過去の美化につながる「そういうことはやってはいけないという社会の約束事」のいかがわしさ

2006-09-02 02:33:31 | Weblog

 8月29日(06年)だったか、昼のTB S番組で漁業関係者による密漁問題を取り上げていた。農産物の盗難事件は小屋に貯蔵しておいたコシヒカリとか山形の高級サクランボが収穫前にごっそりと枝からもぎ取られてとか度々報道されている。寒天の原料となるテングサの盗難事件も以前あった。資格のない者の海産物の密漁に関しては今に始まった出来事ではなく、前々から報道されていることで、我が日本の誇るべき一種の歴史・伝統・文化となっている犯罪であろう。歴史・伝統・文化はプラスの姿を取るものと決まっているわけではない。

 アクアラングにウエットスーツ、酸素ボンベのスキューバーダイブ姿で一般人の密漁が簡単な時代となっているが、禁漁区や禁漁期間を承知しているはずの漁業関係者がそのような制限下の禁漁を侵す形での密漁が結構多いということで、テレビで取り上げる価値が出てきたということだろう。漁業関係者の中には漁業組合長がいたり、他処の漁区の組合長が獲ってきたら買ってやるからとけしかけて密漁させたといった事例もあると報道していた。勿論密漁対象はアワビとかウニとか、あるいはタコといったカネになる高級魚介類である。この手の犯罪はカネになることを動機としてカネにすることを目的に引き起こされるものと相場は大体決まっているが、発覚した場合は社会的地位を失ったり、懲戒免職等を喰らって、生活の手段ばかりか、貰うべき退職金まで失って、差引き大損と言うことになる。それでもこういった犯罪がなくならないのは、犯す者は発覚しないという前提で行うからだろう。それに発覚せずに済ます、うまくやったという人間が結構いるのではないだろうか。

 関係者の犯罪は何も密漁に限ったことではない。警察官が証拠品を脅しの材料に使って事件関係者の女性に関係を迫ったり、架空の捜査協力者をデッチ上げて捜査協力費をさも支払ったかのように書類操作し、浮かしたカネを飲み食いに使ったり、銀行員がパソコンを操作して架空の出入金を繰返して顧客の預り金を誤魔化したり、官僚が部内の予算を誤魔化して私腹したりと、例を挙げたらキリがない。いわば漁業関係者の密漁にしても、あるはずはない犯罪ではなく、別に驚くに当たらない。今回ロシアに拿捕された漁船は密漁の疑いで取り調べを受けている。

 あってはならないという観点から言うなら、如何なる犯罪も関係者であろうとなかろうとあってはならないことで、関係者だからあってはならないとしたら、関係者でなければ、侵すのは当たり前ということになったり、情状されるということになったりする。

 農産物の盗難事件にしても、まだ枝に実をつけたリンゴとかの場合は強引に引きちぎっていくのではなく、専門家がハサミで切り取ったかのようにきれいに〝収穫〟(?)されている場合もあり、同じ農業関係者ではないかと推測されているケースもある。

 この手の報道番組はコメンテーターなるものが雁首を揃えていて、一言言って締める。何評論家だか知らないが、テレビでよく見かける大谷昭宏とかのオッサンが、「そういうことはやってはいけないという社会の約束事があったが、そういった社会の約束事がいつの間にかなくなってしまった」と、そういった社会の約束事の喪失がこの手の事件を引き起こしているかのようなアホなことをさも小賢しげにのたまわって嘆いてみせた。

 どのような犯罪であっても、それが軽犯罪の部類であっても、「そういうことはやってはいけないという社会の約束事」が機能せず、破綻した状態を言うのであって、それが〝今まで〟機能していたとするなら、犯罪のない時代・世の中が存在したことになる。

 ちょっと考えれば分かることを分からないままにコメンテーターを務め、いい加減な情報を全国にタレ流している。

 例えば人間は一生のうち何度かは殺してやりたい程の殺意ある憎悪を人に向けて燃やすことを経験するだろうが、一度もない人間は幸せだが、殺意や憎悪を抱くことまでは許されるとしても、そこから先殺意を具体的な形で現すことはどのような事情があれ許されることではない。それが殺人に関わる「そういったことはやってはいけない社会の約束事」であろうが、それが機能しないままに延々と繰返され、今後とも機能しないままに繰返されていくだろう。

 旧約聖書創世記中のアダムとイブの長子カインは人類最初の殺人者と言われているが、その相手は弟のアベルであり、動機は弟アベルが捧げた供物が自分の供物よりも神に喜ばれたことへの怒りと嫉妬となっている。怒りも嫉妬も抑えようもない人間の感情としてあるものだが、他の事で浄化すべきを殺人という「やってはいけない社会の約束事」を侵すことで浄化を図ってしまった。旧約聖書の時代から「約束事」は機能していなかったのである。

 犯罪を取締まる法律とは「そういったことはやってはいけない社会の約束事」を羅列・明記した通告、もしくは警告であろう。そのような「社会の約束事」がいつの時代にも機能せず、空文化した状態で存在しているだけだからこそ、それぞれの時代状況・社会状況に応じて新たに書き加えた内容とし、社会に知らしめていかなければならない。酔払い運転で他人の生命を巻き込んで死に追いやる「約束事」を守らない事故は今に始まったことではなく、交通取締法で罰則をいくら強化してもなくならない、延々と引き継がれている事故事例であろう。

 江戸時代には『公事方御定書』なる取締法があった。それには次のような条項がある。 

 賄賂差し出し候者御仕置の事

一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に
  取持いたし候もの軽追放 
  但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、
  賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ
  侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事
  。

 盗人御仕置の事
一、人を殺し盗いたし候もの 引廻の上 獄門
一、追剥いたし候もの 獄門
一、手もとニこれ有る品をふと盗取り候類
  金子ハ拾両より以上、雑物ハ代金に積り拾両位より以
  上ハ死罪金子ハ拾両より以下、雑物ハ代金に積り拾両
  位より以下ハ 入墨・敲(たたき)

  人殺し並に疵つけ等御仕置の事
一、主殺二日晒、一日引廻、鋸挽の上磔
一、主人に手負候もの 晒の上磔
一、親殺 引廻の上磔

 右の趣上聞に達し相極め候。奉行中の外他見有るべからざ
 るもの也。(徳川禁令考)

 当然のことながら、贈収賄も行われていたし、盗み、追剥ぎ、金品の掠め取り、主殺し、親殺しにも触れている。中学生や高校生の子どもの親を殺す事件が最近多発しているが、江戸時代にもあったことで、違いがあるとしたら、推測でしかないが、殺す側の子どもの年齢が低下していることぐらいではないだろうか。もし低下しているとしたら、時代的な情報化とそのことが影響した権利意識が大きな原因を成しているに違いない。勿論間違った権利意識だが、それがかつてのように親を怖い存在とはしない要因を成していて、歯止めを失わせているといった事情もあるだろう。

 「親を殺すなんて我々の時代には考えられなかった」と評論家先生の誰だかがコメントしていたが、若かりし頃の時代は勿論件数は少なかったろうが、今の時代のように情報として現れることが少なかったと言うことではないだろうか。地元の有力者に頼んで、ちょっと警察に圧力をかけて貰えばニュースとして世間に出ることを抑えることができた時代がかつては存在もした。地域の恥だと、周りの人間が一致協力して偽証をデッチ上げ、迷宮入りにしてしまったといったこともあったかもしれない。時間を過去に遡る程に社会は閉鎖社会の姿を取り、自らの恥じになることに他処者の手が入るのを拒もうとする力が働いていた。東京裁判否定も、そういった意志が働いていることは確かである。そのような意志の働きの上に日本の負の歴史を抹消して無誤謬にしたい最終意志を覗かせている。自らの手で戦争を総括しないのはそのためだろうし、日本を世界の一社会と見た場合、西欧社会と比較して閉鎖社会を形成していることがその原因にもなっているのだろう。

 今のこのような情報化時代であっても、犯罪の隠匿が完全になくなったわけではない。殺人までは隠さないだろうが、学校が教師の生徒に対する性犯罪を隠したり、警察が警察官の犯罪を隠したり、企業が自らの不祥事や自社製品の故障や事故を隠したりする。内部告発制度がなかったら、どれ程の不祥事・犯罪が隠されたままで終わったことか。

 よく知られているように江戸時代は不義密通は御家の御法度とされ、相手の密通男の切捨て御免が許されていたが、裏を返せば、公に御法度としなければならない程に武家の妻女の不義が横行していたということだろう。不倫にしても今の時代のみの問題ではなく、「そういうことはやってはいけないという社会の約束事」は機能していなかった。

 当時素人売春を斡旋する者がいて、人通りの少ない裏通りに仕舞た屋(しもたや・商家ではない普通の家)を一軒用意しておいて、男の客があると先ずそこに案内しておいて、小僧を使に出して亭主が外に出て働いている主婦に伝えて後からそこに向かわせる、今の時代でいう主婦売春も行われていたと言う。

 亭主が承知で生活費稼ぎに行っているといったケースもあったろうが、内緒の生活費稼ぎなら、発覚しないことを前提に行っている邪事ではあっても、発覚することもあっただろうから、切った張ったといった修羅場も発生しただろうし、それが三行半(離婚沙汰)にもなったろうし、傷害事件やときには殺しにまで発展してしまったということもあったに違いないだろうことも今の時代と変わらなかったろう。

 明治・大正・戦前の昭和の時代も政治家・官僚の犯罪・スキャンダルは戦後昭和の昭電疑獄(1948)、造船疑獄(1954)、売春汚職(1957)、武州鉄道事件(1961)、日通事件(1968)、ロッキード事件(1976)、撚糸工連事件(1986)、リクルート事件(1989)、共和汚職事件(1992)、東京佐川急便事件(1992)、金丸脱税事件(1993)、防衛庁汚職事件(98)、KSD事件(01)、日歯連不正献金事件(04)、防衛施設庁官製談合事件(06)等々、同程度の頻度で発生している。「そういうことはやってはいけないという社会の約束事」など、薬にもならなかった。

 大谷昭宏の主張は過去の日本人及び過去の日本社会を善とし、現在の日本人及び日本社会を悪とするものであろう。これは過去の日本人及び日本社会の美化・無誤謬化に当たる。但し、本人は過去を美化しているとも無誤謬化しているとも露ほども気づいていないに違いない。日本の戦争を語るときそれを侵略戦争と見ていなければ別だが、見ていたなら、日本兵が「そういうことはやってはいけないという」通常の戦争行為に於ける〝約束事〟を外れて、如何に残忍な行為に及んだか、過去の悪を語るに違いない。

 そのような矛盾は一つの出来事を語るとき、時代や社会を超えた不変性としてある人間の姿・本質から取り掛かるのではなく、出来事とそれが起きた時代や社会に囚われた視線のみ、あるいは起きた時代や社会に限定した視線のみで解釈することによって生じる矛盾であろう。今の社会の密漁を語るとき、現在の時代や社会にのみ視線を向けて解説する。そこから過去の時代・過去の社会に密漁がさも存在しなかったかのような主張が展開されることになる。

 過去の美化・過去の無誤謬化は一歩誤ると、日本民族優越論に発展しかねない。客観性なき御都合主義の日本人は戦後の日本が基本のところでアメリカによってつくられたことを今の時代の利己主義・犯罪の蔓延の原因とし、アメリカ的なものを取り除くことによって元のよき時代・よき社会に戻るとしている。いわば日本的なるものの絶対化である。

 元々よき社会・よき時代など存在しなかった。絶対的な日本的なるものも存在しなかった。アメリカなるものを取り除くとは、虚構・幻想の類でしかない日本民族優越論を正当化するための単なる責任転嫁に過ぎないことに気づきもしない。

 昭和12年発行の『国体の本義』では今の世界の混乱は西洋の個人主義(=「個人本位の思想」)の行き詰まりから生じたものだと欧米文化、西洋思想を排斥して、その打開の唯一の道が「万世一系の天皇皇祖の神勅 (神のお告げ・天照が皇孫瓊瓊杵噂―ににぎのみこと―を下界に降ろす際に八咫鏡―やたのかがみ―と共に授けた言葉)を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体」のみであると説いて、神とした天皇こそが倫理的・精神的・政治的中心にあることを改めて訴えて、その天皇の名のもとに国家権力が恣意的にすべてを行う国家主義体制を強め侵略戦争へと突き進んでいった。

 そして多くの保守政治家がかつての日本の国の姿に郷愁を感じている。憲法や教育基本法の改正の基本意思を成している「基本的人権の尊重が利己主義的風潮を生んだ」とか、「個人主義が戦後の日本で正確に理解されず、利己主義に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまった」とか、「物質的豊かさの中で、戦後民主主義が生み出した極端な個人主義が蔓延し、日本人の精神的支柱が失われつつある」とか、戦前の日本が『国体の本義』で訴えたデマゴギーに重なる、そこに集約したい当てにもならなかった「精神的支柱」(天皇、日本の歴史・文化・伝統)を掲げて、大谷昭宏が言うところの、「そういったことはやっていけないという社会の約束事があった」とするかつての天皇中心の、これまた虚構・幻想の類でしかない古きよき日本への回帰を心に疼かせている。

 大谷昭宏は自分では意図していなくても、「そういうことはやってはいけないという社会の約束事があったが、そういった社会の約束事がいつの間にかなくなってしまった」とする情報をタレ流す間接的な日本の過去の美化・過去の無誤謬化によって、今の国家主義的政治家を勇気づけ、日本民族優越論の正当化に手を貸していることになる。

※個人主義=individualism.個々の人格を至上のものとして
 個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務
 と責任の発現を考える立場⇔全体主義。(『大辞林』三 
 省堂)

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