3月28日フジテレビ放送「ホンマでっか in 沖縄」。環境評論家で中部大学総合工学研究所教授だとかいう武田邦彦(67歳)が司会の明石家さんまを評して興味ある教育論を展開した。
私は大のバラエティーファンで、テレビのバラエティー番組を録画しておいては暇を見つけて何回かに分けて視聴、視聴終了と同時に消去の繰返しを習慣としていたが、その場面をあとで文字化する予定でいたものの、習慣が勝ったのか、歳のせいで認知症の領域に足を踏み込みつつあるのか、文字化せずに番組終了と同時に消去してしまって、後になってから気づいた。
幸いインターネット上にその動画を見つけることができて、文字に起こしたが、声が聞き取りにくい動画で、一部不明の箇所が出てしまった。
出演者全員で沖縄の特産料理に舌鼓を打ちつつ、ゲストの各学者が蘊蓄を傾けるシーンである。
武田邦彦「私がビックリしたのはね、さんまさん、記憶がいいんですよ。それをね、2年ぐらい前に言ってもね、忘れているのかなって思って言うと、ビッと覚えててね。
こういうのはね、多分ね、高校の頃、勉強していなかった子じゃないかと思う」
明石家さんま「そのとおり」
お見事と言わんばかりに間髪入れずに即座に断定。
武田邦彦「(さも当たったとばかりに)ね。
大体ね、高校の頃ね、成績の悪い人というのは、物凄く・・・・」
明石家さんま「すみません。勉強してませんでしたけど、そんなに悪くなかった。勉強しないでできた子って表現変えていただけませんか。申し訳ないけど。物凄いアホみたいに扱ってるけど――」
ブラックマヨネーズ小杉竜一「そういう人はどうなるんですか」
武田邦彦「そういう人はね、非常にね、二つ特徴がある。
一つは記憶力が空いているもんだからね、記憶がビーッと入っていく。そういうのが一つだけど、もう一つはね、アインシュタインが典型的なんだけど、物事をつくるのがうまくなるんですよ。
年取って記憶がいいっていうのは、そうすると、意外なものが、例えばアインシュタインの場合だと、光と電気とか光電効果といのはアインシュタインだけど、そうすると、そういうふうに一見違うように見えるもの、バーッとくっつける」
児玉 光雄(鹿屋体育大学教授、スポーツ心理評論家)「アインシュタイン並みの頭脳を持ってるの?」
武田邦彦「そりゃあ分かりませんけども」
明石家さんま「持ってるでいいじゃないですか。・・・・(聞き取れない)、分かってるんですから」
「そうじゃないのはみんな分かってるんですから」とでも言ったのかもしれない。
要するに、「持っている」と言っても、ウソにはならない。最初からギャクだと受け止めるからということなのだろうか。
武田邦彦は高校の頃成績の悪い人はなぜ記憶力がいいのか、具体的な理由を説明しなかった。単に勉強しない子は記憶が空いているから、「記憶がビーッと入っていく」では脈絡ある理由とはならない。そのような人間を多く見てきて、そういった傾向にあることに気づいた印象からの発言なのかもしれない。
だとすると、印象的統計学とでも名づけることができる。
印象にとどまっているから、原因追求にまで進まないのかもしれない。
レギュラーゲストである教育評論家の尾木ママがその場に居合わせたが、教育論が展開しているにも関わらず、発言に割って入ることはなかった。
日本の教育は暗記教育だから、教師が言ったこと、板書したこと、あるいは教科書に書いてあることをそのままのなぞって記憶する(=暗記する)慣習を植えつけられることになる。
忠実になぞって記憶する(=暗記する)情報量・知識量が多い程、成績の優秀な子どもになれる。例外もあるが、その最高の成果が東大入学・東大卒業ということに象徴することができる。
学校入学前から、親からああしなさい、こうしなさいと言われて、言われた通りを忠実に行動する暗記式行動様式を習慣とし、学校入学後も全学校を通してその習慣に上塗りの上に上塗りされる形でインプリントされて積み重ねていく結果、脳にしても身体にしても、暗記式の反射性を身につけることになる。
脳や身体がそういった型を備えてしまうから、暗記式以外の反射性は無縁とすることになる。
一度か二度ブログに書いたが、暗記教育を話す時使い勝手がいいから、何度でも使うことになるが、2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」で建築家で東大名誉教授の安藤忠雄が言っている。
須田アナ「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」
安藤「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」
優秀な学校とは東大や京大を指すのだろう。
「言われたことはやる」とはまさに暗記式反射性・暗記式行動様式を言うはずである。その逆の上からの指示を受けずに「自分から一歩踏み込む」とは自身発の思考及び行動であるから、暗記式反射性にはない主体的思考様式であり、行動様式であろう。
暗記教育にどっぷりと浸かり、暗記式思考様式・暗記式行動様式に脳から身体全身まで侵されてしまっているから、自身発の発想を持ち得ないことになり、「1+1は2です」と教えられたとおりに「1+1は2です」と答を導き出すように言われたことしかできないことになる。
武田が言うように勉強しない子は「記憶力が開いているもんだからね、記憶がビーッと入っていく」からではなく、脳や身体が暗記式の記憶に絡め取られていないから、自由な発想に基づいた、あるいは自身の希望に基づいた独自の記憶の活用を展開することができるようになるということであろう。
明石家さんまがその典型的な一例というわけである。
その頭の良さから、明石家さんまの大ファンです。
また、武田は「一見違うように見えるもの、バーッとくっつける」と言っているが、これも暗記式反射性に絡め取られていないことを条件としていなけれならない。
条件としていた場合、記憶している知識・情報に縛られてしまい、自由の効かない、限られた発想しかできないことになるが、条件としていない場合、自由が効いて、自ずと記憶(覚えている事柄・情報)の発展性を手に入れることができる。
暗記教育とは教師が教えた通りを自身の考えを加えずにそのまま暗記して自身の知識・情報とするから暗記教育であって、教師が教えた知識・情報のうちから二つか、それ以上の部分をくっつけて自身に独自の情報・知識へと発展させる、あるいは教師が教えた知識・情報をテレビや新聞が報道した知識・情報とくっつけたり重ね合わせたりして、やはり自身の知識・情報とした場合、生徒自身が自身の考えを付け加える教育・考える教育ということになって、本来的に生徒の側に思考の機会を与えない、そのようなプロセスを仕組みとしていない暗記教育とは言えなくなる。
結果として暗記教育の世界では生来的に聡明な子が学校の勉強に不熱心だった場合、そのことが幸いして暗記式反射性に毒されずに済み、自由な記憶・自由な発想を自らに対する恩恵とする可能性は高くなると言えるはずである。
逆にいくら聡明な子どもでも、学校の勉強にあまりに熱心だと、暗記式反射性を知らず知らずのうちに自らのものとしてしまい、自由な記憶・自由な発想を閉ざしてしまう危険性を抱えるということになる。
この指摘が間違っていないなら、記憶している知識・情報のうちから自らの知識・情報を加えて、あるいは自らの思考・判断を加えて新たに独自な知識・情報へと発展させる自由な記憶・自由な発想は暗記教育から自由であることを第一条件としなければならない。
武田邦彦にしても、建築家安藤忠雄と同様に直接的な言葉は駆使しなかったが、日本の教育は暗記教育だと言ったことになる。