あまりにも美しくない安倍晋三の頭の悪さ

2006-09-22 15:56:48 | Weblog

 9月22日(06年)の『朝日』朝刊に『安部政権への視点 上』に次のようなくだりがある。

 中曽根元首相と「共通するのは『占領憲法』へのいらだちであり、戦後日本社会への否定的な視線である。
 『やっと王様は裸だったと言えるようになった』。6年前、安倍氏は発足間もない衆院憲法調査会で発言した。現行憲法は、『大きな制約の中で制定された』のであり、それが『日本人の精神に悪い影響を及ぼしている』。
 近著でも『憲法改正こそが、「独立回復」の象徴』と書いた。改憲が後回しにされた結果、『地域への愛着、国に対する想いが、軽視されるようになってしまった』」――

 「地域への愛着」も「国に対する想い」も要求されてするものではない。「地域への愛着」、「国に対する想い」への要求を受けて従属したなら、それは単なる従属的選択、従属行為でしかなく、自律的・主体的行為からの発現とは異なる。いわば「地域への愛着」も「国に対する想い」も要求されてするのではない、自律的・主体的行為でなければ意味を成さない。

 自律的・主体的行動からのものではなく、要求された従属行為として行う活動が「地域」・「国」にどれ程に役立つというのだろうか。従属として行う活動は馴れ合いと腐敗だけを生む。現在の政治家や官僚がやらかしているようにである。

 要求が過度のものとなったとき、「地域」を絶対とし、「国」を絶対と位置づける危険な場所に限りなく近づいていくことになる。〝絶対〟との位置づけは全体主義の網をかけることを意味する。全体主義とは地域・社会・国家といったそれそれぞれの領域を一つの全体・すべてと把えて絶対化し、その絶対化の前に個人の権利・自由が力を失うことを言う。

 当然そこでは個人は全体に対する奉仕者と化す。自由・権利を失うことで個人は個人として存在することができなくなり、全体の一部に埋没させられるからである。

 戦前がいい例ではないか。個人の自由・権利を認めず、「天皇陛下のために・国のために」と全体への奉仕者とさせられ、戦争では命を投げ出すことを要求された。防空訓練や防火訓練、竹槍訓練、あるいは地域の奉仕活動に有無を言わせずに駆り立てさせられた。個人的用事で断ろうものなら非国民扱い、国賊扱いされ、村八分を覚悟しなければならなかった。国家権力の笠を着て訓練や奉仕活動を口実に権力を振りまわすミニ天皇と化したバカな日本人がゴマンといたからであり、またそういったバカに追従して虎の威を借りる何とやらで尻馬に乗って自分たちも権力を振りまわし、違反した者を無闇やたらと虐げた。そう、自分たちの偉さを見せ付けるために。そういったことでしか偉くなれなかった程度の低い日本人たち。

 また要求から生まれた〝従属〟は「独立」とは相反する概念を成す。安倍晋三は「地域への愛着」、「国に対する想い」を要求することで、日本人から「独立」に関わる精神性を奪って依存人間に仕立て、地域・国家なくして生きれない人間、地域・国家をすべてとする人間に変えようとしている。国家主義者である本人にとっては何ら矛盾ない政策であろうが、自由と民主主義・個人の権利を信奉する人間にとってはこれほどの矛盾行為はない。

 安倍晋三自身が「裸の王様」と化している。重要なことは上の人間の立場から下の者(国民)を従属させようとする自らの権威主義性を捨て去ることだろう。「地域への愛着」要求にしても「国に対する想い」への要求にしても、その現れとしてあるものだからである。

 日本人が権威主義的行動様式から解放されたとき、自律性・主体性の獲得が可能となり、そのとき初めて日本人は誰に対しても自律的・主体的に行動できる「独立の回復」を果たすことができる。国民一人一人の「独立」を「回復」した行動が国全体に及んだとき、国も「独立の回復」を果たし、どこの国にも追従しない自律的・主体的行動が取れるようになる。

 改正憲法や改正教育基本法でいくら安倍晋三が国家主義者だからといって、直接的には自由・人権の制限まで要求して、その言葉の削除を求めることはしないし、できもしないだろう。だが、「国を愛せ」、「地域に愛着を持て」と要求して国民が従属した場合、その時点で国民は自ら自由・人権を放棄したこととなり、その文言が憲法や教育基本法に残されていたとしても、単なる飾り言葉へと姿を変えるだろう。

それを狙っての「地域への愛着」、「国に対する想い」の要求なのだろう。我々日本人は戦後に至って初めて、戦前と同様の東条英機みたいな完璧な国家主義者・全体主義者を国の指導者として迎えることとなった。A級戦犯を擁護するわけである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする