山本えり子議員に見るニセモノ性

2006-10-08 05:20:34 | Weblog

 安倍新内閣で今回教育再生担当首相補佐官に就任した参議院議員の山谷えり子女史が自ら開いているHPに自身の目指す教育政策を「国を愛し、日本人が大切にしてきた品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神が含まれるよう、教育基本法を改正します」と紹介している。

 山谷えり子女史の主張はかつては「大切にしてきた」が、現在は「大切にして」いなという文脈でそれを「重んじる精神」の回復を訴える内容となっているが、現在の「大切にして」いない状況だけは、山谷えり子女史自身が所属する自民党議員の生態を見ただけで十分に理解できる。自民党総裁選(06年9月)でのポスト欲しさ、あるいは陽の当たる場所欲求から寄らば大樹の優位に立つ安倍支持に向けた雪崩現象の「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」に反する無節操な付和雷同・事勿れ主義を展開することとなった、会社ぐるみという言葉があるが、党ぐるみで演じた狂騒状態がいやでも「大切にして」いないどころか、クスリにもしていないことをご親切丁寧に教えてくれる。

 では、以前の政治家は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目を「大切にしてきた」のだろうか。

 いや、政治家といった人種を超えて、「日本人」全体として「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切にしてきた」のだろうか。「大切にしてきた」とは、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目を常に自分のものとして発揮してきたことを意味する。常に常に心がけよき国民であった、〝恍惚の人〟ならぬ、美徳の国民、美徳の民族であった。だから日本人は他の民族に優越する優秀な民族なのだということなのだろうか。

 もし日本人が「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を第一と重んじ、忠実にこれらの徳目のすべてを「大切に」演じてきたとするなら、築いてきた社会は平和であった上、争い一つない矛盾のない世界で、それを美しい日本の歴史としてきたということになる。だからこそ、日本の歴史・伝統・文化を美しいと、優れていると誇ることができる。

 日本人に限らず、人間は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目(=人格に於ける肯定面)を常に保持し得るのだろうか。欧米人の人間性悪説に対して日本人の人間性善説からすると、他の人種、民族はいざ知らず、日本人だけは保持してきたということなのだろうか。

 もしも事実に反することであったなら、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切にしてきた」は、日本人を買いかぶり、過大評価していることになる。日本人自身が日本人自身を買いかぶり、過大評価するということは、個人で言えば自惚れ、民族全体を対象とした評価だとすると、根拠もなしに自民族を優越的位置に置こうとする独善的な自民族優越意識の発露に他ならなくなる。

 山谷えり子は事実を言っているのだろうか。ニセモノ人間程、自己の家柄や地位を誇ったり、自民族の優越性を言い立てて、自分自身をそれらに紛れ込ませて自己のニセモノ性を隠そうとする。カラッポ人間が有名人や著名人の中に混じって、彼らの栄光を借用して自己のカラッポをカモフラージュするようにである。

 いわば根拠もない自民族優越論で日本人を持ち上げて、自身をもその中に紛れ込ませ自らのニセモノを隠すトリックを行っているのだろうか。

 「大切にしてきた」を事実としよう。但し、「大切にしてきた」のは戦後のことではなく、戦前の時代であるはずである。山谷えり子女史は熱烈な安倍支持派で、新首相となった当の安倍氏から教育再生担当首相補佐官という仰々しい名前の職に任命されたのである。教育観ば常に独立した思想ではなく、政治思想と相互に深く関わる。政治思想に於いても安倍氏に通じるものがあることを任命理由としているはずである。

 さらに安倍氏は「戦後レジーム(戦後体制)からの脱却」を掲げ、戦後に制定された現日本国憲法を日本人自身がつくったものではないから、日本人自身の手でつくるべきだと改憲を主張している戦後否定に立つ政治思想の持ち主である。その同調者である山谷えり子女史が戦後も「大切にしてきた」とすると、安倍氏と思想・立場を異にすることなり、熱烈支持との整合性を失う。ポスト欲しさ・陽の当たる場所欲求からの支持だとすると、整合性を獲得し得るが、今度は「品位、節度、調和、正直」を「大切にして」いない人間ということになり、そんな人間が「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神が含まれるよう、教育基本法を改正します」などと言う資格はないという新たな美しい矛盾を生じせしめることになる。

 また、戦後とすると、戦後のどこの時点で「大切にし」なくなったのか、その原因は何かを明らかにしなければならない。敗戦と敗戦を受けた外国の占領を転換点として日本人の精神が変質したとするのが尤も分かりやすい説明であろう。だからこそ安倍晋三は戦後外国人の手でつくられた日本国憲法と教育基本法を変えたい衝動を隠さない。

 日本に於ける戦前という時代、日本人は「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった精神、徳目を「大切にしてきた」。

 と言うことは、戦前の日本は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切に」する人格者で溢れ返っていたことになる。日本の戦前の天皇の時代は矛盾のない社会だった。その時代は明治・大正も含めなければならない。同じく天皇の時代だったからだ。

 戦前「国を愛し」たのは事実だろう。但し、客観的認識能力も合理的論理性も欠如させた、単に安っぽい感情に流された付和雷同の愛国心でしかなかった。国のプロパガンダに考えもなく無批判に同調した中身のない愛国心だった。国家権力は国民の命を粗末に扱い、国民は国家権力のために自らの命を粗末に扱った生命軽視の愛国心だった。そのことは戦争遂行の体力を完全に失いながら、国民の今後を考えることよりも天皇制の国体護持にのみ拘ってポツダム宣言の受諾を無視し、2発もの原爆投下を誘発して国民の生命をムダに犠牲にした美しい事実・美しい歴史がものの見事に証明している。

 自民党の単細胞な保守系政治家は単細胞なるがゆえに「愛国心」なるものをすべて善の価値観で把えて疑わないが、「愛国心」にも善と悪がある。〝善〟だけだとすると、北朝鮮国民のキム・ジョンイル崇拝は善と価値付けなければならない。戦前の「国のために戦った」、「国に殉じた」の「国のために」、「国に」の愛国心を善と把えているからこそ、靖国神社に堂々と参拝できる。兵士の愛国心を善とするには、それを発揮した時代・局面をも善と見なさなければ、整合性を失う。即ち日本の戦前と戦前の戦争を善とする価値づけが必要となる。善と価値づけているから、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」などと言えるのだろう。

 「俘虜たちは彼らの現地指揮官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を口をきわめて罵った。彼らは特に、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たちを非難した」(『菊と刀』R・ベネディクト著)といった「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」に美しくも反する裏切り行為は天皇の兵隊・大日本帝国軍隊の上官が演じた醜態ではなく、どこか別の国の軍隊の物語であろう。「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神」、それらを「大切にしてきた」日本の軍隊にはあり得ない反調和的行為である。特に「現地司令官」ともなれば、常に愛国心を言い立て、愛国心の発露を部下の兵士に求めてきた立場の人間であろう。それを自ら部下を裏切り、愛国心を裏切ったなどと、ありようのない事実としなければ、山谷えり子女史の主張は整合性を失う。ニセモノ人間のニセモノの主張と評判を落とし、ニセモノ尽くしの烙印を押されることになる。

 それとも部下を置き去りにして自分だけ逃げることが愛国心だと言うことなのだろうか。単なる兵隊でしかない部下の命はどうなってもいい、自分の才能は今後国家に役立つかもしれない重要な人材だから、生きながらえることが国家の利益に適う、それが愛国心と言うものだと真っ先に逃げ帰ったと言うわけなのだろうか。

 また戦争中の日本兵士たちの残虐行為は、命令した上官の意識も含めて、「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった日本人が常に担い「大切にしていた」道徳性が可能とした残虐行為だったということだろうか。

 戦前の日本の小学校の殆どの校庭に二宮金次郎の銅像が建っていたという。前屈みになった背中に薪を背負って運んでいる最中でも本を開いて勉強に励む姿の銅像で、それは労働と勉学に「勤勉」である姿を象徴している。但し山谷えり子女子の言う「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」はそれぞれが単独で成り立つ徳目ではなく、相互関連し合い、それぞれが重複し合う徳目のはずである。いわば「勤勉」は他の「品位、節度、調和、正直、親切」にも波及する徳目であって、「勤勉」は他の徳目をすべて含んでいると言える。二宮金次郎は労働と勉学に「勤勉」であることによって、「品位、節度、調和、正直、親切」をも獲得していたはずである。

 そのように「勤勉」さを通してすべての徳目を担っていることを示す銅像を小学校に配置する目的は、小学生に二宮金次郎を理想像とする道徳的人間を求めていたからに他ならないだろう。銅像だけで足りなくて、国定教科書にも二宮金次郎の「勤勉」物語を書き入れ、唱歌にも謳った。

 そうまでしなければならなかったことの裏を返すなら、当たり前のことだが、そうまでする必要があったからだろう。これでもかこれでもかと「勤勉」の見本を示して、見本どおりの人間に改造しようとした。そのことの裏をさらに返すなら、改造するためには銅像から物語り、唱歌までの教材を必要とする程に入学してくる生徒が上の人間が望む「勤勉」さ、あるいは道徳性を身につけていなかったからだろう。

 もし親が「勤勉」という徳目を「大切にしてい」て、その他の関連し合う「品位、節度、調和、正直、親切」を身につけていたなら、いわば美徳としていたなら、子供は親の「勤勉」を通して「勤勉」さと共に「品位、節度、調和、正直、親切」といった徳目まで自然と刷り込まれて受け継ぎ、学校が銅像から教科書の物語、唱歌まで用意しなくても、「勤勉」さだけではなく、「品位、節度、調和、正直、親切」をも発揮し、「大切にし」ただろう。そうではなかったから、二宮金次郎の「勤勉」さと、それが代表する「品位、節度、調和、正直、親切」を借りて、涵養に努めなければならなかった。

 戦後の小学校の校庭に二宮金次郎像が残っていたと言うことは、「勤勉」に代表させた徳目・道徳性の植え付けが学校教育に於ける永遠の課題だったことを示している。つまり、権力が望むどおりの徳目・道徳性を獲得させるには常に尻を叩いていなければならなかった。銅像から教科書の物語、唱歌まで用意した命令と強制に依存した植え付けだった。そこまでしなければならなかった「勤勉」を通した徳目教育・道徳教育だった。
 
 この種の命令と強制性は戦前の日本が天皇のいわゆる御真影でそうさせたように、北朝鮮がありとあらゆる職場、学校、家庭にキム・イルソンとキム・ジョンイルの肖像写真を飾らせ、二人への崇拝を強制させていることと同質の小学校版ではなかっただろうか。違いは命令と強制性の強弱の違いだけだろう。

 〝崇拝〟とは信仰の対象とすることである。個々の人間がそれぞれ独自に信仰の対象を求めるのではなく、上の立場にある人間・組織が信仰の対象を用意した場合、そこに命令意志、もしくは強制性が入る。日本全国殆どの小学校に二宮金次郎の銅像を建て、教科書に書き、唱歌にも謳う、その一律性自体が既に命令意志と強制性の介在を証拠立てている。

 上の者の直接的な命令意志と強制性を写真や銅像、歌などといった他の素材に代行させて間接的な命令と強制に変える。そういえば北朝鮮ではキム・ジョンイルを讃える歌と踊りを幼稚園児から小学校生徒にまで歌わせている。二宮金次郎の国定教科書に書き入れた物語にしても唱歌にしても、一種の讃えであろう。

 要するに、戦前の日本の「国を愛し、日本人が大切にしてきた品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神」は国家権力の強制が少なくとも関わっていた。教科書が〝国定〟であること自体、既に命令と強制の要素を含んでいる。自律的に育み、自律的に獲得した徳目・道徳性ではなかった。例え「勤勉」さを発揮する人間となったとしても、強制に添い、強制を満たす従属からの見せかけの「勤勉」であったから、その子どもが親になっても次の子供に受け継がれることもなく、学校は二宮金次郎を使った「勤勉」教育を延々と再生産しなければならなかった。だから敗戦と同時に雲散霧消の運命に出会った。占領とかアメリカナイズとは無関係であろう。

 一方の山谷えり子女史は教育基本法に〝国を愛する心〟や「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」の文言を入れて、生徒にそれらの徳目・道徳性を身につけることを求め、そういった「精神」を備えた人間をこれからの日本人の理想像と見なして、生徒の目指すべき人間の目標としている。

 言ってみれば、戦前の小学校が二宮金次郎像を置くことで生徒に「勤勉」を求めたことと、戦後の山谷えり子女史が〝愛国心〟とか「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった文言を入れた「教育基本法」で、それらの徳目を学校生徒に求めようとしていることと対応しあっている。

 他者に対する要求行動には、相手が持っているものを要求する場合と、相手が持っていないものを持たせようと要求する場合がある。二宮金次郎像も山谷女史の徳目も、相手が持っていないから、持たせようとする要求を動機としているはずである。既に持っている徳目・道徳性なら、要求する必要は生じないからだ。

 とすると、「大切にしてきた」時代が戦前あったとしたとしても、戦後の一部だとしたとしても、どちらであっても、「大切にしてきた」という事実自体が存在しなかったウソということになる。簡単に言うなら、山谷えり子女史は自分の言っていることがウソだと気づかずにウソとなる事実を言っていることになる。

 戦前の国家が小学生に対して二宮金次郎の銅像や国定教科書の二宮金次郎物語、あるいは唱歌の中の二宮金次郎像を媒介としたのに対して、現在の国家は改正教育基本法や改正憲法を媒介としてさまざまな徳目要求を果たそうとしている。対象は小学生だけではなく、中学生や高校生にまで広げるものだろう。

 このことは戦前の徳目要求が、掲げた徳目を人格化し得ないままに推移し、現在に至っていることをも示している。だからその途中過程で、「部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった」「現地指揮官」や「最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たち」といった人間の出現・美しいばかりの酷薄な利己主義を可能としたのだろう。
 
 人間は自己利害の生きものであり、自身の置かれた状況・環境に対応して自己利害に即した行動を取る。そうすることが自己を肯定することであり、それに反することは自己を否定する行為となる。勿論、人によって肯定・否定の基準は異なる。

 「令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たち」はその場にとどまれば生きて不慮の辱めを受けることになる、いや最悪自分たちの命さえ失うかもしれない、そういった戦闘状況にあると判断して、それを回避するためには部下を置き去りにしてでも「飛行機で引きあげて」いくのが得策とした美しいばかりの自己利害最優先の行為だったのだろう。

 人間の事実でない姿・ウソの現実の上に何らかの理想を築こうとしても、ウソの姿と理想の姿とはつながりようがないのだから、それをつなげようとしたら、無理が生じるだけである。二宮金次郎は人間の一般性を超えた稀有な存在だったのだろう。

 ウソを隠して過去の日本人を美しく装わせ、その姿の学びを強制したとしても、戦前も含めた以前と違って、今日の情報社会の過剰なまでの情報が簡単にウソを暴露して、反撥か、反撥を抑えならなければならない状況下にある場合は形式的な従属を収穫とするだけだろう。

 敗戦から戦後時代に至る一時期まで子供にとって教師・親も含めた大人は権威主義の力がまだその力を維持していて、恐い存在だった。子供という年齢が大人たちの実際の姿――大人の現実の姿を見抜く能力を身につけさせるまでに至っていないことも幸いして、その無知が恐い存在であることを許してもいた。しかし今や小学生の子供にまで、社会の過剰なまでの情報が大人がどういう生きものなのか暴露してしまい、大人なるもの、教師なるものがどんな存在か、そのメッキを剥がしてしまっている。特に学校社会で日常的に接することになる教師が教え子の女子を誰もいない教室に呼び出して身体に触ったり、出会い系サイトで知り合った女子中学生や女子高生をホテルに連れ込んで2万円とか3万円とかのカネを渡してエッチな行為に及ぶことをいやでも情報で教えられてしまい、そのような教師に「勤勉」だ、「品位」だ、「節度」だと教えられても、誰が信用するだろうか。

 例えそんなことをしない教師であっても、小学生の教師が5,6年生の身体の大きな女子の発育のいいバスとに、あるいは中学校の教師がついバストの大きな女子生徒の胸に視線がいってしまう。それは自然な行為でもあるのだが、見られた生徒は情報社会の情報の影響を受けて教師の生きもの性を教えられていることと世間の情報と同じように自分自身を話題にして情報の一つとしたい情報欲求から、たまたま一度視線を向けただけだとしても、小学生なら、「いやらしい目で私を見た」、中学生なら、何度もジロジロ見るようなことを言い、「奥さんがいるのにいやらしいエッチ男。陰で何をしているか分かりゃしない」と誰彼なしに言い触らす主演を演じて、その結果より多くの教師がエッチ教師という美しい名誉ある無実の称号を賜りかねない時代でもある。

 早実のハンカチ王子の試合に若い女性からオバサンまで大挙して殺到するのは情報社会ならではの現象だろう。自分自身もその場に加わることによって、情報が与えてくれて、自分たちの手によってもつくり上げた輝かしい世界に輝かしくして浸り、一大満足した後日常生活に戻ってから、家族や友達といった身のまわりの人間に単なる話題でしかないことを自身の一大情報として、情報を発する喜びを得る。

 信用されない存在と化している教師が徳目教育を行う。小学校高学年か中学生以上になると、「偉そうな口を聞きゃがって、そんな資格がるのか」と反撥して、私語を囁いたり、席立ちしたりの反抗的態度に出る。あるいは「利いたふうな口聞くな」と直接暴力を振るって思い知らせる。

 しかし怖い存在である教師の場合は、その教師が目の届く範囲では、内心の反撥を隠して形式的に教えに従属する態度を示すだろう。

 教師とは、コンピュータ技術を学んでコンピューター技師という職業に就くのと同じように、教える技術を身につけて教師を職業として選択しただけの人間に過ぎない。教師と生徒との関係は他の社会の人間関係が必要とするのと同じ節度を必要とするだけで、特別な節度が必要というわけではない。当然その節度を守らなければならないが、教師が男である場合は、つい胸に視線がいってしまう場合もあるし、ミニスカートから覗いた太腿を見てしまうこともある。それ以上の欲望を抑えるのが必要とされる節度であって、それが守れない教師もいる。人間は元々俗っぽく出来上がっている。品位なんか獲得できる人間はそうはいないだろう。

 品位はとても獲得できないから除外するとしても、節度や勤勉、正直が必要なのは、そういった徳目を守って懸命に生きている人間がバカを見たり損をしないためだ。不正直に狡いことをやってカネ儲けしたり、財産を築いたりしたのでは正直に生きている人間に不公平を与えることになる。社会の公平を保つために、みんなが同じように節度や勤勉、正直である必要がある。しかし世の中を見ると、政治家・官僚を筆頭に、教師も結構仲間入りしているが、悪いことをする人間ばかりで、実現は非常に難しい。なかなか人間は利害の生きものであることから抜け出れないだろうから。

 例え教師が信用されていない存在だとしても、人間の現実の姿を正直に言う教えの方がより説得力を持つだろう。ウソではないことが情報によって暴露されない強みを備えているからだ。

 このことは政治家にも同じことが言えるはずである。歴史認識を表面的に変えて外交の修復に努めたとしても、信頼できる関係にまで至らないだろう。

 人間の事実でない姿・ウソの現実からの出発は元々奇麗事でしかないウソの上に見せかけのウソを塗り固める作業でしかない

 山谷えり子参議院議員及び教育再生担当首相補佐官の教育基本法に反映された場合のウソが教育の場でどこまで通用するか見ものである。

 戦前の二宮金次郎像ほどの効果もないだろう。情報社会の情報がウソを教えてしまうだろうから。

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