昨4月18日(2011年)参院予算委東日本大震災集中審議でたちあがれ日本の片山虎之助議員の質問に答えて、菅仮免が原子力事故対応に関する評価は「歴史に待ちたい」と答えたと報道されていた。
歴史に評価を委ねるということは歴史が評価すると確信、もしくは自信があるからこそ言える発言であって、自信も確信もなければ言えはしない。
世論調査の指導力欠如、政策構築と実現能力欠如の評価に反する相当な自信家と言うことになるが、評価を歴史に委ねるとすること自体正しい判断なのだろうか。指導力欠如は合理的判断能力を欠いていることから起こる。満足に判断できない人間に指導力など備わりようがない。
合理的判断能力を欠いている菅仮免が自身の評価を歴史に委ねるとする判断を働かせていること自体が矛盾しているはずだが、その部分の質疑答弁のみを取上げてみる。
たちあがれ日本の片山虎之助議員は例のざっくばらんな調子で質問に立った。
片山虎之助「えー、片山虎之助でございます。えー、被災されましたみなさまに、心からお見舞いを申し上げながら、質問させていただきます」
時間が短いもんですからね、答弁は簡潔・直截にお願いをいたしたいと思います。
えー、統一選の前半が終わりました。後半、昨日からでございましてね。あー、結果はご承知のように都市部を中心に、民主党は、惨敗を、いたしました。
その原因は、やっぱ、この大震災や原発事故に対する対応が、非常に拙劣であると。不手際であると。混乱していると。場当たりであると。
ま、色々と言っても、いくらでも言えるんですけども、そういうことが原因だと、こう言われております。定説になっている。
この委員会でも、何人かが質問されましたけども、総理はですね、や、まあ、それは真摯に受け止めるけれども、後半戦があるんだしと、こういうことですからね。私は、どーもその辺に、えー、謙虚さが足りないじゃないかと、こういうふうに思っております。
そこでね、総理、今日もそういう議論が色々ありましたが、この危機の中で、大震災の中で、総理が取られた言動ですよ、今日まで。
これについて、ね、自己採点してください。ま、満点だって、言う、まさか、言わないだろうと思いますけれども、及第点でしょうか。どうでしょうか。
またですよ、どこが悪いと自分で思われたのか。それをそのあと直されたのかどうなのか、色んなことを一遍に言いますけどもね。私はこれだけ大震災でね、日本人は世界的に評価されたんですよ。ね、色んな意味で。礼節とか、勇気だとか。色んなことが言われ、絆だとか。
で、総理はそうじゃないでしょ?今日の、朝から。
日本のトップリーダー・・・なんですよ、総理は。トップリーダーとして、自分が大震災に取られた、一連の言動についての自己採点をお願いいたします」
菅仮免「まあ、あのー、おー、まだー、あー、渦中にある中で、私自身が、この私の、この間のですね、ことに敢えて採点するというのは、あ、まだまだそういう時期ではないと思います
ただ、ア、敢えて申し上げれば、私は、あー、まさに菅内閣の責任者、であります。その菅内閣として、えー、この地震発生以来、取って来た、あー、事柄について、私は、あー、例えば、あー、早い段階の、おー、自衛隊、の、おー、おー、あー、派遣。あるいは、あー、警察、消防、おー、さらに海上保安庁。
さらにその後の色々な展開の中で、私は国民のみなさんにも、そういう活動については、あー、一定の、おー、評価を頂いていると思います。
また、原子力の、うー、事故については、確かに厳しいご指摘、評価だと思います。シー、このことについて、決して私は、あー、何か、あー、他に責任を押しつけるつもりはありませんけれども、この原子力の問題は、えー、いわゆる地震・津波とはまた違った、アー、ま、ある意味、特異な、あ、分野でありまして、私はこれに関して、色々なご指摘はありますけれども、私自身、この、おー、原子力事故は、ホントーニ大変なものだということを、最初に聞いたときから、え、その後今日に至るまで、一秒たりとも、頭から離れない。
そいう中で対応に取り組んでまいりましたわけで、その評価は、私は本当に歴史に待ちたいと、こう思っています」――
菅仮免は自身を、当然のことだが、「菅内閣の責任者」と位置づけた。しかし質問はトップリーダー=菅内閣の責任者としての自己採点を求めたのである。
それを「菅内閣の責任者、であります」と前置きしながら、すぐそのあとで自身を評価対象から外して、巧妙にも菅内閣を評価対象に摩り替えている。
ここに誤魔化しがあるが、その誤魔化しは原発事故対応に関する自己に限った評価では、と言うことはリーダーシップに限った評価ではということになるが、国民から一定の評価を受けていると言える程の自信がないことからの評価対象を自身から内閣へすり替えた誤魔化しであろう。
常に問題となっているのは菅仮免の指導力であり、リーダーシップなのだから、あくまでも自身を評価対象とした自己採点でなければならないはずだが、世論調査で見る限り、原発対応では全然評価されていなかったために菅内閣全体を評価対象とせざるを得なかった。
何のことはない。原発事故対応に関しては自らに評価をつけることができないことからの、その埋め合わせとして、あるいは地震・津波対応と原発事故対応との評価の違いに整合性を持たせるために、あるいはバランスを持たせるために歴史の評価を身代わりとした姿しか浮かんでこない。
ここに情けないリーダー像を見ることができる。
「他に責任を押しつけ」てはいないが、歴史に逃げ込む責任逃れを働いている。
菅仮免は言っている。「私自身、この、おー、原子力事故は、ホントーニ大変なものだということを、最初に聞いたときから、え、その後今日に至るまで、一秒たりとも、頭から離れない」と。
これも原子力事故対応に関しては「色々なご指摘」があって国民から一定の評価を受けているとは言えない埋め合わせに、いい加減に取り組んでいるのではない、懸命に取り組んでいる姿勢を持ち出すことで、それを以て評価とする発言であろう。
その評価は必ず歴史が証明してくれるというわけである。
菅仮免自身が原発事故に対していい加減な姿勢ではない、懸命に取り組んでいると言おうと、地震発生翌日の3月12日の早朝、福島第一原発視察に際して、斑目原子力安全委員会委員長が「『原子力について少し勉強したい』ということで私が同行したわけでございます」と3月28日(2011年)午後の参院予算委で答弁しているが、この発言からは軽い気持は窺うことはできるが、「最初に聞いたときから、え、その後今日に至るまで、一秒たりとも、頭から離れない」といったいい加減ではない、真剣な気持は見えてこない。ウソを言って真摯な姿勢を装っているとしか受け止めることができない。
大体が指導力もない、合理的判断能力も欠いている、内閣統治能力もない政治家が歴史を口にすること自体おこがましい。その資格が果してあるだろうか。
物事は現在の評価で動く。谷垣自民党総裁に対する大連立の呼びかけ失敗も現在の評価から始まっている。菅仮免の現在の全く以って評価できない姿が招いた無残な結末であって、歴史が手出しできる結末では決してない。
与野党ねじれ状況に苦しめられ、熟議の国会と言いながら、それを実現させるだけの指導力もなく、与党内閣としての主体性を失っているのも、自らがつくり出した数の力の現実と首相としてのリーダーシップ欠如に対する現実の評価が決定づけている現在の状況であって、歴史が決定要因となっているわけではない。
歴史の評価は最早評価対象が存在しなくなってからのものか、現役を退いてからのもので、現実の活動自体を動かす要因とならなければ、意味を失う。何の役にも立たないことを持ち出して現在の不人気を誤魔化そうとする「歴史の評価を待ちたい」であって、卑劣な詭弁に過ぎない。
例え歴史の評価を受けたとしても、それは時代状況の変化を受けた時代的価値観や時代的判断の違いに左右される評価であって、決して今ある現実の評価に遡って取り替えることはできない。評価を下す過去に生きていた人間と現在生きている人間自体の違いも無視することはできない。
泡沫候補という言葉がある。泡沫首相が現在の不人気を認め難く否定したい気持が歴史で復活を願望し、そのことで現在の不人気の埋め合わせしようと虚しい抵抗を示しているに過ぎない。
その姿からは愚かしさだけしか浮かび上がってこない。
指導力あるなら、総理大臣として存在している現在の時代にこそ、評価を得るべく闘うべきだろう。歴史に逃げ込んで、その意志さえ示すことができない。
そのような体たらくだから、歴史の評価に縋ることになる。
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