少子化で赤紙時代到来?

2006-09-17 04:40:35 | Weblog

 「少子化の進行で、日本の労働人口は減っていく。日本総合研究所の試算によると、経済成長率を1%台半ばと想定した場合、(20)15年に見込まれる日本での人手不足は520万人にのぼる」とする新聞記事(『新戦略を求めて・第3章 グローバル化と日本③ 人材確保外国から』(06.8.29.『朝日』朝刊)がある。記事は「不足分は女性、高齢者、若者の就労促進などで対応するのが最良だが、外国人の労働力にも頼らざるを得ない。グローバル化の中で、優秀な人材、留学生に来てもらうことは日本経済にとってプラスになる。長期的な視点から、外国人受け入れ戦略を練り直す時がきている。(編集委員・竹内幸史)」と提言している。

 提言はあくまでも提言であって、「最良」だとする「女性、高齢者、若者の就労促進」といった国内課題と「優秀な人材、留学生」等による「外国人受け入れ戦略」をうまく噛み合わせて将来的な労働人口不足をクリアできるかの各政策の実効性と、それが日本の経済維持の有効成分とすることができるかが問題となってくる。

 労働人口減対策の一つである留学生受け入れに関する記事が8月20日の『朝日』朝刊(06年)に載っている。

 『アジア留学生に奨学金 2千人国支給 日本で就職促す』

 「中国、韓国などアジア諸外国の優秀な人材に、日本企業にもっと来てもらおうと、日本の大学で学ぶ留学生への無償奨学金制度を経済産業省・文部科学両省が始める。大学・大学院に、採用意欲のある企業と提携して、留学生向けの専門講座やビジネス日本語講座などの2年間の特別コースを新設してもらい、その受講生1人当たり、住居費分、学費免除分、生活費などつき計20~30万円相当の支給を検討中だ。支援対象は2千人と想定している。
 特別コースは企業の中核を担える人材の育成が目標で、電気・IT産業界、環境関連産業など特定分野の企業群と提携し、それらのニーズにあった専門性の高い授業を想定。また、留学生の日本企業就職率が伸びない理由となっている、日本語の力不足や企業風土の特徴をあまり知らないことなどを解消するため、特別コースには実用性の高い日本語会話の授業や日本の企業文化などを教える授業のほか、インターシップ制度も盛り込んでもらう。両省が授業内容を審査し、奨学金制度を適用するかどうか決める。
 両省は関連予算として07年度予算の概算要求に約60億円を盛り込む方針。この中には、同じ目的で、既存の国費留学制度を使っている留学生らが無料参加できる就職支援プログラムも加える。
 経産省によると、04年度は約3万人の留学生が日本の大学・大学院を出たが、日本国内で就職した留学生は約5700人にとどまった。留学生支援策の拡充でアジアの優秀な人材の定着を増やそうとしている。(福間大介)」

 「20~30万相当」の無償奨学金制度とは思い切った支援であり、優秀な留学生獲得のための涙ぐましい努力を窺わせもする姿勢と言える。できることなら月8万円そこそこの国民年金生活に代えて、外国人と偽って「20~30万相当」の生活を手に入れたいものだが、書類の偽装はできたとしても、年齢は偽装不可能だから、一発で詐欺罪で逮捕というザマにならないとも限らない。

 経産・文科両省が「留学生の日本企業就職率が伸びない理由」に挙げている「日本語の力不足」は留学が希望に満ちた主体的選択であるなら、希望の度合い、主体的姿勢の度合いに応じて日本語力は発達するものであるし、なおかつ不足していても、卒業後も日本に希望を抱いていたなら(=夢を失っていなかったなら)、不足分を身振り手振りの身体コミュニケーションで積極的に補い、生活の進行と共に解決できる問題であろう。製造現場では日本語を知らないたくさんの外国人がさしたる不自由なく働いていることがその証明となる。彼らは一般日本人よりも低く抑えられている水準ではあっても母国では獲得できない高収入であることを目的に希望を持って出稼ぎに来ているのである。その希望と収入が支えとなって、積極的に仕事と日本語獲得に取り組んでいる。

 「理由」の二つ目として「企業風土の特徴をあまり知らないこと」を挙げているが、「企業風土の特徴」を知るのは就職してからのことで、「伸びない理由」とするには矛盾が生じる。就職はするものの、退職率が高いということなら、その理由とするには矛盾はない。

 いわば「日本語の力不足や企業風土の特徴をあまり知らないこと」を「留学生の日本企業就職率が伸びない理由」とすることは少々、いや、大分ズレているのではないか。

 入社試験は受けるものの、日本語が壁となって合格率が低いと言うことなら、企業の試験制度に問題があるということになる。企業だけではなく、高校・大学も試験の結果のみで受験者の能力を測る点に問題がある。試験の質問が違えば、結果も違ってくるごく機会的な審査であることを無視している。

 大体が日本語不足ということなら、企業就職に到達する以前に、大学・大学院の単位取得もままならないだろうから、卒業到達も怪しくなる。日本で勉強するにも就職するにも、日本語能力獲得を前提としなければならない。このことは日本人が外国の大学に留学する場合も同じであろう。留学を決めたときから、相手国の国語をある程度は勉強するのが一般的な方法のはずである。

 と言うことは別の問題が障害となっていると考えなければならないのではないだろうか。

 日本の大学・大学院に留学した外国人学生の多くが卒業後日本の企業に就職せず母国に帰る傾向は前々から言われていることで、いわば日本企業低就職率は伝統化している現象でもあるだろうが、中には日本は兎に角もアジアの最先進国であり、日本留学を母国で活動する場合の箔付け・ステータスシンボルと位置づけていることからの、言ってみれば最初から一時的滞在と決めた留学も相当数含まれているに違いない。そういった留学生を除いて考えなければならない。

 問題は留学前は反日ではなかったが、「日本に留学すれば、反日になる」という中国の「留日反日」という言葉が最も鋭く象徴している、日本で学ぶことを夢見、実際に学んでみて、当初の大学、もしくは大学院を卒業したが、既に日本、もしくは日本人に失望していて、卒業が我慢の産物でしかなかった、その成果を抱えて帰国していくといった留学生、最悪の場合は反日感情を抱えて帰国していく留学生の存在を企業入社試験にまで到達させていない理由に挙げなければならないのではないだろうか。

 言葉の壁よりも、生活習慣の違いよりも、何よりも問題なのは日本人との人間関係に馴染めるかであろう。いくら希望を抱き、夢を描いた留学であったとしても、人間関係が阻害したなら、夢も希望も泡と消える。日本で生活する間、ついてまわる基本要素である。生理的な忌避感、あるいは嫌悪感から逃れるには、日本から出て行く以外に解決の道はない。

 言葉や生活上の文化の違いは解決できる問題である。豚肉を食さない文化で育ったということなら、食べなければいい。しかし会社の忘年会などで酔った上司が、郷に入れば郷に従えだ、日本で生活していくんだったら、豚肉を平気で食うようにならなければならない。こんなうまいものを一生知らないなんて、不幸だよ、一度食べたら、味を教えた俺に感謝するさとしつこく強制したとしたら、その強制はそのことだけに限らないその上司の人間関係全般に関係した文化として他者に働きかけないではすまない。

 その文化とは、相手を独立した一個の人間と扱う対等性と対等性が必然とする相手に対する敬意の二つとも欠如させた関係性を自らの対人感受性とした文化であろう。

 〝独立〟とは誰にも侵すことができない・誰にも侵されないを要件としている。それを無視する対等性の欠如が逆に相手に応じて自分を上か下に置き、それを基準とした価値判断で上には従うが、下には従わせようとする意識を成り立たせて、そのような上下意識がまた対等性の一層の欠如へと向かう相互循環をきたす。

 日本の定住も国籍取得も容易に許さない法的な閉鎖性は日本人の外に対する心理的な閉鎖性が反映した制度でもあろう。そのような閉鎖性を抱えながらの留学生の受け入れである。閉鎖性の特徴的な現れが日系以外の流入と定住の遮断に向けた日系人に限った単純労働者の受け入れと定住許可なのは間違いない。

 それが例え遠い祖先の血であって、現地人との結婚で何分の1かに薄められていても、日本人の血が流れていることを唯一の正統的な権威とし、それに準ずる者として〝日系〟を受け入れながら、国の委託業務である外国人登録事務を改善してほしいという自治体の要望に「住民基本台帳のように簡単な制度にしていいのか。隣にわけの分からない外国人が住んでいたら、どう思いますか」(「移民送り出して120年で幕・日系子孫逆流、新たな貧困・国の冷淡ぶりに批判」(2002.12.12『朝日』朝刊)といった法務省の、日本人の血には権威・根拠は与えるが、外国人であることには変わらない単純労働者という地位・身分には信を置かない対等性の拒絶は明らかに日本人特有の権威性からの自分たちを日系人の上に置き、日系人を自分たちの下に置く態度であろう。

 日系人に対してもそういった態度である。製造現場での人手不足を補う何らかの方策を必要とした。そのカードが〝日系〟であって、多分100歩譲った決定だったのだろう。労働力不足がなければ、日本人だけでやっていきたい、外国人は誰も入れたくないというのがこれまでの基本的な姿勢(=単一民族主義)であった。

 このことは難民政策に於ける欧米と比較した難民の申請数の少なさがすべてを物語っている。アメリカがテロ対策の影響があるというものの、8万台の申請件数があるのに対して世界第2位の経済大国の地位にある日本の05年の申請者数は384件に過ぎない(認定者数46人、人道配慮による在留97人)。この数値は難民の日本に向けた信頼度・期待度が数値化された姿でもあろう。勿論、日本の難民に対するだけではない、日本人以外の外国人に対する排除姿勢に対応した難民側からの忌避意識が反映した数値でもある。外国人受け入れに排除意識がなくおおらかな気持ちがあれば、必然的に認定条件が緩められ、そのことに比例して認定件数が上がり、認定数も増えるだろうが、その逆の構図となっている。

 本質的には日本人以外の他処者を排除しようと欲する権威主義的な自尊意識と、将来的に労働人口の減少が見込まれ、「企業の中核を担える人材」として留学生をも育成の対象としなければならない政策上の必要性と果して齟齬をきたすことなく両立させることができるかである。

 権威主義的な自尊意識・上下意識は難民や〝日系〟に対してのみならず、様々な場面で演じられている。日本企業の国内、海外を問わない外国人幹部登用の低さ――これなどは日本人だけを優秀とする、いわば日本人以外は信用できないとする自尊意識(=自民族優越意識)が強く反映した人事政策であろう。

 アジア人や黒人を日本人の下に置き、自分を上に置く姿勢は彼らのアパート入居を嫌い、ときには拒否する姿勢となって現れている。そしてそのような外国人忌避は、健常者の障害者に対して自分を上に置く姿勢、障害者の健常者に対して自分を下に置く権威主義的な上下意識と響き合っている。上下意識は内と外との使い分けなく発揮されるからである。先進国と比較した障害者政策の極端な後進性、社会参加の少なさがそのことの証明ともなる。

日本人のアジア人に対する自尊意識・上下意識からの権威性がアジアからの留学生との人間関係を損ない、そのことが原因している日本企業就職率の低さだとしたら、カネの力でいくら留学生受け入れ条件を改善したとしても、根本的な解決策とはならないだろうし、そのことが災いして日本が決定的に労働人口不足に陥ったとき、ただでさえ外国人の流入を最小限に抑えて、子育てが終わった主婦、退職した高齢者で不足を補うことを「最良」としているのである、補いきれなかった場合の解決策として政治権力が解決を急ぐあまり、働いていない主婦や高齢者に対して自らの権威性・国家権力を発揮して再就職を強制する、いわば〝赤紙〟を突きつけない保証はない。

 現在でも労働人口不足に備えて次の総理を目指す総裁候補の面々が主婦や高齢者の再雇用を掲げているのである。主婦に対してならまだしも、20歳前後から60歳まで営々と働いてきたのだから、ご苦労様、定年後は旅行やその他の趣味でゆったりと過ごし、余生を愉しんでください、そうできるだけの年金は用意しますとするなら経済大国の名に恥じない豊かな国民として余生という名の指定席を確保できると言うものだが、その逆で、余生なしで働かそうとしている。経済的には豊かになっても、精神的には何と貧しい生活を強いられることか。政治家はその程度の意識しか国民に向けていない。お年寄りを大切にしようなどというスローガンは働かすための呼びかけでしかない。

 「お年寄り一人に対し生産年齢人口が4・8人という現在のレベルを50年間維持するためには、日本は毎年約1000万人の移民を受入れるか、または定年を77歳まで延長する必要がある」(「働く人の比率、50年後も維持するには――定年77歳に延長か移民1000万人受け入れか 『厳しい選択』国連予測」00.3.23.『朝日』朝刊))とする国連人口部の予測すらある。

 戦前、一方的な権威主義で以て赤紙一枚で国民を否応もなく戦争に駆り立てた前科があるだけではない。戦後の21世紀の自由と人権の時代に移り変わっても、愛国心で国民を集団的・権威主義的に統率したい衝動を疼かせているのである。あるいは公精神の涵養にとボランティア活動を義務づけて、同じく集団的・権威主義的に号令一下一つ行動に駆り立てる訓練にすべく国家意志を働かせている。再就職せよと〝赤紙〟を突きつける国家政策に従わない主婦や高齢者は白い眼を向けられ、従った主婦や高齢者を筆頭に働いているすべての国民から国賊、非国民の非難を浴びせられる戦前同様の光景を容易に想像してしまうのは、国民自身がそれぞれが独立した対等な個人であり、それぞれの意志は相互に尊重されるべきものであるとする独立性・対等性を行動判断(価値判断)としているのではなく、上に従い、下を従わせる権威主義を行動判断(価値判断)としていて、世の中の大勢・風潮に簡単に従い、横並びする習性を自らのものにしているからである。

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