聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★傷ついた葦のような人間

2005-03-22 | 「キリストの偉大なる生涯」

           

 パスカルは、「人間は、自然の中でもっとも弱い葦である。 しかし、それは考える葦である。」と言う有名な言葉を「パンセ」に残しています。人間というのは、肉体的にも精神的にも確かに弱く、また、非常に傷つきやすい存在であります。今日は、この中の「考える葦」の部分ではなく、「弱い葦」である人間について考えて見たいと思います。「人間の心の中にはいかなる困難も乗り越えて生き抜こうとする逞しさと、針の先ほどの些細なことが原因で絶望的になってしまう脆(もろ)さが同居している存在である。」と語った人がいますが、まさにこれは名言ではないでしょうか。 

 確かに、私たち一人一人はどんなに強そうに見えても、「葦」のように弱く、傷つきやすい者たちではないでしょうか。猫に引っかかれて手足に傷つけられたとしても、そんなことで何日も悩んだりする人はまずいないでしょう‥‥。しかし、人間は、他人の中傷や陰口などのことばには簡単に傷つき、そして一度傷つくと、夜床に入っても、なかなか寝付かれなかったり、何日も癒されないことがあります。ただ、癒されないだけでなく、ちょっとした他人の不注意なことばに、深く傷つき、自殺した若者の話も聞いたことがあります。また、人は困難や試練に遭遇して、傷んだ葦のように弱くなり、萎縮してしまうこともあるのです。若い人だけでなく、年を重ねても、このような人間の性質はあまり変化がないようですね‥‥。

 ●「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。 彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 異邦人は彼の名に望みをかける。」 (マタイの福音書12:19,20)。 

 この新約聖書のみことばは、旧約のイザヤ書にあることばで、メシヤの特色を預言してイザヤが記したものですが、「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」というのは、非常に柔和で温和な謙遜なメシヤの姿を描いているのです。また、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」ということばも、キリストがいかに優しく、思いやりの深いお方であるかをよく表しています。

 また、上記のみことばは、この福音書の記者であるマタイが記しているように、イエス様が片手の萎えた人の手を癒された後に、イザヤ書42章のことみことばの成就としてこれを引用しているのであります。それは、イエス様が片手のなえた人を癒された愛のみわざを通して、イエス様がそのように優しく、謙遜なお方であることを示すためなのです。

 主イエス様は、人がいたんだ葦のようになり、また、くすぶる灯心のようになっている現実をご覧になって、深く同情されるお方なのです。そして、いたわりと優しい心をもって近づき、接してくださるのです。これは決して、葦を折らず、灯心を消さないという消極的なことではなく、積極的に「傷ついた葦」を立たせ、「くすぶる灯心」をもう一度明るく輝かせてくださるという意味であります。イエス様ご自身が、人間的に見るならば、いたんだ葦のようになられ、またくすぶる灯心のようになられたので、葦のように弱い私たちを理解し、また、同情することの出来る方なのですね‥‥。

 さて、この「いたんだ葦」と「くすぶる灯心」について少し考えて見たいのですが、「葦」は湿地や沼地帯に生えています。葦はそよ風にも大きく揺れ動く弱い植物ですが、それが、傷ついて痛んでいるのです。ですから、「いたんだ葦」がどれほで、弱い存在であるかが分かると思います。また、「灯心」は、器に油を入れて、その芯を燃やして部屋を明るくするものですが、この「くすぶる灯心」は、油が切れ、芯が消耗し、もはや赤い残り火も見えなくなって、今、まさに消えかかってくすぶっている状態です。部屋のドアが開いてわずかの風が入って来るだけでも消えてしまうような灯心です。

 また、この「葦」と「灯心」には一つの共通点があります。それは、葦は「水」がなければ枯れてしまいます。葦の一切は水に依存しています。また、「灯心」は油がなければ灯火をともすことができません。しかも、くすぶっている灯心です。どちらも、自分自身では、自分を支えることも、自分にいのちを与えることもできません。この両者は、初めから他に依存しており、私たち弱い人間の状態をよく示しているのではないでしょうか。同様に、人間はそのすべてを神に依存しており、神なしにはただの数分も生きることができないのです。(あなたは、自分の意志で、心臓を動かしたり、呼吸したりしていませんね・・・。人はみな神に生かされている存在なのです。)

 イエス様は、あるとき、エルサレムのベテスダの池のほとりで、38年もの間、病に臥せっていた病人に対して、深く同情され「よくなりたいか。」と声をかけられ、そして、彼を癒されたのです。また、ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられ、イエス様のところに連れて来られましたが、この女性は、まさに「いたんだ葦」「くすぶる灯心」でありました。しかし、イエス様は、彼女に対しても優しく語りかけられ、彼女をもう一度、ご自身の愛によって立たしめてくださったのであります。「真の愛は人を生かすもの」であることをこの記事は示しております。

 また、ルカの福音書19章には、取税人ザアカイとイエス様の出会いの場面が記されてあります。ザアカイの心の傷は何でしょうか。孤独と空しさです。表面上は幸福そうに見えたかもしれません。しかし、彼の心には、何ものによっても埋められない空洞があったのです。彼も、やはり、いたんだ葦でありました。しかし、イエス様は孤独なザアカイの心をご存じであり、彼に優しく語りかけられ、その孤独な心はイエス様によって埋められたのであります。そして、彼は、自分の罪を悔い改め、真の神様に立ち返りました。

 ペテロの生涯においても、また、失敗し落胆し、意気消沈して「くすぶる灯心」のように弱い状態になることがありました。しかし、イエス様は、ペテロの信仰の回復のために、やはり、全力を尽くしてくださいました。主は傷つき、弱っている者を必ず立たせてくださいます。私たちは、だれでも自らの弱さを認め、キリストの保護と助けと慰めが必要なのです。

●「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカの福音書22:61,62)。

●「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル人への手紙4:15)。


  □■□■□■□ □■□■□■□