石原都知事自販機悪玉論批判に対する蓮舫のやるべきことを忘れた奇麗事といきり立ち

2011-04-16 10:25:14 | Weblog


 
 当ブログ《菅内閣が言う自粛云々よりも肝心なこと、仮設住宅の充足 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に自粛に関して次のように書いた。

 〈本来的には自粛行為は純粋に主体的行為でなければならない。当然自粛行為に対しても、“自粛の自粛”行為に対しても国家権力は強制も要請もできないはずだ。原発の放射能災害を含めた被災者の不安や困窮に対する共感から発した感情共有行為であって、誰も止めることはできないからだ。

 これは非常に個人的な感情行為であろう。多くの国民が共通して持つことによって、自粛は社会現象化する。〉――

 自粛が国家権力による強制とその強制に対する無条件な同調行為であってもならないし、世間がそうしているから、自分だけ違っては何を言われるか分からないと世間の暗黙の強制と看做して、その強制に対する無条件な同調行為であることも自分を持たないことになって、あってはならない姿であるはずだ。

 だから石原都知事が震災の目を覆うばかりの被害と被災者の惨状を考えてのことだろうと思うが、花見の自粛を打ち出したときには奇異な印象を受けた。あくまで個人個人が決めることであって、権力側に位置した者が持ち出すべき問題ではないからだ。

 《花見は自粛を=被災者に配慮必要-石原都知事》時事ドットコム/2011/03/29-19:12)

 3月29日(2011年)の記者会見。

 石原都知事「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない。今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる。(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」

 戦争中の連帯感は自発性の連帯感ではなく、国家権力による上からの強制に対して国民が無条件に従い、自身を国家に預けた同調行為であったはずだ。そこには自律性(自立性)はなかった。

 「同胞の痛みを分かち合う」はあくまでも強制されて行う感情行為ではなく、自発的、且つ自律(自立)的行為でなければならない。

 自発性も自律性(自立性)も責任を伴う。

 最初に断っておくが、電力不足に対する節電という名の自粛となると、企業や個人の主体性、自律性(自立性)のみに任せることはできない。社会活動や経済活動に制限が生じたとしても、混乱や不正常を来たしてはならないからなのは断るまでもない。場合によっては公権力の介入も必要となるはずだ。計画停電自体が政府が許可したもので、一種の公権力の介入に当たる。

 石原都知事花見自粛論に蓮舫節電啓発担当相が反論した。《蓮舫氏、石原都知事の「花見自粛」に反論 「権力の社会制限は最低限に」》MSN産経/2011.4.1 12:21)

  4月1日(2011年)の記者会見。

 蓮舫「権力で自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」

 この発言は石原都知事の花見自粛論に限った“権力乱用の戒め”であって、節電への言及ではない。

 一部にコンビニエンスストアの深夜営業を自粛すべきだとの意見があることにも関して。

 蓮舫「夜間の電力は、現段階では相当余っている。コンビニや自動販売機の夜間の照明は、治安的にも意味がある。電力があるにもかかわらず経済活動を公の力で制限していくということが、わが国の経済にとってどのよう影響があるのかも冷静に考えるべきだ」

 「コンビニや自動販売機の夜間の照明」に関しては、電力の正常な需給関係が壊れて社会が従来どおりの正常な状態では維持不可能となったからと法律等で社会活動に制限を加えない限り、節電という名の自粛は企業や個人の主体的判断に任せるべきであって、その限りに於いて蓮舫は正しいことを言っている。

 但し、蓮舫のこの「電力があるにもかかわらず経済活動を公の力で制限していく」ことの批判は言葉通り夜間に於ける電力の余裕を前提としている。電力の余裕は「夜間の電力は、現段階では相当余っている」と明快に言及している。

 では、電力が不足した場合、「経済活動を公の力で制限」することは間違っていないことになる。いわば既に逆説的に触れたように電力の正常な需給関係が壊れて社会が従来どおりの正常な状態では維持不可能となった場合は法律等で社会活動に制限を加え得るということに合致する。

 計画停電のスケジュールは夜間の22時00分までで、現在のところ供給が上回って計画停電は停止中だが、電力使用が急激に増加する夏場には確実に不足する状況にあるから、「現段階では相当余っている」としても、夏場の制限に向けて何らかの手を打たなければならないし、政府も既に対応している。

 いわば電力の需給状況に応じて、22時00分までの計画停電が実施される可能性を残しており、場合によっては22時00分以降まで延長される可能性も捨てきれない。

 電力が不足した場合、「経済活動を公の力で制限」も可能とするのだから、電力が余っている「現段階」のみに対応したあるべき経済活動に触れるだけではなく、政府の一員でもあるのだから、電力不足の可能性に対応した「公の力」による経済活動の制限も視野に入れた発言であって然るべきではなかったろうか。

 石原都知事の批判に対する批判という限られた狭い視野の批判である限り正当性を得る発言となっている。

 但し都議会の民主党が自動販売機の節電に関する条例案の提出を検討していることに関して批判を述べる中で、「現段階」を超えた今後の対応について言及している。

 《蓮舫節電啓発相、自販機節電条例案に疑問》日テレNEWS24/2011年4月15日 15:33)

 蓮舫「国としては、大口需要の事業者に25%の節電計画をお願いしている」

 これは後付けの言及に過ぎないだろう。蓮舫が「夜間の電力は、現段階では相当余っている」と発言したのは4月1日の記者会見であり、「国としては、大口需要の事業者に25%の節電計画をお願いしている」は昨4月15日の発言であて、2週間で「夜間の電力は、現段階では相当余っている」の調和を破る状況の提示となっているからだ。

 要するに「夜間の電力は、現段階では相当余っている」としても、企業に対して25%節電協力を要請しなければならないということは現段階の夜間の余力を役に立たないものとしていることになるからだ。

 蓮舫「東京都のことで、国が口出しすることではない。経済活動に影響が出るものを、ある種、権力で要請するというのは、国民の皆様がどうお考えになるのかなという気はします

 確かに正しいことを言っているように見えるが、国が「大口需要の事業者に25%の節電計画をお願いしている」ことも、形は「お願い」であっても、「ある種、権力で要請する」ことに入るはずだし、電力不足が生じた場合の「経済活動を公の力で制限」も可能としていることに矛盾することになる。

 記事は最後に、〈自動販売機の業界団体はすでに、7月から9月の間は午後1時から4時まで冷却機能を止める取り組みを行っている。〉と書いているが、これとて、「ある種、権力で要請」の内に入るはずだ。

 国家権力の要請なくして企業が自分で自分達の利益を削るはずはない。

 石原都知事の方も蓮舫の反論にめげなかった。4選を果たした後のインタビューで再び国家権力による電力制限を持ち出した。

 《【石原都知事に聞く】同じことをやるしかない》サンスポ/2011.4.11 05:07)

 電力不足について――

 石原都知事「(東京電力管内の1日の使用電力は)パチンコと自動販売機、あわせて1000万キロワット近い電力が、さほど必要でないのに使われている。こういう生活様式は考えた方がいい。そんなモノなくても生きていけるじゃないか!」

 「政府は権限を持っているんだから、こういうほとんどムダに近い電力の消費を抑制しないと。担当大臣(蓮舫節電啓発担当相)がテレビをぞろぞろ連れてニコニコやって来て『節電よろしくお願いします』と私と握手して。そんなもんですむものではない。国民も分かっていると思う」

 双方共相当に対抗意識を持っているようだ。

 《石原氏、民主党政権を批判「無知で未熟な連中」「役人いかに使うかが政治家」》MSN産経/2011.4.11 00:44 )

 石原都知事「日本の電力消費は世界的に見たら奇形だよ。パチンコと自動販売機で合わせて1千万キロワット近い量が使われている。自動販売機は便利かもしれないが自分の家で冷やせばよい。国全体でやらなければならないことは、国で出さなかったら国民は動かない。政府はきちっと政令を出すべきだ。オイルショックのときは出した」――

 蓮舫も引き下がらない。《蓮舫氏、自販機悪玉論に反論》MSN産経/2011.4.14 00:18)

 4月13日(2011年)の衆院内閣委員会。

 蓮舫「石原氏がどういう思いで言ったのかは分からないが、節電と経済効果への支障を最小限に抑える知恵は、同時進行で取り組むべきだ」――

 蓮舫は「節電と経済効果への支障を最小限に抑える知恵」と言っているが、「国としては、大口需要の事業者に25%の節電計画をお願いしている」ことにその「知恵」を加えていただろうか。企業によって電力使用量も使用方法も違えば、仕事の種類に応じて電力の配分も異なる。国がこの仕事は何%節電して、ここは何%、全体で25%だと指示できるはずもないし、当然口出しもできない。

 「知恵」は企業任せで、国ができることは一律25%という、協力要請の形を取った国家権力による半ば強制的な押し付けであろう。

 自販機業界が各自販機の冷却運転を輪番で1日数時間ずつ停止して節電する計画を打ち出したことがこのことを証明している。政府の知恵ではなく、企業の知恵でしかない。

 企業が企業利益への支障を最小限に抑えることによって、社会全体、あるいは国全体の「経済効果への支障を最小限に抑える」ことにつながっていく。

 蓮舫の「節電と経済効果への支障を最小限に抑える知恵は、同時進行で取り組むべきだ」は奇麗事に過ぎない。「知恵」などという美しい言葉を使おうと、企業の利益を犠牲にさせることに変わりはない。

 蓮舫は同13日の内閣委で次のようにも批判している。

 蓮舫「清涼飲料業界は主要19社で4・5兆円の売り上げがある。自販機での売り上げは1・9兆円で42%を占める。自販機をなくすのか。そこで働いている人もいる」

 確かに石原都知事の自販機批判は自販機を悪玉とし、その廃止の主張となっているが、単なる持論の展開に過ぎず、石原都知事の権力を以ってしても不可能な自販機の撤廃なのは自明の理である。

 また政府の25%節電協力要請にしても、業界の売り上げに制限を加えるものであり、「そこで働いている人」の雇用そのものに影響はないかもしれないが、給与には関係していく節電協力要請でもあることは否定できない事実であろう。
 
 何か一人いきり立っている。どう転んだとしても、節電が続く以上、日本の経済を縮小させることに変わりはない。「節電と経済効果への支障を最小限に抑える知恵は、同時進行で取り組むべきだ」には節電を当たり前のこととしているニュアンスがある。

 節電が当たり前のこととされてはたまらない。福島第一原発の1号機から4号機まで廃炉と決まったのである。政府がなすべきことは東電と協力して廃炉によって失う分の電力を別の方法で創出、経済活動を従来どおりに回復することであろう。

 パチンコだ、花見だ、自販機だと細かいことに拘っている場合ではない。より総体的発言、より総体的行動を心がけるべきだろう。


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