一番喜んだのは皇太子妃雅子?
皇位継承権第2位の秋篠宮に男系天皇制を保証する待望?の継承権第3位となる男子悠仁誕生。一番ほっとしたは男系天皇派ではなく、皇太子妃雅子ではないだろうか。
04年5月12日からの皇太子のデンマーク(当地皇太子の結婚式列席)、ポルトガル、スペイン(当地皇太子の結婚式列席)3カ国訪問では雅子の同行は病気療養のため見送られ、皇太子一人の旅立ちとなった。皇太子は2日前の10日に東京元赤坂の東宮御所で記者会見して、雅子の同行見送りについて説明している。
「雅子には外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として大変な重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかったことに、大変苦悩しておりました」
「誕生日の会見の折りにもお話ししましたが、雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れきってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
――先ほどのお答えの中で、妃殿下のキャリアや人格を否定するような動きがあったとおっしゃいました。差し支えない範囲で、どのようなことを念頭におかれたお話なのかお聞かせください。
「そうですね、細かいことはちょっと控えたいと思うんですけど、なかなか外国訪問もできなかったということなども含めてですね、そのことで、雅子もそうですけど、私もとても悩んだということ、そのことを一言お伝えしようと思います」――
雅子の「経歴」とはハーバード大学経済学部卒業、英語、フランス語、ドイツ語に堪能、東京大学法学部に学士入学、外務公務員I種試験に合格、東大を中退して外務省入省、外交官として活躍等々――で、それらを「十分に生かし、新しい時代を反映した活動」を皇太子妃として行うとしたら、現天皇が皇太子だった頃の皇太子妃美智子もよくしなかった、いわば従来からの慣習に照らし合わせた場合、悪く言うと皇太子妃の領分をはみ出す活動ということになるだろう。
しかし、雅子は皇太子妃としてそういった活動に希望を抱いて皇室に入ってきた。その希望はさまざまな障害にあって砕かれた。だからと言って、皇太子妃として期待される役目とはこんなものか、皇室とはこういった世界なのかと悟り、あるいは諦め、要求される役目に同調することで皇室世界のしきたりに妥協して、外交官の血を殺し、キャリアを断ち切り、〝籠の鳥〟となることはできなかった。その結果の体調不良――。
希望していた活動が実現不可能ということなら、皇太子妃にとどまる限り、いわば離婚しない限り、雅子の体調回復の最良のクスリは外交官の血を殺し、過去の一切のキャリアを断ち切る以外にないはずである。即ち皇室の〝籠の鳥〟と化す。あるいは皇太子妃という名の小鳥と化し、その鳥に課せられた鳴き声だけを囀る。
だが、皇太子妃雅子静養目的のオランダ訪問ではあれだけ生きいきとした姿を見せていたのに、9月19日(06年)に行われたトンガ前国王の国葬への列席のためのトンガ訪問は皇太子一人のみで、体調が完全には回復していないのか、同伴を見送っている。あるいは下手に国葬に列席して、各国の王族や随員と顔を合わせたら、外交官の血を却って騒がせてしまい、まずいことになると予防線を張った同行取り止めということだろうか。
どちらであっても、外交官の血を殺し切れていない証明でしかない。外交官の血を殺すことは雅子にとって望みもしない薬だということだろうか。だとすると、ますます厄介なことになる。
皇室典範が改正されて、女性天皇、あるいは女系に道が開かれたとしても、母親の雅子が外交官の血を今以て引きずり、過去の活動に充実した自分を見ているとしたら、娘の愛子が年頃になって誰を夫に迎えようと、過去に女性天皇が存在したとしても新たな実験として注目されるという点で心理的に従来の皇太子以上に女性皇位継承者として〝籠の鳥〟を強いられる人生を送らざるを得ないだろうことは簡単に予測のつくことで、そういった人生を果たして娘に望むだろうか。
言葉を変えて説明すると、自分が失った自由以上の自由のない生活を娘が送ることを黙ってみていられるだろうか。
秋篠宮妃紀子に男子が誕生して叶うこととなった男系継承への夢の〝復古〟が逆に愛子を皇位継承の軛から解き放った。結婚が皇籍離脱の機会となり、職業選択の自由を獲得する。外交官であろうとなかろうと、自分が望む職業・役目に就けるのである。男子誕生を喜ばないことがあるだろうか。
雅子自身、皇太子よりも秋篠宮と紀子の方が皇室にふさわしい人間、あるいは皇位継承にふさわしいと見ているに違いない。そう見ていないとしたら、外交官としての過去のキャリア、その能力が疑われる
皇太子の「公務のあり方については、私は、以前にもお話ししたように新しい時代にふさわしい皇室像を考えつつ、見直して行くべきだと考えます」とする皇室観は「経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動」に道を開こうとする新しい皇室のあり方、皇太子妃の在り方を視野に入れたものだろう。これは国民統合のふさわしい装置から外れることを警戒する宮内庁や保守政治家の好みに反する態度と言える。既に装置に予定外の動きが発生することを恐れて望む外国訪問を抑えてきているのである。皇太子から見たら、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった」のである。
対する秋篠宮の皇室観は、「私個人としては、自分のための公務はつくらない。自分がしたいことが公務かどうかはまた別で、公務はかなり受け身的なものと考えています」と極めて現行の皇室制度(=国民統合のふさわしい装置)に従属的な姿勢を示すもので、その従属性こそが、皇族としてのふさわしい姿を可能にすると同時に、宮内庁や天皇主義者にとって意に適う予定内の扱いやすい装置とすることができる。
とすれば、どちらが皇位継承者としてふさわしいか、皇太子が生存している限り制度は変えようがないが、気持の上では残念ながらと皇太子を排除して、秋篠宮に軍配を上げているに違いない。
雅子にしても上記秋篠宮の発言こそが誰が皇室にふさわしいかを決定的に証明する決定的な物証と見ていたに違いない。自分がふさわしくないと承知している場合、その正当性を獲ち取るためにも、どんな人間こそが皇室にふさわしいか、その人間像を洞察するものである。白を知っても、黒を知らなければ、その白を証明することはできない。洞察する際、殆どの場合身近な人間をサンプルとし、ふさわしいかふさわしくないか振り分けるものである。
秋篠宮が現在の皇室にとって皇太子以上に天皇継承にふさわしい皇族であるように秋篠宮妃紀子は皇太子妃雅子以上に皇后継承がふさわしい人間と言えるだろう。雅子が過去の外交官姿を引きずって従来からの皇太子妃像に従属的ではないから既に失格者だからということだけではない。紀子が意識の上で雅子に遥かに優って皇后美智子に似せた自分を常日頃から演じているからである。似せるには似せるなりの目的があるはずである。
美智子は軽井沢の皇太子とテニス・デート以来、国民的人気を博してきた。それは小泉人気の比ではない。皇太子妃となり、皇后となって、その間皇室用公用車の窓から国民に手を振るときの軽い、ゆったりとした会釈と優しげに細めた目、口許の笑みに現れるそれとない念入りさ・意識的な丁寧さは昭和天皇の皇后にはないものだった。それは華族出でもない、皇族出でもない、初めての平民出身であったがために皇族入りした者にふさわしい恥じない態度・恥じない仕草を演じようと意識するあまりの懸命さ・努力が仕向けた入念な人工的動作ではなかったろうか。尤も繰返すうちに身につき、本人のものとなっていく。
そのような演技はハーフレディーが女性を演じようとするあまり、グラスを手にしたときなど殊更に小指を曲げたり、笑うときに手の甲を口元に当てたりする、普通の女性はしない〝しな〟を見せる人工的な懸命さ・努力にある種通じていないことはない。
皇太子妃美智子がそのように演じたこと自体、それが既に〝美智子スタイル〟となっていたのだが、美智子の子供の紀宮以下、紀子、雅子と皇室の女性が同じスタイルを踏襲していくことによって、〝美智子スタイル〟は皇室の女性が見習うべき正統性、もしくは基準の地位を獲ち取ることとなった。
秋篠宮妃紀子が皇后美智子にそっくりな、いや、それ以上に意識的に懸命に目を細め、懸命に口許に優しげな笑みの形をつくり、会釈も話す口ぶり(抑揚)もそっくりといった所作を見せていることは、皇太子妃としても皇后としても高い評価を受けてきている美智子を目指そうとする意志の表れであろう。その意志が皇后美智子と同じ高い評価を得ようとする、そのことだけにとどめた種類のものなのか、あるいはそれを超えて皇后という地位まで希望して――とまで行かなくても、雅子よりも自分の方が皇后にふさわしいのではないかとの思いがあって、その思いが否応もなしにそっくりさんを演じさせ、高い評価と共に地位にふさわしい態度・物腰を持っていると認知されたい意志からなのか。
後者だとすると、皇位継承権第3位の男子を得て、ふさわしいとする意識と自信をさらに強めたことは間違いないだろう。当然、立ち居振る舞いの点でも、対人距離的にも皇后美智子になお一層近づこうとして、自分の中でイメージした皇后のそっくりさんを今まで以上に演じることになるだろう。皇后との結びつきを心身共に強め、皇后と似た自己を形成することで、そのことを以てふさわしいとする想いを正当化しようとするだろうからである。
雅子も皇后美智子と似た物腰(=美智子スタイル)を見せるが、皇后そっくりという点で紀子ほどには完成されてはいなくて、自分を残している。紀子ほどの念入りさ・徹底さがない。外交官の血を断ち切れていないからだろう。紀子には美智子にそっくりであると言うこと以外、自身がどこにも見当たらない。〝ふさわしさ〟を演じきっている。それはなぜか都庁職員の黒田さんと結婚した紀宮以上のなりきりに見える。
秋篠宮が天皇を受け継いだなら、紀子は現在の皇后である美智子以上に皇后役を全うするに違いない。既に自分の物腰に自信たっぷりな気配を十二分に漂わせた、皇后美智子にそっくりの立ち居振る舞いを演じ切れているからである。
雅子自身が外交官の血をどうしても断ち切れない(これ以上籠の鳥となることができない)ということなら、離婚も選択肢の一つかもしれない。外交官の仕事に復帰するのに年齢的に遅いということはない。あるいは離婚という形で皇籍から離脱した、男性ではなく、特に女性を受け入れるだけの進取の気性は望めないに違いない保守的な自民党には立候補のチャンスはないだろうが、当選したら〝次の内閣〟での外務大臣就任を交換条件に民主党から選挙に打って出て、当選間違いないだろうから、外国訪問して外交活動で自己の可能性に再度挑戦するという道もある。
皇太子夫妻が離婚というハプニングは、皇族も喜怒哀楽、愛憎を抱えた同じ人間であること、同じ男女だということを国民に思い知らせて、権威に対して無闇有り難がる特別視を剥ぐ効用を与えるに違いない。
皇太子としたら、離婚後頑丈な腰をした若い女性と再婚して男子が生まれるまで子づくりに挑戦し、秋篠宮とその子悠仁から皇位継承権を奪い返す――というのも面白い展開ではないだろうか。