聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ある老人の悲しい死

2005-03-24 | 「人の死とその備え」



  北海道の今年の冬は異常に降雪が多い年で、三月に入っても、まだ雪が降り積もっていたのです。最近になってやっと、雪解けが始まり、春の足音が近づきつつあるのを感じる季節となりました。
昨年の冷たい木枯らしが吹く初冬の頃であったと思いますが、私は隣町に住んでいた73歳になるTさん(男性)から、聖書のことを知りたいので訪ねてほしいとの連絡(はがき)をいただいて、何度か訪ねたことがありました。彼は、十年ほど前に奥さんを病気で亡くされ、長い間連れ添った妻に先立たれたTさんは、身寄りもなく、ひっそりと暮らしていたのです。

 最初に彼の家を訪問した時、玄関で立ち話をして帰ろうとしたのですが、勧められるままに、部屋に案内され、飾り気のない居間は雑然としていて、一目で老人の一人暮らしと分かる質素な生活ぶりを感じることができました。彼は、定年退職したあと、友人の保証人になったためにかなりの借金があり、それを返済するために、老骨に鞭打って、近くの高校の夜警の仕事をしていたのであります。そして、やがて来るであろう自らの「死」について、寂しげに話していたのが印象的でした。 その後、彼は聖書の福音を伝える集会 に熱心に集うようになり、聖書の話を頷きながら熱心に聞いていたのです。

 この3月の半ばの頃ですが、彼に電話しますと、その日の夜は仕事もなく、集会に出られるということで、とても喜んでいたのです。隣町までは、交通の便が悪いため、私は彼が集会に出られる時は、夜七時半からの集会に間に合うように車で迎えに行くようにしていたのです。そして、その日もいつもと同じように、七時十分頃、いつもの待ち合わせの場所まで、彼を車で迎えに行ったのです。
ところが、いつも時間に几帳面で私が行くのを待っているのが常であった彼が、その日は何故か、その場所に来ていませんでした。時間がないので、急いで彼の家まで走って行って見ましたが、玄関は鍵もかかっていない状態で、家には灯りもついていませんでした。私は、集会の時間があるので不審に思いながらも、急いでまた車を走らせて自宅に戻ったのです。

 気になっていたので、翌日、数回彼の家に電話をしてみましたが、通じなかったのです。 そして、三日後に友人からの電話で、昼前のテレビのローカル・ニュースで、Tさんが落雪事故で亡くなったことを報じていたとの知らせに、私も愕然としたのであります。あとで、新聞報道で知ったことですが、彼は、昨年12月に亡くなった友人宅(当時は空き家)の軒下を一人で除雪していた時に、屋根からの落雪に埋まり、窒息死したらしいということであります。彼は、二日以上の間、雪の下に埋もれたまま、だれも助ける人もなく、孤独な死を遂げたのであります。彼の人生はなんと、寂しい人生ではなかったでしょうか。そして、なんと、孤独な死ではないでしょうか。皮肉なことに、彼の家のすぐ近くに駐在所もあったのですが、誰も気づかなかったようです。

 人間の一生は、百人百様、みなその生き様も通る道も違っており、また、いつ死ぬか、いかなる死に方をするかも、だれも知ることができないのであります。病死、自然死、事故死、自殺、‥‥etc。そして、病死にしても千差万別、数え切れないほど、いろいろな種類の病気があります。事故死にしても、交通事故、海や山での遭難事故、あるいは、災害による事故など、挙げれば切りがありません。しかし、確実なことは、すべての人は、必ず、自らの死の時を迎えなければならないということであります。その備えは、あなたに出来ているでしょうか。そして、すべての人は死後に神に会うのです。

●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

●「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:1,2)。

●「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。・・・・・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10~12)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 」(伝道者の書7:2)。
 
 聖書の中には、上記のような勧めのみことばもあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とは、一体どういうことなのでしょうか。喪中の家に行くことによって、人生の空しさと儚さを悟り、人生がいかに短いかを知り、知恵をもって生きなければならないことを学ぶので、祝宴の家に行くよりもまさっているという意味であります。人間の死について、あまり人は聞きたくないと思います。しかし、今晩、敢て私は、このことについて書かせていただきました。

 Tさんとこの地上で電話で交わした最後のことばは、「では、今晩またお会いしましょう‥‥」でありました。Tさんが、雪に埋もれている僅かな時間に、聞いていた福音を思い出して、イエス・キリストを信じて主のみもとに召されたのか、あるいは、信じないで神に会う備えのないまま逝ったのか、それは、Only God knows(神のみぞ知る)であります。さて、あなたは、死に対する備えが出来ておられますか?