「美しい日本語」という幻想

2006-10-14 04:39:26 | Weblog

 英語必修化問題から見る

 前任の小坂文科相大臣は「柔軟な児童が、英語教育に取り組むのは否定すべきことではない」との姿勢を示していたのに対して、第1次安倍内閣の(2次があるのかどうか)伊吹文科相は必修化に否定的姿勢を示している。その理由として、次のようなことを述べている。

 「最低限の日本語の能力が身についていない現状がある」
 「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」
 「英語教育よりも最低限の素養や学力を身につけさせることが先決」
 「日本人としての最低限の素養である日本語ができないのに外国語を勉強するのはいかがかと思う」

 あの細木数子大先生がもうかなり前になるが、テレビで「日本語すらろくにできない大人が増えてるというのに、なぜ英語を小学校からやるのか。日本には日本の言葉があり、文化がある。国際化とは言うけど、自分の国の言葉を疎かにしてまでやることじゃない」と御託宣していた。

 二人に共通している認識は、「美しい日本語」は優れた言葉・優れた文化としてあるものだが、言葉としても文化としても十分に発揮し得ていない、発揮できるだけの素養を身につけていない、そのことを放置しておいてまで英語を学ぶことはないということだろう。

 その通りもっともなことである。いや、非常にもっともらしく聞こえる。英語必修化反対論と言うよりも、この上なくもっともらしい日本の言葉・日本の文化絶対論となっている。

英語なる外国言語と比較対照的に「美しい日本語」とか、細木数子大先生の「日本には日本の言葉があり、文化がある」と、殊更〝日本〟を持ち出す意識からは〝日本的なもの〟を優れたものとして上に起きたい日本優越意識しか窺えない。

 確かに日本語は語彙が豊富で、表現が豊かであると言われている。そのような日本語が持つ優れた文化性は伊吹大先生や細木大先生が言うように学ぶことによって「素養」として身につけることはできるが、身についた日本語という言語に関わる「素養」がそのまま日本人自らの人間性、あるいは人格を正直に映し出す鏡となるわけではない。

 つまり、「日本には日本の言葉があり、文化があ」ったとしても、その「日本語」が美しかろうと美しくなかろうと、また、今の日本人が満足な日本語を話そうが話さなかろうが、あるいは書けようが書けなかろうが、口にする言葉・書く言葉が人間性や人格を必ずしも映す出すわけではないとしたら、「美しい日本語」といくら力んだとしても、「日本には日本の言葉があり、文化がある」といくら胸を張り誇ったとしても、意味を成さない。成さないにも関わらず、日本語が優れていると力み誇るのは考えが浅いために〝人間〟を見ることができないからだろう。

 使用している言葉が美しい日本語で、その言葉自体が通じたとしても、誠意と客観性、合理的論理性の裏打ちの一切ない、美しいだけの単なる言葉の羅列なら、意味を持たない言葉と化す。日本人が過剰なまでに丁寧語・敬語を乱用するのは、言葉で飾らなければならない何らかの必要性を抱えているからだろう。言葉を装うことで、自らの人間性・人格をも装おうとする無意識を民族性としていたなら、問題である。

 始末の悪いことに、言葉はいくらでも装うことができる。装わせることができる。裏を返すなら、美しい・美しくないは単なる形式に過ぎない。「日本には日本の言葉があり、文化がある」というのも、日本に限った事実であり、形式に過ぎない。言葉に誠実さがあるか、ウソ・偽りがないか、実行性を持たせている言葉か、そのように人間性や人格の裏打ちがあって初めて言葉は形式を越えて実質性を備えるに至る。

 誠実であれば、美しくない言葉であってもいいわけである。ウソがあるなら、いくら美しい日本語を長々と喋ったとしても、意味を成さない。

 伊丹何某は大臣だろうがなかろうが、自民党総裁選でポスト欲しさから安倍支持に回った、無節操・事勿れを絵に描いたような付和雷同政治家、寄らば大樹政治家である。どのような美しい言葉と美しい言い回しで「英語必修化」に反対しようと、信用はできない。いや、信用しないことにしている。

 「日本には日本の言葉があり、文化がある」が日本に限った事実であり、形式に過ぎないとなれば、外国語である英語と比較して、日本語を文化だ何だといっても、空しいだけである。日本が今後国際社会で生きていく上で、単に外国を物理的に訪れるためと言うことだけではなく、世界からの情報を得て世界を知る・世界を学習する上で、国際語である英語が必要かどうか、そのような必要性から「英語必修化」を考えるべきで、「日本人としての最低限の素養である日本語ができ」ていないからとか、「日本には日本の言葉があり、文化がある」とかの理由で反対するの鼻持ちならない優越意識ばかりを感じさせて胡散臭いばかりである。

 細木大先生が言っている「日本語すらろくにできない大人が増えてる」状況とは、伊吹大先生が言う「美しい日本語が書けない」状態を小・中・高・大学、さらに卒業して社会人(=「大人」)になっても背負っている状況を言うはずである。「美しい日本語」が「先決」ということで、もしそのような「素養」を「大人」になるまで身につけることができなければ、英語を学ぶ機会は「大人」になってもない、つまり永遠にない、その機会を必要としないということになる。それでもいいのだろうか。

 よく日本語が乱れているという話を聞くが、心にもない奇麗事や体裁やその場凌ぎの言葉、終始一貫しない言葉、ウソを言う人間が誰一人いないということなら、口にする言葉は美しい日本語であるに越したことはないが、そうでない以上、例え乱れていても、装った言葉であるかどうかが人間の条件となる。

 また乱れている言葉の対象に若者言葉を槍玉に挙げるが、ミュージシャンがミュージシャン世界で彼らにしか理解できない隠語を使ってゲーセンだ何だと会話をするように、若者言葉にしても一種の虚栄心・優越感から若者にだけ通用する言葉を創作・流通させているだけのことで、彼らにしても若者世界から離れて他の社会の人間と話すときにはそれなりのかしこまって日本語を話す。乱れっぱなしと言うわけではない。

 言葉の乱れと態度の乱れが相互関連しあっているという主張もあるが、それが事実だとしたら、言葉は立派、言うことも立派だが、陰でこそこそと薄汚い乞食行為をやらかしているゴマンといる日本の政治家・官僚たちのどうしようもない職務態度の乱れは何と説明したら、合理的な返事が得られるだろうか。

 言葉で飾りさえしなければ、まだ乞食政治家や官僚よりも正直と言えるのではないか。テストの成績を上げていい学歴を獲得し、いい会社に入っていい生活を手に入れようとしている受験勉強一点張りの生徒が学校教師に気に入られて素行点も上げるようと言葉でも自分を飾っているとしたなら、将来の有望な政治家・官僚候補とはなれるが、正直さという点に於いて、勉強が嫌いで街に出て遊んでばかりいる若者と比べて、人間的に優秀であるとは断言し難くなる。

 「美しい日本語」よりも考える習慣をこそ検討すべきだろう。権威主義を行動様式・思考様式としていることから学校教育が暗記教育となっていること、その影響から、教師が教科書をなぞって伝える知識・情報を咀嚼もせずに伝えるままに受け止め暗記するだけの思考プロセスを介在させない知識授受・情報授受の習慣がテレビやラジオ、あるいは雑誌やマンガが伝える言葉・情報にまで思考を預けて自らは考えない、他者の知識・情報に従うだけの、悪く言うと付和雷同するだけの思考習慣を改めて、自分から自分で考える習慣を学校教育に取り入れるべきであろう。自ら考えることが思考能力も含めて自律性(自立性)の獲得に向かう。真に自律的(自立的)であったなら、そこに責任意識が介在してくるから、言葉を装うことはなかなか許されなくなる。

 戦後生まれでありながら、戦後の時代精神を自らのものとすることができずに戦前生まれの祖父の知識・情報に自分の思考を預けて、何ら考えもなくそれを自分の知識・情報として、戦前の時代の思想・精神を称揚する。勿論、言うまでもなく安倍ちゃんのことである。これも日本の美しい歴史・伝統・文化となっている権威主義及び暗記教育の成果であろう。

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