秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

天渟中原瀛真人天皇と宗像

2018-06-30 | 古代史のミステリー

沖津宮遥拝所拝殿の前で説明を受けます。
中央の扉を開けて、背面の窓を開けた先に沖ノ島が見えると。



鳥居を後ろから見るとひびが入っているのがわかります。
2005年3月の福岡県西方沖地震の爪痕でした。

石灯篭には難しい漢字が彫ってあります。





宗像大社沖津宮遥拝所で、ガイドさんが説明してくださった中で一番気になったのが
沖津宮の沖という字は、「瀛」

天武天皇の和風諡号にその漢字が使われています。
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはら おきのまひとのすめらみこと)
妃の一人に、胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を産んでいます。

大海人皇子(おおあまのみこ)は知ってても、
天渟中原瀛真人天皇は知らんかった。

ネット情報によれば

「瀛」は道教における東方三神山の一つ。
秦の始皇帝が不老不死の薬をもとめて、徐福に命じ蓬莱、方丈、瀛州へ行かせたという。
その瀛州は済州島のことで、1950年代まで朝鮮語を話す韓民族ではなく、一貫して耽羅(タムラ)という独立国であったようです。

「真人」は道教の中で特別な名前
八色の姓の一つ最高位の姓で、天皇の親族にのみ与えられた位。

道教と儒教、神道と仏教、入り混じってるだろうし、現代の私たちの発想と違うかもしれません。






神功皇后の新羅遠征(363年)には、
「松浦の君」が唐津から、「胸肩の君」津屋崎か神湊から、軍団の長として両方の進軍があったと考えられています。

649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進され、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていた。

ところが、神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、
300年後の663年百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していない。
大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って唐・新羅軍に大敗。

中大兄皇子は、水軍の指揮を安曇比羅夫に任せ、唐津から壱岐島経由で進軍したようです。
比羅夫は白村江で戦死しています。

白村江の戦いでは、宗像から沖ノ島経由ではなく宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。


いっぽう天武天皇は、胸形君徳善の女・尼子娘をめとって、「瀛」の字まで諡号に入るぐらいなので、宗像大神とは非常に強いつながりがある。






ゲルマン民族大移動の4世紀は、東アジアだって緊迫してたことでしょう。
日本古代史も謎の4世紀です。
それから月日は流れ、645年大化の改新と習いましたが、
天智天皇と天武天皇、学校で学んだ歴史ではあかされていない深いワケがありそうです。



宗像大社に、西海鎮護・航海守護だけでなく、国家の命運祈ってたから、海の正倉院といわれるぐらいお宝いっぱい残されてるのでしょう。


5 コメント

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Unknown (aoi)
2018-06-30 21:02:37
沖ノ島を中心の地図いいですね。
自分が三姉妹だからか宗像三神が気になります。大島の中津宮は三姉妹の真ん中で気が強いかもw、船が揺れてひどい目に遭いました。
宗像の友人宅から玄界灘を朝眺めたことがありますが、ここが邪馬台国なんじゃないかと思ってしまうような景色でした。
韓国と日本、近いですね。
歴史から消されていることもいっぱいあるでしょうね。

日本はここから始まったのかなw
(その前に縄文時代がありましたね)
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Unknown (めねふね)
2018-07-01 03:15:10
日本から見れば、韓国の世越号沈没は沖ノ島の事象といえます。おなじ北緯34度14分だし...。
あの船、済州島に向かってましたが、宗像は済州島とのつながりがむちゃ深いです。
2014年4月16日にあの事故。
2014年6月6日に古代宗像が祀った荒ぶる七夕姫の姫古曽神社火災。
2014年7月15日に志登神社火災(安曇系)。
これで、宗像大島をふくむ水蛭子のうみの十字が完成。
熊本大地震も4月16日でした。

神功皇后の遠征の主力は安曇です。
将軍はのちに応神朝の大和水軍を率いた安曇大浜かその父親。
神話的には安曇磯良ですが。
バックアップしたのは住吉大神と志賀大神。
宗像大神は表には出ないあの遠征の黒幕的存在だったと思います。当時から稼いでたので。

安曇が軍事外交。宗像が交易。
おかげで大和の豪族よかセレブ。
白村江の将軍が宗像ではなく安曇なのもそういうことです。
のちに絶体絶命の足利尊氏を攻勢に転じさせたのも、宗像の財力だったと思います。
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aoiさんへ (ulala)
2018-07-01 11:15:34
宗像に友人いらっしゃるのですか。
伊勢志摩に弥彦に山王、どこも聖地パワースポットにご縁がありますね。

この記事でアップした沖ノ島中心の地図、興味深いでしょう。
宗像の道路地図に載ってたのを撮影しました。
対馬と沖ノ島を結んだ横の線を本州の山口県に伸ばすと、おそらく土井が浜遺跡あたりです。
もっと広域で見て、島根鳥取沖の隠岐の島もどのあたりか確認したいです。
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めねふねさんへ (ulala)
2018-07-01 11:28:37
昨夜は、フランスとアルゼンチンの試合見てたら寝てしまいました。
ところがこの記事のことが気になってたようで夜中目が覚めました。
寝ながら考えてたみたいです。
まず、記事タイトルを変えよう、と。

沖ノ島は瀛津宮と認識されていたということは、東方三神山の一つ「瀛州」は済州島でもあり、沖ノ島でもあったに違いない。
となると、天武天皇の出自も瀛州の可能性あるなぁ~なんて、ぐるぐる。
そしたらめねふねさん、コメントくださってびっくりでした。

沖ノ島中心の地図では載ってないけど、済州島はどこに在り、どうつながってるんだろう、調べてみようと思ってたのでした。
なんと緯度が一緒でしたか。

ひとつ前の記事で、九州オルレのトレッキングコースの目印である馬標識画像載せました。
あのオルレという単語は、済州島の路地歩きみたいなのが発祥だと聞きました。
九州では、宗像大島コースが第一号の認定らしいです。
「オルレ」で感じた、済州島と沖ノ島は関係あるかもという直感は当たってましたね。
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書紀による宗像神出生神話 (ulala)
2018-07-01 11:34:42
宗像市史 通史編第二巻 平成11年より

(A) 『記』・『書紀』 本文
(B) 『書紀』 第一・第三の一書
(C) 『書紀』 第二の一書
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(C)遠瀛(おきつみや) と中瀛(なかつみや) の表記をもつ

(B) は女神の降臨を述べ、葦原中国での任務について第三の一書は、「葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。 今、海の北の道の中に在す。 号けて道主貴(ちぬしのむち) と曰す」 と単に所在場所と名称を伝えるに止まっているが、第一の一書は「道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」 とあるように天孫が強調され、一段と王権のイデオロギーが前面に現れているのである。

更に注目されるのはオキツシマヒメのオキに「奥」 ではなく「瀛」 の字が使用されている点である。
瀛の字は『書紀』 では極めて限定された文字で、使用例は二神誓約の段以外では日向神話の海宮遊幸の段の「瀛風」 (おきつかぜ)、孝安天皇の母の兄の尾張連の遠祖「瀛津世襲」 (おきつよそ) の名と天武天皇の和風諡号 (しごう) 「天渟中原瀛真人」 (あめのぬなはらおきまひと) のみである。
瀛は音はエイで、海や大海原の意味があって、これらの神話での使用内容や天武が大海人皇子といわれた点からは妥当な用字ともいえる。
しかし、瀛は道教では東海中にあって神仙が住むという蓬莱・方丈と並ぶ三神山の一つの意味があり、真人も道教では悟りを開いた人のことをいうのである。
このように瀛に道教的要素が強いことを勘案すれば、その確実な使用は天武天皇の和風諡号にあるといわねばならず、『書紀』 神話にみえる瀛の字は天武朝=7世紀後半以降の使用と考えることができる。 

ココまで 引用元
http://s.webry.info/sp/44051510.at.webry.info/201409/article_4.html
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