『ソフト開発脱「社内」 「オープンソース」増殖』(06.8.30.『朝日』朝刊)という見出し記事がある。コンピューターソフトを一つの企業内で開発するのではなく、ネット上にオープンにして、基本ソフトのリナックスと同じように開発に誰でもが参加できて力を合わせて最良の製品に仕上げ、誰もが無料で利用できるようにする「オープンソース方式」の開発の動きが日本でも広がり始めたという内容の記事である。利益は「システム開発会社などから不具合が起きた際のサポートサービス付きで購入」してもらうことで上げる。
その中の別囲みで「視点 『輸入国』日本に好機」なる解説記事がある。
「ものづくり大国を自負する日本だが、ソフトウエアは輸入額が輸出額の100倍を越す極端な輸入超過。インドや中国に到底太刀打ちできないという悲観論もある。そのなかでオープンソース方式のソフト開発は、他流試合の経験を積む絶好の機会といえる。
PHP(オープンソース言語)ユーザー会で、最新の技術動向を紹介したパネリストの多くは、振興ネット企業で働く20代から30代前半のプログラマーだった。そんな草の根活動が、日本のソフト力を向上させる一歩になるかもしれない」――
「ものづくり大国を自負する日本だが、ソフトウエアは輸入額が輸出額の100倍を越す極端な輸入超過。インドや中国に到底太刀打ちできないという悲観論もある」とは驚きである。日本の歴史・伝統・文化を優越したものだと誇る美しき大国日本の現実とは思えない。そのような現実はあってはならないことだろう。それらを絶対だと掲げる安部晋三以下の政治家はウソをついているウソつきということになるが、美しいウソとして許し、止むを得ないウソつきと許すべきか。
日本の教育が暗記教育を制度としていることから考えると、「輸入超過」も「悲観論」も当然の成果と言えなくもない。いや、当選の成果であろう。機会あるごとに言っていることだが、暗記教育とはなぞり(モノマネ)教育――教師が提示するコマ切れの項目的知識を単になぞって暗記していく(そのままマネる)だけの教育であって、そこには教師から生徒への言葉の一方通行はあるが、教師と生徒とが双方向的にお互いに言葉をキャッチボールし合うことで言葉の内容を高め合っていくことがないために、与えられたコマ切れ知識の外に飛び出していくような生徒の想像力(創造力)を刺激するどのようなプロセスも導き出し得ないからである。
その一つの証明となる上記記事から3日後の記事がある。
『小学生調査 数式理解力に課題 計算技術は98年と同等』(06.9.2.『朝日』朝刊)
「単純計算よりも理解力に難点――文部科学省所管の財団法人『総合初等教育研究所』が全国の小学生約9千人を対象に実施した計算力調査で、単純に数式を解く計算技能よりも、計算技能を支える『理解力』に課題があることが分かった。理解力を試す問題では正答率が3~6割と低いものもあった。単純な計算技術については、98年の調査結果とほぼ同じ水準だった。
同研究所が1日、発表した。この結果について、同研究所は、学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれたためとみている。
調査は、小学校36校の1~6年を対象に昨年3月実施。どの学年にも、計算の意味や演算の決定などの理解力をみる文章題と計算技能をみる数式問題の計約30問を出した。
調査結果によると、計算技能については、どの学年も大半の問題で正答率が7割以上となった。理解力については、設問のうち2割が正答率6割以下だった。
これら理解力を見る文章題の典型例は表(―省略―)に示したもので、数式の意味などを理解する力が不足しているとみられる。
計算技能の問題で、同研究所による98年調査時に出したのと同じ約10問と比較すると、平均正答率は1~4年生で1~3ポイント上昇した。5,6年生はほぼ同程度だった。
調査に関わった筑波大学大学院の清水静海助教授(算数・数学教育)は『理解力を伸ばすには国語の授業と協力するのも一つの方策だと思う』とはなしている(及川健太郎)」――
しかしこの手の内容の記事は前々から繰返しマスコミが取り上げているものであって、その点日本の美しい歴史・伝統・文化となっている記事の繰返しと言えなくもない。計算能力はまずまずだが、多角的見方が劣るとか、文章理解に欠けるとか、そういったところが歴史認識ならぬ日本の教育認識となっている。
問題点を要約してみると、
①「単純な計算技術については、98年の調査結果とほぼ同
じ水準だった」
②「計算技能については、どの学年も大半の問題で正答率
が7割以上となった。」
③「理解力については、設問のうち2割が正答率6割以下」
で、「数式の意味などを理解する力が不足しているとみ
られる。」
「単純計算よりも理解力に難点」という能力格差は「同研究所は、学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれたためとみている」としている。
この説明一つに日本の教育が如何に暗記教育で成り立っているか、そして日本の「学力」とは暗記知識の学力を指すということを如実に証明している。尤も「総合初等教育研究所」は少しもそのことには気づいていないようだが。日本の歴史・伝統・文化が絶対ではないことを安倍晋三以下が気づいていないのと同じである。
「計算技能を伸ばす指導」は時間をかけた機械的な反復訓練で解決可能な課題である。そこにあるのは強制的な暗記のプログラムのみである。お手やお座りができない犬に命令の言葉をかけながら前足を取ったり、尻を押さえて座らせたりの反復訓練を施して覚えさせるのと本質的には同じ構造の学習方法であって、成果が約束されなければならない「指導」であるが、それでも「正答率は7割以上」にとどまっている。犬に譬えるなら、お手は覚えたが、お座りは今ひとつできたりできなかったりの不完全さといったところか。
「学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点」を置いたとは、「学力」なるものを「計算技能」能力だと見なしていることを示している。いわば「理解力」は「学力」のうちに入れていなかった。入れていたなら、「学力低下」しているとするなら、「計算技能」能力と「理解力」を平行して「伸ばす指導に力点」を置いたはずで、「理解力」の指導を置いてけぼりはしなかったろう。
置いてけぼりにした上で一点集中的に「この数年計算技能を伸ばす指導に力点」を置いて獲得した「学力」(=成果)が9年も前の「98年の調査結果とほぼ同じ水準」の「学力」だったとは、どういった「力点」だったのだろう。
つまり、「98年」当時からさらに「計算技術」が低下するのを防ぎ、「ほぼ水準」を保つ効果はあった学力「指導」であり、反復訓練だったということなのだろう。
③の「理解力」不足が日本の教育が暗記教育となっていることからの成果である正真正銘の証明となっている。〝理解する〟ということは、考える(=考察する)作業を言う。ただ単に考えるのではなく、その言わんとしている(指示している)内容(=意味内容)を考察を通して把握し、その上で内容が示す指示に従って必要とされている対応をやはり考察を媒介として導き出して指示に的確に対処することが〝理解〟であって、常に〝考察(考える)〟という手順を必要とする。
教師と生徒とが双方向的にお互いに言葉をキャッチボールし合い言葉の内容を高め合うことがなければ、生徒に〝考察(考える)〟のどのような機会も与えない。この〝考察(考える)〟という段階が暗記教育がなぞって受け止めるプロセスのみを構造としていて用意されていないから、当然の宿命のように「理解力」不足が恒常化する。日本の大方の教育者が日本の教育が暗記教育であることを認識していない――と言うよりも認めたくないものだから(認めたら暗記教育から転換できない自分たちの無能も認めなければならなくなる)、当然そこに〝考察(考える)〟という段階を欠落させていることも認めようとしないから、「理解力」不足が必然的に日本の教育に於ける美しい歴史・伝統・文化となる。
生徒に与える知識量(=教科内容)が少なかった時代は、暗記に時間を割いた分、それなりの成果を挙げることができたが、情報社会の情報量の増加に応じて教えるべき知識量が増えた今日、例え暗記に時間を割いたとしても、知識量の多さが逆に全体的な暗記密度を薄めていることと、生徒の側がマスメディアやマンガ・雑誌、インターネットその他が与える自分にとって面白い興味ある情報にもアンテナを広げている関係から、その情報自体も量的な面も含めて学校が与える知識に対する暗記密度を下げる役目を果たしていて、例え反復訓練を土曜授業だ、放課後授業だと集中的に課したとしても、暗記教育自体が以前ほどの力を持てないでいるのではないだろうか。その結果の「学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれた」ものの「98年の調査結果とほぼ同じ水準」程度の成果しか上げることができなかったということだろう。
日本人自らが創造したものではない外国生まれのソフトウエア開発方法の「オープンソース方式」を暗記教育で受け継いだ習性そのままにマネし、なぞる形で取り入れる。それが成功して画期的なソフトウエアを制作することができたとしても、インターネット上で行うことだから、日本人だけではなく、外国人の手も入る〝オープン方式〟である。なぞりとモノマネを重点的に訓練づけられ、〝考察する〟過程を欠く学校教育を思考ベースとしている日本人が、なぞり・マネで可能とすることができる範囲の創造性で片付く製造物に関するモノづくりの技術と異なって、それだけでは許さない創造性を必要とする技術(だからこそ〝入超100倍〟という状況を解決できないでいるのだろう)を独自に獲得できて「他流試合の経験を積む絶好の機会」と果してなり得るのかどうかである。
例えなったとしても、中国・インドが同じように「オープンソース方式」を取り入れたら、同じ条件を獲得することとなり、〝入超100倍〟という差は差として残りかねない。いや、インド・中国とも「オープンソース方式」といった「他流試合」は元々必要としない創造性を自らのものとしていて、日本側から見た場合、何をしても「到底太刀打ちできない」優位性ということなのかもしれない。
例えどれ程に遠回りになったとしても、暗記教育では片付かない「理解力」をつけることから始めなければならないのではないだろうか。そのためには当然暗記教育から脱却して、教師と生徒との言葉のキャッチボール(〝考察〟作業)を習慣づける教育への転換を図らなければならない。