朝日新聞に『分裂にっぽん3 揺らぐ「約束」』と題する記事(06.9.17.朝刊)がある。副題どおりの『公教育「底上げ」思想薄れた』とする内容である。
「(06年)4月19日経済財政諮問会議で、小泉首相が身を乗り出した。『それで具体的にどう変わる』
民間議員の牛尾治朗ウシオ電機会長や規制改革・民間解放推進会議議長の宮内義彦オリックス会長が、人気の高い小・中学校に資金がより多く集まるよう促す『教育バウチャー(利用券)制度』の導入を訴えたときだ。議論は急に盛り上がった。
安倍長官『人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる』
二階経済産業相『廃校になってしまう』
小泉首相『それで反対があるわけか』
牛尾氏『競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛成する』
学校・教員数に応じた現行の予算配分を、学校の選択制のもとで児童・生徒数が増えた学校には多く、減った学校には少なく割り当てるように変えるものだ。児童・生徒を増やそうと学校が競い合えば『教育の質』も上がるという理屈だ。
小泉政権の5年余りで、教育政策にも『競争原理で解決を』との発想が一気に強まった。流れを作ったのは経済界だ」――
「競争原理」がすべてを解決すると思い込んでいる。単細胞でなければ、できない思い込みだろう。小泉センセイ、すっかり「競争原理」に取り憑かれてしまったようで、一種の〝競争原理病〟と言ってもいいくらいだ。それも重症の。退任を機に、ホテル住まいよりも入院暮らしの方がいいのではないのか。
『朝日』の別の記事(『文科省検討の教育バウチャー・効果未知数、評価は?』06.9.13.朝刊)は、「教育バウチャー」は各国で試行しているが、すべてが成功しているわけではないと「効果未知数」であることを解説しているが、日本が目指す「教育バウチャー」自体のタテマエを次のように説明している。
「教育バウチャーは一般的に、①子どものいる家庭が行政からバウチャーと呼ばれる利用券を受け取る。②公立、私立を問わず、子どもが通いたいと思う学校に利用券を提出する。③利用券の枚数に応じて、学校側が運営資金を得る――という仕組みとされる。
より多くの子どもを集めた学校ほど資金が潤沢になるため、学校選択性と組み合わせることで学校間に競争原理が働き、教育の質の向上が期待できると考えられている」――
教育バウチャー制度が実施されたら、学校に課せられる第一番の仕事は生徒をたくさん集めることである。集めなければ、教師の給料も払えなくなる。払えなくなれば優秀な教師は去り、クズばかり居座ることになる。日本の政界・官界みたいに居座るしかないクズばかりだったら、逃げられることもないが、学校はそうはいかない。
なりふり構ってはいられない、少しぐらいデキが悪かろうと悪くなかろうと、熊手で落ち葉を掻き集めるように生徒を掻き集めなければならない。そのためにはあそこはいい学校だ、優秀な学校だと思わせる世間の評判・親の評判を獲ち取らなければ、掻き集めたくても、掻き集まってくれない。評判を獲ち取る手っ取り早くて、目に見えるエサといったら、生徒のテストの成績を上げるのが第一番だ。二番なんてない。
かくして従来以上にテストの成績を上げるだけの教育が展開される。テストの成績さえ上げれば、「児童・生徒を増やそうと学校が競い合えば『教育の質』も上がるという理屈」の正しさを証明することができる。小泉首相の、今や〝前首相〟か、〝競争原理がすべて〟を裏切らないで済むわけである。俺の成果だと喜ぶだろう。
テスト教育の背後に追いやられてはいたものの、それでも学校である以上なくすわけにはいかなった時間をかけて創造力をつけよう、感受性を養おうなんていうすぐには形に現れない、現れなければ親の目にも世間の目にも見えない・伝わらない教育なんか、もはやここに至ってはやってられるかってんだ。自民党議員がポスト欲しさから安倍支持に雪崩を打ったように、学校だって生徒欲しさから、それが唯一生き残るための手段だから背に腹は替えられない。音楽・図工・体育の授業は完全廃止だ。学校の完全民営化ならぬ完全な〝塾化〟である
デキの悪い生徒のテストの点数は手抜き工事ならぬ手抜き採点でチョコチョコット細工して見栄えのいい仕上がりにする。鉄筋の本数が少しぐらい足りなくても表面からは見えやしない。見栄えがすべてだ。それでも不足分はデキのいい生徒の尻を叩きに叩いて点数を稼いでもらって平均値を上げる。学校教師はこれからそういったテクニックも必要となる。
それでもいい結果が出なければ、テストに出す問題をある程度前以て教えることもしなければならない。尤も自分たちで問題をつくる学校のテストはそれで解決するが、高校入試や全国一斉学力テストといった自分たちでつくるわけではないテストの問題を前以て教えることは神の身でなければ不可能だ。いくらテレビに出て活躍している有名マジシャンでも、透視はできまい。
最後の詰めでテストの好成績が偽装も偽装、底上げ成績だと露見したのではヒューザーの小嶋社長みたいに泣きっ面にハチとなりかねない。その高いハードルをクリアするためにはどんなテスト問題が出るか、予測するしかない。教育バウチャー利用券で掻き集めた資金を利用して「傾向と対策」のための調査研究チームを発足させ、出題問題を的中させるしかない。必要なら、「傾向と対策」に長けた塾の名物教師とか外部からも人材を集めて、一人ぐらい占い師も加えた方がいいかもしれない、ありとあらゆるテスト問題を蒐集して出題傾向の統計を取り、次回テストはどのような出題が予想されるか万全の対策を立てる。日本の地震学者が今以て成し得ていない地震予知にも優る出題予知を完成させる。震度7級の問題が出ようが、震度8級が来ようが、びくともしないだけの出題と答を前以て用意する。
最初に挙げた『朝日』記事の最後の部分は次のようになっている。
「日本経団連が04年から3年続けた教育提言は『平均的に質の高い人材を社会に送り出した戦後教育では、創造的な製品・サービスが求められる21世紀に対応できない』と従来の『底上げ方式』を否定。草刈隆郎副会長(日本郵船会長)は『グローバル競争時代に「良質の金太郎飴」ばかりを育てていては、日本はダメになる』と話す。
元文部科学省幹部はこの流れを『経済界の関心はどうしてもエリート養成に集まる。小泉政権ではそれが『官邸の意向』としておりてきた。競争は大切だが、義務教育で競争に偏りすぎると非常に危険』と受け止める」――
経済界が言っていることの裏を返すと、日本の「戦後教育」はドングリの背比べ、似たり寄ったり、横並びの「良質の金太郎飴」をつくり出すには役立ったが、「創造的な製品・サービス」をつくり出す創造性は期待できない教育だったということになる。
となれば、「戦後教育」自体を「創造的な製品・サービス」向きの教育に転換しなければならないはずである。転換せずに、競争原理だけを取り入れて「戦後教育」の尻を叩く。「良質の金太郎飴」どころか、〝最高品質の金太郎飴〟づくりに向かうだけのことで、「創造的な製品・サービス」が創出可能の創造性教育からはますます遠ざかる理とならないだろうか。
「戦後教育」が本質的には暗記教育であって、暗記学力をつけることには役立つが、創造性の育みを排除する構造となっていることからの「金太郎飴」であり、「創造的」成分の欠如なのだとする視点を持ち得ていない。
但し、暗記教育は戦後から始まったものではない。江戸時代の寺小屋教育自体がガチガチの暗記教育で、暗記教育は日本の美しい優れた、世界に誇っていい歴史・伝統・文化としてある教育である。寺小屋教育はさまざまな往来物(書簡文の模範文例集)を書き写させて、文章の書き方を習わせると同時にそこに書いてある地名や産物を覚えさせるなぞり・モノマネ教育に過ぎなかった。自由・人権が認められていなかった封建社会である、人前で批判の文脈で意見を言ったり、闘わせたりする習慣自体が存在しなかった。政治に対する批判だけではなく、寺小屋の師匠や親といった目上の人間に対する批判も、陰ではできても、面と向かっては下は上に従う権威主義の力学に縛られてできもしなかったろう。
それは武士に於いても同じであろう。表向きでは上に従う自分の置かれた身分(=下の身分)を弁えた範囲内の意見しか言えなかったろう。
知識の授受に関してなぞり、マネする形式で下が上に従うだけの暗記教育は権威主義性によって成り立ち、維持されている。そこへ持ってきて「バウチャー教育」なる上からの鉄槌で権威主義的な力を加えて下に位置する学校の尻を叩く。学校は外からの新たな権威主義の強制によって、自らの権威主義性を強めることとなり、当然暗記教育の強化に向かう。暗記教育の都合がいいところは他のどのような教育よりもテストの成績に反映させやすく、目に見える形にすることができることである。それは教師の能力をも目に見える形にすることだから、教師にしても自己の評価を上げるためにテストの点数を上げる教育に走りがちとなる。
結局のところ、「バウチャー教育」という名の競争原理の導入で、その〝競争〟がテストの点数獲得競争に偏ることとなり、暗記教育の絶対化を図るだけのことになるだろう。そもそもからして創造性とか感受性の育みといった、目に見える形となって現れるのは何年先かも分からない教育は競争には馴染まない。
「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる」(安倍)なら、そうなった学校や生徒はどう対処したらいいのか、「廃校になってしまう」(二階経済産業相)ことになったとしても、何ら不都合は生じないのかといったマイナス面が生じた場合の議論がない。「競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛成する」といった学校経営のみに向けたプラス・マイナス思想しか働かせることができない単細胞である。「創造的な製品・サービスが求められる21世紀に対応でき」る教育の質を求めるなら、競争原理がそのような「教育の質」の獲得にどういうふうに役立っていくのかといった見取り図を描き、そのような見取り図に従った教育を求めるなら理解もできるが、プラス・マイナス思考を働かせもせず、競争はプラスだとのみ把える片手落ちを犯してカエルの面にショウベンの鈍感さである。
疑うこと(=疑問)を基本とする批判・議論の存在しない場所に創造的な思考の獲得も発展も期待できない。当然暗記教育からは期待できない。優れた研究を成した日本人は暗記教育に馴染めず、暗記教育から外れていた人間であろう。知識に従うだけの暗記教育からはどのような想像性(創造性)も生まれないはずだからである。
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では、日本の「戦後教育」はどう転換させるべきか――、私なりに考え、HPに掲載することとした。興味のある方はアクセスしてみてください。たいした内容ではないかもしれません。
「市民ひとりひとり」第128弾「中学校構造改革(提案)」