安倍「国際標準」、身の程を知るべし

2006-10-25 03:00:50 | Weblog

 「政府は、日本の工業製品などの規格が『世界の標準』となるよう官民で取り組むための『国際標準総合戦略』の原案をまとめた。(中略)
 『標準を制するものが市場を制する』とうたい、各国が競う国際標準決定の場での交渉力を養う『塾』の設立など人材育成が柱。首相が経済成長戦略に掲げる国際競争力の強化につなげたい考えだ」(『「国際標準」決定 日本主導で 交渉力の塾 設立』06.10.24.『朝日』朝刊)との新聞記事がある。

 小学生の頃から学習塾に通って暗記学力を身につけ、大学卒の学歴を手に入れたせいなのか、何かと言うと政策に「『塾』の設立」を掲げたがるようである。

 「国際標準」を美しき大国日本、東洋の端っこのちっぽけな島国日本が担おうなどと、身の程知らずの高望みではないだろうか。安倍新首相は聞こえはいいが、就任早々で逸る気持があるのか、高望みでしかない政策を次々と打ち出している。逸るあまり、日本の優越性を前面に押し出したい国家主義が身の程を知らない高望みの政策となって現れている面もあるのだろうが、身の丈を知る謙虚さも弁えないと、単なる日本買い被りの空回りで終わりかねない。身の程を知って、基本にこそ目を向けるべきだろう。

 政治三流国・戦略なき思考性とのありがたい賛辞を世界から戴いている美しき大国日本である。日本人が一般的に創造性・機略性を欠いていることを指摘した評価なのは論を待たない。そのことが外交面ではカネは期待されるが、政治力は期待されない取り扱いにつながっているのであり、内政面では国民の精神的満足感・幸福感づくりに寄与しない、カネをバラ撒いて外形を造るだけの箱モノ政治、あるいは法律をつくっても条文どおりには機能させることが出来ず、結果的に〝外形〟を整えるだけで終わり、社会生活の向上に生かすことができない形式政治――中身を満たすことのできない政治――を日本の政治の姿とするに至っている。

 あるいは日本の危機管理欠如、日本の教育の成果たる似たり寄ったりの「良質の金太郎飴」といった才能をつくり出している原因物質たる創造性・機略性不足でもあろう。

 上記記事は「原案は『いかに優れた製品をつくろうとも、世界標準に合致していなければ、市場を獲得できない時代になった』と強調。産業界に対して『標準を外から取り入れ、それに上手に適応していけばよいという態度が習い性となっていないか。国際標準をつくる場面での日本の存在感はなお乏しい』などと指摘している」と伝えている。

 「日本の存在感はなお乏しい」は「国際標準をつくる場面」だけに限ったものではなく、カネを出す場面以外はすべての「場面」に亘って「乏しい」を専門としている。

 「習い性となっていないか」とは、「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く姿を日本及び日本人の自らにふさわしい存在形式としてきた、それを美しい歴史・伝統・文化としてきた、習慣としてきたと言うことであろう。しかしそのような姿は裏を返せば、それが日本人の身の丈に合った、馴染むことのできた姿だったからである。さらに裏返せば、それ以上の姿は望めなかった。望んだとしたら、身の程知らずの高望みとなった、と言うことだろう。

 「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く存在形式とは、日本の学校教育たる暗記式知識授受(=暗記教育)に於けるマネ・なぞりのメカニズムを本質のところで響き合わせた構造の存在形式であろう。

 国際比較で見た場合の小中高校生の(勿論大学生も)「多面的見方」の欠如、「考える力」の不足は、これも日本の美しい歴史・伝統・文化となっているものだが、暗記教育に於けるマネ・なぞりで解決できる1+1=2式の機械的応用力は成績優秀だが、1+1の式に対して、そのままには読まずに、読み方を変えたり、読み方に応じて3にも4にもしていく創造的応用力の欠如をカガミに映し出した姿を示す。

 いわば日本の大人の「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く存在形式に相互対応し合った小・中・高生の「多面的見方」の欠如・「考える力」の不足なのである。

 となれば、ただ単に日本の製品を出発点とした「国際標準」を掲げるだけでは解決しない問題であって、日本の教育という土台から変えていく作業が必要であろう。少なくとも日本の教育の本質構造に視線を向けた提案でなければ、マネ・なぞりを習性として育んだ機械的応用性を土台として、その上に、土台にはない創造的応用性を持った階層を築こうとする偽装設計を行うようなもので、建物自体は完成させることができても、土台と階層が馴染まず、建物が建物としての機能を果たせないに違いない。いわば、ないものねだりとなる。

 譬えを変えて言うなら、雑草にしかならない種を植え付けておいて、手に入るはずもないタマネギを収穫しようと計画立てるようなもである。
 
 例え日本の製品を出発点とした「国際標準」化による「国際競争力の強化」が緊急の課題だとしても、同時並行的に日本の教育から暗記教育を排して、創造性を育む教育への転換を図ってこそ、土台と階層を終始一貫させた建物の完成を見るはずである。

 それを基礎学力の向上の名のもと、暗記教育の徹底を図るだけの教育政策では、「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く従来の存在形式の補強・上積みに役立つだけのことで、当然「国際標準」を手に入れることなど覚束なく、身の程知らずの高望みのままで終わりかねない。結果的に何のための「国際標準総合戦略」だったのかということになる。最も〝ムダな抵抗〟は日本人のお家芸でもある。

 どこか抜けている安倍政策という性格からしたら、これはこれでいいのかもしれない。

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