北浜界隈でもう一箇所訪れた場所は船場の道修町(どしょうまち)にある少彦名(すくなひこな)神社。
江戸時代からめんめんと続く薬屋さんの町です。
ビルの間に参道入り口注連柱(しめばしら)が建ってます。
見落としてしまいそうな狭い参道です。
社殿で勇壮な張子の虎が、神農さんの隣にいます。
この張子の虎の由来は、以下のように記されています。
1822年(文政5)秋、疫病(コレラ)流行して万民大いに苦しむ。
日本での第一次流行で、3日も経てば亡くなるので三日コロリと言われました。
虎や狼が一緒にやって来るような恐ろしい病気として「虎狼痢」という文字が当てられたそうだ。
1858年(安政5)の第二次流行のとき、適塾の緒方洪庵も『虎狼痢治準』という本を出しています。
当時は細菌学もなくコレラの治療など分かっていなかった。
疫病除けとして「鬼をさく」といわれる虎の頭骨など10種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬をつくり、効能書に1粒包んで、初めは100人と限って施楽した。
病名も丸薬の名も虎に関係があるため、それに因んで「張子の虎」がつくられました。
これを五葉笹(枝分かれしない1本の笹で、節の所から5枚ずつ葉が出ているのが特徴)につるします。
神前で祈願したしるしに、虎の腹部に「薬」の文字が朱印され病除け御守りとして授与されるようになったそうです。
少彦名神社に、なぜスクナヒコナと中国の神農さんがお祀りされているのでしょう。
「道修町文書」に書かれているのをかいつまんでみます。
江戸時代、長崎に輸入された唐薬種(漢薬)を一手に扱う道修町の薬種中買仲間の人たちは、薬の真偽・品質の鑑別が非常に難しいということで、神様に日々お祈りしながら任務を遂行していた。
中国の医薬の祖とされる神農氏の像や掛軸を床の間に祀っていた。
炎帝・神農氏というのは、中国古代の伝説上の三皇五帝の一人で、
「百草をなめて一薬を知る」というように身をもって薬草を試された方です。
一方、道修町薬種中買仲間では、1733年(享保18)有志が「伊勢講」を結成して伊勢神宮に毎年参拝し神のご加護を祈願していた。
その後、和薬種(国産薬)の取扱量も増加してきたので、
1780年(安永9)京都松原通りの五條天神宮から、わが国の薬の神様といわれる少彦名命を仲間寄合所(現在の神社の位置)に分霊を勧請し以前から祀っていた神農氏と合祀した。
これが少彦名神社の起こりです。
なぜスクナヒコナは薬の神様なのか、
ネットで検索すればするほど、とても興味深い不思議な神様です。
天羅摩船(あまのかがみぶね)に乗って海からやってきた。
大国主命と共に列島中の山や丘を巡り、国づくりにはげんだ。
作業半ばにして熊野の突端から常世の国に帰った。
羅摩ってガガイモの漢名らしいけど、
羅摩でググってみると一番最初に「鳩摩羅什」がでてきました。
かがみと読むより、ラマとかローマって読んだほうが普通だと思うんだけど。
インド洋あたりから渡ってきた海洋民族だという説も見た。
かがみの音を優先すると、鏡の船、鏡を配った船という説もある。
あるいはこの船は地球外生命体の未確認飛行物体だったなんてのも。