小沢一郎を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装は政治家もマスコミももうやめるべし

2012-04-27 10:43:12 | Weblog

 小沢元民主党代表が政治資金規正法違反裁判で無罪判決を受けた。対して自民、公明共に裁判で無罪でも、政治的・道義的責任があり、国会での説明責任を果たすべきだと証人喚問を求める方針を示した。

 自分たちの政治的・道義的責任には毛程も気づかないらしい。

 無罪に対する各政治家のコメントを見てみる。《【小沢元代表無罪】小沢系「当然だ」 野党「説明責任果たせ」 政界コメント集》MSN産経/2012.4.27 00:13)

 小沢氏に近い議員は勿論のこと、無罪を素直に歓迎している。

 田中真紀子元外相「こういう結果が導きだされて感動している。小沢先生にもリーダーシップを発揮してもらい、政治を動かしていただきたい」

 山岡賢次元前国家公安委員長「当然の結果だ。日本の法と正義はきちっと守られるという結果を受けてほっとした」

 自身の正義性に関しては胸を張って間違いなしと言えるのかどうかは些か疑わしい。

 木村剛司(たけつか)衆院議員(小沢系)「(首相が)挙党一致でやりたいなら小沢氏が活躍できるポストを与えるべきだ」

 下地幹郎国民新党幹事長「小沢氏が今まで以上に自由な政治活動ができるようになることで、政界に大きなインパクトをもたらす」

 どっちつかずの印象を与える。

 岸田文雄自民党国対委員長「証拠不十分で無罪になったとの認識だ。政治的・道義的責任は大変重い。裁判を理由に証人喚問を拒み続けてきたから、再びしっかり証人喚問を求めていく」

 彼も「政治的・道義的責任」を言っている。

 茂木敏充自民党政調会長「依然、グレーであることに変わりない」

 麻生太郎自民党元首相「秘書3人が有罪判決を受けたのに、本人は無罪だから私は関係ないということが通るのか」

 町村信孝自民党元官房長官「一人の政治家の裁判で日本国の政治が左右されという構造だけは早く脱却しないと政治が正常に機能しない」

 日本の「政治が正常に機能しない」理由は他にあるはずだ。決して衆参ねじれだけではなく、機能させるだけのリーダーシップを持った政治家が存在しないことが第一番の理由であるはずだ。民主党という党一つ纏めることができないし、自民党という党一つ纏めることができないリーダーシップの不在が蔓延している。

 このことはリーダーシップを満足に備えた政治家がなかなか見当たらないということだけではなく、誰にリーダーシップを託すか、見る目を持たない議員が大勢を占めていることも災いしている「政治が正常に機能しない」状況であろう。

 山口那津男公明党代表「小沢氏の道義的、政治的責任はなお残る。国会、国民に対しきちんと説明責任を果たすべきだ」

 日本の政治の現況に対する自身の「道義的、政治的責任」は棚に上げるご都合主義の発揮となっている。

 渡辺喜美みんなの党代表「民主党内のドタバタ劇がさらに深刻になる。民主党が政党の体をなしていないのなら、早く分裂した方がいい」

 一人民主党だけの問題ではない。日本の政治そのものが「体をなしていない」のだから、全員責任であろう。

 志位和夫共産党委員長「今こそ(小沢氏は)証人喚問に応じるべきだ。土地購入資金の出所、胆沢ダムをめぐるヤミ献金問題など解明すべき問題がたくさんある」
 三権分立。それぞれが対等の関係にあるはずだが、国会を裁判所の上に置く考え方となる。

 福島瑞穂社民党党首「政治倫理審査会で説明責任をたださなければならないが、判決を精査するため一呼吸置くべきだ」

 園田博之たちあがれ日本幹事長「無罪であろうとどうであろうと小沢氏に影響力があるわけがないし、われわれに関係ない」

 無理に過小評価して冷静さを保とうとしている。

 舛添要一新党改革代表「さまざまな曖昧模糊(あいまいもこ)とした国民の疑惑は簡単に払拭できない。無罪判決が9月の代表選に向けて民主党内に一つのマグマを形成することは確かだ」

 「国民の疑惑は簡単に払拭できない」状況に陥れたのは、政治家やマスコミが小沢一郎を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装を演じ続けた成果でもあるはずだ。

 日本の政治や経済、財政、いや、国力そのものを今日の体たらくで劣化させた責任は誰にあるのだろうか。勿論小沢氏も含めた全員責任ではあるが、特に2009年の政権交代まで戦後ほぼ一貫して政権を独占してきた、実体は省益優先(=国民益非優先)の官僚主導任せであった自民党政治、そして最近では自公政治に特に責任不履行の責任があるはずだ。
 
 そして現在の民主党政権が官僚政治から脱却することができないままに責任不履行をそのまま引き継ごうとしている。

 官僚主導政治は、政治遂行の成果次第で政治家自身が選挙で国民からノーを突きつけられて責任を取らされることもあるが、政策の立案と遂行そのもの対しては官僚任せであるゆえに政治家は直接的には自らが果たすべき責任から離れた位置に立つことを可能としている。

 いわば自らが責任を持たないままに政策が立案され、遂行されていく。

 また、官僚自体も国民から選挙で選ばれる関係にはなく、国民に対する責任は持たない。だから、国民に対する責任はそっちのけで、天下り先確保のために独立法人だ、特殊法人だと新しい組織づくりに励み、官僚同士の利益擁護優先の行動を取ることができる。

 政治家は口では国民に対する責任を言うが、実質的には政官共に国民に対して責任を持たないこの無責任な国家体制を戦後一貫して創り上げ、強固にしてきた反作用として日本国家自体を劣化せて置きながら、自らの政治的・道義的責任を棚晒しにして、小沢氏の個人的な政治的・道義的責任を、裁判で決着がついたと見做さずに問おうと大騒ぎしている。

 もし小沢氏にな政治的・道義的責任があるとするなら、先ずは自らの日本の政治全体の現況に対するより大きなな政治的・道義的責任を問うべきだろう。

 自らに対しては問わずに小沢氏の政治的・道義的責任のみを問うのは小沢氏を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装に過ぎない。

 すべての政治家が日本の政治や国家の現況に対しては悪漢の位置に佇んでいるということである。

 マスコミにしても日本の社会の現況や政治の現況に責任を負っているはずである。にも関わらず、自らの責任は棚に上げているばかりか、日本の政治をこのようなザマにした日本の政治家たち、日本の国をかくまでも劣化させた政治家たちの責任不履行、その道義的・政治的責任を問わずに、それを小沢氏に対する糾弾で代償させようとするのは政治家たちやマスコミ自身の道義的・政治的責任に免罪符を与えることに相当し、政治家と同様に自己正義漢偽装を演じようとしていることと同じ行為となるはずである。 

 政治家や官僚やマスコミが寄ってたかって日本の政治や日本の国や日本の社会はかくまで劣化させてきた。

 日本人は日本民族が優れているから、一度手に入れた世界第2位の経済大国の地位を永遠のものだとかつて思い込んだ。だが、中国が日本の超え、今や韓国までもが日本を乗り越えようとしている。

 民族が優秀だから技術が優秀だとするのは幻想でしかなく、単に技術開発が先行したことの結果に過ぎないと、2005年12月20日「市民ひとりひとり」HP記事――《第112弾 人間の利害と社会の矛盾》に書いた。

 〈コンピューターと情報伝達の時代的な加速化が技術開発の時間的速度を従来以上に遙かに高めている。日本の高い技術が到達に要した時間とは比較にならない少ない時間で、経済後発国は技術取得へと突き進み、〝先行〟を相対化し、無化するのは時間の問題だろう。〉と。

 そして中国は日本をほぼ乗り越えていった。
 
 モノづくりはモノマネの技術から入る。自動車を例に取ると、戦後の日本はアメリカの車を輸入し、細部に渡るまで徹底的に解体して、一つ一つの部品の性能を解明、そのマネから入っていって、技術を発展させていった。

 また日本の車が世界に於いて優位性を高めることができた理由の一つは石油採掘の国際石油メジャーの独占から産油国独占による石油価格の高騰という幸運にも恵まれたかだろう。日本は国土が狭く、道路が狭いために小型車・中型車を出発点とし、その技術の積み重ねを主流として発展させていった。

 対してアメリカは大型車を主流としていたが、ガソリンの高騰とかつての経済の勢いを失って、国民の経済状況に応えるために技術の積み重ねのないままに中型車に移行せざるを得なくなり、その間隙を縫って技術の積み重ねによって優れた性能を備えた日本車が入り込むことができた幸運である。

 政治家や官僚だけではなく、マスコミも含めて日本人全体が日本人は優秀だとする無意識下に抱え込んでいる日本民族優越意識を断ち切らなければ、あるいは技術は単に先行しているかどうかの違いがあるのみで、民族性には関係しないことだという認識を持たなければ、日本は現在の様々な劣化状態から抜け切れないに違いない。
 
 先ずは政治家全体が、官僚全体、マスコミ全体が日本の政治や国や社会の現況をつくり出した道義的・政治的責任を自らに問う反省に立つことから始めなければならない。 

 反省に立つことのよって初めて目指すべき大局が見えてくるのではないだろうか。

 小沢氏の政治観を支持しているゆえに身贔屓な記事になったかもしれない。悪しからず。

コメント (1)
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