2月4日午後1時半から京都山科にある京都刑務所の視察研修の予約を入れてました。
午前中どこ行く~ということで、研修部としてツアコンを務めるにあたり、
伏見大社か北野天満宮で悩みました。
大型バス駐車場からの距離が決めてとなり、北野天満宮へ案内することになりました。
この2ヶ月保護司会の団体旅行の準備に追われてました。
無事終了し、やれやれです。
この立春の日は初午でもありました。
2月最初の午の日に詣でることを
初午詣といいますが、おもに稲荷社の祭です。
和銅4年(711年)稲荷大神が初めて稲荷山に鎮座した日が、
2月初午の日であったと伝えられることに因む伏見稲荷大社の初春第一の祭です。
平安時代の初めにはすでに習慣となってにぎわっていたようです。
それがなんで、この北野天満宮の地主神社で執り行われるのでしょうね。
「
筋違いの本殿」
先の記事、北野天満宮の7不思議の一つです。
13番の楼門(南門)をくぐった正面に、2番の地主神社があります。
菅公を祀る本殿はやや西よりに位置しているのです。
地主神社は北野天満宮御鎮座以前の承和三年(836)に祭られており、
天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて建てられたためである
と公式サイトに記載されています。
初午祭の途中でした、ラッキー。
主祭神の天神地祇(てんじんじぎ)は、日本国内六十余国に祀られたすべての神々のこと。
承和3年(西暦836年)2月1日遣唐使のために天神地祇を祭られたのですね。
Wikiによれば、地主神社とは、
神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。
神社の境内に末社として建てられている場合や、寺院に隣接して立地している場合がある。
寺院に隣接している地主神社は、本来は隣接する寺院の一部であったのが、
明治の神仏分離で独立した経緯のあるものがほとんどである。
地主神社の右に見えてた鳥居です。
境内図には4番明月舎と書かれてる上あたり
【
文子天満宮】
菅原道真公は失意の中で大宰府で生涯を閉じましたが、
その後京の都は疫病などの災厄が流行し道真公のたたりであると人々は恐れました。
942年(天慶5)右近七条坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女の巫女に
道真公の神霊より「わが魂を右近馬場に祭れ」とのお告げがありました。
文子にはとても右近馬場にお社を建てる力がなかったので、
とりあえず自宅に小さな祠を建て道真公の御霊をお祀りしました。
それが何度か移転して現在の境内の「文子天満宮」であり、北野天満宮の発祥といわれています。
文子天満宮には、道真公が祀られ、文子さんが祭られているわけではありません。
楼門左側には
東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ