魚三楼での予約は12時に入れてありました。
守口駅9:16の快速急行に乗ったら、中書島には30分あまりで着きました。
伏見桃山駅降りてすぐのところにある魚三楼までは、線路が弧を描いているのでそれほど距離はありません。
10時に寺田屋入場観光
10:30キザクラカッパカントリーで黄桜を見ながらビール
11:10月桂冠大倉記念館で復刻吟醸酒の試飲
11:45には魚三楼に到着。
まだ少し時間があったので、すぐ近くの御香宮(ごこうぐう)神社へ行くことにしました。
重要文化財の表門は伏見城の大手門を移築してあるそうです。
本殿は1990年(平成2年)極彩色の彫刻を施した豪壮華麗な桃山様式を復元されてます。
祭神は神功皇后なので安産の神として広く信仰を集めています。
そのため宮参りなどの着飾った参詣者をたくさん見かけました。
いまだかって初詣やお祭り以外でこんなににぎあう神社を見たのは初めてです。
伏見は「伏水」とも書かれたほど上質の伏流水に恵まれ、「伏見の七名水」をはじめとする名井が点在しています。
京都盆地の地下には琵琶湖の5分の4ほどの地下水があるそうです。
500mlの空のペットボトルをあらかじめ用意していったので、
最初黄桜で「伏水」を詰めさせてもらいました。
でも、千数百年前に湧き出たと伝えられる御香宮神社の清泉は「日本名水百選」にも選ばれています。
「御香水」のほうがご利益あるような気がして、入れ替えさせてもらった。
御香宮神社宮司・三木(そうぎ) 善則氏は次のように述べられています。
三木をそうぎと呼ぶなんて初めて聞きましたが、由緒ありそうですね。
「伏見は水とのゆかりが深く、湧き水が田畑を潤し、古くから農業が盛んな土地でした。
当社は生命が生まれる森を御神体とした御諸神社と呼ばれていましたが、
当社の縁起書によると貞観4年(862)境内にある椎の木の根元から香りの良い水が湧き、飲むとたちまち病気が治ったため、清和天皇より御香宮の名を賜ったとされています。
また弘仁年間に福岡の香椎宮に仕える童女の夢枕に安産守護の神として名高い、神功皇后が立たれ、御霊を京都に祀れば争乱が治まるとのお告げがあったことから、この地に御霊を移し、御香椎宮から御香宮になったと伝える文献もあります。
豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に神功皇后の御神徳にあやかろうと太刀と願文を献じています。
伏見城築城後は城下町や宿場町として多くの人が伏見を行き交いました。
また伏見は、徳川家との縁も深く、徳川家康が住み、徳川御三家はこの地で生まれ、当社の御香水を産湯に使われました」
その昔、巨椋池を南に見下ろす位置にあった伏見山(木幡山とも言う)は、伏見の神奈備(神霊が鎮座する山や森)で、この神の宿る山を御室山、そこに祀られた神社を御諸(みもろ)神社といって、これが御香宮神社の前身です。
862年(貞観4年)神功皇后の廟である筑紫の香椎(かしい)宮から、祭神(神功皇后)を伏見の御諸神社へ勅令をもって勧請したころから、御諸神社の「御」と香椎宮の「香」をとって「御香宮」と呼ぶようになりました。
御香宮神社が、「安産の社」として信仰をもっているのは、神功皇后が新羅から筑紫へ凱旋のとき応神天皇を無事出産したことに由来しています。
また筑紫の香椎宮は、神功皇后の霊廟として、外敵に対する守護神という特別の信仰がありました。
元寇の時の後宇多天皇や、朝鮮侵攻の時の豊臣秀吉が御香宮で祈祷を行っているのは、神功皇后の故事にあやかるため。
明治維新の先駆けとなった戊辰戦争も、この地での戦闘等がきっかけとなりました。
伏見奉行所に幕軍が拠り、御香宮は薩摩藩の屯所となって大手筋を挟んで激戦が繰り広げられ、特にこの一帯で起きた戦を「鳥羽・伏見の戦い」といいます。
なにげに訪れた伏見の町は、日本の歴史がぎゅっと詰まった場所だったのでした。