聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★自分の罪に気づくこと

2004-12-21 | 「人間の罪の問題」


  「ぼくは、夕ご飯の時、おかずをこぼした。父から、『よそ見しているからだ!』と、叱られた。弟も、『そうだよ、よそ見しているからだよ!』と言った。しばらくして、父もおかずをこぼした。家の中が、シーンとなった‥‥‥」。これは、小学生の男の子の作文ですが、その情景が目に浮かぶようで、思わず、笑ってしまいました。わが家でも、子供が小さい時、それと似たようなことがあったような気がします。子供が悪いことをした時叱るのですが、私自身も同じ失敗をして平気な顔をしているのですね・・・・・。

  人間というのは、他人の欠点や失敗はすぐ気づくのですが、他人には寛容になれず、他人をさばきやすいものであります。しかし、自分の罪や欠点には、なかなか、気づかないという弱さがだれにでもであるのではないでしょうか。

  イエス様も、「さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 ‥‥まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1~5)と言われました。

  フランスの思想家パスカルは、「人間の偉大さは、自己のみじめさを認めるところにある」と言いましたが、中国の王陽明という学者は「山中の賊は平らぐるに易し。されど、心中の賊(自分の罪のこと)は平らぐるに難し。」と言って、自分の心の中の罪を征伐するのはいかに困難であるかを語っています。人間は真面目に生きようとすればするほど、自分の心の中に醜い汚れと罪があることを知らされるのではないでしょうか。

  聖書の中で、使徒パウロも、自分の心の中の罪に苦しみ、次のように告白しているのです。

●「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ‥‥私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:15~19)。

  ヒルティというスイスの思想家は、こんなことを言っています。「私は、病気で幸福な人をたくさん見て来ました。また、貧しくて幸福な人をたくさん見て来ました。しかし、心が罪で腐っていて、幸福な人に一回も会ったことがありません。」と。

  また発明王エジソンに、ある人が次のようなことを尋ねました。「あなたの発明中の中で、何が一番大きな発見でしたか?」。すると、意外な答えが返って来たのです。「私が罪人であることを知ったことです。そして、このような罪人を神様が愛していてくださるということを知ったのは更に偉大な発見でした。」と。本当に偉大な人というのは、言うことも違うものですね!!

  鏡の前に立つと、自分の顔の汚れも、しわも、ホクロも何でもそのまま写してしまいます。それと同様に、聖書は私たちの心の中の醜さや汚れや罪をはっきり映し出す鏡のようなものです。だれでも、真摯な心で聖書を読みますと、聖なる神の前には、すべての人は罪人であることを明確に自覚させられるのです。そして、その罪と、罪の結果の死後のさばきからの救いの道も神様はすでに備えてくださっているのです。下記のみことばは、使徒パウロの説得力のあることばです。

●「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

 キリストは、あなたの罪からの救いのために十字架に架かられたあなたの救い主なのです。どうか、この人生の大切な事実をよくよくお考えになられて、救い主イエス・キリストを信じて救われてください。あなたの人生においてもっとも大切な罪の解決は、十字架につけられたいえす・キリストにあるのです。