橋下大阪市長と維新市議団のリスト捏造の釈明に見る牽強付会、強弁、詭弁の類いの驕り

2012-04-01 11:23:19 | Weblog

 大阪市交通局の労働組合が昨年11月の大阪市長選で前市長応援目的で職員に知人紹介カードを配布、それをリストにした文書を30代、非組合員の男性非常勤職員が労働組合が政治活動をしていた証拠として内部告発すべく「大阪維新の会」に提出。

 さしずめ防衛省沖縄防衛局が宜野湾市長選に関して職員の親族対象に有権者リストを作成した選挙活動の大阪市長選版といったところだろう。

 杉村幸太郎大阪維新の会市議「交通局と組合が組織ぐるみで市長選に関与していたことを裏付けるものだ」(毎日jp

 大阪市交通局「でっち上げだ」

 そして告発合戦へと発展。交通局は無印公文書偽造等の容疑で容疑者を特定せずに大阪地検に告発、維新市議団も同3月14日、地方公務員法(守秘義務)違反容疑などで同地検に告発。(以上、毎日jp

 維新の会の告発は橋下徹新大阪市長の職員の勤務時間内の政治活動に対する激しい拒絶反応を受けたものだろう。橋下市長は庁舎内に居を構えた組合事務所の退去を求め、市役所と組合の関係を適正化する条例案を今年2月に提出するとしたが、結末はどうなったのか、インターネットを調べても分からなかった。

 橋下市長「中堅や若手の職員が、組合が人事に介入していると感じている。組合ににらまれると冷遇されるという不安感を抱かせる組織はだめ。市役所と組合の関係をルール化する」(毎日jp

 だが、この労組悪者視は一方的に過ぎる。組合の人事介入に対して上層部が毅然とした態度で跳ねつけることができずに言いなりになることの方がより問題であり、上層部をも悪者視しなければならないはずだ。

 少なくともここでの発言に於いて橋下市長にはこの視点が欠けている。

 この内部告発として維新の会に提供したリスト文書が市交通局の調査によって実は件(くだん)の非常勤職員が捏造したもであることが発覚。その調査結果を3月26日に発表した。非常勤職員も捏造であることを認めた。

 「交通局と組合が組織ぐるみで市長選に関与していたことを裏付けるものだ」と息巻いた杉村幸太郎大阪維新の会市議は格好のつかないこととなった。

 格好をつけるために橋下市長始め、市議団全体で開き直ることとなったのだろう。

 《職員リスト捏造:維新の会市議、労組に確認せず公表》毎日jp/2012年3月30日 15時9分)

 記事題名にあるように、杉村維新の会市議はリストの存在を労組に確認せずに公表にした。

 要するに真偽の確認を怠った。もし確認に対して労組が事実であることを偽ってニセモノとした疑いがあるなら、事実でないとしたリストとして公表すべきだったろう。

 公表を事前に了承していた維新の会市議団幹部の発言。

 維新の会市議団幹部「裏付けに追われていたら議員活動などできない」

 だからと言って、事実の確認も取らずに事実として公表することは、特に政治家である以上、許される行為ではないはずだ。

 開き直り以外の何ものでもない発言である。
 
 〈市議団は30日、記者会見を開き、交通局と労組が組織ぐるみで市長選に関与していたと断定的に指摘したことへの反省の意を示した。〉

 その上で――

 市議団「真偽が確定しなければ質疑できないなら、市民の真実を知る権利の障害になりうる」

 言っていることが意味不明そのものである。

 「真偽」を確定させる(=質す)ための質疑はできる。「真偽」を確定させる(=質す)とは、その結果は「真」の場合もあるし、「偽」の場合もある。

 「真偽」いずれかに確定することが(=質すことが)、いわばいずれかの答を見い出すことが「市民の真実を知る権利」に応える作業であろう。

 勿論、「真偽」いずれかの答を見い出すことができない場合もあが、「真偽」を確定しないまま(=質さないまま)「真」と看做して質疑した場合、相手の否定を頭から信用せずに否定する平行線を辿ることになって「市民の真実を知る権利」に応える作業とは決してならない。

 要するに「市民の真実を知る権利の障害になりうる」は牽強付会、強弁そのもので、詭弁の域を出ない。

 根拠がないにも関わらず、牽強付会、強弁、詭弁の類いを振りまわす。そこに驕りの気持がなければ不可能な所為と言える。

 「真偽」を確定させる(=質す)ためではなく、その手続きを省いて「真」と一方的に断定して、公表し、質疑に及んだ。

 記事は書いている。〈杉村市議によると、元職員は初めて会った昨年11月以後、労組の違法選挙ビラなど次々に告発し、労組追及の情報提供者として信頼していたという。リストのデータが渡ったのは公表9日前の1月28日。市議団の坂井良和団長(66)=5期目=は「一連の流れの中で一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」とかばう。

 会派内のチェックも機能しなかった。議会で取り上げることは美延映夫(みのべ・てるお)幹事長(50)=3期目=がゴーサインを出し、他の市議団幹部は知らされていなかった。会派内は「偽物では」と懸念する意見も強かったといい、坂井団長は「疑問を持っていた。相談してくれていれば」と不備を認める。

 捏造発覚前、労組が、維新の対応を批判すると、市議団は機関誌「維新ジャーナル」に「組合は、リストは誰が何の目的で加工したのかを明らかにすべきだ」との抗議文を掲載した。市議団のホームページでは今もこの抗議文を載せ続けている。〉・・・・・

 坂井良和市議団団長の「一連の流れの中で一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」だとの擁護論も牽強付会、強弁、詭弁の類いそのものであろう。

 「真偽」を確定させる(=質す)手続きを省いておいて、「一つだけ偽物が混じっていたら」もクソもないからである。「真偽」を確定させる(=質す)手続きを経た上で、「真」と断定できた場合に於いてのみ、初めて「一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」だと言う資格を得る。

 橋下市長も牽強付会、強弁、詭弁の類いの擁護論を展開している。《橋下市長「市民をお騒がせした」…捏造問題陳謝》YOMIURI ONLINE/2012年3月31日09時07分)

 3月30日の記者会見。

 橋下市長「市民をお騒がせしたことをおわびしたい。

  (労組への謝罪について)杉村議員は元職員からじっくり話を聞き、不自然なところがなかった。議会活動(の自由)は最大限保障しないと議会は機能しない」

 「議会活動(の自由)」を言っているが、これぞ自由のハキ違えの見本そのものであろう。自由だからと言って、何でも許されるわけではない。自由にも守らなければならない規律が存在する。無制限の自由など存在しない。
 
 「議会活動(の自由)」が「最大限保障」されているとする規定を絶対だと振りかざすのはいいが、「真偽」の確定から(=質すことから)入らずに「真」と決めてかかって、その思い込みの上に議会活動を行った。「最大限保障」されるべき「議会活動(の自由)」に入る言動とは言えない。

 入る言動だとしたなら、2006年の民主党の偽メール事件も、「議会活動(の自由)は最大限保障しないと議会は機能しない」からとの同じ理由で許されることになる。

 橋下市長の「議会活動(の自由)」論にしても、牽強付会、強弁、詭弁の類いに入れなければならない。

 橋下市長の牽強付会、強弁、詭弁の類いと言い、市議団の牽強付会、強弁、詭弁の類いと言い、共に同列の意志発揮となっている。

 なぜ両者共、このような状況に立ち至ったのだろうか。

 牽強付会、強弁、詭弁の類いは自己を絶対善の立場、あるいは絶対正の立場に置くことによって生じる。このことは断るまでもないことであろう。

 自身が正しいか間違っているのかの客観的な自省心を持ち得て、自らの個々の言動に応じて検証する気持が働いていたなら、牽強付会、強弁、詭弁の類いは生じない。

 だが、そういった気持の働きもなく牽強付会、強弁、詭弁の類いに走るのは自己を絶対善、もしくは絶対正とする驕りがあるからに他ならない。

 自分は常に正しい、常に善だとする驕りが、そうでなかった場合、牽強付会、強弁、詭弁の類いを用いて自己の絶対善・絶対正を守ろうとする。自己の絶対善・絶対正を繕うべく謀る。

 自己を絶対善、絶対生とするあまり、なかなか驕りから逃れることはできない。

 その驕りたるや、昨年11月の大阪市長選で平松邦夫前市長522641票に対して橋下市長750813票のその差20万票の大差をつけた圧勝と朝日新聞社の2月(2012年)世論調査で大阪府民の支持率が70%、不支持14%の高い支持率=民意が支えている自己絶対善であり、自己絶対正の驕りであろう。

 11月27日投開票日夜の記者会見。

 橋下徹氏「民意が我々の主張を選んだ」(スポニチ)

 「民意」が選択した「我々の主張」とはしていても、選択の結果として、「民意」と「我々の主張」を共に絶対善・絶対正に位置づけて、相互対応させている。いわば両者を共に絶対善・絶対正の同じレベルに置いている。

 「民意」を絶対善・絶対正とすることで「我々の主張」を絶対善・絶対正とし、「我々の主張」を絶対善・絶対正とすることで、「民意」を絶対善・絶対正とする相互対応である。

 75万票の民意、20万票の大差を根拠にした自己絶対善・自己絶対正であろうが、民意の中には県知事時代に残した結果(=成果)に対する票ばかりではなく、期待に対する票も多く存在し、期待外れに終われば離れていく玉石混交の民意でありながら、「我々の主張」を絶対善・絶対正とするあまり、民意をも一緒くたに絶対善・絶対正と価値づけている驕りを否応もなしにそこに存在させているからこその相互対応であろう。
 
 「民意」と「我々の主張」を共に絶対善・絶対正と価値づけて相互対応させているからこそ、大学教授や評論家を公の場で「バカ学者」とか、マスコミに対して「バカマスコミ」と罵ることができる。

 インタネット上にあった橋下氏のツイッター。

 橋下市長「バカ文春やバカ新潮も自分たちもチェックを受ける権力者だと言うことを自覚しろ。僕は報道機関じゃないし、行政機関を使ったと思われるとしゃくなので、このバカ文春やバカ新潮の社員の行状について、ツイッターで情報収集したいと思います。どんどん世間に公表していきます」

 記事の形で主張した情報に反論や批判を加えるというのは理解できるが、ツイッターを通して収集した「社員の行状」に関わる情報をすべて「真偽」を確定せずに(質しもせずに)真と看做して「チェック」し、反論や批判を加えるというのだろうか。

 だとしたら、やはり自己を絶対善・絶対正を前提に置いた驕りの言動ということになる。

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