昨年12月(2011年)の北朝鮮は金正日死去を受け、政府、与党内で弔問を名目とした小泉純一郎元首相による訪朝が2回に亘り模索されていたという。《総書記弔問で小泉氏訪朝を模索 政府、関係改善狙うも不発》(岩手日報/2012年03月31日)
この事実は3月31日(2012年)に判明した。
〈核問題をめぐる米朝協議の進展をにらみ、日朝関係の改善を図る狙いだったが、小泉氏側が断ったことなどでいずれも不発に終わった。複数の政府関係者が明らかにした。 〉と記事は書いている。
そして批判解説。〈北朝鮮と有力なパイプがなく、既に引退した小泉氏に頼らざるを得ない野田政権の姿が浮き彫りになった形だ。〉
いくら北朝鮮と有力なパイプがなくても、小泉訪朝要請は外交オンチそのものであろう。日本政府が「拉致解決なくして日朝国交正常化なし」の態度を採っている以上、日朝の関係改善は拉致解決を前提としなければならない。だが、もはや北朝鮮は拉致を余程のことがない限り外交カードとしないだろうからである。
その理由の一つは5人の帰国以降、既に拉致首謀者が金正日だと判明していることにある。北朝鮮にとって下手な解決は金正日の生存時の名誉と正義と権力の正統性を傷つけ、そのことが金正恩の権力の父子継承の正統性と父親から受け継いだ正義と名誉をも傷つけることになる。
そうである以上、拉致の未解決は逃れることはできない持病のように固定化され、日朝関係改善の障害として今後共立ちはだかることになる。
唯一の僅かな可能性は金正日の名誉と正義を寸毫足りとも傷つけない形での拉致解決の保証である。
金正日が日本人拉致被害者5人の帰国で済ませて、日本側が5人以外に帰国を求めた拉致被害者を死亡、あるいは存在そのものを否定して拉致問題の幕引きを謀ろうとしたのは、5人以外を帰国させた場合、金正日が拉致首謀者だと拉致被害者自身の口から露見し、首謀者であることの確証を与える恐れがあったからだろうし、その息子金正恩は拉致解決の棚晒しによって父親の名誉を守り、権力父子継承の正統性と正義を守らなければならない。
金正日の名誉と正義を寸毫足りとも傷つけない5人以外の拉致被害者の帰国であるなら、金正日にしても、金正日亡き後の金正恩にしても北朝鮮経済回復の元手とすべく、拉致を戦争補償と経済援助の外交カードとしないはずはない。
いわば日本側がそのような帰国を絶対的な形で保証しない限り、譬えて言うなら、帰国を果たした拉致被害者が北朝鮮で知り得た権力層に関わる情報に関して死人に口なしの状態で口を生涯に亘って閉ざすことの保証が実現しない限り、「拉致は解決済み」の態度を崩すことはないだろう。
但しこの絶対的な保証は拉致被害者が人間である以上、いつどこでふと漏らして、それが口伝えに広まる危険性は否定できないし、あるいは何かのキッカケで誰が押し止どめようと、それが日本政府の人間であっても、生きている人間でありながら、死人に口なし状態で口を閉ざしていなければならない抑圧の苦痛に耐え切れなくなって、その禁を破って喋り出すか分からない危うさを常に裏合わせとしなければならない。
このことは既に前例がある。以下「Wikipedia」を参考。
1983年11月1日、交易を終えて北朝鮮の港を出航した日本の冷凍貨物船「第十八富士山丸」の船内に密航のために潜んでいた朝鮮人民軍兵士を発見。この兵士を「密航者を連れてきた船は、密航者を元の国に送り届ける義務がある」との法律に従って北朝鮮に送り届けるべきところを日本政府の指示で日本に戻ると当局に身柄を引き渡した。
第十八富士山丸が1983年11月11日に北朝鮮に再入港すると、乗組員5人が抑留され、うち船長と機関長が北朝鮮当局によって密航の幇助及び継続的なスパイ行為の容疑で拘留。
約7年後の1990年、金丸信を中心とした日本国会議員による訪朝団の交渉の結果、船長と機関長は釈放され、訪朝団と共に日本への帰国を果たす。
二人が北朝鮮での経験を初めて口にしたのは1990年の帰国2年後の1992年金丸信失脚と、さらにその3年後の阪神・淡路大震災(1995年1月)被害遭遇をキッカケとしたもので、北朝鮮での過酷な拷問紛いの取調べ、自白強要、脅迫、泣き落とし工作等を暴露。
『北朝鮮抑留 - 第十八富士山丸事件の真相』(西村秀樹著)には、〈2名は『日朝の友好を乱さぬように』とする政治的事由から彼の地における体験については公言せず沈黙を守るように宣誓させられた。〉と書いてあるという。
その宣誓があったから、帰国後5年以降の証言となったのだろう。
だが、同時に宣誓を破ったことになる。
北朝鮮側からしたら、このことが死人に口なし状態の極めて危うい前例となっていないと断言はできまい。
拉致問題は解決済みの態度が北朝鮮経済回復の原動力の大きな一つとし得る日本からの戦争補償と経済援助を犠牲にしていることを考えると、帰国が金正日と金正恩の正義と、さらに権力父子継承の正統性を守るための絶対的保証を危うくする要因となっているとしか理由づけることはできない。
残酷な言い方になるが、生存拉致被害者を日本に帰国させる余地は北朝鮮にはないということである。
以上のことを考えずに野田内閣が小泉元首相に訪朝を要請したことは外交オンチとしか言いようがない。
小泉元首相が断った実際の理由は分からないが、そもそもからして5人の拉致被害者日本帰国の問題解決を図ったのは小泉元首相ではなく、金正日であることを小泉首相は認識しているからではないだろうか。
日本では2002年9月に小泉首相(当時)が北朝鮮に乗り込んでいって、金正日と直接交渉し、拉致を認めさせ、5人の帰国を果たしたと受け止められている印象の物語となっているが、実際は金正日の側から前以てお膳立てされていた乗り込みであって、たまたまその時の日本の首相が小泉純一郎であり、絶好のチャンスに恵まれたに過ぎない。
このことは2008年9月17日、当ブログ記事――《次期日本国総理大臣麻生の外交センスなき拉致対応 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に2002年10月12日付『朝日』夕刊《北朝鮮 「人を探して帰国も可能」「補償、方式はこだわらず」 昨年1月には柔軟姿勢》に基づいて書いた。
小泉首相が平壌に乗り込む2002年9月17日を20ヶ月遡る2001年1月、シンガポールのホテルで中川秀直前官房長官(当時)と北朝鮮の姜錫柱・第一外務次官との「秘密接触」が行われている。
中川秀直「拉致問題は避けて通ることのできない政治問題。交渉に入る前に(一定の回答が)示されるべきだ。(被害者の)安否確認や帰国して家族と面会することは可能か」
姜錫柱(行方不明者という表現で)「即、動きを見せることができ、人を探して帰すこともできるだろう」
それまで拉致の事実を認めてこなかった北朝鮮側はこの時点で表現は違えても、拉致を認めていたのであり、小泉・金正日会談の場で金正日が初めて認めたのではなかった。単に追認したに過ぎない。
ブログ記事にこう書いた。
〈「『行方不明者』という表現ながらも」拉致認知と、それに続く拉致被害者の帰国のレールは敷かれていたのである。中川秀直前官房長官・姜錫柱第一外務次官の「秘密接触」前後、及び以降、日朝首脳会談開催の実現に向けて、外交当局者同士の幾度かの「秘密接触」や事前交渉を重ねて、話し合われる内容・お互いが求める成果を煮詰めていき、一応の到達点である2002年9月17日の小泉・金正日首脳会談に持っていったということだろう。
いわば首脳会談はお膳立てができていた決定事項を主役が登場して最終確認し合ったに過ぎない。決定事項には前以て準備しておいた成果も当然含まれていて、成果は最後に登場した主役が最終確認という儀式を経ることで主役自身の手に自動的に帰する。「秘密接触」や事前交渉を譬えてみれば、表に現れない舞台稽古であり、首脳会談こそが、観客を集めて開演された舞台そのものと言える。何も小泉首相自身が、よく言われるように自らの創造的意図によって形作るべくして形作った歴史的瞬間でも、歴史に対する貴重な一歩というわけでもない。〉・・・・・
小泉首相は金正日が拉致被害者5人帰国の次のプロセスとして「日朝平壌宣言」で2002年10月中に交渉を再開することとした日朝国交正常化を果たして日本からの戦争補償と経済援助の獲得を目論んでいたことを当然、認識していたはずだ。
そのために金正日側がお膳立てした5人の帰国だと。
いわがお膳立てのカードは北朝鮮側が握っているということであるが、確証を与えてはいないものの、拉致首謀者は金正日であることが周知の事実となっている手前、拉致被害者の帰国によってそのことの確証を与えない絶対保証がない限り、北朝鮮側からお膳立ての動きを見せることができなくなってしまった。
当然、そのお膳立てなくして、いくら小泉元首相でものこのこ出かけて、「拉致解決なくして国交正常化なし」とばかりに正常化の絶対前提として拉致解決を突きつけたとしても、解決がキム親子の権力の正統性、正義、名誉を傷つけかねない諸刃の危険性を抱えている以上、おいそれとは乗ってこまい。
このことまで気づいていて断ったかどうか分からないが、どちらであっても、北朝鮮側のお膳立ては必要事項としたはずだし、そのお膳立てがない以上、断って正解だと言える。
断らずにお膳立てがないまま出かけたなら、2002年と2004年訪朝で得た名声を却って失わせることになったに違いない。
拉致解決は金正日と金正恩親子の権力の正統性と正義と名誉を絶対的に守る方法の創造以外にあるまい。/font>