。

 一人の健康な学生が突然癌を宣告され、自分が日に日に死に近付いていく過程を、日記を辿る形で疑似体験していく。自分がもう直ぐこの世からいなくなるとすると、今、自分を取り巻いている環境や、自分の身の周りにあるものを、一つ一つ真剣に検証して行かざるを得ない。そこで、自分にとって大切なものを、以下の4つのカテゴリーに分けて、3つ(人)づつ挙げてみる。

1). 大切な形あるもの(家、車、パソコン、携帯等)
2). 大切な活動(仕事、音楽、運動、趣味等)
3). 大切な人(親、配偶者、子供、友人等)
4). 大切な形のないもの(愛、感謝、信仰、神等)

 そして宣告された日が後3ヶ月、1ヶ月、一週間、一日..と日を追うごとに、自分にとって大切な12のものを、一つ一つ消していく。そして、結局人間は、最終的には、最後に残ったものも、手放なさなければいけなくなる。これが人生の現実であり、これに該当しない人は世界中で誰一人として例外はいない。

 その意味において、この世の人生は公平なのである。しかし、決して諦めではなく、もし、自分が今までの人生で得てきた『人生の宝』を、信頼出来る者に委ねて行くことが出来るとすれば、自分の人生は、そして死は、意味のあるものとなるのである。

 今、崖から身投げしようとしている人には、どんな宗教であろうと、どんな優れた哲学であろうと、全く意味をなさない。その人に必要なことは、「それでもあなたは愛されているんだ!あなたは必要な人なんだ!」という事実を知ってもらうことしかないのだ。
その為に私達に必要なのは、その事実を伝えるための実体ある言葉と行為である。


□心の平安
 日本で伝道・牧会しているイラン人牧師、アリ・レジャイアン師は、1969年イランのテヘランで8人兄弟の末っ子として生まれた。しかし生後半年で父親を事故で失い、8人の子供を抱えた彼の母親は、その後4回再婚を繰り返し、家には絶えず不特定多数の男性出入りしていた。アリ少年はそんな生活に嫌気がさし、9歳の時に家を出て、ストリートチルドレンになった。暫く万引きやサッカー賭博などで食いつないでいたものの、そんな生活にも疲れた彼は10歳の時に真冬の川の辺で凍え死のうと決心する。

 ところが見知らぬおじさんに助けれ、彼からイスラム教の神のことを教えられたのだが、コーランに書いてある様々な規則を守ろうとしても守れない。いくら祈って神様は応えてくれず、何時までたっても平安がない彼は、神への思いをきっぱりと捨てる。

 成長したアリ少年はイラン・イラク戦争の最前線に送られることになり、そこで彼は、自分の目の前で兵士たちが、手榴弾でバラバラになったり、兵士同士でも衣類や食料の奪い合うという、疑惑と緊張と恐怖と増悪の生活を強いられることになる。そんなある日、自分の食料を食べないで少しずつ貯め、それを食料を失くした兵士たちに分け与えている一人のアルメニア人の兵士がいた。

 アリ青年は、「自分たちは皆、何時死ぬか分からない状況なのに、人を助けて何になる?あなたは何でそんなことをしているのか?」と聞くと、その兵士は「私がしているのではない。私の中にいるイエス・キリストがしているのです」と静かに答えた。彼はその時、感動するどころか、「また宗教かよ、いい加減にしてくれ!」と思った。しかし、それからその兵士のことが気になり、何となく彼の行動を見ていたが、その兵士の態度は周囲から誤解されようが、逆に迫害されようが、一環して変わることがなかった。

 そんな姿を「すごい!」ではなく、「くそ!」と思ったアリ青年は、宗教批判もこれで最後だと思い、最初から批判・否定するつもりで聖書を読み出した。彼は今まで自分の生活を振り返り、自分も、自分の家族も、世の中全部罪だらけということだけは、嫌と言うほど味わって来た。自分だって出来るならそんな人生から抜け出せるものならそうしたい。だけど、規則なんか守れやしないし、勉強も出来ないし、ましてや修行など出来るわけがない。他の連中だって自分と大差はないはずだと彼は思っていた。

 ところが聖書を読んで見ると、救われるためには、イエス・キリストが、自分のために十字架に架かって死んだと言うことを信じるだけで良いと書いてある。彼にはにわかに信じられないことだったが、自分の心では「ウソだろ?」と思うのだが、聖書には確かにそう書いてある。「もしそれが本当なら、この自分にだって出来る!」と思い、彼はイエス・キリストを信じたのであった。

 しかし、イスラム原理主義国家であるイランで、キリスト信仰を保つということは、実に命懸けのことであった。イランではクリスチャンということが判ると国家反逆罪で、捕まったら死刑にされてしまうからだ。アリ青年の霊の命は救われたのだが、今度は、肉の命が危険に晒されることになったのである。

 何とか無事に兵役から帰ることが出来たアリ青年は、以前から憧れていたサムライの国、日本へ信仰の自由を求めて来日を決意した。クロサワ映画以外に日本に対する予備知識が全くなかったアリ青年にとって、実際に日本での生活のカルチャーショックはかなり大きなものがあったが、教会で知り合った牧師の人々に助けられつつ、彼は必死で日本語を習い、JTJに通い出し、牧師になる道が開けて行った。


□心の宝
 特攻出撃前に記されたある特攻隊員の手記。それにはこう書いてあった。「俺のために泣いた奴が一人、俺を恨んでる奴が一人、それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人、俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人、みんな合わせてたった一人・・。」彼にはたった一人だけ、親友と呼べる友がいた。

 私たちも、仮にたった一人の友しかいなくても、そのたった一人が自分の真の理解者、共感者、応援者、見方であるならば、人は決して孤独に陥ることはない。また、自分で命を絶つことなどはない。真の見方が一人でもいたら、人は希望を見失うことなく、決して人生に失望することはないのである。

 「さきほど友里愛は天国に旅立ちました。亡くなる直前に抱っこしてあげたら、にこって笑って最後はミルクも舐めて、安心した顔で、私たちよりももっと温かい神様の腕の中に行きました。友里愛の心臓は素晴らしい心臓でした。あの心臓だからこそ私たちや皆さんを繋いでくれたと思います。みなさんのお祈り本当に感謝します。」

 人間にとっての本当の希望は天国にある。私たちの希望はまさしくそこにある。信仰とは、私の努力や信念でキリストに従い通してみせる!というのではなく、弱くてダメな私でも、幼いまま死んでしまったとしても、それでも神に愛されているのだということを信じることである。

 つまり信仰とは、信じる私たち側の努力や能力にかかっていのではなく、神様側の能力、つまり愛にかかっているというのが、聖書信仰なのである。神がして下さるというのであるなら、それは決して途切れることはない。即ち、信仰はいつまでも残るのである。

 イエス・キリストは、あなたを生かすために、自らの命を十字架上で捧げてくださった。私たちは、そのキリストの愛を知り、その信仰によって生きている者たちである。

 信仰とは、苦しいことも、嬉しいことも、前向き肯定的に全てを丸ごと受け止めて、
全てに感謝する。何故なら人生で起こる全てのことには意味があり、その最終的なゴールまで、私たちを真の幸福を願い、それを成就してくださる神が導いてくださっているのだから。

 イエス・キリストに対する信仰と希望は、たとい自分は死んでも、人を生かすようにしてあげるというキリストの愛によって結実する。「信仰」と「希望」と「」。私たちの人生においてこの3つは永遠に続き、決して消えることがないのである。




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試練の実 ヤコブ1:1-8

2010年10月24日 | Celebration
 「経験とは、自分の身に起こった現象のことではなく、自分の身に起こったことを、あなたがどう扱ったかということである。」

 人は人生の経験を重ねることによって成長する。ところが、経験した事象そのものが、人を成長させるのではない。人生に対して、悲観的、批判的、自虐的、攻撃的な考えを持っている人々は、自分が経験したことに対する対応を間違えていたのだ。

 ユダも他の弟子たちも、イエスを裏切ったという点に関しては変わりはない。イエスを3度も拒否し、イエスを呪ったペテロの方がある意味では深刻とも言える。「どうして自分はこんなことをしてしまったんだ!?」この段階まで弟子たちは全員同じだったのだ。問題は、裏切りそのものより、裏切った後の彼らの対応であった。ペテロは悔い改め、ユダは自己完結した。そこがこの二人の明暗を分けたのだ。苦難に対する考え方とその対処の仕方は、人生における最も重要なポイントとなるのである。

 イエスの十字架から約20年後、エルサレム教会の指導者的立場にいた主の兄弟ヤコブは、福音が拡大して行く一方、多くのキリスト者の生活がイエスの教えから離れ、世俗化して行く教会に対して厳しい警告と、特に異教文化の中における誘惑や試練に耐えて行くように、世界中に離散しているユダヤ人たちに、キリスト者に求められている『信仰者の規準』を、主の兄弟としてではなく、主の僕としてこの手紙を書き送った。その数年後、ヤコブは殉教し、エルサレムはAD70年に崩壊した。

 「僕」のギリシヤ語はデューロス(奴隷)、しかも最下位の奴隷を指している。彼は自分を「イエスの兄弟から書き送る」とは言わず、自分はキリストの奴隷だと言っているところに、ヤコブの謙虚さ(品性)が表れている。彼は自分の環境が、自分の霊的位置とは関係がないという真理を理解していたのである。

 異教文化の中で生活している内に、神の民としてのアイデンティティを失いつつあるユダヤ人たちへの警告と励ましは、現代社会で信仰生活を続ける私たちへのメッセージでもある。聖書の言葉はいつも、時代と空間を超え、現在に生きる私たちに対して語りかけている言葉であることを忘れてはならない。


試練に秘められたメッセージを聞き取る
 私たちは人生で起って来る様々な試練を前にして、「どうしてこんなことが私にだけ!?」と、神にくってかかる習慣が身に付いている。しかし、神に「何故?」と問う前に、実は私たち自身がこの試練を前に、神から問われているのだということに気付くことが大切である。何故なら、世界の主役はあなたではなく、あの人でもなく、神だからである。

 また、あなたの人生の本当のオーナーはあなた自身ではなく、あなたを創造された神である。そこで人生の謎を解き、真の人生を歩むための第一歩は、「自分は何らかの目的によって神に創造され、生かされている者なのだ」という事実を認めることである。人がその逆転の発想に辿り着いた時にはじめて、人の人生は真に生き甲斐のあるものへと変えられるのである。

 人は当然、自分の目の前に立ちはだかった問題への解決に心が囚われ、先ず直すことが先決だと誰もが思うが、焦燥と不安を抱えたままでは、人は冷静な判断が出来なくなり、かえって問題が深刻化することがある。問題解決に心を向ける前に、先ず一度心を落ち着かせて、心を平常心にリセットし直すように心掛けることが必要である。静まって、その問題に秘められたメッセージを聞き取ろう。


試練を通して人間は成長する
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。

 私たちは勉強もせず、働きもせず、人間関係にも患わされず、悠々自適の生活を夢想することがあるが、それはあまりに非現実的であり、努力なしに人間は幸せにはなれないことぐらいまともな人間なら悟っているはずである。勉強にせよ、スポーツにせよ、習い事にせよ、最初から面白くものなど何もない。それを続けるには忍耐が必要であり、そうした訓練を通ることによって、人は人生を豊かなものしていくのだ。

 つまり、試練とは自分が幸せになるために与えられた機会なのだ。そう捉えた時、たとえそれが精神的・肉体的な傷となっても、人そこから解放されることが出来るのだ。この御言葉にある「完全」という言葉はパ-フェクトという意味ではなく、「十分」ということ。つまり、不可能への挑戦ではなく、忍耐を十分に働かせたら、成長し十分に成熟した人となるという意味。器の土は練り込こんで中の空洞をなくさなければ、焼いた時に、割れてしまう。人間も同じである。

 「大切なことは面白さではなく、厳しさです。」人間国宝の陶芸家・井上萬二氏は、作陶の心得をこう語った。焼き物は形自体が美しければ模様を付ける必要はない。目に見える部分のみならず、内側から清い精神で作品に打ち込むことによって、良い作品というものが生まれるのである。

 器は練られ、焼かれて完成するように、人間も人生の試練を乗り越えた時喜びを見出し、そこに新しい発見が生まれる。人間は試練を乗り越えることによって成長し、神は試練を通して人格が造り上げられることを望んでおられる。作品には作者の創造性と品性が表れ、クリスチャンの人生にはキリストの品性が現れるのである。


試練に対する答えは神から来る
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

 私たちが何か大きな問題に直面したときに、そこで必要なのは、実際的な知恵である。そういった時は、宗教も哲学も主義主張ロなどは何の立にたない。机上の空論は言うに及ばず、評論家も批評家もこういった場には必要ない。ここでは、具体的に何を、どうしたら良いのか。実際に成すべきことの具体的な知恵が必要である。

 「完全な者となるためには知恵が欠かせない」これは当時のユダヤ人にとって伝統的な考え方であった。しかしその知恵は、律法からではなく、神を信頼する祈りによって与えられる。自分の能力や努力によって得た知恵は、返って神への信頼を失わせる誘惑となり、人間を安定性が欠けた「二心の者」としてしまう。二心の者とは、自分の判断基準が、状況によって、神になったり、人になったりしている信仰情緒安定なクリスチャンのことである。

 試練は人間にとっては分岐点である。一つは「なぜ、主よ、このようなことを起こすのですか?」と、自分の思いにかられて、人や神に対する不信、そして苦みを抱く道。もう一つは、試練に忍耐を働かせ、人生の糧とする。苦しみ不安と失望の道と、人生に磨きをかけ、信仰が練り清められ、成長する道。

 約1万人の孤児たちを育て『孤児の父』と言われたジョージ・ミューラーは、物質的にも霊的にも、必要なものは全て祈りによって神から与えられるという信仰・信念の持ち主であり、実際にそれを実行した人だった。神以外にスポンサーがいなかった彼の孤児院の食料(400人分)が尽きてしまうことはしょっちゅうだった。しかし、彼はその時々に、神の国と神の義を求めてひたすら祈った。するといつも全く予期していなかった不思議な方法で食料が与えられ、彼の孤児院では孤児たちが飢える日は一日もなかったと言う。『5万回の祈りの回答』 私たちは肉のパンを求める前に、先ず、命のパンである御言葉を第一に求めれば、必要なものは必ず与えられるのである。

 神なき世界で信仰生活を続けるということは、クリスチャンにとっては、かなり試練との闘いが要請される。しかし、それに忍耐することが、罪人であった私たちが成熟した者へとつりかえられるための重要な要素である。その如何なる人生の嵐にも動かされることのない不動の信仰は、ジョージ・ミューラーのような神への絶対的信頼に基づいた不断の祈りから生まれるのだ。

 「石の上にも3年。でも耐えていたのは石の方」 私たちの悪い癖はそう簡単には直すことは出来ない。それも神は、一度神の子となった者を決して捨てようとはなさらない。忍耐は神のご性質の一つなのである。

 その神に信頼することによって、はじめて私たちの内に忍耐が生じ、その忍耐を働かせることによって、練達、そして希望が生まれる。その結果、私たちはキリストに似た者へと変えられて行くのである。

 そのような堅い信仰に立つ者には神の力が働き、全てのことが可能になる。苦難が大きければ大きいほど、天の御国で得る喜びは大きい。人生の試練を喜びへと変えること。これこそ、キリスト者の醍醐味なのである。




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Boys, be Ambitious IN CHRIST! Ⅰコリント9:23-27

2010年10月17日 | Celebration



□ギャラップ調査による尊敬出来るいい人の条件 
1) 高い道徳(倫理)観を持つ。
2) 家族の一員という意識が強い。
3) 仕事においてより生産的。
4) 社会においてより活動的。
5) 成功・失敗の基準は、物質的なものではなく対人関係。
6) 対人関係に成功を収めている。

 決して人に嘘をついたり、騙したりせず、勿論、盗みも、殺しも、姦淫もしない、世間的な波風を立たせない真面目な常識人。一般的にはこういった人たちが、優しくて親切な「愛の人たち」と思われている。実際、多くの人たちが、このような所謂いい人として、平穏無事で快適な生活をおくることが理想的な生活であると考えている。

 しかし愛の人とは、平穏無事な生活を守っている保守的な人たちのことではなく、何かに対して犠牲を奉げているという、積極的な行為を実践している人たちのことである。つまり、いくら常識的な良い人たちであっても、そこに何か目的のある自主的行為がなければ、ではいったい「何のために良いのか?」という課題が残るのである。

 また、学校に行き、仕事して、結婚して、子供が生まれ、そこそこ子供は無事に成長し、そこそこ貯金をつくり、適当な時期にリタイアして、日向ぼっこでもしながら優雅な老後生活をしようと考えているのなら、あなたは人生に対して大変な誤解をしていることになる。隠居生活は、ハタから見ると優雅に見えるかも知れないが、実際の隠居生活は決して、優雅でも楽しくもなく、直ぐに空しさを感じるものなのだ。

 人は食べることをやめたら肉体的に死ぬように、学ぶことをやめたら知的に死ぬ。祈ることをやめたら霊的に死ぬ。人生における苦闘を放棄したら、自尊心が死ぬ。人は人生に立ち向かって生きる姿勢をやめたら、それは生きることをやめてしまったことと同じなのだ。人は年齢に関係なく、成長し続けるように創造されているのである。

 人類は長い歴史の中で、ずっと人生の意味を考え続けて来た。人生の意味をとことん追求した4人のユダヤ人がいる。彼らは人生の意味を、人間の持つ根本的な欲求まで掘り下げ、人間そのものを深く洞察した。そして、マルクスは経済的平等、フロイトは快楽、アドラーは権力、そしてフランクルは意味への追求という結論に達した。

 確かに神から離れた人間は、人生の目的を、お金、権力、快楽に求めるしかない。しかし、いくら努力しても、それが自己中心的な活動範囲である限り、人間は決して自分を満足させることは出来ない。何故なら人間の欲望には終りがないからである。また、私は学生時代、フランクルに深く傾倒した。しかし、人はいくら人生の意味を追究しても、それが人の救いや癒しにはつながらないのである。

 実は、人間の最も深いところにある基本的欲求とは、神の子としての自尊心を回復することなのである。そのことに気付いた人間は、それを回復するために何かをしたくなり、新しいことにチャレンジする可能発想者へと変えられる。但し、そこで「自分は神の子供なのだから、立派にならなければならない」という設定を自分の中に立ててしまうと、私たちを非現実的な完壁主義者に仕立て上げてしまう危険性が出てくる。

 そこで、卑屈にならず、かと言って傲慢にならず、向上心を持ちつつ、完璧主義に陥ることなく、健全な自尊心を持つ方法はただ一つ「キリストの十字架による贖い」である。人は無条件に愛されていることを知った時に初めて、神の子供としての価値を見出すことが出来るからである。

 このキリストの愛に基づいた自尊心こそ、人間の根本的な欲求を満たす。人は神の愛に触れると、その愛を人々に分け与えたくて仕方なくなるからである。真の愛とは、他人の問題を自分の問題とし、解決のために行動すること。これこそ、キリストが私たちのためにしてくださったことである。私たちはどうしたら、そのような愛の人生のスタンスに立つことが出来るのだろうか?


思考回路の刷新
 主イエスを受け入れた途端、神の霊が私達の霊の中に注がれ、私達の霊は新しく生まれ変わる(新生)。だが、私たちの習慣や思考の刷新(聖化)には長い時間と努力を要する。ネガティブな思考の中では神は自由に働くことが出来ない。私たちはいつも聖書を読むことによって、積極的・肯定的思考へと心を新たにせなければならない。

心を空にする
自分の雑念で心の中が一杯のところに、神の御言葉は入って行き様がない。「主よ、あなたの御心にかなった願いを私の中から起させてください」と心静かに神の臨在を待ち望む姿勢が必要である。

神の願いを受け入れる
 神の最終的な目的は、いつでも人の魂の救いにある。従って、私たちが、人々に対する幸福を本心から願う時、その思いは神の思いと一体化しており、それは間違いなく聖霊の働きである。私たちの人間的な思いは結局、自分に対する栄光だが、聖霊が私たちに与えてくださる究極的なビジョンは、いつも神の栄光である。神の御心に叶った願いは必ず聞き届けられると、聖書は何度も繰り返し宣言している。

 私たちの真の使命は、私たちの内で働いてくださる聖霊から来る。しかし、私たちの内にある思いが、自分の思いなのか、神の思いなのか? それとも、サタンの思いなのか?このことはクリスチャンなら必ず一度は悩むことである。以下は、自分の中に涌き出る思いが、神から来ているか否かを判別するために、チェックすべき点である。

人々の必要を満たすか
 今からおよそ半世紀前、ロバート・シューラー師は、ドライブイン教会建設に着手した。今まで全く前例がなかったこの斬新的な教会建設は、車の中でなければ礼拝に参加することが出来なかった一人の老婦人への思いがきっかけだった。この教会は、心に傷を負った人たちや、障害者を持った家族が周囲を気にしないで共に礼拝をしたいと願う人々の受容に応えた。

わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ1512)

その思いは、聖書と一致しているか
「銀行強盗したい」という思いがどんなに強くあったとしても、それが神から来た思いではないことは論議するまでもない。「汝盗む無かれ」と聖書に明記されているからである。

 ボンフェッファーはルーテル教会牧師で20世紀を代表する優れた神学者である。しかし、ヒトラー暗殺計画を企て、ナチスに処刑されたというあまりにエキセントリック性故に、多くの牧師は彼を異端視している。だが彼は決して限られた状況下では殺人は合法されると考えていたのではなかった。マタイ26:52:の御言葉を彼が知らなかったはずはない。彼は同胞が次々と逮捕され、殺されて行くという緊迫した状況の中で、一人で罪を背負うとしたのである。しかし、そんな彼に神はこう語りかけていたのだ。

あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。(伝道の書7:16-17 新改訳)

 聖書講読を習慣化させることはとても大切なことだが、私たちはついつい御言葉を読み過ごす、自分の好きなところだけ読み、自分流に解釈するということをしてしまうがある。御言葉の権威に従うことがどれだけは難しいことか、人に与えられた自由意志を、正しく使うことがどれだけ責任が伴うことか、御言葉は私たち人間の生命線。決して侮っても、軽んじてはいけない。神の導きは100%、聖書の御言葉と一致するのだ。

その思いは、いつまでも心から消えないか
 人間的な思いは、環境によって変化し、時代の流行や権力に大きく影響され、時間の経過と共に弱くなり、また、記憶から完全に消えたりするが、神から与えられたにビジョンは、心の中でいつまでも燃え続ける火のように、決して消えることはない。そしてその思いは、祈れば祈るほど熱く燃え上がるのである。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)

その思いに平安があるか
 コロサイ3章15章に「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」とあるように、心の平安は大切な霊的バロメーターである。その思いが主から導かれたものならば、そこには必ず豊かな平安があるはずである。逆に言うと、もし、私たちが主の御心から外れると、途端に心から平安がなくなってしまう。

その思いは自分の力より大きいか
 当時3億円という莫大な建設費用を要したこの計画は、僅か500ドルの資金から始められた。人間的な見地からすると実に無謀だが、神の業を行なわれるのは神であって、私たちではない。神の御業は自分の力ではなく、神の力によって成されるからだ。大きな目標を前に「私の力ではとても出来そうにない」と諦めるのではなく、むしろその計画が大きければ大きいほど、それは神によって与えられビジョンであると確信すべきである。逆にそれが自分の力だけで実現可能な計画だとすれば、それは神の計画にしては小さ過ぎると疑うべきであろう。私たちには、祈りによって神の国(4次元)の力を、この世(3次元)に適応させる事が出来る特権が与えられているのである。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(ヨハネ4:12)

苦難をチャンスと考える
 未だ社会保障とか施設という言葉すらなかった明治時代に、実に2千人の孤児たちを養った“孤児の父”石井十次は、保母さん一人に子供十人で共に小屋で生活するというコッテージシステムを取っていた。その小屋の名前は「ライオン館」。十次の孤児院には、ライオンの創業者・小林富次郎という強力なスポンサーがいたからである。マッチ製造の会社を起業し、1年分の材木買い付けた後、何と洪水で全て流され、莫大な賠償請求される。服の袂に石を詰めて、橋から飛び降りようとした時、この御言葉が彼の命を救った。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブル12:11)

 工場は売却した後、牧師から教わった歯磨き粉の製造方法を研究開発し、1896年ライオン歯磨きを発売し、全国的な大成功を収めた。これが今日のライオングループの基礎である。「あの時の洪水は、当時の私にとって、命を失うほどの大打撃でした。しかし、あの洪水がなかったら、あれから数年後に起こった燃料革命によって、私のビジネルはジリ貧に陥っていたのです。神は私が信仰によって乗り越えるように試練を与えて私を成長させ、今の事業展開へと導いてくださいました。これは神の業以外の何ものでもありません。」と語った。

 これらの条件が全て満たされたなら、必ず実現の方法があると信じ、創造的な解決策を発想すべきである。私たちが神に信頼し、信仰への第一歩踏み出すところから、神の御業は開かれて行くのである。自分のためにしたことは、肉体と共に滅び去るが、神と人に奉げたものは何時までも残る。世のため、人のため、神のために生きる可能発想者こそが、神の御心に叶った最高の人生の祝福を得ることが出来るのである。受けるより、与える方が祝福されるのである。



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主に委ねよ 箴言16:3

2010年10月10日 | Celebration






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