単一価値観がいじめ自殺を招いた?

2006-10-19 05:02:08 | Weblog

 10月11日(06年)にいじめを受けて自殺した福岡県筑前町の中学2年の男子生徒(13)の担任は学業成績をイチゴの品種に例え「あまおう」「とよのか」「ジャムにもならない」「出荷できない」とランク付けして生徒を呼んでいたと報道されている。

 自殺した生徒は成績優秀で最高ランクの「あまおう」で呼ばれていたということだが、「あまおう」の評価に反する「偽善者」・「うそつき」の称号をも担任から戴いていたらしい。
 
 男子生徒の母親から男子生徒が1年生のとき自宅でアダルトサイトのようなものを見ていたことの相談を受けたのに対して、そのような予想もしていなかった意外な面が学業成績の優秀さとそれに応じた普段の真面目な態度を裏切る性格のものだったことから、担任が〝偽善者めいた〟印象を受けたのだろうか。しかも相談内容を他の生徒に洩らし、男子生徒は同級生からからかいの対象とされるようになったという。

 そのような経緯があってのことだろうが、男子生徒の進級に当たって、担任は2年の担任に「この子はうそつきだ」と申し送りしたということだが、それが「偽善者」・「うそつき」のありがたい称号に至ったのだろうか。

 テストの成績を絶対とする価値観がテストの成績を通してしか生徒を(人間を)見ることができない価値判断に向かわせ、そのことが成績以外の価値に関連づけたランク付けを誘う。成績優秀であろうとなかろうと、年頃になれば誰でも性的興味を抱くようになるのだから、意外でも何でもなく、それが成績優秀に対する裏切り行為となるはずはなく、自身を振り返ればすぐ分かることを自己省察能力に欠けているから振り返ることもできずに、いわばテストの成績を絶対とする価値観から自由になれないから、表面的な落差だけを把えて「偽善者」・「うそつき」とするに至ったのではないだろうか。

 人間は誰でも〝偽善的な部分〟を抱え、当然〝偽善的部分〟と併せて〝うそつきの部分〟も抱えている。それが人を騙し、精神的あるいは身体的苦痛を与える類の行き過ぎた偽善やウソであったなら咎めるべきだが、本人の中で抱えている矛盾であるなら、他人に向かわないようにそれとなく指導すれば済むことである。

 例えば、何かの話にかこつけて、みんな性的興味を抱くようになる年頃になったが、これは男も女も一定の年齢に達すれば当然現れる兆候である。但し大学教授でありながら、他人のスカートの中を盗撮したり、電車の中で痴漢行為を働いたりする人間がいるが、そういったふうに間違った方向に性的興味が向かないように気をつけなければならない。覗き見したい気持や男は洗濯して干してある若い女の子の下着に興味を持ってしまうといったこともあるが、実際に覗き見したり下着泥棒に及んだりしたら、犯罪になって、見つかれば当然逮捕される。淫らな気持になってしまうことが多々あるだろうが、社会のルールを守らなければならないのは当たり前の話で、社会に生きていくためには淫らになってしまう気持を抑えて、性的興味が常に健全な方向に向かうよう、気をつけなければならない。

 こういったことすら考えることができない学校教育者だから、生徒をランクづけることができ、面と向かって「偽善者」だとか「うそつき」だとか呼ぶことができる。もし事実偽善的部分があるなら、個人的な面談を通して、そういった性格は直すべきではないかと、生徒との対話を通して指導すべき事柄のはずである。

 9年前にも生徒をランク付けした名称で呼んで問題となった教師がいた。

『成績順に王様 貴族 平民 奴隷 クラス席分け 松江の県立教諭』(1997.5.29『朝日』)

 「松江市内にある島根県立高校の男性教諭(38)が、生徒を成績別に『王様』『貴族』『平民』『奴隷』に分けて席を決め、授業していたとして、島根県教委は28日、この教諭を文書訓告処分にしていたことを明らかにした。
 県教委によると、教諭は1993年4月に同校に赴任してから、95年12月まで、約3年にわたり延べ14クラスで、生徒を試験の成績順で席替えした。後ろから『王様』『貴族』『平民』『奴隷』の順に座らせ、授業では『この問題は奴隷に解いてもらおう』などと言っていたという。
 95年7月には『奴隷』の席に座らせられていた生徒が教諭に平手打ちされ、2学期から一時不登校になり、保護者の指摘を受けて学校が調査し、授業の実態が分かった。報告を受けた県教委は96年8月9日付けで、この教諭を文書訓告処分にした。教諭は『生徒の学力を挙げるためにした』と説明しているという。
同校の校長は『自尊心を傷つけられた生徒に申し訳ない』と話している」――
 「文書訓告処分」とは軽すぎる処分の気がする。学校側にしても教育委員会にしても、そういったことはいけません、改めなさい程度にしか受け止めることができなかったから、「文書訓告処分」となったのだろう。学校教育者としての資格の有無の点から見たら、明らかに失格者に位置づけなければならない教育態度であって、懲戒免職が相応の処分ではなかったろうか。深刻に受け止めるだけの判断能力に欠けているから、同じような教師を輩出することになるのだろう。
 
 「王様」以下はテストの成績を具体的な身分制度に置き換えた極めて象徴的な、分かりやすい価値付けとなっている。社会的な身分制度は人間を身分によって優劣に仕分けしたランク付けだが、人間の中身である人間性や人格の優劣と一致するわけではない。だからこそ民主主義の時代にあって、「王様」「貴族」「平民」「奴隷」といった身分制度は姿を消すことになったのだろうが、今以て身分・階級が人間の中身とは無関係な規格だと考えることすらできずに人間の優劣を表すものとして把えているから、テストの成績を人間の優劣と見なす価値判断と響き合わせて、「王様」「貴族」「平民」「奴隷」と言ったランク付けとなって現れるのだろう。

 あるいは「あまおう」「とよのか」「ジャムにもならない」「出荷できない」といったいちごの品種の優劣・出来栄えを成績の優劣に擬(なぞら)えて人間の優劣とイコールさせる。すべては成績を絶対としている価値観に支配されていることから起こるランク付けであろう。

 多様な可能性の時代だ、多様な価値観の時代だと言いながら、そのような時代性に反して学校社会が勉強に於いてはテストの成績、部活運動では対外試合の活躍・成績で生徒の優劣・価値を決定付ける単一価値観・単一基準を絶対とし、そこから抜け出れないでいる。

 成績のみを絶対とするそのような単一性がまたテスト教育一辺倒に走らせ、部活では対外試合で大負けしようものなら、懲罰として体罰まで与える部活顧問まで出現させることになる。

 グローバル時代だと言いながら、日本人が単一民族に拘り、単一民族意識を捨てることができないのは、学歴や職業、社会的地位、収入、家柄等に上下の基準を設けて、その基準に基づいて人間の価値を優劣で判断する権威主義の、まさにその〝上下〟に仕分けて優劣を決定づける価値尺度としての〝上下=優劣〟の単一性が民族をも〝上下=優劣〟にランク付ける、あるいは価値づける価値観となって現れたものだろう。

 民族に対しても〝上下〟を設け、上下に応じて優劣で計る。それぞれの民族が異なる要素、あるいは共通する要素を抱え、それぞれに価値・可能性を含んでいると内容・中身にまで目を向けることができない。日本人が民族的に不誠実・単細胞にできているからだろうが、そのような単一性思考を考えると、学校教師が勉強に関してはテストの成績で、部活運動では対外試合成績で生徒の価値を決定づけている単一性は日本人全体の意識として巣食っている単一性を受けた価値観であって、学校教師ばかり非難できないことになる。

 また日本の学校生徒が歴史的・伝統的・文化的に国際テスト比較で多角的見方や考える力が弱いと言われ続けていることも、物事を表面的・形式的にのみ認識・判断して価値づける大人の視野(=単一性)を踏襲した子供たちの視野・弱点であって、子どもの問題とのみ把えるべきではなく、日本人全体の問題と把えなければならなくなる。

 先ずは学校教師だけではなく、親も含めた社会全体がテストの成績を絶対として生徒の人間を判断する権威主義的な単一性・単一的価値観から抜け出さなければならない。

 いじめ自殺した生徒の担任にしても、テストの成績を絶対として人間価値を決定づける単一性に侵されていなかったなら、成績をイチゴの品種になぞらえてランク付けすることもなかっただろし、生徒がアダルトサイトに興味を持ったとしても、今どきの中学生にしたら不思議はない興味・関心の類であって、「お母さん、心配することはありませんよ。年頃になれば誰でも興味を持つものですから、それとなく注意しておきます」でその場は片付けることができ、他の生徒に相談内容を喋ることもなく、別の展開を見たのではないだろうか。

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