白鵬が先場所13日目に優勝を決めた稀勢の里戦に対する物言いの末に同体取り直しとした審判の判定を批判したことがまだ尾を引いているようだ。
勝負は土俵際で稀勢の里の小手投げにほぼ同時に倒れ、軍配は白鵬に上がったものの物言いがつき、取り直しとなった。だが、白鵬にしたら、優勝がかかっている大事な一番である。もつれて倒れこんだものの、稀勢の里の方が先に落ちた、自分の方が残っていたと見たのだろう。
元横綱・大鵬を抜いて歴代最多33回目の優勝を果たした白鵬の千秋楽翌日(1月26日)の東京都墨田区宮城野部屋での記者会見。
白鵬「なぜ取り直しなのか。子どもの目でも分かる。ビデオ判定は何をしていたのか。悲しい思いがした。
勝てたから良かったけど。取り直しの重みを分かっていない。土俵に上がって髷を結っていれば、日本の魂なんです。みんな同じ人間。盛り上がるどうこうじゃない。命をかけてやってますから」(毎日jp)
「子どもの目でも分かる。ビデオ判定は何をしていたのか」と審判批判と同時に「みんな同じ人間」と民族差別批判をしている。
別の記事の白鵬発言。
白鵬「肌の色は関係ないんですよ。土俵に上がって、髷を結っているのは日本の魂。みんな同じ人間ですから」(産経ニュース)
「肌の色は関係ないんですよ」とまで言っている。
物言いがついている間に「もう一丁」、「もう一丁」と「もう一丁コール」が観客から湧き起こって館内全体に響いた。勝負を決めるのはあくまでもどちらが先に土俵上、あるいは土俵外に落ちたか、あるいはどちらが先に土俵を割ったかの合理的な事実判断に基づくのに対して「もう一丁コール」は白鵬に軍配が上がっているのだから、取り直しで稀勢の里を勝たせたいとする稀勢の里に対する身贔屓からの非合理的な情緒判断に基づいた勝負決定要求となる。
その身贔屓性の勝負決定要求が館内全体に湧き起こった。これを白鵬は肌の色の違い――と言うよりも、日本人力士であるか日本人力士ではないかの違いから生じている差別だと解釈したと言うことなのだろう。
しかしこのような差別観の存在を完全には否定できない。日本人は元々白人に対するコンプレックスと同時に白人以外の人種、特に日本人以外のアジア人種を劣等視する差別観を根付かせている。
このような人種観が時代と共に薄れているとしても、完全には払拭できずに精神の底に澱(おり)のように澱(よど)ませていて、時に触れて顔を覗かす。
白人コンプレックス自体、人種で人間を上下に価値づける考え方に基づいている。大相撲ファンとて、このような差別観を心の奥底に眠らせていないとは決して言えない。外国人横綱不要論なども、外国人か日本人か、人種で横綱となる資格を価値づけようとしているのだから、一種の人種差別に当たる。
2000年3月場所5日目の3月16日に若乃花が引退して以来日本人横綱が不在のままとなっている。要するに21世紀という新時代に日本人横綱は一人として誕生していないことから、大相撲ファンの間に日本人横綱待望論が根付き、それが時として対外国人力士戦に限って日本人力士に対する身贔屓となって噴き出るということは、つまりそれぞれを人種を超えた、白鵬の言葉を利用すると、肌の色に関係なしに力士同士と見ていないのだから、人種差別からの身贔屓と見られても仕方があるまい。
日本人横綱待望論からのこのような身贔屓が親方衆にも根づいていないとは決して言えない。
白鵬の勝負判定批判に対して各方面からその批判を批判する発言や報道が起きた。白鵬擁護論は皆無と言っていいのではないだろうか。
内山横綱審議委員会委員長「スポーツの世界では審判の判断は厳正なもので、白鵬はみずからの未熟をさらけ出している。反省すべきは横綱本人で十分自覚を促したい」(NHK NEWS WEB)
岡本昭審議委員「審判部に言うなら分かるけれど、一般に言うのはおかしい。大横綱がごちゃごちゃ言っては駄目。いかにも誤審のように語るのはいかがなものか」
宮田亮平審議委員「審判の決定は絶対。これを大事にしないといけない。大横綱だから気をつけないと」
北の湖理事長「(審判は土俵下で)5人で見ているんだから、考えて発言しないといけない。審判長(朝日山親方=元大関大受)が『取り直し』と言ったんだから」
批判は〈大偉業が台無しになる、横綱の乱心だった。〉(以上産経ニュース)
「乱心」とはこれはひどい。
白鵬に対する全ての批判発言・批判報道は“批判は許さない”を趣旨としている。
審判の勝負判定が絶対ではないから、ビデオ判定を取り入れたはずだ。ビデオをスローモーションで再生したとしても、そこに差別観が入らない保証はない。日本人力士に対する身贔屓という色眼鏡で見た場合、もう一度の勝負で日本人力士の勝利を期待したい気持が勝負は微妙だという口実を設けて、あるいは場所を盛り上げるために取り直しとしない保証はない。
もし審判の目を絶対とするなら、「審判判定絶対神話」をつくることになる。
白鵬の親方である宮城野親方が1月27日、白鵬と約1時間話し合って今後気をつけるように注意、白鵬本人も反省したということで、宮城野親方はその日北湖理事長に電話で謝罪、元横綱・旭富士の伊勢ヶ濱審判部長にも直接会って謝罪したという。
要するに非は白鵬にあることを前提とした宮城野親方の対応ということになる。
日本相撲協会は白鵬の責任追及はしない方針を示し、これで決着がついたと思った。
ところが白鵬は日本大相撲トーナメントやNHK福祉大相撲が行われた際、支度部屋で髷を結い直すとき壁に向かって座り、報道陣からの質問は一切受け付けなかったという。
白鵬に対して批判一辺倒の姿勢を示した報道にわだかまりを持ったようだ。
こういった白鵬の姿勢にマスコミは「怒りの矛先は報道陣へ」とか、「傷広げる無言の行」とか言って更に批判した。
そして3月場所の初日の勝負を白星で終えた白鵬は支度部屋で報道陣に対していつもと違って満足に口を利かなかったという。
マスコミがまたこのことを取り上げる。
件(くだん)の白鵬・稀勢の里戦を「YouTub」動画のスローモーション再生で見ると、稀勢の里の左肘が一瞬先に土俵外についたように見える。稀勢の里の左肘は白鵬の目の前にあった。
この一瞬の眼の記憶が、「子どもの目でも分かる」という言葉になったのかもしれないが、判定が決まる間起こった「もう一丁コール」に対する苦々しい思いも加わっていたと見ることもできる。
だが、白鵬とて常に絶対ではない。審判も絶対ではないし、絶対とすることは他者の批判を許さないことになって危険である。ビデオ自体は絶対であるとしても、ビデオで判定する人間の目を絶対とすることになって、そこに危険が潜まない保証はない。
判定に不服があるなら、文書で以って審判部に異議申立てを行い、審判部が異議申立て者と共に審議委員や理事長等の立ち会いのもとビデオを再生して、改めて判定を行い、その経緯と結果を文書で以って他の力士にも伝えて、判定が厳正であることを示す民主的なルールをなぜ作らないのだろうか。
プロ野球やJリーグなど、他のスポーツでは不服申請は既に行われている。
大相撲ファンの外国人力士に対する日本人力士身贔屓といった差別観は完全には払拭できないにしても、そのようなルールをつくって、批判に変わる正式な異議申立てとそれに対する新たな判定を積み重ねていけば、身贔屓という差別観の入る余地を限りなく狭めていくことになるはずだし、元々そんなものはないと言うなら、それが存在しないことの証明の機会としなければならない。
組織運営が民主的なルールに基づいて運営されなければならないこの時代にそういった運営方法は取らずに、絶対ではあるはずはない審判部に対する批判は許さないという姿勢一辺倒を続ける報道にしても、相撲協会上層部にしても、横綱審議委員会にしても、幼稚としか言いようがない。