「第89代」は誤りで、「第90代」でした。謝罪し、訂正します(06.9.27)
9月11日(06年)の日本記者クラブ主催自民党総裁選公開討論の要旨が翌日の朝日朝刊に載っている。歴史認識だけに限って拾ってみると、
「【歴史認識】
谷垣氏 日中国交回復のときに、中国は(日本の)戦争指導者と一般国民を分けて(中国の)国民に説明した。(A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝しては)説明がうまくいかないのだと思う。
安倍氏 日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんな(そのように)理解しているということではないし、やや階級史観風ではないかとの議論もあるのではないか。
村山談話は閣議決定した談話で、その精神はこれからも続けていく。個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべきだ。政府が(村山談話を)否定する談話を出さなければ、次の内閣もこの上に立って進めていくことになる。私は新しい談話を出すつもりはない。
谷垣氏 第2次世界大戦は、中国との関係で言うと侵略戦争だったことははっきりしている。 そこを前提に考えないと、安定した日中関係はつくれないのではないか。
麻生氏 満州国建国以来、南京攻略に進んだのは侵略と言われても止むを得ないことは歴史的評価がほぼ一定している。ただ、太平洋戦争と中国大陸とは混戦して話されるのでは、歴史認識としては難しい」
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谷垣氏が問題とした「日中国交回復のときに、中国は(日本の)戦争指導者と一般国民を分けて(中国の)国民に説明した」というくだりの説明が同じ新聞の隣接させた記事で詳しく解説している。大方の人は理解しているかもしれないが、そうでない人のために参考までに全文引用してみる。纏めるのが下手なもんで――。
『戦争指導者と一般国民分けて説明 安倍氏「中国側の理解」』(06.9.12.『朝日』朝刊)
「安倍長官が11日の公開討論会で、中国が72年の日中国交正常化の際に自国民を説得した理屈を受け入れないことを示したことは、日中外交当局間でいわば常識だった認識から逸脱している。安倍氏が首相になった場合の日中関係に影を落とす可能性がある。
中国は72年の日中国交正常化に先立ち、『日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった』との論理で、反日感情が強く残る自国民を説得した。周恩来首相(当時)が示した対日姿勢として知られ、『一般国民には罪がない』との立場から対日賠償請求を放棄した理由を国内向けに説明する際の根拠にもしている。
中国が小泉首相の靖国神社参拝に強く反発してきたのも、この論理を楯にしていた。戦争指導者と見なすA級戦犯が合祀された靖国神社に日本の首相が参拝すれば『侵略責任があるのは一部の戦争指導者だけ』という前提が崩れかねないとの懸念があったためだ。
王毅駐日大使は『A級戦犯は対外侵略を引き起こした象徴的存在であって、殆どが対中侵略に加担した。その扱いは日本の戦後処理、国際社会への復帰、中日国交正常化の原点に関わる問題だ』と朝日新聞のインタビューに語っている。
安倍長官は『文書としてそんな文書は残っていない。交わした文書がすべて』と語ったが、戦後の日中関係が外交文書の積み上げだけで成り立ってきたわけではない。実際、『軍国主義者と日本の国民は別』とした中国側の説明を踏まえる形で、小泉首相以前の首相が靖国参拝を控えてきた面がある。
安倍氏の発言については、日本政府関係者から『中国にとっては、戦争指導者と一般国民を分けるという整理は苦渋の選択だった。日本としてはこれによって賠償を求められず、仲良くやろうということになったのだから、歓迎すべきことだったはずだ』など、発言の真意をいぶかる声も出始めている」 (以上引用)
「安倍氏 日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんな(そのように)理解しているということではないし、やや階級史観風ではないかとの議論もあるのではないか」
この主張の中に安倍氏の戦争認識及び自分が理想とする国家観のすべてが込められていると言っても過言ではない。戦前の「日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解」であって、実態としては日本は国家元首である万世一系の天皇の統治のもと、政治権力層も軍部も国民も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟(『国体の本義』)であり、「階級史観風」に分化することは不可能な親密な近親関係にあった。〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟であったがゆえに国家の戦争の場面で一億総玉砕といった一つの運命を選択可能とする思想を上から下まで国民全てが受容することができた。
〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟思想は天皇陛下を国民の父と規定するもので、国民は一人残らず天皇陛下の赤子(乳飲み子)として暖かく保護されていた――。
断るまでもなく、「二つの層に分ける」ことの否定は、一方が有罪で、他方が無罪と言うことはあり得ない、有罪であっても無罪であっても、一方と他方を「分けること」は不可能だから、有罪・無罪どちらかを共有するという、いわば同時共有説に立っていることを示している。
国家権力層と一般国民を「二つの層に分ける」「階級史観風」分化否定の〝国体〟(=〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟)にとっての望ましい国民像は、まさしく国家権力が如何ようにも制御可能な判断能力の持ち主である赤子(乳飲み子)なる成育状態の存在でなければならなかっただろう。いみじくも天皇と国民の関係を父親と赤子(乳飲み子)と規定したもので、これ以上の関係はない。国民はあやされる存在であった。安倍晋三もすべての国民に愛国心(=〝国を愛する心〟)を植えつけて、逆に国民を愛国心であやそうと言うことなのだろう。
問題は中国が「日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった」とした戦争認識を安倍晋三(心臓?)が戦争指導者と一般国民を「二つの層に分ける」「階級史観風」分化を否定し、戦争指導者と一般国民を一体とする、あるいは運命共同体とする立場から、戦争指導者も一般国民も「戦争の被害者だった」と無罪判決を下す立場なのか、戦争の加害者だったとする有罪判決側に立つのかである。
中国側の「軍国主義者」が日本側から規定すると戦争指導者なる言葉と化すが、この一事を以てしても日本側が戦争から侵略の部分を如何に薄めようとしているかが分かる。
安倍氏の戦争指導者(中国側から言えば軍国主義者)に対する認識は次の新聞記事が伝えている。A級戦犯は「『日本において彼らが犯罪人であるかといえば、それはそうではないんだということだろう』と国会で答弁している」(『靖国「小泉後」安倍氏に重責 参拝明言せず A級戦犯犯罪と認めず』(06.8.6.『朝日』朝刊)
これは麻生氏とも通じ合う認識・解釈である。「『少なくとも日本の国内法では犯罪人扱いの対象になっていない。戦争犯罪人とは、極東軍事裁判所の裁判によって決定された犯罪者だ』」(『戦争総括「小泉後」は 有力閣僚、「侵略」には留保も 「歴史家の判断待つ」』06.2.22.『朝日』朝刊 時時刻刻)
いわば安倍氏は中国側の「日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった」とする軍国主義者と一般の日本人とを「二つの層に分ける」認識を否定して、戦争指導者も一般の日本人も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟の同じ一員であり、両者とも「戦争の被害者だった」と、戦争指導者を限りなく「戦争の被害者だった」「一般の日本人」に近づけて、無罪同時共有説を打ち出しているのである。
口ではグローバリズムを唱えながら、あるいは複数の外国と価値観の共有を言い立てながら、それはそうしなければ日本が世界の中で政治的・経済的に存立できないからで、本質的な精神は「日本においては」とごくごく狭い日本一国主義に染められている。
安倍氏は「12日の記者会見で、日中国交正常化の際に中国が日本の戦争指導者と一般国民を分けて自国民を説得したことについて『日中正常化の際、それを前提としていたかどうかといえば、それは前提ではないだろう』と述べ、この区別が正常化を下支えしたとする考えを改めて否定した」(『戦争と国民区別「前提なかった」安倍氏』06,9,13.『朝日』朝刊)ということだが、これは中国側の戦争解釈、いわば周恩来〝二分説〟を日中双方が理解しあった上で日中国交正常化が成り立ったとする説の否定であって、その否定の上に中国・周恩来の〝二分説〟(安倍氏のA級戦犯無罪説に都合をきたす中国側の日本の軍国主義者単独有罪説)の否定を築き上げるべく補強した主張であろう。
要するに周恩来の〝二分説〟を認めると、A級戦犯無罪説が成り立たなくなる相反関係にあることからの極めて便宜的な「前提」否定に過ぎない。
同じ記事が安倍氏の否定理由を次のように伝えている。「安倍氏は『条約などを結ぶ際に色々と議論がある。「我が国がこう言ったよ」ということであれば、文書で残すのが普通だ』と語り、改めて経緯が文書化されていないことを根拠に挙げた。『私が会談の場にいないから、やりとりは知らない。私が知りうる情報は文書がすべてであろう。外交とはそういうものだ』とも語った」
とすると、日本が国際復帰を果たす条件として「第十一条【戦争犯罪】 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し――」と規定したサンフランシスコ平和条約にサインする必要から、不本意ながら東京裁判を受け入ざるを得なかったとする東京裁判否定の主張は日本とその他のサンフランシスコ平和条約締結国との間で文書化されていないことを以て、外国政府を含めて誰もが否定し得る主張と化す。その主張を後世に正当な主張として伝えるためには、締結国との間で緊急に文書化することを課題としなければならない。
無罪同時共有説を裏返すなら、「一般の日本人」を「戦争被害者だった」とする規定から外して、「軍国主義者」の煽動のもと「中国侵略」に同調・加担して、共犯者の立場で積極的に戦争行為に参加したとする方向――有罪同時共有説の方向へ限りなく近づける解釈の否定でもある。私自身は国民も戦争責任があるとする有罪同時共有説に立っている。
無罪同時共有説を正当とすると、戦後のメディアが、戦前の自分たちを政府・軍部に媚び、率先追従して国民を戦争に駆り立てる一大愛国キャンペーンの展開を専らの使命としていたとする自己総括とコンプレックスは見当違いな錯覚ということになる。「我々も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟の一員。A級戦犯も被害者、我々も同じ戦争の被害者なのだ。真の加害者は日本を戦争へと追い込んだ欧米の帝国主義国家・植民地主義国家なのだ」と開き直るべきだろう。
A級戦犯容疑を受けた祖父である元首相岸信介の影響なのか、戦後生まれであるにも関わらず、A級戦犯を無罪とすることで戦前の日本の軍国主義とその対外表現であった戦争が持っていた侵略性・領土拡張意志を、中国・周恩来の〝二分説〟を否定したのと同じ論法で〝無罪同時共有〟とする、いわば過ちなきとする日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を自らの哲学、あるいは精神としている。
日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を自らの信念としているからこそ、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならない」といった個人性としてある資質を国民性・民族性と置き換えるマヤカシを平然と犯すことができる。
「個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべき」とする態度を必要とするのも、自らの哲学、精神に破綻をきたさないため、あるいは否定されないためだろう。中国・周恩来の〝二分説〟を「階級史観風」だと否定する歴史解釈を自ら行いながら、「歴史家に任せるべき」とする矛盾は自らにとって都合の悪い点に関しては先送りするご都合主義以外の何ものでもない。政治家らしいご都合主義だとするなら、確かに政治家らしいご都合主義と言える。
侵略戦争の否定、A級戦犯無罪説によって表される戦前的なものの肯定はそのままストレートに〝天皇の国〟の肯定に行き着く。それらを含めてこそ、日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を成り立たせる条件を獲得することができることができる。
また戦前的なものの肯定が「戦後レジーム(体制)からの新たな船出」という歴史の塗り替えを必要とするに至っているのだろう。
当然、安倍晋三の「美しい国」の理想のモデルは戦前の「天皇の国」となる。