安倍晋三、台湾馬総統、プーチン、習近平、それぞれの歴史の演出とそれを超える創造性が求められている

2015-03-24 05:56:00 | 政治


 安倍晋三は第1次政権時代の2007年8月、3日間の日程でインドを訪問、8月23日に東部コルカタで極東国際軍事裁判(東京裁判)でインド代表判事を務めた故ラダビノード・パール判事の息子やインドの反英独立運動の指導者故チャンドラ・ボースの遺族らと面会している。

 英国の旧植民地インド代表のパール判事は米英、その他連合国判事の中で唯一東京裁判で日本人のA級戦犯全員の無罪を主張した。

 その息子と面会した。亡きパール判事を偲び、敬意を表したのである。いわば息子との面会を通して、パール判事のA級戦犯全員無罪主張を一つの大きな業績と見做して、そのことに敬意を表した。

 当然、亡きパール判事の無罪主張と自身の無罪主張を響き合わせる意図のもと息子と面会したのでなければ、敬意を表する意味は出てこない。

 安倍晋三のA級戦犯全員無罪のみの歴史認識は東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた裁判以外の何ものではないとする東京裁判否定、さらには日本の戦争は侵略でも何でもなかったとする侵略否定につながっている。

 もし侵略だと認めていたなら、A級戦犯全員無罪は成り立たなくなる。A級戦犯全員無罪は侵略否定をイコールとしている。

 要するに安倍晋三はインドという大地に立って、パール判事の息子と面会することで日本の戦前の戦争は侵略戦争ではなかったとする歴史を演出しようとした。

 インドの反英独立運動の指導者故チャンドラ・ボースの遺族らとの面会はさしずめ侵略否定の歴史の演出をカモフラージュすることと、独立運動というものが反支配を動機とし、支配の否定を意味することから、戦勝国の日本の占領の否定の儀式でもあったに違いない。

 そして安倍晋三は戦後70年を迎えて、「安倍晋三70年談話」で日本の侵略戦争を限りなく薄める歴史の演出を試みるはずである。

 だが、このような歴史の演出は単なる一つの方向からの演出に過ぎない。すべての方向からの演出とすることは不可能で、常に相対化の力学を受けて、決して絶対化することはできない。

 台湾の馬英九総統は3月11日、台湾政府が7~10月に実施する「抗日戦争勝利70年」の記念行事について国防部(国防省)で演説したと言う。解釈文を会話体に直すと、次のようになる。

 馬英九総統「記念行事は歴史や戦争の酷(むご)さを若者に理解させ、東アジアが平和を勝ち取ることなどが目的だ。

 当時の中華民国は勝算のない中、80万人の日本軍に抗戦して連合国軍の勝利に大きな犠牲を払って貢献した」(産経ニュース

 記念行事には日中戦争当時の南京大虐殺の証言者とされるドイツ人、ジョン・ラーベ氏の孫らも招待するという。

 これも安倍晋三やその歴史修正主義のお仲間たちの南京大虐殺否定に対する肯定するための歴史の演出であり、演出のためにラーベ氏の孫に登場人物を担って貰うということなのだろう。

 中国は今年9月3日に反ファシズム勝利と銘打った「抗日戦勝70年記念行事」を開く。改めて日本の軍国主義と侵略戦争の歴史が前面に打ち出されることになるはずだ。

 これも中国・習近平による歴史の演出である。

 中国の王毅外相が韓国側に朴槿恵大統領の出席を希望したとマスコミは伝えている。

 プーチン・ロシアも今年9月3日に「対日戦勝70年記念行事」を開く。反ファシズムの歴史の演出となるのは目に見えている。

 いくら安倍晋三が日本無罪、あるいは日本軍無罪の歴史を演出しようと努力しても、常に相対化の力学が働いて、自らの歴史認識を絶対化することは不可能である。

 不可能であるにも関わらず、日本だけを絶対化しよう歴史の演出を試みるのは日本の中だけのこと、コップの中の嵐で終わる。

 一方が拳を上げると、もう一方が拳を上げる。そういった状態が延々と続く。もうそろそろ、不毛であることに気づくべきだろう。それぞれの歴史の演出を超える創造性こそ、求められているはずだが、安倍晋三は一向に気づかない。

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