秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

猿田彦大神のお使いの二見蛙と興玉神石

2019-03-12 | 古代史のミステリー
ずーっと昔、半世紀も前に二見浦の夫婦岩みてました。
小学校の修学旅行でこの地で宿泊して翌朝、鳥羽の真珠島見学したような。
戦後、二見浦が修学旅行のメッカの如くで昭和35年48万人をピーク、その後の下降中に行ってたようです。
ほとんど記憶残ってないとおもったら、遊歩道の整備は平成7(1995)年のことだった。


大枝神社地車隊で平成最後の伊勢参り行くことになり、この週末参加して来ました。
普段この御一行さまは、自分の神社は好きだけど、よその神社に全く関心ない。
毎年の親睦旅行でお寺参詣はあるのですが、神社参拝したのは熊野大社、熊野速玉大社、そして丹後の籠神社だけだったと思います。
そうしたおっちゃん中心の団体旅行で、今回の平均年齢67才だそうです。
だから、ヘェ〜神宮行くんだ〜ご時世というものなんかなと思ってた。





昨日記事にした二見興玉神社ですが、なんでこんなにカエルいっぱい置いてるのと年配者にお尋ねしたら、
「無事カエル、お金がカエルの縁起物や」というお答え。
帰ってからご祭神調べたら、猿田彦大神でそのお使いが蛙だったのですね。

二見興玉神社では、昭和初期頃に実際に授与されてた御朱印の古図が見つかり、その図案を復元した復刻版御朱印を2018年7月から毎月23日(二見の日)限定で授与されてるそうです。
その御朱印が、上の右画像です。



二見浦って二つ見えるからそういうのかな、どの二つなんだろうと思ってたら、立て看板に


夫婦岩が日の大神(太陽)と興玉神石を拝む鳥居の役目をしていると。
日の大神が天照大神なら、「興玉神石」が何かを示すのかも調べてみた。

夫婦岩の沖合約700m先に鎮まる岩のことでした。
周囲約850メートル、高さ約7.5メートルの大きさもあるそうだ。

Wikipediaによれば、
三重県伊勢市二見町江、立石崎の北東650mの沖合に鎮座する二見興玉神社の祭神猿田彦大神縁りの霊石である。猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれたとも伝わる。
宝暦年間に発生した地震により、海中に沈んでいるため、肉眼で見る事は出来ない、1960年のチリ地震による津波で水が引いた際に一時的に姿を現した。
石の大きさは東西216m×南北108mである


宝暦は宝永の間違いだと思えます。

ところが伊勢志摩観光ナビには、
安政元年(1854)12月23・24日(旧暦11月3・4日)に発生した安政の大地震「東海・南海地震」(32時間後に連続発生、推定M8.4)で、完全に海の中に沈んでしまった。
現在は水面に出ることはないが、1960年のチリ津波発生時に少しだけ姿を出したという。


1707年と1708年の 宝永地震(南海トラフ全域が震源域)
1854年の安政南海地震(南海道沖の巨大地震)
どちらも紀伊半島に大きな被害残した大地震で津波も来たと記録残ってます。


江戸時代末期の浮世絵、大英博物館で保存されてるようです。
2代目・歌川広重『諸国名所百景』伊勢二見ヶ浦


1800年代後半のものだとして、興玉神石が描かれているようには見えません。
いつ沈んだかの正確な情報は確認できませんでした。




江戸時代の伊勢参宮名所図会にも

夫婦岩の後ろに富士山と御来光が描かれています。


初富士の鳥居ともなる夫婦岩 山口誓子
句碑があるそうですが見落としました。





夫婦岩は「日の大神」と夫婦岩沖合の猿田彦大神縁りの「興玉神石」を拝する鳥居の役目をしています。
興玉神石は猿田彦大神の誕生石とも伝えられてます。 
さらに200km離れた先に富士山があり、夫婦岩の間に位置します。
夏至の日にはその富士山の真上からから太陽が昇るように配置されているというのもすごい。
その延長線上には、皇居さらに鹿島がライン上に乗るのだそうです。







通りがかりで写した看板


★3/18追記
伊勢二見のカエル
<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>
これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が
「ひきがえる」になったためという。(『儺の国の星』p38)

詳しくは☞ こちらのブログ


今日は夏至、夫婦岩の日の出 - 秋麗(あきうらら)

今日は夏至、夫婦岩の日の出 - 秋麗(あきうらら)

tenk.jpから画像もらってきました。5月から7月の間だけ夫婦岩の二つの岩間から御来光を拝めます。夏至の前後1週間ほどの間は、お天気に恵まれれば夫婦岩の間に遠く富士山...

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あめつちの神にぞ祈る 朝なぎの - 秋麗(あきうらら)

あめつちの神にぞ祈る 朝なぎの - 秋麗(あきうらら)

海のごとくに波たたぬ世を昭和天皇御製カエルがいっぱい。伊勢の二見興玉神社参拝してきました。小学校の修学旅行以来で、初参拝のごとく新鮮でした。記事にするにあたり検...

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ところてん★伏見稲荷→藤森神社→真幡寸神社→城南宮

2019-02-13 | 古代史のミステリー


城南宮に着いて真っ先に七草粥いただいて、次に椿餅買って、
神さまより、花より、団子です、未だに。

そしていよいよ参拝開始。



城南宮の東鳥居入って直ぐにある摂社の真幡寸神社から始めたのは、城南宮以前にあったと書いてあったのを見たから。
意味不明なタイトルも含め最後に説明させてもらうことにして、まずは城南宮みたまま。





参拝終えて帰る間際にはポツポツ雨が降りだしました。
着物姿の女性グループは皆さん雨ゴートお召しで、濡れては勿体無い上等の着物。
このあと、京都は高台寺あたりを散策した時に大勢の着物姿の観光客に出会いましたが、ペラッペラの合繊で寒くないのかなといらん心配したぐらい。
城南宮はどちらかといえば、観光客よりは地元のかたとか、遠出の方はマニアックな神社フリークとかが多い感じでした。




拝殿に七草が奉納されてありました。



城南宮の神紋は、日月星の三光紋。


瑞垣内にも境内社があり、ぜんぶご挨拶すませました。



神苑の梅はまだチラホラ、花をつけたこの木は早咲きの桜とかかもしれない。
まだこれからのようだったので、別途入場料払って入場せず、隙間から眺めただけ。




幕末の歴史とかざっと読んでると、明治天皇がこちらでお昼を召し上がられて記念碑があると書いてある。
見に行くと



またまた、真幡寸神社って彫ってある。




椿餅食べながら思い巡らして、過去にエントリーした記事が気になった。

伏見稲荷が祀られた稲荷山は元藤森神社が鎮座してて、今でも藤森神社の祭りの神輿が伏見稲荷の鳥居前まで来て土地返せというと、今神さん留守と答えるんだと。
その藤森神社は、真幡寸神社の地へ移動しところてん式に追いやられたと。
やがて、平安京ができて京の南の護りとして、真幡寸神社に城南宮が。

2012-01-04 おみくじ「凶後吉」
藤森に初参拝したのは鎮座地の移転の不思議を知ったから

追記:改めて読み返してみると、
2012-01-04 ミミーさんのコメントに
本殿横に、神功皇后ゆかりの大木の根を祭り、…




この古代の地図は以下記事で記録残してます。

2013-09-16 キーワードは、男山

昭和8年から16年ごろまで巨椋池だったのが干拓されて農地となり、今は全くその面影は残っていない。

未消化ながらこれが現実なので、そのまま受け入れるとしても…

忘れない内に画像だけ先にアップして、もうちょっと調べてまた追記させていただきます。



★追記
真幡寸神社
まはたき と読みますが、
寸(すん)を古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともあるようです。
一寸(ひとき)とは、馬のたけを測る単位。


城南宮のサイトでは以下のように説明されています。

ご祭神 真幡寸大神、応神天皇
『日本紀略』弘仁7年(816年)7月21日条に「真幡寸神、官社の列に預る」と、また『延喜式』の神名帳にも記され、霊験あらたかで朝廷からお供え物があったことが知られます。
ご神紋が徳川家と同じ「三葉葵」であることから、江戸幕府より照会があり、由緒を奉行所に回答した文書が伝わります。
真幡寸大神と応神天皇をお祀りし、竹田地区の氏子の信仰が厚く、石の社号標や石灯籠が寄進されています。



ネット検索でいろいろヒットしましたが、
真幡寸大神で調べたら、こちらのブログが一番わかりやすかったので、そのまま順番を変えて引用させてもらいます。


この旗塚は、藤森神社にあるそうです。

真幡木の幡は旗纛(はたおき)で、戦陣に将軍の標識として立てた旗。
神功皇后が三韓征伐の軍船に立てた御旗を真幡木里に納められたことを暗示する。

真幡寸神社の根源地である現在の藤森神社には、
太い木の株を祭った「旗塚」があり、真幡寸神社が藤森に鎮座していた時の遺跡である。
神功皇后が三韓征伐から凱旋した後、兵器を納めて軍旗を立てた塚と伝承される。

真幡寸神社の鎮座地は、
藤森神社の地→竹田駅西側の真幡木町→城南宮の境内

現在の近鉄京都線の竹田駅西側には真幡木町の地名が残り、もとは真幡木里と呼ばれた地区で、真幡木神社跡に若宮八幡宮が建つ。

古代に、当地一帯を勢力下においていた秦忌寸氏の氏神として、鳥羽郷真幡木里に祀ったのが始まりとされる。

真幡寸神社は山城国・紀伊郡・二座と記される式内小社




大覚寺と嵯峨御流と、天地人

2018-12-17 | 古代史のミステリー


生駒聖天さんの五社明神、
宝山寺サイトでは、中興草創のみぎり、湛海律師を助けた生駒山の地神さまと記載されています。

五社明神で調べてみると、大覚寺がヒットします。
「嵯峨天皇が離宮嵯峨殿を営んだ際、嵯峨天皇が帰依した空海が嵯峨殿の鎮守社として勧請。嵯峨殿が寺に改められて大覚寺となると、その鎮守社となったといいます…豊受大神ら五柱の神をまつります」


※五社明神は、使用例枚挙に暇無いほどの大覚寺の中でもとりわけ頻繁に使われる撮影スポット らしいです。


今秋は、大覚寺で勅封心経御写経を60年ぶりに公開され、それまでの修復状況もTVでも放映されてました。
そうしたこともあり、大覚寺は検索上位にきたのでしょう。

大覚寺のサイトでは
弘仁9年の春、大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し、 嵯峨天皇は「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と、 離宮嵯峨院で質素倹約に努められました。 そのおりに、弘法大師の勧めにより、般若心経に帰依して読誦転経し、 殊に嵯峨天皇が紺紙に金泥で一字三礼の誠を尽くして般若心経を書写されると、 霊験あらたか、疫病はたちまちに治まり、大いなる功徳を得られました。 以来、この嵯峨天皇宸翰(しんかん)の般若心経は霊経と崇められております。

大覚寺といえば、嵯峨未生流で、今は嵯峨御流と名前が変わってます。
公式サイトより



1200年前、「弘仁9年大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し」と大覚寺のサイトには書かれてました。
でも、上のYouTubeをみると、その818年(弘仁9)に
以下のようなことがあったとと知りました。

弘仁9年(818)7月、関東地方を未曽有の大地震が襲った。弘仁地震である。その被害は、千葉県南部の安房・上総国を除く関東全域に及んだ。とくに上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)は被害が大きく、『類聚国史』は、「山が崩れ谷を数里にわたって埋めた。圧死した人々がどれほどいたか、計り知れない。」と伝える。
引用元 弘仁地震の被害と復興、 そして教訓 - J-Stage


閻魔王宮伝来 結定往生の秘印 by 安倍晴明

2018-11-28 | 古代史のミステリー


一条戻り橋の清明神社の社務所で見ました。
買おうかなと思って初穂料3000円みてやめました。
実に京都らしいお値段です。

安倍晴明といえば、以前、京都らしからぬお値段で驚いたことがあります。


安倍晴明が閻魔王から授かったといわれる秘印が、
なんと400円!


安倍晴明が、臨死体験で閻魔王にあわれ、秘印を与えられた。
晴明が蘇生して気がつくと、懐中にこの金印が入っていた。
晴明はその後85歳まで生き、この印鑑を多くの人に施し、
逝去後、持仏の不動明王と印紋は真如堂に納められたそうです。

真如堂公式サイトより

その真如堂では、おみくじ、なんと50円! 
お賽銭箱に入れますが、京都らしからぬ価格設定です。
値段にひかれて物は試し、ひいてみたら大吉だった。

「物ごとすべておそく成就する
理あれば心ながく退屈すべからず
観音神明をたふとみ弁財天をしんじてよし」

2012-10-21 京都の岡崎エリアを歩いてきました。

そのうち清明神社いこうと思ってたのに、あっというまに6年が過ぎてしまってた。




社務所も並んでますが、もちろん本殿も参拝待ち行列。









ちょうど11/23は火を焚きあげる祭が行われ

清明神社公式サイトより
「本年度もたくさんの皆様にご参列いただき、多くの玉串が奉納されました。全国各地からご参拝いただきました皆さまありがとございました。」と書かれてました。


午前中でのことで見てませんが、跡が残ってました。



羽生結弦さんが SEIMEI を演じたこともあり、フィギュアスケーター・ファン御用達の神社でもあります。
夕方にもかかわらず、そりゃぁエライ人でした。

京都といえども、ちょっと高めの設定価格、それを何ともない参拝客多くて、インスタ映えであちこちで撮影する人々。
もちろん私もいっぱい写しましたけど。

なんだか、ディズニーランドでミッキーの誕生日にそのアトラクションで11時間並ぶに似た感じ。
私は慎ましやなケチですから、お金も時間もよう使いません。

安倍晴明が生きてた時代は、庶民にはどうすることもできない伝染病やら天変地異やら、怨霊のせいにもしたくなるでしょう。
そんな時に平安京に邪が入り込まないよう結界はってくれると安心してたかも。
晴明はすんごいスーパースターだったことでしょう。

今秋10/22の時代祭は、いろいろありました。
平安遷都1100年にあたる1895(明治28)年、平安神宮創建以来123年の歴史があります。

過去10回の中止があって、
明治天皇死去(1912年)、
関東大震災(1923年)、
日中戦争(1937年)太平洋戦争の影響による1944~48年。
昭和天皇の病気(1988年)
去年は台風21号の影響で中止。

今年は2年ぶりの開催でしたが、馬の事故ありました。

同日10/22「鞍馬の火祭」は1988年の自粛以来30年ぶりに、台風21号の被害で中止。

鞍馬の火祭りは940年朱雀天皇が御所の由岐明神を鞍馬へお移しする時に、松明で道中を照らしたことに由来するそうです。
都の北方を鎮めて1000年以上、直近の中止は昭和天皇がご病気で伏せられていた1988年以来。


そんなこんなで、清明神社がどんなかをこの目で見て御神威を感じたかったのでした。






大山で目に留まったあれこれ調べたら、大山信仰、牛馬信仰

2018-11-10 | 古代史のミステリー

11/3大山ウォークも終了間際に駐車場から大山を撮影。
16:40にバス発車して車中からは白雲が噴火煙のように見えた。



2万年以上前の噴火で、弥山、三鈷峰、烏ヶ山の3つの溶岩ドームが形成されたそうです。
2016年(平成28)10月21日鳥取県中部地震では、倉吉市、湯梨浜町、北栄町で最大震度6弱を観測。
大山の噴火だっていつかずっと先にあり得るのかもしれない。


大山山麓を歩きながら目に留まって、画像残してたものを帰ってから調べてみると 
へぇ~! そうだったんだ
調べだしたらキリがないので、その入口だけでも記録残しておきます。



大山寺参道で見かけた白地に藍色の旗。

必要なものは この山が 調えてくれる。


大山の恵に感謝したシンボルマークで、1300年を迎える2年前にデザインされたようです。





ブナの森に蓄えられた水が、山裾を伝い、海に栄養分を運び、それが良質な海藻を育てる。
大山の自然林の水が山を伝い、その水に支えられて多くの人々の暮らしがあり、その恵を守り紡いだ事が歴史や文化になっていった1300年。
そして今も尚、大山に支えられて生きている、その状態こそ将に「調ふ」ことなのだと。



大山信仰
大山は、出雲風土記に伯耆国の大神岳、大神山ともいわれてた。
雄大かつ神々しいところから、
「大いなる神のいます山」「神の宿る山」として崇められてきた。
そして火山噴火物が堆積した土壌にブナの木が育ち、蓄えられた水が人々の暮らしを潤す。
水の恵みに延命を求める地蔵信仰が盛んとなる。

地蔵菩薩が生きとし生けるものすべてを救う仏さまであることから、平安時代に大山寺の高僧 基好上人が牛馬安全を祈願する守り札を配るとともに、山の中腹に広がる牧野で牛馬の放牧も奨励した。



参道の蕎麦屋さん前にあった行燈の絵が牛。

牛馬信仰
人々は牛馬を曳き連れて大山寺に参って守り札をいただき、牛馬にも「利生水」を飲ませて延命を祈った。
さらに守り札は牛舎の柱に貼って安全を祈る。

牛馬の育成に適した大山山麓の牧野で育った体格の良い放牧牛は参詣者の注意をひき、また、参詣者が曳き連れてきた牛馬もあって、大山寺の春祭りなどに牛くらべ、馬くらべが開かれた。
これが発端となって、鎌倉時代以降、次第に牛馬の交換や売買が盛んに行われ、やがて市に発展していったと伝わる。

大山の裾野に自然に生まれた牛馬の市は、江戸時代には大山寺に庇護され信仰に裏打ちされた全国唯一の「大山牛馬市」へと発展。
江戸時代後期には、福島の白河馬市、広島の久井牛市と並ぶ日本三大と言われるまでに隆盛を極めた。
さらに明治時代には日本最大の牛馬市へ。

廃仏毀釈の影響で、大山寺の寺領も取り上げとなり権力が衰退。
牛馬市は昭和12年に閉幕となるも、「和牛」誕生へのいしずえとなった。

牛馬市をささえた「大山道」には、
坊領道、尾高道、溝口道、丸山道、横手道、川床道があり、そのうちの横手道の一部を歩くことができた。

この大山街道は牛馬だけではなく、砂鉄、綿、木綿など伯耆地方の産物が都へ江戸へ運ばれました。

古代~中世の武装した僧兵は、ここ大山でも強者でした。
一時は三千余の僧兵がおり、隠岐で挙兵し上陸した後醍醐天皇が僧兵の力を借りて船上山に立て篭もり、名和長年の弟源盛と共に足利軍を打ち破ったことでも有名らしいです。

最盛期には中門院、西明院、南光院の三つの寺院集団があり、一山三院四十二坊からなる一大勢力を誇った大山寺領は、鳥取藩の治外法権だったとか。
大山寺はもとは中門院大日堂と言い、争いの際に仏像などを一時的に避難させた物置のような場所だった。

明治の神仏分離で、大神山神社奥宮も大山寺も紆余曲折を経て今があるようです。





烏天狗の絵が気になった。

大山 伯耆坊です。

以前に鞍馬天狗や太郎坊宮の記事書いたときに、
八大天狗を調べたら
愛宕山 太郎坊
比良山 次郎坊 
飯綱 三郎
鞍馬山 僧正坊
大山 伯耆坊
英彦山 豊前坊
大峰山 前鬼坊
白峰山 相模坊

今回確認のため再調査したら

☆愛宕山太郎坊(あたごさんたろうぼう)
京都の愛宕山に棲む大天狗。数多くの眷属を従え、火を司る。
天狗の総大将として知られる。

☆鞍馬山僧正坊(くらまやまそうじょうぼう)
牛若丸に武術を仕込んだことで有名な鞍馬天狗。

☆比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)
もとは比叡山の天狗であったか、比叡山に法力の強い法師が多数集まってきたため、滋賀の比良山に移り住んだといわれている。

☆飯綱三郎(いづなさぶろう)
長野の飯綱山に棲む。竹筒に入るほど小さい「管狐(くだぎつね)」を飼い、それを使役する「飯綱の法」という術を使う。

☆相模大山伯耆坊(さがみだいせんほうきぼう)
もともと鳥取の伯耆大山に棲んでいたのだが、神奈川の相模大山にいた相模坊(さがみぼう)が四国の白峰に移ったため、その後任として相模大山へ来たという。

☆大峯前鬼坊(おおみねぜんきぼう)
もとは奈良の生駒山に棲む鬼だったが、修験道の開祖・役小角に改心させられた。その後、妻の後鬼とともに役小角に付き従って山々をめぐった。

☆白峰相模坊(しらみねさがみぼう)
讃岐国に流刑になり、香川の白峰で憤死した崇徳上皇の御霊を慰めるため、相模から移ってきたとされる。

☆彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)
福岡と大分の境にある英彦山(ひこさん)を守護する。 英彦山は、羽黒山、大峰山と並び日本三大修験の山のひとつに数えられる。




去年、白山が1300年で養老の滝もそう。
今年は、熊野三山、国東半島、そしてここ大山が1300年。

718年ごろに何があって、日本各地で開創や開基が相次いでるんだろう。
なぞは深まるばかり・・・

一の酉の日に知ったおとりさまは、鷲妙見大菩薩と鷲宮大明神

2018-11-01 | 古代史のミステリー


大鷲に乗った鷲妙見大菩薩です。

カレンダーに「一の酉」と書かれてあった。
今年の11月は酉の日が11/1 11/13、11/25 と3回あります。
その最初の酉の日が今日で、一の酉で市が立つんですね。

酉の市、聞いたことはありましたが、関西では?
堺の鳳にある大鳥神社では、市が立ってるのかな。
小学生の頃、南海高野線の北野田から南海本線の浜寺までバスが運行されてて、プールに通ったこと何度か。
途中で大鳥神社の鳥居前通過してた記憶がちゃんと残ってますが、未だご縁なくて参拝したことない。


酉の市は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られ、関東地方を中心とする祭りだそうです。

関東三大酉の市とは、
・新宿の花園神社
・府中の大国魂神社
・浅草の鷲神社 / 長國寺


浅草では他の場所の酉の市とちがって、「神も仏も酉の市」と言われ神社とお寺が隣り合わせ、どちらも拝めます。


最初の画像、鷲妙見大菩薩=鷲大明神
浅草酉の市のサイトでは、

鎌倉時代、文永2年(1265年)宗祖、日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす-千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わるのが鷲妙見大菩薩といわれます。それは11月酉の日のことでした。七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれてきました。

隣り合わせの鷲神社は、おおとりじんじゃと読むのですね。

鷲神社はご祭神が日本武尊で、埼玉の一部の地域にかなりの数があるようです。


引用元☞さいたま市緑区にある鷲神社に参拝

日本武尊は、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。
これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日には大酉祭が行われ、鷲宮神社では12月の初酉の日。

鷲宮神社 わしのみやじんじゃ と読みます。
埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号

祭神:天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命

別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛り、現在の「わしのみや」になったとされる

発掘調査によって縄文時代の遺跡が見つかっており、古くから住民がいたことはわかっているそうです。

神社ドットマップを頂戴したブログには
鷲宮神社と鷲神社は対立関係だった?
なんて推測も書かれてあり興味深く読みました。


土師社は、羽曳野の道明寺にもあり天夷鳥命が祀れていました。
☞2012/3/20 暁や 鳥なき里の ほととぎす★一茶

いろいろ妄想膨らみますね~
武夷鳥命が天から持ってきたという神宝、刀とか、
話ややこしすぎ。


さて、この鷲宮神社は、人気アニメ「らき☆すた」にも登場し「聖地」として有名だったようです。
ところが、今夏8/11に大鳥居が突然倒壊!


埼玉新聞の記事
ショック、声も出ない…らき☆すた聖地・鷲宮神社の大鳥居が倒壊 100年前に建立 鳥居の根元にハチの巣


台風や地震が直接の原因ではなかったようですが、日本各地の神社仏閣の被害は多すぎます。

昨朝、TVでみた鞍馬のすさまじい被害映像は
鞍馬では







高山寺では





山深いところでは倒木はヘリで吊り上げて運ぶとかになるし、ハンパない本数倒れて、7億円はかかるでしょうと高山寺の和尚さんは話されてました。


山梨のぶどう薬師とマニ教と

2018-10-11 | 古代史のミステリー


薬師如来の左手の上に、薬壺の代わりにぶどうがのってるなんてめずらしい。
山梨県甲州市勝沼町にある大善寺のぶどう薬師は秘仏なので、五年に一度の御開帳が、
ちょうどいま平成30年10月1日~14日、あと3日お目にかかれます。



国宝の薬師堂の厨子の中に安置された国指定重要文化財の薬師三尊像で、日光・月光菩薩と共にいらっしゃるそうです。


大善寺のサイトによれば
養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。
行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。



薬師如来は病気を治すということで、古くから信仰を集めてきましたし、日本各地に本尊とするお寺たくさんあると思います。
一番古いのが奈良の薬師寺です。



しかし薬師如来像はインドでは造像例が見いだせず、中国でも隋唐時代以前には、わずか一例があるだけらしい。

マニ教は、694年中国に伝来したとされ、
唐の時代には、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、摩尼教(明教)が三夷教ないし三夷寺と呼ばれていた、と高校時代の世界史で習いました。
試験に出るから単語として覚えていただけですけど。

日本の薬師寺はもともと、680年(天武9)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため発願し藤原京に創建されて、平城遷都に伴って718年(養老2)に現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。


仏教経典一切経七千余巻の中で、薬師経の記述には、インド以外の要素が多いそうです。
「続命法」などに見られる善悪応報説と閻魔の審判はイラン起源。
それに記される7層の灯明は、オリエントの占星術世界観を継承していて、明らかにインドより西方の文化の影響を受けていることをうかがわせ、東方にあるとされる薬師仏の浄土が西方起源を示しています。




2010年9月下旬、マニ教『宇宙図』国内に現存してたというニュースが報道されたようですが、当時目に留まることはなかった。





上部中央に光の王と呼ばれる天使が描かれ、
左下に月、右下に太陽を配置して、さらにその下には七曜や十二宮などからなる天界を表します。

薬師如来の脇侍として、日光、月光の両菩薩がいることから、薬師が天上界の仏であることは明らか。


マニ教とは、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)が開祖。
パルティア帝国の末期に、メソポタミア平原南部のバビロニア地方ユーフラテス川沿いのマルディーヌー村で、パルティア貴族の父パテーグと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれ、パルティアの貴公子という出自であった。

マニが12歳のとき、初めて神の啓示を受ける。
そのころにササン朝ペルシャは建国で226年で( 滅亡 651年)、当初、ユダヤ教・キリスト教に対し比較的寛容であったが、そのいっぽうでゾロアスター教を国教と定めた。

24歳のときに2回目の啓示をうけたマニは、新しい教団の設立を決意しマニ教を開教。
バビロニア、ペルシアから船でインドにわたり、北西インドから中央アジア地方にかけての伝道の旅から始めた。
やがてササン朝ペルシャのシャープール1世兄弟を改宗させ重用されたが、次世代バハラーム1世のもとでゾロアスター教以外のユダヤ教・キリスト教に続きマニ教もまた迫害されるようになる。
276年ゾロアスターの大マグ(僧侶)のカルティールに陥れられたマニは、王命により召喚を受けて投獄され死刑に処せられた。




民族も宗教もいり混じるバビロニアで、混とんとした3世紀に生まれたマニ教は、諸教混交がマニ教の特徴となりました。

布教する先々で、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなくて、生き延びることができなかったそうです。

奈良時代までに日本にもたらされたマニ教は、きっと薬師信仰となり、今なお日本人に根付いてるのだと思います。

薬師さんとぶどう、不思議に見える取り合わせは全然不思議じゃなかった。
薬師信仰の起源は、ササン朝ペルシアのマニを開祖とするマニ教と繋がってると思います。



チャーミーが通過した守屋山東側

2018-10-05 | 古代史のミステリー
分杭峠というゼロ磁場で有名なスポットがあります。
ミーハーなもので、いつか行ってみたいと思っておりました。
中央構造線の真上にあり、その地溝帯は諏訪湖付近でフォッサマグナに分断されてるらしい。
たぶん実際に足を運んでも、何も見えないし何も感じないだろうとは思うけど、どんなとこか興味津々。







また茅野市は国宝「土偶」仮面の女神、縄文のビーナスがあるとこです。
いつか生で見たいものだと思ってます。


その茅野市と分杭峠との間にあるのが守屋山。
長野県諏訪市と伊那市との境、伊那山地の最北部にあります。



めねふねさんブログ「チャーミーと守屋山」によれば、
台風24号チャーミーが通ったのは、諏訪大社ではなく物部守屋の側だ。
諏訪大社上社のご神体山として知られるが、じつは諏訪大社の神域は北麓で、守屋山東峰には守屋神社奥宮の石祠がある。
里宮は登山口にある物部守屋神社である。
守屋山は、北側と東側では意味がちがう。



守屋山(もりやさん 標高1,651m)調べてみました。



守屋神社里宮は登山口のすぐ近くにあり、鳥居に「物部守屋神社」と書かれてるようです。
奥宮は、守屋山東峰にある石祠で、なんと鉄柵に囲まれていました。
なんでかなと気になって検索を重ねて、理由をやっと見つけた!


この画像頂戴した、以下ブログ
100山展望の守屋山
説明文も引用させていただきます。

諏訪市、茅野市と伊那市高遠町の境にあり、山頂から北に諏訪湖を見下ろすことができる。
山と諏訪湖の間には諏訪大社が祀られているが本殿がない。
大社の南に聳える守屋山そのものがご神体であり、昔から観天望気や雨乞い祈願の山としても崇められてきた。
雨乞いには東峰にある守屋神社奥宮の石祠を谷へ突き落とし、神の怒りをかって雨を降らせてもらうという乱暴な伝承もある。
現在は落とされないよう鉄の柵で守られている

危険個所もなく登り易く、展望にも優れた山として人気も高い信州百名山。


山頂からは、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、八ヶ岳連峰といった山々が眺望できて
これ程まで展望のいい山はめったにない、と多くの方が書かれてます。
守屋山周辺の古い神社の末裔の人々は、自分達を古代ユダヤ人の末裔であるとも自称してるらしい。

これも気になって、物部守屋神社で検索したら、
社紋が「丸に三ツ柏」紋

実家と一緒でちょっとうれしくなった。

同じく守屋山を背後にもつも、違う方角の麓にある
洩矢神社の神紋は「丸に一つ柏」



諏訪大社上社の大祝は諏訪氏、神長官は「守矢」氏、No.3禰宜太夫は「守屋」氏。
もりやという漢字もいろいろ。
洩矢神社も もりやで、
洩矢神 モレヤ神、…諏訪の土着神だそうです。

諏訪大明神画詞という14世紀に書かれた諏訪大社の縁起では、
諏訪の地に建御名方神がやって来て、それまでここを統べていた洩矢神と争った。建御名方は藤の枝で、洩矢は鉄の輪で戦うも、藤の枝によって鉄輪が朽ちてしまい洩矢は敗れる。
洩矢神はこの地の祭神の地位を建御名方神に譲りその支配下に入ることに。それによって、諏訪大社のトップである「大祝(おおほうり)」は建御名方神の末裔である「神氏(諏訪氏)」が、二番目の地位にある「神長官(じんちょうかん)」は洩矢神の末裔の「守矢氏」がつとめることになった。


下社の大祝は金刺氏。
神紋は上下社ともに梶紋(諏訪梶・明神梶)
三本梶に太い根が大地に食い込んでいる独特なデザインで、
上社では足が四本、
下社は五本足



学生時代は、夏合宿やスキーで長期滞在した信州。
年を重ねてからも何度か長野県に観光訪れてますが、未だかっていちども諏訪大社をお参りしたことない。
なかなかご縁が結べないようです。

ちらっと読んだぐらいでは?な歴史の重層がありました。
歯が立たないので今はスルーすることにします。


そんなややこしいとこを台風チャーミーは通過してたのでした。

まきび公園と吉備真備公園、二つもあった不思議

2018-08-31 | 古代史のミステリー


真備(まきび)さんの出生地・真備(まび)町は、「き」が消えたのはなんでかな
気になって知らべてて、見つけた不思議なオブジェ。


まきび公園にあるそうです。
倉敷市真備町箭田3652-1

吉備真備さんがカタカナを草案したという説に基づいて作られた石造物ですって。
でもウィキページ見たら、その伝承は疑問らしい。

先だっての西日本豪雨で倉敷の真備町は水没被害にあったので、この珠を載せた亀さんはどうしてるかな。
近くなら確かめに行くんだけど。

この画像中央のでっかい記念碑は何かというと、
昭和61年5月、中国西安市(旧長安)の環状公園内に、吉備真備の記念碑とその周囲に日本庭園が完成したのを記念し、吉備真備ゆかりの当地に建設したもの。

またこのまきび公園内には、吉備真備一族の菩提寺といわれている吉備寺や墳墓もあり、近くには、館趾や産湯の井戸・琴弾岩などの遺跡や名勝が散在しているそうです。

1986(昭和61)年10月のことでありました。
ちょうど735年に吉備真備が唐から帰国して1250年を記念したものであったようです。


拙ブログで5年も前の記事
不思議いっぱいの吉備大臣入唐絵巻」2013-06-02
は人気があるようでよく読んでいただいてます。
総アクセス数が出ないのが残念ですが、人気記事のランキングで上がってくることしばしば。

そこのコメントで書きましたが、新たな記事として残しておきます。

吉備真備は、元の名は下道 真吉備(しもつみち の まきび)さん。
備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。


遣唐使として
霊亀3年(717年) 3月:難波を発す
天平7年(735年) 3月:帰朝
695年生まれなので、出発時22歳で青壮年期の20年近くを唐で暮らしてた。

最初は真吉備であったのを、遣唐使として唐に渡ったころから真備と書いて「まきび」と読ませるようになったと考えられるそうです。

遣唐使として唐に渡った人のうち何人かは、中国風な名前にするために自分の名前をアレンジした記録が残っています。

同行した
阿倍仲麻呂→阿倍仲満
大伴古麻呂→朋胡満

おそらく吉備真備も
下道真吉備→真備


天平18年(746年) 10月19日:吉備朝臣(あそん)真備の姓を賜る。



2回目の遣唐使は
天平勝宝4年(752年) 閏3月3日:遣唐使出発

この時の遣唐使の目的は、
①唐の高僧(鑑真)の招聘
②外交根回し(対新羅政策)
③金の調達

天平勝宝5年(753年) 12月7日:唐より帰国の遣唐副使・吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着。

鑑真を日本に渡来してもらうために唐へ渡ったのは成功したものの、帰路、鑑真の船は屋久島へ漂着、吉備真備の船は紀州の太地に漂着。


それからも幾多の困難を乗り越えて、
766年正二位右大臣吉備真備にまで上りつめました。
770年光仁天皇即位時に辞職し、吉備に隠せい。
775(亀宝6)年10月3日81歳で死去。
この時、光仁天皇は深く哀しまれ勅使を派遣されたようです。


この亡くなったとされる地に、吉備真備公園があります。
住所は、岡山県小田郡矢掛町東三成3872-1



この記事の最初に書いた、まきび公園とは近いけれど、違います。
あちらは倉敷市まび町にあります。
こちらは、矢掛町。

不思議ですね。
なんで似たような公園が二つもあるんだろう。



吉備真備公園について、こちらのブログより引用させてもらいます。

『旧山陽道の北側の平地3万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公(きびのまびこう)の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。
遣唐留学生の吉備公が天平7年(735年)、当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来1250年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。
これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。
公園は80メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった墓壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高6.45mの吉備公の銅像を安置し、周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。

この地にはこんなのもあるようです。

吉備大臣宮
遣唐使として中国に渡った吉備真備を祀る神社

吉備大臣産湯の井戸
掲げられている説明によれば、
吉備大臣ご生誕の前夜、東の空から明るい光りの尾をひいて一つの星が流れ、御館の西の井戸に落ちました。
そして次の夜、輝くばかりの玉のような男の子が誕生し、御館は歓びにわき、この井戸を「星の井」と呼び、この水で産湯を使われましたので、それからこの井戸が「吉備大臣産湯の井戸」と言い伝えられています。


いろいろ読み進めてると、なぜ二つ同じ時期に真備公園を作ったのか、ワケありです。

国道486号は旧山陽道で、矢掛町には大名行列や皇族の泊る本陣があった。
昔はこの山陽道まで海が迫ってて、海岸線に沿った道だった。

こういう事実に加え、ハーブで面白いこと発見。
2010年秋 幻の日本薄荷の発見 ☞ こち



矢掛町内の河川敷で日本薄荷が大量に自生している場所が発見されました。40年ほど前まで、岡山県南部は日本薄荷の一大産地でした。しかし海外産や化学合成メントールにその市場を奪われ40年前、矢掛町内での栽培農家は全くいなくなり、日本薄荷は完全に絶えてしまったと思われていました。

中略

薄荷は遠い昔中国から伝来したという説があるのと、矢掛は遣唐使「吉備真備」に由来がある地とされていることと…



個人的見解としては、真備さんのふるさとは矢掛かな。


吉備真備さんの御両親
父:下道圀勝、
母:楊貴氏または倭海直男足の娘・髪長支姫

お父さんの国という漢字がむつかしい圀
お母さんが楊貴氏。

祖母は道昭に続き、日本で火葬で荼毘に付されたと聞くとへぇ~です。

道昭は、700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付されたのです。

それからわずか2年後、702年12月22日に持統天皇が崩御され翌年火葬。
さらに6年後、708(和銅元)年に亡くなった吉備真備の祖母も火葬で、立派な骨蔵器まで作って埋葬しされてました。



江戸元禄年間、岡山県小田郡矢掛町東三成の山腹から銅製の骨蔵器が発見されたが、その蓋の表面に文字が刻まれていて、吉備真備の祖母の骨蔵器であることが判明した。

参照元:お墓の歴史




第44代 元正天皇が未婚だったそのワケは、

2018-08-12 | 古代史のミステリー


2017年が養老に改元されて1300年だったので、養老町では大々的にキャンペーンされてたようです。
養老の滝に重ねて描かれた元正天皇は美貌だったという伝承に基づきます。

万葉集巻二十に採録された歌番号4437は、元正天皇が聖武天皇に譲位されて後に詠まれたものだそうです。

富等登芸須奈保毛那賀奈牟
母等都比等可氣都都母等奈
安乎祢之奈久母
ほととぎすなほも啼(な)かなむもとつ人
かけつつもとな吾を哭(ね)し泣くも

なんとなく愛する人いたんだな、ワケありで一緒になれなかったんだと思わせる歌です。


36歳の未婚で、母であった元明天皇より受け継ぎ、44代天皇に。
体の弱かった弟の文武天皇が25歳の若さで崩御され、まず母が、ついで姉であった氷高皇女が天皇になった時に、すでに皇太子(後の聖武天皇)は元服してたという。

名 氷高皇女
諱 日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこたかみずきよたらしひめ)
天皇在位 715年から724年





この系図ではわかりませんが、
持統天皇も、元明天皇も天智天皇の皇女です。
異母姉妹とはいうものの、母親同士も姉妹でした。

遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)の父が蘇我倉山田石川麻呂、蘇我馬子の子です。

後の持統と元明2人は、母親が姉妹で父親が天智天皇という入り組んだ関係でした。

持統天皇(鸕野讃良皇女)が4歳のとき、母方の祖父である蘇我倉山田石川麻呂が自害します。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足の陰謀により、蘇我倉山田石川麻呂が自害させられ、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の死を嘆き、やがて病死。
そして幼き鸕野讃良皇女は、叔母さんである姪娘に引き取られ、阿閇皇女(後の元明天皇)と一緒に育てられました。

持統天皇、元明天皇の幼き頃からの恨み骨髄しみ込んだ思いはなんだったでしょう。


天武天皇と持統天皇との子、草壁皇子は天皇になる前になくなり、その妻が元明天皇、またもや子供の文武天皇は早逝してしまう。
姉であった氷高皇女は結婚して皇女でなくなったら天皇にはなれないから、独身をつら抜かされた?
氷高皇女の妹吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、やがて長屋王の変で共に落命。
愛する者たちが陰謀に嵌められてどんどんいなくなる…。



拙ブログは昔から旅の記録を書くとアクセス増える傾向があります。
5月下旬に国東半島行った時も確実に500I P 越えて、人々の興味関心にへぇ〜、でした。

ところが、大垣日帰り旅は600越えが続き、養老の滝にまた行きたいと書いたら、
なんと 732!
今までにありえないアクセス数です。

なんとはなしに、元正天皇が知らしめて欲しいと働きかけられてるような気がして。

とりあえず知りえたことを列記しておきます。








帰りのこだまで食べた駅弁は


大垣のお土産は



以上で旅の記録、無事完結。
暑い中、お付き合いありがとうございました(^人^)

霊亀から養老へ★老いを養う若返りの水とムゲツ氏

2018-08-10 | 古代史のミステリー




養老の滝から少し下ったところに養老神社があり、社殿右に菊水泉、水が湧き出してるのがわかりました。

昔は滝とこの水源は繋がってたそうです。






滝から流れる川の左側を歩いてても、万代橋、もみじ橋を渡ると養老神社に行くことができます。
地図の菊水泉へと延びる道は急な階段でした。

養老神社の社標の下に人だかりがありました。


ここでお水を賜ることができて、すぐ際まで乗用車が上がってこれるので、水タンクいっぱい積載されてました。



甘みはあるがクセのない美味しい水でした。

また急な階段参道をあがると


階段上から見下ろすと、左手に水くみ場



社殿前には


そして社殿右横に菊水泉があり、そこで湧き出た水が小川となって下の水くみ場に。



養老孝子伝説

昔むかし、美濃の国に貧しいけれど親孝行な樵が、ある日山に入ったところ、苔むした岩の間から酒の香りのする水が湧き出ていました。
樵は喜び、この水をひょうたんに詰めて持ち帰り、年老いた父に飲ませたところ、この上もない良い酒とたいそうな喜びようです。

この話が奈良の都にまで届くと、時の帝・元正天皇はこの地までお越しになり、この泉の水をお飲みになりました。そして、この樵にごほうびを授けられるとともに、このめでたい年を記念して、年号を「養老」と改められたのです。
この伝説から、この地が養老と呼ばれるようになりました。


養老の滝を出発するまでに間があったので足をつけて涼んだ。











『続日本紀』によれば
霊亀3年(717)8月、多治比眞人廣足を美濃國に派遣し、行宮を造らせた。(→現在御旅所になっている)
同年9月、元正天皇は美濃國へ行幸。當耆郡に至り、多度山の美泉(菊水霊泉)に接した。10日間滞在。

同年11月、靈龜から養老への改元の詔があった。
朕は今年九月、美濃國不破行宮へ行き、數日間留まり、當耆郡多度山の美泉に接し、手面は皮膚が滑らかになった。また痛い箇所につけるとなくなる。また、この水を飮む者は白髪が黒く戻り、髪がない者は生えてくる。目が見えない者は見えるようになり、歯痛は治る。老いを養う水の精である。
昔の事と聞いているが、後漢の光武帝の時、泉が湧きだし、これを飮む者は、皆病気が治ったとある。
天下の80歳以上の老人には、物を賜り、位を授ける。孝行を尽くす子を表彰する。
元正天皇は、翌年にも美濃國の泉に行幸している。



自ら飲浴され「老を養う霊泉」と元号を養老と改められました。
養老山地から湧き出るミネラルを含む水は、世の中をくくり結び、病に効く「菊水泉」と名付けられ、昭和60年に日本の名水百選に指定されています。


平安時代に編纂された令(法律)の式(その施行細則)のなかの、『主水司(もといりのつかさ)式』の条文に
「宮中または京内の井戸一か所を選び、牟義都首(むげつおびと)がその井戸を清め、立春の夜明けにその井戸より若水をくみ、主水司がこれを天皇・皇族に献上する」


元正天皇は、養老の滝への行幸の際にもムゲツ氏を帯同させ、その後も水の祭祀を任せていたそうです。
立春の暁に若水をくむ宮中の年一度の「主水の祭事」にムゲツを名乗る人物がその主役を勤めていたのは、なんでだろう。



水とかかわりの深い氏族だったムゲツ氏。

「ムゲツ」は、「身毛」「身毛津」「牟義都」「牟宜都」といろいろ表記されるがいずれも「ムゲツ」


1年ほど前にこのことを知った。
2017-09-29 不思議を追ってたら 向こうからやってくる…

あれ以来、養老の滝へいけば、ムゲツ氏の尻尾捕まえられるかとずっと行ってみたかった。

今回滝見て気持ち良かった、水は美味しかった、
でもそれ以外の深いところはさっぱり?だった。
追っかけのテーマ見つけれて楽しみ増えました。


7/25に発生した台風12号のコースと菅原道真公太宰府への道が似てるよ

2018-07-29 | 古代史のミステリー


7/28夜伊勢の鳥羽に上陸し、
御杖とか古代の伊勢街道通過して夜中の報道では不安をかきててました。

雨風の音で目が覚めて、TVつけたら






これを見て、昔の室戸第二台風を思い出し、3階の窓のシャッター閉めて、バケツに水張ったりした。

そのうち寝てしまって、朝目が覚めてコース地図見たら大阪直撃してた。
どうりで雨風強かったはずやね。




その後、神戸、明石、岡山、広島、防府、周防灘に出て北九州へ。

菅原道眞公が太宰府への左遷になった時の行程に似てるのではないかと思えて調べてみた。




やっぱりね ^_−☆


菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の例を元にした旅程に沿って航路を記したブログから頂戴してきました。
詳しくは ☞ そのブログ



天渟中原瀛真人天皇と宗像

2018-06-30 | 古代史のミステリー

沖津宮遥拝所拝殿の前で説明を受けます。
中央の扉を開けて、背面の窓を開けた先に沖ノ島が見えると。



鳥居を後ろから見るとひびが入っているのがわかります。
2005年3月の福岡県西方沖地震の爪痕でした。

石灯篭には難しい漢字が彫ってあります。





宗像大社沖津宮遥拝所で、ガイドさんが説明してくださった中で一番気になったのが
沖津宮の沖という字は、「瀛」

天武天皇の和風諡号にその漢字が使われています。
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはら おきのまひとのすめらみこと)
妃の一人に、胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を産んでいます。

大海人皇子(おおあまのみこ)は知ってても、
天渟中原瀛真人天皇は知らんかった。

ネット情報によれば

「瀛」は道教における東方三神山の一つ。
秦の始皇帝が不老不死の薬をもとめて、徐福に命じ蓬莱、方丈、瀛州へ行かせたという。
その瀛州は済州島のことで、1950年代まで朝鮮語を話す韓民族ではなく、一貫して耽羅(タムラ)という独立国であったようです。

「真人」は道教の中で特別な名前
八色の姓の一つ最高位の姓で、天皇の親族にのみ与えられた位。

道教と儒教、神道と仏教、入り混じってるだろうし、現代の私たちの発想と違うかもしれません。






神功皇后の新羅遠征(363年)には、
「松浦の君」が唐津から、「胸肩の君」津屋崎か神湊から、軍団の長として両方の進軍があったと考えられています。

649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進され、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていた。

ところが、神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、
300年後の663年百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していない。
大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って唐・新羅軍に大敗。

中大兄皇子は、水軍の指揮を安曇比羅夫に任せ、唐津から壱岐島経由で進軍したようです。
比羅夫は白村江で戦死しています。

白村江の戦いでは、宗像から沖ノ島経由ではなく宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。


いっぽう天武天皇は、胸形君徳善の女・尼子娘をめとって、「瀛」の字まで諡号に入るぐらいなので、宗像大神とは非常に強いつながりがある。






ゲルマン民族大移動の4世紀は、東アジアだって緊迫してたことでしょう。
日本古代史も謎の4世紀です。
それから月日は流れ、645年大化の改新と習いましたが、
天智天皇と天武天皇、学校で学んだ歴史ではあかされていない深いワケがありそうです。



宗像大社に、西海鎮護・航海守護だけでなく、国家の命運祈ってたから、海の正倉院といわれるぐらいお宝いっぱい残されてるのでしょう。


両子寺は子授けの寺で、両所権現って?

2018-06-04 | 古代史のミステリー


童こけしのようなシルエットがくり抜かれてます。
不思議な形の絵馬ですね。
なぜこういう形になったかを聞くチャンスなかった。








本尊が不動明王の護摩堂にあげていただいて、皆さんご一緒に般若心経唱えました。
両子寺のお坊さんから由緒や独特な子授け祈願のことを伺いました。

その申子子授け祈願袋と趣旨はこちら
まるまる引用コピペさせていただきます。

子宝にあやかりたい人は、必ず、夫婦同伴の上、午(うま)の日に袋と供物と祈願料を添え、参拝するなわらしがある。
即ち、33枚のハギレ(8~10cm四方)を集め、一針ごとに真心を込めて、裏地 ・ 底をつけた袋を作成し、米一升三号三勺(2.2kg)と12把の線香、12本のローソク、御酒(一升)をお供えし、祈願をうける。
また、願成就された方は、毎年かならず一度は子供と参拝する。殊に旧暦初午大祭は、昔から大変な賑わいで有名である。

※子供を産んだことのある32人の女人からハギレをもらい、自分の一キレを加えて33キレで巾着袋を作る。
大きさは米が一升三合あまり入る程度。袋の内側には裏地を付け、その裏地に夫婦の住所、名前を書くこと。

◆毎月午の日が祈願日で、時間は原則として午前中です。
◆祈願を受ける方は、必ず予め連絡してご来山下さい。
(祈願当日でも電話連絡をしてください)
◆奉納金 18,000円
◆祈願の代参はできません。必ず本人同志で参拝ください。
◆詳細はお電話等でお尋ねください。TEL 0978-65-0253






足曳山両子寺は六郷満山中山本寺にあたります。
山岳修行の道場で、六郷満山峯入の最後の結願法要が行わるのが両子寺です。

まだ体力残ってる人は、さらに上の奥の院めざしましょうと16:15頃出発。


山門入口の仁王像は勇壮で立派でしたが、この奥の院への仁王像は国東半島で最古だとどこかで見たような。









奥ノ院の現在の本殿は、1846(弘化3)年 杵築藩の松平親良の寄進によるもの。
十一面千手観音と両所大権現が祀られています。



左手に、子授け祈願の巾着袋がありました。


奥の院本殿は、大きくせり出した岩の下に建てられていて、左手に裏の洞窟への入口があります。





岩から染み出る霊水は見ただけでいただきませんでした。
砂とか混じってたし…




絵馬中央に十一面千手観音、
左右に両所大権現はこの両子山に降臨なさった神々でしょう。

どんないきさつでここに来られたんだろうと気になり調べてみると、滝沢馬琴の「豊後国両子寺大縁起」と「両子寺畧縁起」がヒット。
両子寺54世豪円師の請いによって1815(文化12)年に書きあげられ、原本は早稲田大学図書館に保管されているそうです。


六郷山両子寺大縁起 荏土 瀧澤解撰

豊後國國埼郡六郷山足曳の両子寺は、仁聞菩薩の開基にして日域最初の台教たり、
葢惟れば、人皇四十六世の聖主元正天皇の養老二年戌午の秋八月、法華序正流通の三段に分たる、
三山凡廿八ヶ寺九十九ヶ所の精舎靈崛悉皆落成せり、
葢開山仁聞大士は、震旦にては陳氏の皇孫、我朝にては應神天皇八幡大菩薩の権化たり、
唐山陳の武皇帝は姓は陳氏名は覇先、はじめは梁の参軍たり、
?軍功あるをもて梁の將相に拝任せられ、禪を受位に即き高祖武帝と尊號せらる、
帝微賤かりしとき一女ありて男子なし、そのおん女僅に7才、日輪口中に入ると夢みて忽地に懐妊し、
七年の後安らかに男子を出産し給ひけり、
その兒生るゝ時に當りて奇異甚多かりければ、祖父はいたく忌嫌ひて竊にこれを棄たりける、
是よりして彼の兒は民間に生育ものから、幼少にして大志あり、年四才にして身長四尺、
十三四歳の童子にまして、聡明叡智いふべうもあらず、
常に日輪を拝しつゝ竊に天朝を景慕して、投化の情愿ふかければ、
漫に濱邊に迷来て商船の底に隠れ、萬里の渡海輙くも大隅國銚子の浦磯の岸にぞ着給ふ、
實に欽明天皇の十六年乙亥の秋八月、唐山は梁の天子敬皇帝の時にして紹泰改元の時に丁れり、
かくて彼此の浦人等は、投下の童子が異なるさまを怪しと思はざるものもなく、
その来歴を尋れば、神童答へて、われは、是梁朝にては陳氏の子たり、
この土にしては第十六主譽田天皇の後身なり、
素より朕が神靈は豊前豊後に迹を垂れ、百王鎮護国家安泰異敵降伏の本願を果さんと思うのみ、
われ嘗て震旦の天台山を景慕して生を彼土に攀しかば、不?學して戒定慧の三學を相承し、
生まれながらにして台教の淵源に泝りて、神釋二教成就せり、
けふよりしてわが名をば八幡麻呂と唱ふべし、
しかれども時なほ早かり、豊後の國崎に一座の山あり、
われ且彼處に山居して時の来つるを待つべき也、
今よりして彼嶽を両子山と唱へよかし、
両子は即わが神靈一體分身して垂迹を神釋二教に示すの義なり、
夫神道と佛法は一腹雙生の両子の如く、これを分てば異なれ共、これを寄すればいづれを兄孰を弟と決めがたし、
或は又葢匣の義なり、(後略)


引用元は ☞ こちらのブログ



この記事書いてたら2回も消えたので、firefox やめて 
自動保存された原稿残ってるうちに chrome に変えて投稿します。

ひょっとして核心ついてるのかも、ね。


二礼四拍手一礼の宇佐神宮でみたあれこれ

2018-05-29 | 古代史のミステリー


宇佐神宮の境内図です。
団体での限りある時間で先達さんの後をついて歩きながら、目に留まったものを撮影したあれこれ画像を貼り付けておきます。

このブログ内の検索で、「二礼四拍手一礼」で見ていただくといくつかの記事がヒットしますが、弥彦神社参拝記録で以下のように書いてます。

「あとその他に、弥彦神社がちょっと違ってることは、
二礼四拍手一礼
出雲や宇佐と一緒ですね。
私の大好きな、富田林の美具久留御魂神社もそうです。」

なんかご縁があるのでしょう。

八幡神については、ご参考までに数あるサイトの中から一つだけでもお知らせしておきますので、そちらなどでご覧くださいね。

八幡神の謎




大きな鳥居くぐって参道を進むと池の手前で左手に道を挟んで、左立て札:大尾神社・護皇神社(神さまと仏さまが最初に出会った宇佐の記事で画像あり)、右にこの立て札ありました。
地図見たら、その境内社はのってないのです。
調べたら頓宮と書かれたところにあるようです。

でも頓宮とは、頓宮(とんぐう)は仮の宮、一時的な宮のこと。「頓」の語は休息して留まる、仮の宮の意。
石清水八幡宮にも鳥居入ってすぐに頓宮あり、秋の重要な儀式が行われる場所です。

いろいろ深い意味がありそうです。

宇佐神宮のそれぞれの説明は→ こちらで





黒男神社は、大鳥居の手前にあります
武内宿禰が祭神なので、堺市の開口神社のご縁もあるのでちゃんとご挨拶してきました。



八坂神社、弥勒寺跡の前にありました。








御祭神 一の御殿 八幡大神(応神天皇)
    二の御殿 比賣大神(ひめおおかみ)
    三の御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)

神代に三神の比賣大神がご降臨になったこの宇佐の地に 約千四百年前の欽明天皇三十二年 応神天皇の御神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地を巡幸後この亀山にお鎮まりになりました のち弘仁十四年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし三殿の後鎮座となりました。






祭神は、
応神天皇の子にあたる大鷦鷯命(おおささぎのみこと:仁徳天皇)大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(こばえのみこ)、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)、雌鳥皇女(めとりのみこ)

六郷満山開山1300年にあたり、国重要文化財である若宮御神像5躰が初公開されてたそうです。
4/25-5/7で終了し、またもや人の目にはふれることのないとこにおられます。