東京都渋谷区が同性カップルに「結婚に相当する関係」を認めるパートナーシップ証明書の発行を盛り込んだ全国初の条例案を区議会に提出、現在審議中だという。
これに安倍晋三のお友達NHK経営員の長谷川三千子と自民党幹事長谷垣禎一が反対している。両者とも古くからある結婚制度・家族制度に拘っているが、長谷川三千子は主として生殖(子孫繁殖)の観点から同性婚を問題視し、谷垣は結婚は男女間で行われると民法で定める旧来の家族制度の観点から問題視している。
谷垣の場合、古くから存在し、今に伝えられている家族制度であり、それを保守したい観点からの反対ということなのだろう。この反対を突き詰めると、日本人の先祖がつくり出して、子々孫々守り伝えてきた大事な大事な家族制度だとうことであるはずだ。
長谷川三千子の反対論は、《【金曜討論】〈同性パートナー条例〉石川大我氏「平等へのスタートライン」 長谷川三千子氏「結婚に結びつけられない」》(産経ニュース/2015.3.8 12:00) から拝借、谷垣反対発言は「NHK NEWS WEB」記事に拠る。
前者の記事題名の石川大我氏は同性愛者で豊島区議を現在務めているという。当然賛成論者だから、ここでは扱わない。
--同性カップルへのパートナー証明書をどうみるか
長谷川三千子「実はもともと、同性愛を堅苦しく禁じてきたキリスト教文明とは違い、われわれの文化では同性愛についての違和感は薄い。問題は同性愛を結婚という制度に結びつけることにある」
--なぜ問題なのか
長谷川三千子「忘れてならないのは、人間も生物なのだということ。地球上に生物が誕生し、少なくとも5億年前から有性生殖が始まった。もし有性生殖が始まらなければ、生物の進化もなく、人類が誕生することもあり得なかった。われわれは5億年の有性生殖の歴史を背負って生きている。言い換えれば、われわれもまた雄と雌とが一緒にならないと次の世代を生み出せない生物なのだということ。そして、次の世代が生み出せなければ、人類はたちまち絶滅する。この生物としての宿命を制度化したものが結婚制度であると私は思う。それを考えると、同性婚とはまさに生物5億年の歴史に逆らう試みといえるでしょう」
--家族制度を見直すきっかけになるという意見もある
長谷川三千子「むしろ逆に、結婚を認めろと主張する同性カップルには、どうしてあなた方は『結婚』にこだわるのですか、と聞き返したい。家族制度とは何を本質とするものなのかをしっかりと考えてほしい。人間以外の生物は、家族制度などというものがなくても次の世代を維持してゆくことができる。ところが、いわゆる本能の力が衰えてしまった人類は、慣習や制度の力を借りて、かろうじて生物としての存続を維持している。そのことを忘れて勝手に制度をいじったりすると、自然から手痛いしっぺ返しを受ける。実は少子化の問題もここにつながっている」
--渋谷区の条例案の背景には、同性カップルがアパートの入居や病院での面会を断られることがある
長谷川三千子「これは今回の問題とは切り離して考えるべき問題。むしろもっと一般的な形で、身寄りのない友人同士が同居して暮らしている場合、家族に準じた扱いを可能にするといったことも必要かと思う」
--条例案が可決されれば早ければ夏ごろにも証明書が発行される。制度がもたらす国内への影響は
長谷川三千子「米国では州ごとに同性婚を認めるところが出てきて、これは世界中で一つのはやりになりつつあると思う。先ほど述べた通り、かつてキリスト教文化圏では同性愛があまりにも堅苦しく禁じられていた、その反動があるのかもしれない。いずれにしても、それを追う必要はなく、この条例案が国内へ影響をもたらすなどということにはなってほしくない。男性同士、女性同士の恋愛は少しもかまわない。でも、それは結婚ではないのです」
谷垣禎一「自分は、伝統的な価値観の中で育っており、自分の価値観に従って述べてよいかどうか、非常に迷うところだ。
家族関係がどうあるかというのは、社会の制度や秩序の根幹に触れてくるものだ。仮に法律ができているならともかく、法律ができていないときに条例だけで対応していくことは、社会生活を送る制度の根幹であるだけに、いろいろな問題を生むのではないか」
長谷川三千子は人類は誕生以来、「5億年の有性生殖の歴史を背負って」、延々と子孫を残し、人類を維持してきた宿命にあり、この「宿命を制度化したものが結婚制度であ」って、有性生殖を機能させることのできない「同性婚とはまさに生物5億年の歴史に逆らう試み」だと、「5億年の有性生殖の歴史」を前面に押し出して反対している。
恐れ入る限りである。
当然、長谷川三千子は結婚制度は有性生殖を本質的な目的としているとする絶対認識にあるから、「結婚を認めろと主張する同性カップルには、どうしてあなた方は『結婚』にこだわるのですか」と疑問を呈することになる。
要するに結婚制度を男女同士の独占状態に置きたいということである。
「結婚に相当する関係」を認める条例案の提出ではなく、民法そのもので同性婚を認めたとしても、何も現在の結婚制度を男は男と結婚せよ、女は女と結婚よと同性同士の結婚制度に変えるというわけではない。
主流はあくまでも生殖可能な男女同士の結婚であって、同性婚はささやかな流れを形成するに過ぎない。
小学生の頃、小学校のグラウンドが雨が降った後大きな水溜りができて、水際から棒きれなどで10センチ幅ぐらいの溝を水が流れてくる所まで、それが少しでも長い距離まで流れるように掘って、ほんの僅かな流れでしかなかったが、川に見立てて遊んだことがある。
そのささやかな水の流れが川に変わるわけではない。
スエズ運河を掘っても、パナマ運河を通したとしても、太平洋や大西洋に変わるわけではない。
当然、同性婚を条例であろうと民法であろうと認めたとしても、「生物5億年の歴史に逆らう試み」となるはずはない。結婚制度を根本から覆すようないじり方をするというわけではないから、「自然から手痛いしっぺ返しを受ける」と言うこともない。次の世代を生み出すことができなくなって、「人類はたちまち絶滅する」は頭の中はどうなっているのだろうと疑いたくなる程にあまりにも被害妄想過ぎる。
確かに同性婚の場合は本人たち同士では人類5億年の歴史を背負った有性生殖の役割を果たすことはできない。だが、女性同士の場合はいずれかの女性が第三者たる男性から精子提供を受けて人工授精や体外受精、あるいは代理出産で生殖の役目を果たすことができる。
男性同士の場合であっても、いずれかの男性が第三者たる女性から卵子の提供を受けて、代理出産の方法を使えば、生殖の役目を果たしたことになる。
あるいは有性生殖に代わって養子を取ることで擬似的にその役目を果たすこともできる。その養子が成長して異性と出会いを果たして親の代で一時的に途絶えていた有性生殖を新たに機能させることもできる。
その出会いが、父親と同様の同性との出会いであったとしても、人類5億年の歴史の主流をなすことになるわけではない。
同性カップルが結婚を望むのは「生物5億年の歴史に逆らう試み」といった大袈裟なことからではなく、単に生活上の便宜さからだろう。生活上の便宜さの点で結婚・未婚、何ら変わらなければ、異性同士であっても、わざわざ結婚という形取る意味を失うばかりか、有性生殖の宿命を背負っていくものの、結婚制度そものが単なる形式となって、徐々に意味を失っていくはずだ。
長谷川三千子には同性婚を結婚という形を取る生き方の単なるささやかな一変形と見る心のおおらかさがない。「生物5億年の歴史」を持ち出してまでして同性婚に忌避反応を示した社会的少数者に対する心のおおらかさの欠如は、人間性という点でNHK経営員を務める資格に果たして値すると言うことができるのだろうか。
谷垣が言っていることは、つまるところ、「社会の制度や秩序の根幹に触れてくる」家族関係、家族制度は異性婚の独占とすべきで、同性婚は排除して、伝統的な価値観としてある旧来通りの家族関係、家族制度を守るべきだとする主張である。
そして法律の後ろ盾があって初めて同性婚は可能となると言っているが、この考え方は日本では同性婚を認める民法改正は反対が多くて成立することはあるまいとする不可能性を予定調和とした発言であるはずである。
実際にも現在の自民と党と安倍内閣には伝統的という聞こえのいい口実で古い家族観に囚われた政治家が多くを占めている。そしてこの囚われの延長線上に夫婦別姓反対、離婚後300日以内に生まれた子は「前夫の子」と推定することを定めた民法772条の規定見直し反対がある。
だからこそ、最初に法律改正という形を取れば一度に葬り去ることができるが、各自治体が条例という形で認めていって、それが日本社会を蚕食する形で一般的となって認知されていった場合、最後には法律改正という形を取ることになるかもしれないことを恐れて、条例そのものに反対を示しているのだろう。
谷垣は同性カップルに結婚相当の関係を認めることは「社会の制度や秩序の根幹に触れてくる」と主張しているが、旧来の社会制度や社会秩序を守ることを優先させて、社会的少数者であっても、第三者に迷惑を掛けたり、社会に害をなしたりするのでなければ平等に得る権利を有する個人の幸せに考えが及ばず、結局のところ、その権利を奪う大罪を犯していることになる。
「日本国憲法」は様々な条文によって個人の幸せは国民すべての権利としている。決して社会的少数者を国民であることから除外することはできない。
谷垣は社会制度や社会秩序を伝統的な価値観を基準に把えることはできても、個人の幸せを基準に考えることができない。長谷川三千子にしても同じだが、谷垣とて心のおおらかさとは正反対の狭隘な心性に囚われたまま同性婚を論じている。
社会的少数者の幸せを考えることができずに、ホンモノの政治家の資格があると言うことができるのだろうか。
3月6日の「なんでもワールドランキング ネプ&イモトの世界番付」でドイツ人の父親と5歳の男の子のこんな場面が紹介された。
5歳の男の子が小さい頃からマニキュアをしたりスカートを穿いたり、女の子の格好をするのが好きだった。そんな格好で街中(まちなか)を歩くと変な目で見られることもあるので、父親が男の子のようにスカートを穿いて、子供と手をつないで街を歩くことにした。話題になったのだろう、父親はインタビューに次のように答えている。
父親「彼が望んでいる道を歩んで欲しい。男はこうあるべきだとういう父親ではなく、バレリーナー(男性の場合はバレリーノ)になりたいなら、応援する父親でいたい」
世界中から賞賛の声が届いたという。
このような態度こそが、真の意味での子供に寄り添う父親と言うべきだろう。
谷垣は自身のサイトで、「東日本大震災、被災地を訪ねて」(2012年3月8日)と題して、「政治は被災者の気持ちに寄り添って、より迅速に、より具体的に復興を進めていかなくてはなりません」と言い、安倍晋三にしても何度も何度も「被災者の心に寄り添う」、「国民の幸せな生活のために」と言っているが、二人共古い家族観に囚われた旧来型思考の持ち主である、以上の言葉を社会的弱者の心に寄り添うことができずにホンモノとすることができるだろうか。
安倍晋三のみならず、改めて谷垣と長谷川三千子にニセモノの人間を見る気がした。